2009.6.4 峰岸純夫先生のご著書『足利尊氏と直義』の関連で・・・
峰岸純夫先生の『足利尊氏と直義』を拝読して、そのすぐ後に東京芸大美術館で開催中の【尼門跡寺院の世界】展に行ったときのこと・・・
そこに、思いがけない偶然に出逢いました。ふしぎなご縁です・・・
直義は尊氏の弟。室町幕府成立までは協力しあっての仲のいい兄弟だったのが、それぞれの立場の違いから最後は戦い合うはめになり、直義は途中で亡くなります。
それがあまりに唐突で不自然だったために殺されたとしか思えない・・・ということになり、それなら尊氏の陰謀としか思えないといわれるようになったと、そういういきさつは『太平記』世界に疎い私は、峰岸先生のご著書ではじめて知ったのでした。
それから、そのこととは全く関係なく、以前から行きたく思っていた東京藝術大学美術館で開催中の【尼門跡寺院の世界】展へ行きました。そして、そこに見出したのは、なんと、未亡人になった直義夫人が開基の寺院があったのです。本光院といって、北野天満宮の近くにある寺院です。図録の解説を引用させていただきます。
本光院を開いた無説尼は、足利直義(足利将軍尊氏の弟)の夫人であった。無説尼は40歳頃、禅に強く興味をもち、臨済宗天龍寺開祖、夢窓疎石のもとに参禅していた。それは『夢中問答』でよく知られるように、直義が疎石に深く帰依していた影響であろう。出家の動機については書かれていないが、『普明国師語録』によると、無説尼は、晩年になって浮世の空しさを深く嘆き、自ら髪を断って出家したとあり、おそらく夫直義が暗殺されたことが大きな契機となったのであろう。
【尼門跡寺院の世界】展の展示は、現在にまで残っている13の尼門跡寺院が、中宮寺・法華寺からはじまって時代の古い順に並んで紹介されています。それをたどって行ってこの本光院門跡の前に立って解説を読んだとき、びっくりしました。峰岸先生のご著書で知ったばかりの直義の死、その残された夫人のその後がこんなところで見られるなんてと。
歴史は、政治の表舞台では男社会で、どっちが勝って、その覇者が政権を樹立、それで歴史がつくられた・・・ですが、その「男」の一人一人に家族があって、歴史なんていう漠然としたつかみようのないものでない、本物の有機的な、生きた血の通う人間の生活・思いがあるわけです。尊氏夫人なら室町幕府がらみでドラマになるかもしれなくても、直義夫人ではマイナーで誰もとりあげてもくれません。でも、人がどう着目しようとしまいと、一人の男の死の前には悲しむ女性があり、家族があるわけです。その一端が、こんなふうなかたちで伺えるなんて・・・、凄いことと思いました。
それにしても凄い偶然ですよね。峰岸先生のご著書については22日の記事で記させていただきました。その追加でこれを書かせていただいていますが、拝読していなかったら、【尼門跡寺院の世界】展の印象は、今抱えている感想の半分だったでしょう。それくらい直義夫人の寺院の存在には驚きました。
ちなみに、31日のブログ【尼門跡寺院の世界】展も書きかけになっていますが、そこで書いた宝慈院の無外如大尼は、鎌倉幕府ゆかりの女性で、安達泰盛の娘で北条実時息の顕時夫人といわれています。ここはまだ充分な解明がされていないので確かかどうか曖昧ですが、顕時夫人が顕時とともに無学祖元に参禅していたことは有名。私には本光院の無説尼が無外如大尼と重なってしまいました。
無外如大尼は鎌倉で夢窓疎石の師の高峰顕日と親交がありました。その縁で顕日に当てた彼女の自筆の書状が残っていて、それが展示されていました。こんな言い方をしたら不謹慎ですが、高峰顕日のファンで、顕日が籠った那須の雲厳寺まで訪ねて行った私としては、その「けんにち」の文字のある書状をいつか見たいと思っていました。はからずもそれが展示されていて、「けんにち」の文字がどこにあるか、必死にたどって読みました。物凄い綺麗なくずし字です。すぐにはみつけられませんでしたが、確認できてほっとしました。
【尼門跡寺院の世界】展は6月14日までです。とても荘厳な、かつ雅な気分に陥ります。お勧めの展覧会です。それから、峰岸先生は『足利尊氏と直義』のご著書について、吉川弘文館の冊子『本郷』に書かれているそうです。