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2009.7.28 昨日27日の灼熱色の強烈な夕焼け

90727103 90727105 90727115 90727125 昨日夕刻は異様な感じに空が紫色に染まり、これは・・・と思って撮りに出ました。空に電磁波か何か磁気の強いものが充満している状況です。

 直前まで雨が降っていて、晴れてきての出来事。虹が出るかと見ていたのですが、アーチにはならずに左側の株虹で終わりました。

 でも、都心では見事なアーチ虹になったよう・・・。お台場ではちょうど夏休みで展示されている巨大なガンダムの像や、羽田を離発着する飛行機に虹がかかる見事な写真が撮られました。いいなア・・・とは撮る立場の人間としてのボヤキ。写真は腕ではありません。その場に居合わせるか・・・という臨場感がまず最初です。

 それはともかく、その後、西の空が異様な夕焼けになりました。強烈な灼熱色の焼けです。これは北発生の雲が焼けたのですが、この雲が磁気性が強く、日没方向に重なって焼けたのでした。昨日は午後、北方向の館林市で竜巻が発生しています。この雲の発生方位と同じです。関係あるのかなあと考えています。

 最後の写真の中心部分が明るくなっていますが、ここが発生中の雲の中心で、発光しているのでピンクに写っています。磁気が強いのです。その上の写真の右下がその部分。そこから西へ(左へ)延びた雲が日没太陽の位置を通過するので焼けたのをわかっていただけるでしょうか。

 

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2009.7.27 源氏物語千年紀情報/棹尾を飾って・・・三田村雅子先生の『記憶の中の源氏物語』

Mitamura258 源氏物語千年紀の2008年が終わって半年が過ぎました。春ごろまでは引き続き源氏物語情報がありましたが、さすが、夏が近づくにつれてなくなりました。季節感が合わなくなったのでしょうね。

 カテゴリーに【源氏物語千年紀】という項目をたてて、恣意的にですが、一年間、写本発見のニュースや講演会・シンポジウム・新刊本情報などを載せさせていただきました。いつ終わりにしようかと考えつつようすをみていましたが、もう〆てもいいようです。

 三田村雅子先生の『記憶の中の源氏物語』は、この項目をたてたときから、刊行になったら即書かせていただくことに決めていました。というのも、千年紀中に刊行されるのは当然中の当然として予測ついていましたから。

 が、いつまでたってもその情報がない・・・。のみならず、年末が近づくというのに、それでも「発行!」のようすが見えない・・・。いったいどうして? これほど千年紀にふさわしい書物が千年紀中に刊行されないなんてことがあるの? と不思議でした。刊行されたのは、12月20日。ぎりぎり間に合った・・・という時期でした。これほどの大著です。しかも、これほど源氏物語の歴史を詳細に綿密に調べあげた研究は、今までなかった内容です。千年紀中の8月とか秋までに刊行されていたら、おそらくニュースでこぞって取り上げられたでしょう。大々的に話題になったでしょう。もったいない・・・というのがようやく書店に並んだこのご著書を手にしたときの感慨です。

 私は書籍の内容とはあまり関係のない著者の私的なエピソードにあまり触れるのを好みませんが、今回ばかりは三田村先生の個人的なこの度の事情について書かせていただきます。それは、あとがきに先生ご自身が記されています。

 このご著書は、『新潮』2004年5月号~2007年12月号に、39回に渡って連載されたものです。2007年12月号の≪完≫ですから、当然、2008年の千年紀を意識しての終了です。当然、すぐ刊行と思いました。それが、何故、年末まで延びたか・・・

 三田村先生は5月にお父様を亡くされているのです。編集者の方に「深い虚脱状態にあったわたしを励まし、叱咤激励し、この本をまとめるにあたって力を尽くして」いただいて、やっとの思いで、刊行されたのでした。しかも、連載の終了直前の2007年9月には、「長年にわたり研究の先達者としてわたしを導いてくれた夫三谷邦明」氏を亡くされているのです。

 源氏物語千年紀の最後の最後に、滑り込みセーフのように間に合ったこのご本の背景には、そういった著者の壮絶な人生がありました。まるで苦悩の文学『源氏物語』を成した紫式部のような・・・と思ったとき、まさにご著書だけでなく、人生まで含めて源氏物語千年紀にふさわしい・・・と思ってしまうのはおそらく私だけではないでしょう。

 私が連載を知ったのは、聴講させていただいた高橋文二先生の大学院ゼミでの中でした。高橋先生が、「三田村雅子さんの『新潮』の連載はどの辺までいってるのかなあ」とおっしゃられたのです。私はしばらく意識的に文学を遮断していましたから、『新潮』にそういった連載がされているのも知らずにいました。

 すぐに図書館に行って、最新回までコピーしました。応仁の乱あたりの時代でした。夢中になってそこまでを拝読しました。その後も折に触れて意識していましたので、連載が終わったことも知り、あとは刊行・・・と待っていたのです。

 伴侶でいられる三谷邦明先生のご逝去は、高橋先生から伺って知っていました。それでも連載を途絶えさせることなく頑張られていることを知っていたので、いっそう、2008年に入ってからの停滞が腑に落ちませんでした。きっと、お父様のご逝去で、三谷先生のときには耐えられたものが限界になってしまわれたのでしょう。連載も終了して一段落していますから・・・

 こういうことに長々筆を費やすのは、これが「文学」だと思うからです。紫式部も、作品としては『源氏物語』を書きましたが、彼女は書くことで「文学」を生きたのです。三田村先生に私はそれを思いました。僭越ですが、私も書く以上は書くことそのものが文学であるよう生きていたいと思っています。

 ご著書について内容に触れるべきと思いますが、それは検索されればきっとどなたかが書かれているでしょう。私はとにかく、このご本に賭けた三田村先生の文学的執念に喝采させていただきたいと思いますので、帯の引用で簡単に触れさせていただきます。

日本文化の根幹に迫る、前人未踏の歴史絵巻
1000年の間、
日本人は源氏を読んできたのだろうか?
ただ、「記憶」の中で継承しただけではないのか。
中世から近代まで、天皇家、貴族、将軍たち、戦国大名、女たち、庶民は、
源氏をどのように享受し、利用したのか。

 これは、私が今進めている「河内本源氏物語」の写本の問題にも根幹で関わります。このご著書で腑に落ちたことは、何故、途中から「河内本源氏物語」に変わって「青表紙本源氏物語」が広まるようになったか・・・という問題と、何故、写本が全国的に広がったかということ。

 それは全国に源氏物語写本を広めることになった運搬者が連歌師で、彼は歌人藤原定家を仰いでいたから。そして、何故運んだかというと、それは売るために写本を書いて連歌師に託す貴族がいたから・・・という目から鱗のような明快な理由があったのです。

 それから、三田村先生も鎌倉時代の鎌倉における源氏物語事情については間違われている面がお有りですが、それは仕方なくて、私が今書いている『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』の内容は、今までどなたも発掘されていない世界です。どんなに三田村先生が資料を集められても、従来の研究を土台にされている限り無理です。ほんとうは国文学者のどなたかが書かれれば権威あるものとして認められるのでしょうけれど、どなたもなさらないので、仕方なく私が書いています。

 でも、土台が間違った資料で論考をたてられると、とんでもない飛躍で語られてしまう怖さがあります。鎌倉時代の鎌倉における源氏物語だけは、三田村先生のご論を鵜呑みにされないでください・・・。そうでないと、宗尊親王や源光行・親行親子が可哀そうです。

 と、ここまで書いて中断していました。ほんとうはこの項、もっともっと記すべき事がありますね。昨年8月に写真展【写真でたどる『源氏物語』の歴史―鎌倉で「河内本源氏物語」ができるまで―】を開きましたが、今年ももうその8月。昨年の今頃は写真展の準備に向けて懸命でした。そうした中でつかんだ藤原定家と源光行の交流・・・、平家文化との関わり・・・、そういったことを「『源氏物語』写本に秘めた慰藉―『平家物語』との関係をめぐって―」という論文にまとめて『駒澤国文』に載せていただいても半年がたちました。高橋文二先生のご退官記念特集の号です。ほんとうは聴講生の私など『駒澤国文』に載せていただくなどとんでもない話なのですが、高橋先生は「これは僕の号ですから・・・」とおっしゃられて場を与えてくださったのです。光行や親行の『河内本源氏物語』に関する追及も、高橋先生のゼミで存分に浸ることができました。

 源氏物語千年紀は終わりましたが、私の中ではまだまだこれからです。三田村先生の「地を這いつくばるような執念の資料への当たり」も知人から聞いて敬服しています。私の執筆も中断・迂回していますが、8月の声を聞いて頑張ろうと思います。

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2009.7.24 俊成卿女と夫通具の新婚時代の二人だけの歌合・・・【藤原定家筆歌合切】断簡発見のNEWS!!

006_2 大きな写真入りで産経新聞のTOPを飾った記事です。(多分、7月20日の朝刊です。済みません、聞いた話題なものですから・・・)【 「藤原定家筆歌合切」断簡発見 800年の謎 不明の文意判明】という見出しです。

 これは、東京国立博物館所蔵の「藤原定家筆歌合切」の一部が長い間抜けていて文脈がつながらなかったものを、発見されたのがその不明部分だったということ。意味不明の部分がやっと解明されたそうです。

 詳細は下記URLでご覧いただくとして、私が興味をもったのは、それが俊成卿女と夫通具の二人だけの歌合を、定家が筆記して評したということ。

 俊成卿女については、6月26日に【馬場あき子先生の『女歌の系譜』から、俊成卿女について・・・】で書いたばかりです。というのも、連載中の小説「花の蹴鞠」で主人公の雅経が、最初は蹴鞠で後鳥羽院に召されたのを、院の歌への傾倒とともに雅経も歌に深まらざるを得なくなり、新古今を代表する歌人になっていきます。その代表歌人の女流の最たる一人が俊成卿女だから、いずれは雅経夫妻とも交流するだろうととの予測で彼女を追ったのでした。

 そのときも書きましたが、俊成卿女は通具に捨てられ、寂しい生涯を送ります。馬場先生も彼女ほど新古今歌人としての華々しさと女としての生涯の寂しさのギャップのある歌人はいない・・・みたいなことを書かれた人生でした。(馬場先生のご文章はもっと適格・詩的です・・)

 私もそのイメージがあるから「くすぶった」歌人としてあまりいい印象をもっていませんでした。それを目から鱗の落ちるように晴らしてくださったのが馬場先生の俊成卿女論だったのですが、今回のこの発見では、まだ二人は蜜月時代で、定家と三人で私的な歌合などして楽しんでいるのです。初々しくて素敵な俊成卿女。こんな印象は今までなかった気がします。これは小説に生かしたいエピソードですね!!

 通具との新婚時代というと1190年頃。壇ノ浦で平家が滅びて数年後。頼朝が奥州平泉を滅ぼして翌年初上洛・・・という時代です。その頃俊成卿女は通具と結婚して、二人で歌合などに興じ、義理の兄弟にあたる定家もそれに加わって・・・といった楽しい暮らしをしていました。『六百番歌合』はまだ開かれてなくて、雅経はまだ鎌倉に下向もしていません。下向はその五年後くらいです。だから、「花の蹴鞠」世界がはじまるよりずっと前ということですね。俊成卿女が通具と離別するのは10年後くらいです。そんな風な時代のなかでの彼女の人生を思い描いてください。

 俊成卿女は生涯通具を愛しつづけたのでしょう。恨みとともに・・・。通具も、離別は本意でなく、父通親の出世欲の犠牲になってさせられたようなところがありますから、離別後も俊成卿女は通具に頼まれれば歌の代作をしたりしています。

 そういう後半生を知ってのこの断簡。俊成卿女にも幸せな女としての一時期があったのだ・・・と知ってほっとするニュースでした。

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090720/acd0907200105000-n1.htm

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2009.7.23 八王子城出土の破片【ベネチアンレースガラス】と直江兼続の関係・・・

Hatioujijou061 先週の大河ドラマ「天地人」で八王子城が落城、北条氏が滅亡したそうです。

 「そうです」、とあえて伝聞に書いたのは、そろそろそのシーンの頃と思いながら、私は弱虫なので「決戦」という状況は生で見られないんです。だから、フィギュアスケートでも浅田真央ちゃんの演技はリアルタイムでなんか見られないですね。結果を知ってから、「安心してor覚悟して」ニュースで見ます。

 八王子城に直江兼続が関係していると知ったのはついこの前です。7月2日の記事に、【八王子城出土のベネチアンレースガラスは織田信長からの贈り物】と書いたとき。それを書くために、ずっと以前の2008年3月24日に書いたベネチアンレースガラスの記事を読みなおしました。そしたら、なんと、八王子城が滅ぼされたのは「前田利家軍と上杉景勝軍」によるとあるではないですか・・・。

 その頃はまだ上杉景勝がどういう武将か知りませんでしたから、呑気に名前を記していたんです。今年になって「天地人」がはじまったときも結びつかず、愛の武将直江兼続・・・なんてのんびり思っていました。が、その直江兼続が八王子城を滅ぼしたとなると・・・突然、複雑になり、どうしたことかと目が白黒。八王子城の落城の凄惨さを知る側からみると、とても兼続の美談ドラマのままには受け止められないですよね。

 ベネチアンレースガラスの出土の状況は2008年の記事に詳しく書いていますから省略するとして、出土した当時、この時代にこんな関東にまでヨーロッパとの交易があったかと話題になりました。それが八王子城主氏照による織田信長への使節のお土産品ということにほぼ状況が決まったようというのが先日の7月2日の記事です。

 兼続たちが滅ぼす前の八王子城ご主殿には、美しいベネチアンレースガラスのおそらく花瓶がありました。それはどんなに誇らしく飾られていたことでしょう。それが、たった一日の決戦で落城。ベネチアンレースガラスの花瓶はお城もろとも崩れ落ちて灰塵に帰したのです。決戦が長引くと城内の人が逃げのびる際に持ち出したり、隠したりしますので、発掘しても出土遺物に重要な品はあまり残りません。八王子城のように短期決戦で決まってしまうと、その隙がありませんから、遺物はほぼ当時生活したままの一切の状態で出土します。なので、ベネチアンレースガラスも運命をともにしてしまったのでした。

 私が八王子城の出土品にちょっと関係したことがあると知っている方から、写真の前川實著『決戦!八王子城 ―直江兼続の見た名城の最後と北条氏照―』というブックレットを頂きました。揺籃社という地元の出版社の発行です。下さった方も八王子の方です。地元でないとこういう書籍って手に入りませんよね。兼続の決戦の日のことだけでなく、八王子城のこと、訪ね方、楽しみ方が薄い冊子の一冊に網羅して書かれていました。

 先週の「天地人」は今週土曜日に再放送されますから、ベネチアンレースガラスにポイントを置いてまたご覧になってください。私は・・・、見るかなあ・・・。まだ疑問です。

追記:2008年のと先日の二件の記事は、現在左側にある「人気記事ランキング」に入っています。クリックされるとご覧になれます。

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2009.7.22 今世紀最大の皆既日食で思うこと・・・クラウス・ノミの【Total Eclipse】

361今まさに、今世紀最大の皆既日食がはじまっています。テレビでは各地からの中継が行われています。でも、こちら東京では雨空。晴れていれば部分日食が見られるはずなのですが・・・

 今日に向けてもう随分前から、皆既日食、皆既日食、の語が飛び交いました。私も天文は好きなのですが、皆既日食に関しては、この言葉を聴くともう胸がいっぱいになってしまう音楽があって、天文はそっちのけにこの歌の思い出ばかりに気持ちがいっています。

 それは、クラウス・ノミというドイツの歌手の「Total Eclipse」。これを知ったのは詩人の吉増剛造さんの講演ででした。吉増さんは演壇に立たれると、「まず、これを聴いてください」といってこの歌をかけられました。とても静かな出だしで、そのイントロの長いこと・・・。そして始まった曲の驚愕的な素晴らしさ。講演会の後、すぐにレコード店に行って購入しました。

 クラウス・ノミはドイツの方で、少年時代にマリア・カラスの歌を聴いてソプラノ歌手を目指したとか。天使の歌声と呼ばれるほどの透明な歌声です。デヴィッド・ボウイと共演して有名になったとか、エイズで亡くなった芸能人の先駆けとか、話題はそれぞれですが、そういうこと全部を乗り越えて歌が素晴らしいのです。機会があったら是非聴いてみてください。

追記(11:40):硫黄島からのテレビの生中継が今終わりました。黒い太陽、コロナ、プロミネンス、神秘的な地平線の色、そしてダイヤモンドリング・・・。素晴らしかったです!!

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2009.7.19 超巨大で見事な虹が見られました!

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夕刻、見たこともないくらいに巨大な・・・というか、完璧に180°のアーチを描く虹が出現。それも凄い透明度の高い・・・。目をみはりました。しかも、南側にはくっきりした副虹まで・・・。ひととき、浸りました。下三枚はその後の強烈な夕焼けです。

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2009.7.16 今年最大級の地震【15日 ニュージーランド付近M7.8】への空

90707091_2 90710033_2 90712135_2 90713003_2 90713019_2 90713041_2 90715019_2 90716024_2  連載している小説やその他諸々所用が溜まっていて、ほんとうは「雲どころ」ではなく、ここのところ極力撮りにでるのを避けているのですが、ここ最近はそれでも撮りに出ざるを得ないほどの異様な空が頻出していました。

 空がおかしいと血が騒ぐんでしょうね、かつて「報道」で撮っていた血が・・・。それでここ最近、ずっと気になって気になって、文学方面への集中ができないでいました。今年最大級だそうなニュージーランドM7.8が発生して空が落ち着きましたので、この前兆だったのでしょう。

 先程、もう一つの「地震雲専用のブログ」に経緯をまとめて一段落つきました。これで文学に戻れます。ほっとしたところです。写真の解説はそちらに詳細に記しました。よかったらご覧になってください。
http://ginrei.air-nifty.com/ginrei/

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2009.7.7 今日7月7は、源親行が『河内本源氏物語』を完成させた記念日です!!

Dsc_0031 源親行は、嘉禎2年以来続けてきた『源氏物語』の校訂作業を終えたとき、奥書に、「建長7年7月7日果其篇」と記しました。いわゆる『河内本源氏物語』の完成です。

 1236年から1255年ですからほぼ20年の歳月、これにとりかかっていたことになります。その後も校合は続けられたようですし、必ずしも正確に7月7日ではなかったでしょうけれど、あえてこう記した親行って素敵です。

 父源光行がはじめた『源氏物語』の校訂作業。私はそれを追ってずっと書いていますが、親行は光行のあと、それを引き継いだのです。つまり、光行の代で『河内本源氏物語』は完成しなかったということ。凄い気の長い話です。その気の長さと、七夕にこだわった奥書・・・、文学者っていいなあと思います。

 執筆中の『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』の完成はまだ先が見えませんが、七夕の日付にふっと親行を思い出して懐かしくなりました。

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2009.7.4 奈良・西大寺で出土・・・国内最古のイスラム陶器のNEWS!!

 読売新聞4日の夕刊に、【国内最古 イスラム陶器―奈良・西大寺旧境内で出土―】のニュースがありました。写真も載っていて、青緑色の釉薬の色も鮮やか。「イスラム陶器は国内では海外の窓口だった福岡の鴻臚館(こうろかん)や大宰府跡で出土しているが、小片が多く、いずれも9世紀後半以降のものだった」だそうです。

 ところが、西大寺出土のイスラム陶器は、8世紀後半のものとみられ、破片も19点があり、それが全部1個体のものなので、底部と胴部があって復元するのも可能。高さ50センチ以上になる壺のようです。http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090703/acd0907032159003-n1.htm

 陶磁器って、夢がありますよね。私が好きなのは美術品とか茶道具とかでなく、古来の遺物としての陶磁器なのですが、それが歴史という時空を経て現在に現れ、しかもそれが「海のシルクロード」というような距離的な空間も経てきているとなると・・・

 陶磁器、大好きです! 完形のものはもちろんですが、遺跡発掘の仕事で出土破片をたくさん扱ったからか、「破片」はもう絶句するほど見ると惹かれます。出光美術館の奥の一室に、「陶片室」という一室があり、そこには各地で出土した陶磁器の破片がそれはもうざくざくというほどたくさん陳列されています。私はそこに入るのが好きで、企画展で出光美術館のがあると、当の企画展よりも、「あ、またあそこの陶片室を見られる!」とわくわくします。エジプトのフスタート遺跡出土のものまであって、楽しいですよ。
http://www.idemitsu.co.jp/museum/collection/introduction/sherd.html

 遺跡関連でのメインは宋の貿易品だった青磁や白磁で、「海外での窓口」でない遺跡ではイスラム陶器なんて夢のまた夢。出光美術館のフスタート・・・というような地名に間接的に憧れているしかありませんが、恵まれていることに、三鷹市には「中近東文化センター」という、信じられないような立派な「イスラーム関係の」博物館があります。

 ここは出光美術館の分館みたいな感じで、それもそのはず、「三笠宮崇仁親王殿下のご発意のもと、故出光佐三氏(出光興産創立者)の全幅のご協力によって、1979年10月に東京都三鷹市に開館しました。」のだそうです。国際基督教大学にほぼ隣接した場所です。ラスター彩などといった素敵な陶器もありますし、広々して気持ちのいいところです。是非訪ねられてください。
http://www.meccj.or.jp/Pages/main_frame.html

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2009.7.4 【第18回 平安京・京都研究集会シンポジウム―京都の歴史イメージはどのようにつくられたか】のお知らせ

第18回 平安京・京都研究集会
「京都の歴史イメージはどのようにつくられたか―公共の歴史学のために―」


「建都千二百年」から十数年、京都学や各種検定の盛行など、京都の歴史に対する関心は空前の高まりを見せている。その一方、歴史学をはじめとする人文学はその存在意義が問われているともいう。
私たちはこの機会に、歴史学が社会とどのように関わってきたのかをそれぞれの時代の現場に即して検証したい。京都における歴史認識のあり方を、史学史としてたどるとき、私たちが直面している課題に対しても何らかのヒントが得られるのではないだろうか。

■日 時  2009年7月12日(日) シンポジウム  午前11時~午後5時■

場所 機関紙会館5階大会議室
     (京都市上京区新町通丸太町上ル東側、市バス府庁前下車すぐ
      または地下鉄丸太町駅下車2番出口より西へ徒歩5分)
報告 入山洋子氏(元京都市市政史編さん助手・近代史)
      「西田直二郎の『京都市史』をめぐって」
    秋元せき氏(京都市歴史資料館・地方自治論)
      「大正期京都の都市計画展覧会の歴史的意義について
        ―都市計画をめぐる歴史意識―」
    福家崇洋氏(京都外国語大学講師・近代日本思想史)
      「川島元次郎と海外発展史研究」
    高木博志氏(京都大学・日本近代史)
      「公教育と京都像」

討論 司会:小林丈広氏(京都市歴史資料館・日本近世・近代史)

主 催  平安京・京都研究集会
後 援  日本史研究会
要資料代。一般来聴歓迎。
問い合わせは、「平安京・京都研究集会」事務局(山田方)090-9697-8052、
          電子メール<FZK06736@nifty.ne.jp>

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2009.7.2 八王子城出土【ベネチアンレースガラス】は織田信長からの贈り物!!・・・峰岸純夫先生の新刊『中世の合戦と城郭』を拝読して

Dsc_0001 最近、峰岸純夫先生は精力的に何冊もご著書を出されています。これはそのうちの一冊で、5月に発売になりました。中世城郭などの遺跡保存運動に長く携わってこられた先生の、いわばその集大成のような内容です。

 私が歴史に興味をもってシンポジウムにでかけた頃が、振り返ってみるとその保存運動の活動の真っただ中でした。石井進先生も、網野善彦先生もお元気でいらして、中世史世界は燃えていました。ちょうど、横浜は六浦の上行寺東遺跡が、横浜市のみなとみらい化開発計画に負けて保存運動が挫折したあと。なので一層、これからは絶対に負けない・・・と一致団結の気運が高まっていたときでした。その中に峰岸先生もいらしたのです。

 このご著書をご紹介させていただくのに、だからほんとうはそういった遺跡の保存運動についてまとめさせていただけば先生のご意思にも沿うのでしょうけれど、私はこの一冊のほんの10行ほどの記事に目が釘付けになりました。それは、八王子城のご主殿跡から出土したベネチアンレースガラスが織田信長から賜ったものという内容・・・

 今は八王子市の郷土資料館の展示室に、石膏で象って復元されたかたちでレースガラスは展示されていますが、【発掘された八王子城】という企画展の図録用に私が撮らせていただいたときは、まだばらばらの小さな破片でした。こんな時代の、こんな関東の奥地に、何故ベネチアンガラスが?・・・というのは相当のロマンです。撮らせていただいた日は感動しました。その後遺跡の仕事を離れ、国文学の『源氏物語』に関心が移りましたので、その後の展開には疎くなっていました。なので、峰岸先生のこのご著書に「織田信長」との関係を見た時は驚きました。抜粋、引用してご紹介させていただきます。

 ・天正8年3月、(八王子城主)氏政・氏照は使者として、笠原越前守康明、間宮若狭守綱信を信長のもとに派遣している。
 ・9日に本能寺で鷹と馬を贈り、翌10日に白鳥や海産物、酒などを持って再び参上。
 ・織田家の息女を氏直へ輿入れさせ、両者が縁組をすることで後北条氏を通じて関東八州の御分国化を図りたいといったものであろう。後北条氏は、信長政権のもとで関八州の支配の実現を目ざしていると考えられる。
 ・3月21日には、安土で信長は虎皮、縮羅(縮緬・絹織物)、猩々皮、段子などの輸入品・高級品を氏政・氏照への引出物として贈っている。
 ・八王子城御主殿の発掘調査で出土したベネチア産レースガラス破片の容器はこの時の贈答品であろうか。
 ・笠原・間宮らは、天正4年に竣功して間もない安土城に登城して、その豪華さに圧倒させられたことであろう。

 こんなところに織田信長がでてきて、こんなところで織田信長と密接な関係があって・・・と、私にとっては凄い驚きでした。でも、もしかしたらあのレースガラス・・・、信長が手にしたかもしれないんですよね。だとしたら、図録の撮影に何度も並べ変えたりして触っていたとき、私は間接的に信長の手の温もりに触れたことになる・・・なんて。そのとき知っていたら、「信長様」を思いつつ、もっとしっかり感触の記憶に刻み込んでいたでしょう。もったいないことをしました。

 八王城出土のレースガラスについては、以前、このブログに書きました。「2008.3.24」の記事をご参照ください。
http://ginrei.air-nifty.com/kujaku/2008/03/post_0867.html

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