源氏物語千年紀の2008年が終わって半年が過ぎました。春ごろまでは引き続き源氏物語情報がありましたが、さすが、夏が近づくにつれてなくなりました。季節感が合わなくなったのでしょうね。
カテゴリーに【源氏物語千年紀】という項目をたてて、恣意的にですが、一年間、写本発見のニュースや講演会・シンポジウム・新刊本情報などを載せさせていただきました。いつ終わりにしようかと考えつつようすをみていましたが、もう〆てもいいようです。
三田村雅子先生の『記憶の中の源氏物語』は、この項目をたてたときから、刊行になったら即書かせていただくことに決めていました。というのも、千年紀中に刊行されるのは当然中の当然として予測ついていましたから。
が、いつまでたってもその情報がない・・・。のみならず、年末が近づくというのに、それでも「発行!」のようすが見えない・・・。いったいどうして? これほど千年紀にふさわしい書物が千年紀中に刊行されないなんてことがあるの? と不思議でした。刊行されたのは、12月20日。ぎりぎり間に合った・・・という時期でした。これほどの大著です。しかも、これほど源氏物語の歴史を詳細に綿密に調べあげた研究は、今までなかった内容です。千年紀中の8月とか秋までに刊行されていたら、おそらくニュースでこぞって取り上げられたでしょう。大々的に話題になったでしょう。もったいない・・・というのがようやく書店に並んだこのご著書を手にしたときの感慨です。
私は書籍の内容とはあまり関係のない著者の私的なエピソードにあまり触れるのを好みませんが、今回ばかりは三田村先生の個人的なこの度の事情について書かせていただきます。それは、あとがきに先生ご自身が記されています。
このご著書は、『新潮』2004年5月号~2007年12月号に、39回に渡って連載されたものです。2007年12月号の≪完≫ですから、当然、2008年の千年紀を意識しての終了です。当然、すぐ刊行と思いました。それが、何故、年末まで延びたか・・・
三田村先生は5月にお父様を亡くされているのです。編集者の方に「深い虚脱状態にあったわたしを励まし、叱咤激励し、この本をまとめるにあたって力を尽くして」いただいて、やっとの思いで、刊行されたのでした。しかも、連載の終了直前の2007年9月には、「長年にわたり研究の先達者としてわたしを導いてくれた夫三谷邦明」氏を亡くされているのです。
源氏物語千年紀の最後の最後に、滑り込みセーフのように間に合ったこのご本の背景には、そういった著者の壮絶な人生がありました。まるで苦悩の文学『源氏物語』を成した紫式部のような・・・と思ったとき、まさにご著書だけでなく、人生まで含めて源氏物語千年紀にふさわしい・・・と思ってしまうのはおそらく私だけではないでしょう。
私が連載を知ったのは、聴講させていただいた高橋文二先生の大学院ゼミでの中でした。高橋先生が、「三田村雅子さんの『新潮』の連載はどの辺までいってるのかなあ」とおっしゃられたのです。私はしばらく意識的に文学を遮断していましたから、『新潮』にそういった連載がされているのも知らずにいました。
すぐに図書館に行って、最新回までコピーしました。応仁の乱あたりの時代でした。夢中になってそこまでを拝読しました。その後も折に触れて意識していましたので、連載が終わったことも知り、あとは刊行・・・と待っていたのです。
伴侶でいられる三谷邦明先生のご逝去は、高橋先生から伺って知っていました。それでも連載を途絶えさせることなく頑張られていることを知っていたので、いっそう、2008年に入ってからの停滞が腑に落ちませんでした。きっと、お父様のご逝去で、三谷先生のときには耐えられたものが限界になってしまわれたのでしょう。連載も終了して一段落していますから・・・
こういうことに長々筆を費やすのは、これが「文学」だと思うからです。紫式部も、作品としては『源氏物語』を書きましたが、彼女は書くことで「文学」を生きたのです。三田村先生に私はそれを思いました。僭越ですが、私も書く以上は書くことそのものが文学であるよう生きていたいと思っています。
ご著書について内容に触れるべきと思いますが、それは検索されればきっとどなたかが書かれているでしょう。私はとにかく、このご本に賭けた三田村先生の文学的執念に喝采させていただきたいと思いますので、帯の引用で簡単に触れさせていただきます。
日本文化の根幹に迫る、前人未踏の歴史絵巻
1000年の間、
日本人は源氏を読んできたのだろうか?
ただ、「記憶」の中で継承しただけではないのか。
中世から近代まで、天皇家、貴族、将軍たち、戦国大名、女たち、庶民は、
源氏をどのように享受し、利用したのか。
これは、私が今進めている「河内本源氏物語」の写本の問題にも根幹で関わります。このご著書で腑に落ちたことは、何故、途中から「河内本源氏物語」に変わって「青表紙本源氏物語」が広まるようになったか・・・という問題と、何故、写本が全国的に広がったかということ。
それは全国に源氏物語写本を広めることになった運搬者が連歌師で、彼は歌人藤原定家を仰いでいたから。そして、何故運んだかというと、それは売るために写本を書いて連歌師に託す貴族がいたから・・・という目から鱗のような明快な理由があったのです。
それから、三田村先生も鎌倉時代の鎌倉における源氏物語事情については間違われている面がお有りですが、それは仕方なくて、私が今書いている『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』の内容は、今までどなたも発掘されていない世界です。どんなに三田村先生が資料を集められても、従来の研究を土台にされている限り無理です。ほんとうは国文学者のどなたかが書かれれば権威あるものとして認められるのでしょうけれど、どなたもなさらないので、仕方なく私が書いています。
でも、土台が間違った資料で論考をたてられると、とんでもない飛躍で語られてしまう怖さがあります。鎌倉時代の鎌倉における源氏物語だけは、三田村先生のご論を鵜呑みにされないでください・・・。そうでないと、宗尊親王や源光行・親行親子が可哀そうです。
と、ここまで書いて中断していました。ほんとうはこの項、もっともっと記すべき事がありますね。昨年8月に写真展【写真でたどる『源氏物語』の歴史―鎌倉で「河内本源氏物語」ができるまで―】を開きましたが、今年ももうその8月。昨年の今頃は写真展の準備に向けて懸命でした。そうした中でつかんだ藤原定家と源光行の交流・・・、平家文化との関わり・・・、そういったことを「『源氏物語』写本に秘めた慰藉―『平家物語』との関係をめぐって―」という論文にまとめて『駒澤国文』に載せていただいても半年がたちました。高橋文二先生のご退官記念特集の号です。ほんとうは聴講生の私など『駒澤国文』に載せていただくなどとんでもない話なのですが、高橋先生は「これは僕の号ですから・・・」とおっしゃられて場を与えてくださったのです。光行や親行の『河内本源氏物語』に関する追及も、高橋先生のゼミで存分に浸ることができました。
源氏物語千年紀は終わりましたが、私の中ではまだまだこれからです。三田村先生の「地を這いつくばるような執念の資料への当たり」も知人から聞いて敬服しています。私の執筆も中断・迂回していますが、8月の声を聞いて頑張ろうと思います。