2009.7.24 俊成卿女と夫通具の新婚時代の二人だけの歌合・・・【藤原定家筆歌合切】断簡発見のNEWS!!
大きな写真入りで産経新聞のTOPを飾った記事です。(多分、7月20日の朝刊です。済みません、聞いた話題なものですから・・・)【 「藤原定家筆歌合切」断簡発見 800年の謎 不明の文意判明】という見出しです。
これは、東京国立博物館所蔵の「藤原定家筆歌合切」の一部が長い間抜けていて文脈がつながらなかったものを、発見されたのがその不明部分だったということ。意味不明の部分がやっと解明されたそうです。
詳細は下記URLでご覧いただくとして、私が興味をもったのは、それが俊成卿女と夫通具の二人だけの歌合を、定家が筆記して評したということ。
俊成卿女については、6月26日に【馬場あき子先生の『女歌の系譜』から、俊成卿女について・・・】で書いたばかりです。というのも、連載中の小説「花の蹴鞠」で主人公の雅経が、最初は蹴鞠で後鳥羽院に召されたのを、院の歌への傾倒とともに雅経も歌に深まらざるを得なくなり、新古今を代表する歌人になっていきます。その代表歌人の女流の最たる一人が俊成卿女だから、いずれは雅経夫妻とも交流するだろうととの予測で彼女を追ったのでした。
そのときも書きましたが、俊成卿女は通具に捨てられ、寂しい生涯を送ります。馬場先生も彼女ほど新古今歌人としての華々しさと女としての生涯の寂しさのギャップのある歌人はいない・・・みたいなことを書かれた人生でした。(馬場先生のご文章はもっと適格・詩的です・・)
私もそのイメージがあるから「くすぶった」歌人としてあまりいい印象をもっていませんでした。それを目から鱗の落ちるように晴らしてくださったのが馬場先生の俊成卿女論だったのですが、今回のこの発見では、まだ二人は蜜月時代で、定家と三人で私的な歌合などして楽しんでいるのです。初々しくて素敵な俊成卿女。こんな印象は今までなかった気がします。これは小説に生かしたいエピソードですね!!
通具との新婚時代というと1190年頃。壇ノ浦で平家が滅びて数年後。頼朝が奥州平泉を滅ぼして翌年初上洛・・・という時代です。その頃俊成卿女は通具と結婚して、二人で歌合などに興じ、義理の兄弟にあたる定家もそれに加わって・・・といった楽しい暮らしをしていました。『六百番歌合』はまだ開かれてなくて、雅経はまだ鎌倉に下向もしていません。下向はその五年後くらいです。だから、「花の蹴鞠」世界がはじまるよりずっと前ということですね。俊成卿女が通具と離別するのは10年後くらいです。そんな風な時代のなかでの彼女の人生を思い描いてください。
俊成卿女は生涯通具を愛しつづけたのでしょう。恨みとともに・・・。通具も、離別は本意でなく、父通親の出世欲の犠牲になってさせられたようなところがありますから、離別後も俊成卿女は通具に頼まれれば歌の代作をしたりしています。
そういう後半生を知ってのこの断簡。俊成卿女にも幸せな女としての一時期があったのだ・・・と知ってほっとするニュースでした。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090720/acd0907200105000-n1.htm