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2009.8.31 連載小説【花の蹴鞠】 第四回

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 安達盛長妻の明子は、後年比企尼と呼ばれることになる母親の泰子が頼朝の乳母だった関係で、頼朝とは姉弟のようにして育った。のみならず明子が少し年長だったから泰子を真似て、さながら自分が母親ででもあるかのように、おしゃまな女の子特有の使命感をもって頼朝に接していた。

「明子が一生守ってさしあげる」
 それが幼いころからの明子の口癖だった。遊ぶときもいつも頼朝が困ることがないか気を配ったし、頼朝がころんだりするとさっと駆けつけて世話をした。それで武士の子として厳しく躾けられ、棟梁としての風格をもつよう育った頼朝だったが、明子にだけは心を許し年相応に無邪気に甘えてみせるのだった。

 例えば四、五歳のころ、泰子はよく二人を連れて清水の観音様の参拝に出向いたが、本堂にのぼる長い坂道の途中になると必ず頼朝は「もう歩けない」とぐずりだし、すると明子が「しようのない鬼武丸さま。明子がおんぶしてさしあげる」としゃがんで背中を向ける。頼朝はいそいそと明子の首に手をまわしておぶわれた。鬼武丸が頼朝の幼名である。ふだんは厳しい泰子も、明子にだけは弱みをさらけだして甘える頼朝が微笑ましく、黙って見ていた。

 その清水寺に頼朝が三歳のとき泰子は参籠した。二十七日後、霊夢のなかでお告げがあり、忽然として二寸の銀の正観音像を授かった。泰子はそれを「これは貴方様をお守りするみ仏です。生涯肌身離さずお持ちくださいますよう」と頼朝に与えた。頼朝はそれを忠実に守り、平治の乱で捕えられ清盛に処刑されそうになったところを池の禅尼に助けられたのはこのみ仏のお陰と信じた。しかし、治承四年(一一八〇)、以仁王の令旨を得て挙兵したものの石橋山の合戦で敗れたとき、結いこんでいた髻(もとどり)のなかからそれを取りだし籠った岩窟の奥に置き去った。死を覚悟した頼朝の、首をかかれたときみつかって敵に神仏にすがる女々しい奴と侮られないための配慮からだった。これは後に探し出されて無事頼朝の手元に戻っている。

 頼朝は終生信心深くいたが、それにはこの泰子の影響が大きかった。泰子は頼朝のためなら命をかけていたし、伊豆に流された頼朝に二十年間仕送りをつづけ支援したのも泰子だった。明子はそういう母親のもとで育った。とはいうもののそこは幼い子供どうし、互いの体の違いに興味をもつのは自然の成りゆきで、いつしか二人は厩の蔭に隠れて睦み合う仲になっていた。
「鬼武さまのここ、ぷにゅぷにゅしてちっちゃくて可愛い」
と明子が言い、それから着物の裾をひらいて下腹部を出し、
「ね、わたしのここに当ててみて」
と誘うと、頼朝は恥ずかしそうに従った。最初はそうした他愛のないただの遊びではじまった行為だったが、頼朝が伊豆に流されることが決まった十四歳のころにはすでに二人は大人の関係になっていた。伊豆の流刑は二人にとって永遠の別れと思われた。

 頼朝はその後伊豆で政子と出逢い結婚する。明子は二条天皇のもとに女房として出仕し成人する。が、思いもかけず二条天皇の早い譲位、崩御にあって宮中をさがり、後白河上皇に仕える惟宗広言に嫁して忠久をもうけた。後年、明子とともに鎌倉に下り頼朝に仕えて薩摩国の守護に任じられ、島津家の祖となる人物である。

 明子が出仕した二条天皇の宮廷には、のちに「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし」と詠んで「沖の石の讃岐」の名で親しまれることになる二条院讃岐がいた。源頼政の娘で明子より数歳上。頼政が歌人として秀でていたからその血を引いて讃岐もまた歌の上手だった。

 この讃岐が四十年を経たのちふたたび出仕することになるのが後鳥羽院仙洞で、『新古今和歌集』成立に向けて異様な熱気に包まれるなか、讃岐は新しく台頭してきた若手の女流歌人、俊成卿女・宮内卿らに引けをとらない活躍をする。後鳥羽天皇に蹴鞠の腕を買われて上洛した雅経だが、院の関心の歌への移行とともに雅経も歌をやらざるを得なくなり、讃岐とも親しく交わることになる。

 頼朝は幕府を開いて落ち着いたとき、武蔵国比企郡にいた泰子を鎌倉に呼び寄せた。泰子の夫は比企の代官で、頼朝が伊豆に流されたあと夫婦は領地に下り、そこから泰子は二十年間頼朝を支援しつづけたのだった。すでに後家になって比企尼と呼ばれていた泰子に頼朝は材木座のとある谷戸(やと)を与えた。以後この地は比企谷(ひきがやつ)と呼ばれるようになる。現在、妙本寺が建つ地である。

 鎌倉に来て比企尼が驚いたのは幕府を開いたとはいえ、文化の香りの何もないことだった。頼朝を取り巻くのは何かといえば大声で怒鳴り合うむくつけき田舎武士の集団ばかりである。京に育った頼朝がどんな思いを抱いているか、誰よりも頼朝を知る比企尼には胸の潰れる思いがした。のみならず御台所の政子である。気質はいいし大器の器の持主であることは認めるが、鎌倉主の御台所としてあまりに品位がなさ過ぎた。比企尼は京から明子を呼ぶことを頼朝に進言した。

 頼朝は明子の名を耳にした途端、世界が変わったことを知った。それまで何をして生きてきたのか何も思い出せない、何も考えられない状態に陥った。如何に自分が長く孤独に一人で生きてきたかだけが思われた。二度と会えないと思っていた女人……。頼朝にとって明子はこの世で誰よりも大切な女人だった。優しい姉であり、母親のようであり、初恋の人であり、初体験の相手であり、すべてだった。今後どのような女人と巡り合うことがあろうと、明子にだけは終生思いが変わることのない……、そういう女人だった。

 じきに明子が広言と別れ忠久を連れて下向してきた。宮中の女房経験をもつ明子の存在は、鎌倉中の誰しもの目をみはらせた。これが京というものかと文化の神髄を人々はまのあたりにする思いだった。人目をはばかっての手前、頼朝と明子はかつての関係の片鱗も見せなかったが、二人には同じ空気を共有しているだけですべてを分かり合っている安堵があった。明子は政子に仕えて丹後局と呼ばれる。

 しかし人は一度封印した思いを解いたあとは、二度とふたたび封印するなどできはしない。いつしか二人はまた愛し合うことになり、政子の知るところとなる。が、伊豆の流刑時代の比企尼の貢献を見ている政子は、明子に対して単純に嫉妬したり非難することもできず、苦しんだ。それを知って頼朝は明子の政子への出仕を止め、盛長を呼ぶと、
「丹後局を預ける」
と言い渡した。盛長はすべてを察し、
「畏まりました」
と答えた。明子は盛長の妻となり、甘縄の盛長邸に移った。そしてそこに時折ごくごく内輪に頼朝が訪れ、盛長はそれを受け入れた。(つづく)

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2009.8.29 安達景盛は頼朝のご落胤?・・・『保暦間記』をコピーしてきました!

P1070024_2 連載中の小説【花の蹴鞠】の第4回が載っている歌誌『月光』が届きました。隔月刊ですので偶数月毎に載ります。そうしたらこのブログに転載することにしています。

 【花の蹴鞠】は飛鳥井雅経・典子夫妻の生涯を追う予定ではじめました。それで、知り合って結婚してという鎌倉での状況を書き終わり、蹴鞠の腕を買われて後鳥羽天皇に京へ召される・・・というところまで書いたのが第三回でした。なので、第四回はもう上洛して後鳥羽天皇にお目もじ・・・を書く予定でした。

 が、どういうわけか筆が進まず、若い夫妻の面倒をみる安達盛長・明子夫妻に筆がこだわって、とうとう、第四回は盛長・明子夫妻が主人公みたいになってしまいました。

 というのには理由があって、これからもうずっと先のことになりますが、夫雅経に先立たれた後、典子は明恵上人に帰依します。その間をとりもったのは安達景盛(かげもり)という盛長・明子夫妻の子息ではないか・・・というのが私の設定です。

 景盛は実朝が暗殺されたときに出家して覚智となり、高野山に籠ります。そして明恵上人と親交を結ぶのです。典子が盛長・明子夫妻との縁から、京で覚智と親交をもつようになったとしても不思議はないでしょ!

 それで、雅経夫妻が上洛する頃はまだ景盛もまだ少年で親交もなにもないのですが、ゆくゆく重要人物になる景盛の生い立ちを書いておくのも必要かも・・・といった背景が第四回にはありました。それで、比企尼の長女の明子(仮名です)を追って書いたら、乳母の子だから、頼朝とは姉弟のようにして育ったことは容易に想像でき、それを書いていたら、では、伊勢物語の筒井筒のような関係もあって不思議はない・・・と発展し、とうとう、頼朝・明子の初恋同士の関係からはじまる生涯の恋・・・に結論がいってしまいました。

 というのも、頼朝の盛長妻に対する不思議な熱意は『吾妻鏡』に実際書かれているのです。例えば明子が病気になったときの頼朝の心配、回復したときの安堵・・・が、あの歴史書たる『吾妻鏡』に「なぜ?」といった感じで記録されているんです。頼朝が泊りにいった・・・とか。

 安達景盛の頼朝ご落胤説は『保暦間記』に書かれています。保元(1156)から暦応(1339)に至るまでの間の歴史書です。保元の乱から後醍醐天皇の死去までだそうです。ここにご落胤説があるのは有名なのですが、誰も半信半疑。安達一族の箔をつけんがための虚飾・・・みたいな感じで、今まで誰も事実として認めてはいないようです。

 が、【花の蹴鞠】第四回で、頼朝・明子の関係を、幼少時から、後年の『吾妻鏡』の記載に至るまでをずうっと追ってみたら、景盛は頼朝の子以外はあり得ない結果になってしまいました。明日、ブログにアップしますので、詳細はそちらをご覧ください。

 で、私も今まで『保暦間記』を信じていなかったし、読もうとすら思わなかったのですが、これは読んでおかなければいけないという気になって、今日、立川の国文学研究資料館に行って、コピーしてきました。そして、どこにそれが書かれているか探して、ありましたのでご紹介させていただきます。

 泰盛が嫡男、秋田城介宗景と申しけるが、驕りの極みにや、曾祖父景盛入道は右大将頼朝の子なりけるなればとて、俄かに源氏に成りにける。
(『校本保暦間記』から現代仮名遣いに直しました。)

 これは安達泰盛が平頼綱によって滅ぼされたときの原因を書いた文章です。頼朝の血を引く一族だからと、宗景が源氏の姓を名乗ったのを、頼綱によって「将軍になろうとする謀反の意思」とされ、霜月騒動となって安達氏が滅びるといった経緯です。

 ご参考までに安達家の系図を書かせていただくと、「盛長―景盛―義景―泰盛―宗景」となります。義景の妻に雅経・典子夫妻の娘がなっています。が、泰盛の母ではなくて義景には別に正妻がいました。このあたりもいずれ【花の蹴鞠】に登場させます。安達家で蹴鞠が盛んだったのは、こういう縁戚関係があったからでした。

 『保暦間記』の話は今まで聞いてはいましたが、ほんとうに私も軽く聞き流していました。でも、頼朝・明子の関係を掘り下げた今、たったこれだけの短い記述が、短いゆえに揺るぎなく、当時の人には周知の事実だったろう真実に思えました。有り得たなんていう話ではなく、いとも自然に書いている文章にしか感じられないのです。

 後世の人はとかく権威付けのための虚飾と貶めがちなのは、源光行を追っている事例で経験しています。光行のような地下の役人に、後徳大寺実定や後京極良経のような中央のそうそうたる人脈があるはずがない、だからこれは子孫の箔付けのための虚飾・・・。これが従来の考え方でした。

 でも、執筆中の『紫文幻想ー源氏物語写本に生きた人々ー』で光行を追っていたら、光行は平家文化圏の中で育っていますから、若いときからこういう人脈の下で働いていたことが判明。決して不自然ではなかったのです。

 どうして後世の人は身分が低いと歴史書に書かれているのに信じないで貶めるのでしょう。私は光行の場合と同様、今回も、頼朝・明子の関係を年譜をつくって追っています。年譜は嘘をつきません。それで、景盛の生まれる原因となる関係のあった年まで推測ができました。それは第五回にまとめます。(景盛は没年は明確に記載されていてわかるのですが、生年未詳。没年の記事に母が丹後局ということも明確に記されています。)

 不思議なことに、その、頼朝・明子の関係を記した記事があるはずの部分の『吾妻鏡』は欠落して存在しません。こんなところに、もしかして故意の削除が?・・・なんて思ってしまいました。

■写真は稲村ケ崎の下の岩場。遠くに江の島が見えています。

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2009.8.20 緊急【8月9日東海道南方沖M6.9→11日駿河湾M6.6→13日八丈島東方沖M6.6】への空4 ≪八月発震まで≫

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雲観測専用のもう一つのブログ≪ゆりこの銀嶺日誌≫から転載させていただきます。

8月に入ってからの連日の顕著な空というのはそれほどなかった気がします。あったら何があっても撮っているはずですから。この「何があっても撮る」「撮るのに振り回される」・・・、が大きな地震前兆のバロメーターですね。

 代わりに顕著だったのが夜の空。それは連日の月の虹色の光冠(9日23:43画像)と、南西の駿河湾方向の白い発光でした。

 日付順に説明させていただきます。

8月4日
南西から北東に延びる長い断層状の雲。中におそらくコッペパン状の太い帯雲放射と思われる帯雲の一本が赤く焼けたのが見えていました。二枚目がそのアップです。長い断層状も不審ですが、このコッペパン状の太い帯雲は危険です。しかも赤く焼けて・・・。当地からは低空で見えにくく、全貌がわからないのでもどかしかったのですが、神奈川あたりではどのように見えていたのでしょう。

8月5日
この日は出先で撮れなかったのですが、まるで溶鉱炉の中で溶けた鉱物がしたたっているかのような強烈な夕焼けがありました。観ていて唖然とする凄さです。何、この空・・・と思いつつ、カメラを持っていない悔しさを噛みしめました。
この夜から南西の白い発光に気がつきました。

8月6日
前夜と同じく南西の白い発光。煙があがっているかのような不審な雲。なんだか不穏度が増しているような・・・という気がしつつ撮ったのを覚えています。

8月7日
 朝、青い空に白い雲の、スマトラ地震前兆時に見慣れた危険な空(9:05画像)。?と、緊張しました。青い空に白い雲というととてもノーマルな平和の象徴の空のように思えますが、雲の形状によっては危険な空なのです。9:05画像のように部分部分に洗濯板状の模様が混じっていたり、一番下の11日画像のような細かい漣状(千鳥状と私は呼んでいますが・・・)がある空のことです。
 この日はその後出掛けて、その帰宅時、ふと空をみあげたら洗濯板状の横縞が線路の枕木よりも太い幅の横縞になっている雲があってぎょっとしました。これはM6規模前兆です。まさかという思いで急いで家に帰り、デジカメを持っていつもの場所に撮りに出ました。それで撮ったのが13:44画像です。枕木状の横縞はすでに崩れていて撮れませんでしたが、画面右上の四角っぽく区切られている部分がその名残りです。みつけた当初は区切られてなくて長い枕木そのままの形でした。
 ただご覧のようにこの日の空は全域騒然として、この枕木状横縞がどこの方位での不審か識別できませんでした。
 そして、この日はその後もずっと不穏で、それこそ撮るのに追われる一日。17:52画像では南西から不審な灰色雲が噴き上がっています。レリーフ状に白いエッジができるのは磁気性が強い雲だからで、ただの雨雲ではありません。

【8月9日19:56 東海道南方沖M6.9】発生

 9日は地震予知のサイトで、各地で水平虹の観測報告がありました。水平虹というのは地震前兆で最も危険な部類に入る虹で、ふつうの虹と違って真横一直線の虹です。環水平アークというのが正式名称らしいのですが、「水平虹」で検索されるとたくさん事例がでます。
 8日、9日の空を撮っていないし、記憶にないのでそんなに顕著な前兆があったのではないような・・・。当地での直前前兆としては7日の空だったのですね。やはりスマトラ地震時の前兆で覚えた「青い空に白い雲」は危険でした。

 8月9日23:45と、8月10日00:23の画像は、発震があって震源地の方向はどうなっているのかしらと思って撮った空です。地獄谷のような勢いで刻々と形を変えて雲が噴き上がっていました。これを見て、?、前兆はまだ収まっていない・・・、後続があるかも・・・と心配になりました。

【8月11日5:07 駿河湾M6.6】発生

 8月11日16:12画像は、駿河湾M6.6があったあとに現れた「青い空に白い雲」のスマトラ地震時に見た危険な前兆の空です。まさか・・・、と思いました。だって、東海道南方沖があって、駿河湾があってと、M6規模が続いたわけですから、まだ何かあるなんて思えませんよね。

【8月13日7:49 八丈島東方沖M6.5】発生

 11日の「青い空に白い雲」はこの地震の前兆だったようです。

■まとめ
 私は、大きな地震の前には必ず顕著な「これだ!」と決めていいような凄い雲が出現するものと思っていました。阪神淡路大震災のときも、岩手内陸地震のときも、怖いくらいにレリーフ焼けをした巨大な放射状雲が報告されていましたから。
 が、それはどこかでは観測されていたかもしれませんが、地域が限られていて、日本全国の誰にでも認識できるものではなかったのです。で、当地ではご覧になっていただいたような「一連の不審な空」という実情でした。
 顕著な雲がなかったから、直前予測まで至りませんでしたが、思っている形の雲が観測できなくても、振り返ってみれば前兆は確実にあったのです。そのバロメーターは、「撮らなくてはいられない」「撮るのに振り回される」空。こういうときは大きな地震が迫っていると考えなくてはいけないようです。そういう中で、やはり7月19日の巨大な虹は顕著な前兆でした。
 今後は空全体の騒然さに惑わされずに、どの方位が一番不審か・・・、に心を澄まして、冷静に見ていくことにします。

 大きな地震前兆は、直前だけでなく、一か月以上も前から空を騒がせています。本当は研究所みたいなそれに専念する場所を作って、撮った画像を日々チェックできればいいのですが・・・
 個人では撮るのにやっと。画像処理すら追いつかない・・・、の現状では、注意して読めば把握できた南西の異常も、こうしてやっと解明した次第です。でも、振り返ることの大切さを感じています。

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2009.8.18 緊急【8月9日東海道南方沖M6.9→11日駿河湾M6.6→13日八丈島東方沖M6.6】への空3 ≪七月後半≫

7月16日
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7月17日
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7月22日
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7月25日
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雲観測専用のもう一つのブログ≪ゆりこの銀嶺日誌≫から転載させていただきます。

画像をご覧になっておわかりいただけますように、東海道南方沖地震M6.9発震に至るまでの最大前兆だった日は、やはり巨大なアーチ虹の出現した7月19日でした。

 下に、【地震雲420】で六月分を、【地震雲421】で七月分をご紹介させていただいていますが、それらはふつうのM4とか、大きくてもM5止まりの前兆現象です。違うのは連日続いたこと・・・。それが不審でした。が、それだけでは大きな発震につながる危機感には結び付きませんでした。

 後半のこれらの画像をチェックしていて思い出したのですが、17日に特に顕著だった雲の中でピチャピチャと水がはねているような模様の広域雲。よく雨の前に現れる乳房雲に似ていて、この日も近いうちに発震があるのかなあと思ったまま結果がなく、そして忘れていました。8月に入ったころ、そういえば、あれらの雲の結果はあったかしら・・・と時々ふっと胸をかすめてはいましたが、これがM7規模に近い前兆だったなんて、夢にも思いませんでした。

 が、こうして振り返ったとき、やはりあの巨大な広域雲は、まさしく南西発生の巨大な前兆。スマトラ時に見慣れた大き目前兆の空とあまりに違っていました。日付順に画像の説明をさせていただきます。

●7月16日19:16
南西(震源地方向)に何かが爆発して噴き出したような丸い形状の雲(或いは雲の撹乱)が出現。これは福岡県西方沖地震で被害地震につながる前兆ということを経験しています。? まさか・・・という思いで撮った一枚です。前半の一連のM4乃至5規模の雲から変化して危険な前兆に変わった日と思います。

●7月17日10:20
この空は怖いです。こういう雲は時々見ますが、こんなに全域に広がったのは見たことがありません。呆気にとられて、「何て空・・・」と唸ってしまいました。画面左下が南西です。そこから電磁波か何かの放射が直線状に立ち上っています。何が起こるんだろう・・・と思いつつ、でも、この雲は雨予兆の直前雲だから地震があっても中規模、と安心していました。が、結果がないのを忘れるほど半月以上の月日が経って、そして8月9日の発震となりました。

●7月19日
午前中は10:21画像のように、この日は17日と似たような空でした。そして雨になり、午後までずっと続き、今日は一日暗いんだ・・・と思っていました。15:30画像は雨があがったときに何となくただの雨雲と思えなくて撮りに出たものです。やはり震源地方向の南西から広がる雲でした。そして、西から西北西にかけて巨大なレンズ雲の列がありました。画像では小さくてわからないかもしれませんが、画像右側半分の灰色雲の下にぶらさがるようにドーナツを重ねたような雲が写っているのがそれです。
そして18:30、巨大な虹の出現。雨の後の西陽直撃の、それは見事なアーチの虹でした。南側では副虹にもなっていました。そしてその後の強烈な夕焼け。それは凄いとしかいいようがない空でした。

●7月22日20:09
南西方向低空の空が白いのに気がついて撮ったものです。震源地で発光しているので一帯が明るんでいるのです。中央のこんもりした山の左側が相模湾、右側が駿河湾の方向です。このときはまだ駿河湾とは絞りきれない状態ですが、湯気のような感じの雲が湧いていて、何かが起きつつある状況です。

●7月25日18:31
特にどうという空ではないように見えると思いますが、広域の前兆の空です。どこかに大きな震源が迫っている前にこういう空になります。

●7月27
11:18画像は、南西から火山が爆発したときのようなむくむくとした黒い雲が頻繁に発生しているようすです。22日に発光し、それが具体的に見える雲となって出現・・・といった経緯に思います。灰色雲は発震が近くなってきた証拠です。M4規模ですと、その日のうちの発震になります。
18:37、やはり南西発生の広域不審雲の空になりました。この日も虹が出そうと頑張って見渡したのですが、北東側の株虹しか見られませんでした(18:42)。都心や神奈川の方では見事なアーチになったそうです。18:55画像は、雲の南西発生の状況がよくわかる空です。
ただこの日は【地震雲419】にまとめたように、北海道の地震前兆が凄く、虹はその影響だったと思っています。目視では北からと南西と、両方から雲が噴き出していて衝突しているような感じでした。

 結果論ですが、7月前半の中規模前兆的雲に比して、広域の前兆空となったのが後半です。中規模前兆の雲はたとえ巨大なレンズ雲でも白くて綺麗です。後半の広域前兆空は黒ずんできていて不気味です。経緯が切迫してきているのと空の不気味さへの移行とが正比例しているんですね。

 こうしてみて唖然とするのは、スマトラ時の空を経験していて、大きな発震の前の空には自信があったみたいな経験則がまったく役立たなかったこと。まったく空が、流れが、ちがうんです。だから、大きな発震への注意はまったく喚起しませんでした。ただ、なんとなくどこかひっかかる、どこか釈然としない・・・。で、考えても、スマトラ時の空ほどではないし・・・と、危機感にはまるで結びつかない・・・、でも空は不審、いったい何だろう・・・といった感じで撮らされていた感じです。

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2009.8.15 緊急【8月9日東海道南方沖M6.9→11日駿河湾M6.6→13日八丈島東方沖M6.6】への空2 ≪七月前半≫

07071638_2 07071645_2 07091809_2 07100848_2 07121651_2 07121757_2 07130852_2 07130842_2 07130932_2 07130959_2 07131732_2 07131731_2 07131834_2 07131925_2 07140911_2 07140910_2 雲観測専用のもう一つのブログ≪ゆりこの銀嶺日誌≫から転載させていただきます。

【8月9日東海道南方沖M6.9→11日駿河湾M6.6→13日八丈島東方沖M6.6】に至るまでの当地での雲観測による前兆を載せさせていただきます。とりあえず六月に撮った分からチェックしていて、六月のは【地震雲420】に載せました。今日は七月前半になります。このあと、19日の巨大な虹の出現となるのですが、前半にすでにこれだけの現象が起きていました。

ここで顕著なのは、南西から西にかけての低空に連日出現したレンズ雲です。

 当地でのレンズ雲の出現は滅多に見られません。たまにあっても一日だけで終わり、中規模発震となります。なので、最初はまた中規模前兆と呑気に思って見ていました。が、連日となるとさすがに不審で、???と首をかしげて見ていました。

 レンズ雲と同時に気になったのは朝から、日中でも、雲底が白い輪郭で描かれたようにレリーフ状になっていること。これは相当磁気性の強い雲です。朝焼け・夕焼けのレリーフ状は何回か遭遇していますし、M5規模の発震をみています。でも、日中の明るい空、青空に浮かぶ雲の白いレリーフ状・・・何だろうと不審でした。4枚目(7月10日8:48)の画像に顕著です。

 最初にレンズ雲を撮ったのは7月7日。七夕様の日ですが、そういう優雅な気分を満喫するどころか、雲撮影に追われたのを覚えています。いつも撮る南西低空に見慣れないレンズ雲の列。?と目を疑いつつ撮ったのが一枚目です。南西から流れてきて西に一番溜まっていたので、西発生で広がっているのか、南西から流れてきている列なのか、しばらく判断つきませんでした。12日17:57画像のころになってやっと「南西から」を確認できた次第です。

 最も前兆として顕著だったのが13日。この日は朝から南西に巨大なレンズ雲が浮かび、終日カメラを手に空から目が離せませんでした。8:52画像が高台から見た駿河湾方向の全貌ですが、伊豆半島沖方向と経験則で思っている方向です。この画像の左側奥が東海道南方沖M6.9の震源地ですが、中央のこんもりした山のような茂みの左側の窪みに巨大なレンズ雲が写っています。それを自宅付近で撮ったのがその下の画像(8:42)の雲です。そしてそういう巨大なレンズ雲が頻繁に出続けたと思ったら、夕刻にはシャープなエッジの長い帯状雲の発生(17:32・17:31)になりました。そして、その後物凄い見事な金色の夕焼け(18:34・19:25)になりました。残念なことに黄金色の最盛期は撮っていません。(18:34画像のあと注意していたのですが、仕事していて、ふっと気がついたらもう黒ずんだ夕焼けになってしまっていました。)

 最後の二枚、14日でも13日夕刻と同じようなシャープな帯雲が南西から発生。これは・・・と思ったのでした。

 小さなレンズ雲の列の頻出→巨大なレンズ雲の多発→シャープな帯雲・・・の推移が7月前半に見られました。

 私は雲を撮りはじめてちょうど一年たったころに、新潟県中越地震とスマトラ地震に遭遇しています。なので、大地震の前の空には経験があるつもりでいました。が、レンズ雲の多発からはじまるこの一連の現象には馴染みがなく、スマトラ時とも違うこの空は何だろう・・・と、まったく見当がつきませんでした。こうして画像を並べて語れるのも、結果となる地震が発生して振り返っての検証だからです。なので、「今にして思えば・・・」という状況。巨大地震の前兆空はいつも同じではないようです。ただ、「何か変・・・」「何? この一連の現象は・・・」といういつもと違う感覚だけは湧きます。だから撮っている訳です。そして、この「いつもと違う感覚」がやはり大地震の前兆なのですね。自然現象に耳を澄ませていることが大切ですし、それを忘れないで判断する余裕があればもっといいのですが・・・

●一日沖のM6規模の地震発生は非常に危険な状態です。私が雲を撮り始めたころは、M3の地震でも珍しく、撮った日には凄い事をした気分に興奮したものです。M4の前兆雲を撮ったらスクープもの、M6なんて、一年たっても一回とか・・・

 それが年々規模が大きくなって、去年はM4規模なんてザラ・・・。M5で驚くくらい・・・。最近ではM6もそう驚かなくなりました。

 地震予知を長くされている方のお話では、M6規模が頻発するようになったら非常に危険ということでした。だから、今まで、そんなことはありえない・・・みたいな感覚で呑気でいられました。が、一日置きのM6規模の地震。しかも、とても近い範囲で・・・

 さまざまな研究機関の方が警鐘を鳴らしはじめていられます。関東での警戒です。何もなければそれが一番ですが、とりあえず、お風呂の水を貯めるとか、飲み水の確保とか、お考えください。

■ゆりこの銀嶺日誌 http://ginrei.air-nifty.com/
■KS SKY REPORT http://kobe.cool.ne.jp/promises/(私が画像投稿させていただいているサイトです。阪神淡路の震災後、前兆によって心構えができ被害を軽減できるならとはじめられたそうです。)
■前兆雲写真館 http://homepage2.nifty.com/syounan_iku/(湘南IKU氏のサイト。私はこの方に雲前兆の見方・撮り方を教えていただきました。)

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2009.8.13 緊急【8月9日東海道南方沖M6.9→11日駿河湾M6.6→13日八丈島東方沖M6.6】への空1 《六月分》

06121509_2 06281859_2 もう一つのブログ、地震前兆を捉えようと雲の観測・検証をしている【ゆりこの銀嶺日誌】からの転載です。とても不穏な状況。地震予知の主だった私的研究機関・個人研究者・サイトでは一斉に危機・警戒を訴えています。

8月9日早朝、東海道南方沖を震源とするM6.9の地震が起きました。その後、11日には駿河湾M6.6からはじまる群発。そして、今朝八丈島東方沖M6.6。とても不穏な状況が続いています。

 9日の【東海道南方沖M6.9】は東海地震の予測震源地にかかわる位置だったことから非常に心配されていますが、各掲示板で解説されてる方々のご意見を拝見すると、今まで「関東・東海の震源、南海トラフの巨大地震」を抑えていた「銭州海嶺固着域が崩壊した可能性」ということ。これにより各震源が自由に動きだす恐れ・・・という状況だそうです。(恐縮ですが、私は理系でないので専門的には全くの無知。受け売りで申し訳ありません。なので専門用語などは間違っている恐れもありますので、概念としてだけ受けとめてください。)

 大きな地震が起きたあと、撮った雲の検証をしていつも思うのですが、「今にして思えばあのとき・・・」。今回の東海道南方沖M6.9発震のあとすぐに6月からの過去画像をチェックして、改めてまたそう思いました。つまり、警鐘はすでにそのときに鳴らされていた。なのに、そのときには「おかしい」「不審」で済ませていて、その後一カ月とか二カ月何もないから日常の平和さに浸されて安穏としている・・・。地震が起きてはじめて、「あれが前兆だったんだ・・・」と認識する。…大きな地震前兆認識のパターンです。

 画像チェックすると、撮ったときの畏怖・警戒心が甦ります。こんな現象のあったことをよく忘れていられたなあと、愕然とします。せめてこのブログに記録として残しておきます。

 画像が膨大にありますので、何回かに分けました。7月分が膨大でなかなか時間がとれなくて進みません。とりあえず6月分だけアップします。一枚目は12日15:09撮影。南西の空のようすです。経験で駿河湾方向に発震があるときに見られる前兆方向です。海域を示す肉厚の雲が異様な強さ噴き出していました。

 二枚目は28日夕刻。空が異様な感じの色に染まり、撮りに出たら南西におかしな感じで丸く赤い発光の部分が浮かんでいました。日没方向の西は沈んだふつうの色です。「いやだなあ」と思ったことを覚えています。これは反対の北側にまで延びていました。この空はほんとうに「異常の発生」を予感させました。

【気象庁より】
8月13日07時49分頃 八丈島東方沖 M6.5 震度5弱
8月12日12日12時43分頃 駿河湾 M3.7
8月12日12日02時50分頃 伊豆大島近海 M2.4
8月11日11日20時02分頃 駿河湾 M2.7
8月11日11日19時46分頃 駿河湾 M3.3
8月11日11日18時09分頃 駿河湾 M4.3
8月11日11日08時07分頃 駿河湾 M2.9
8月11日11日07時32分頃 駿河湾 M3.4
8月11日11日07時21分頃 駿河湾 M3.0
8月11日11日06時51分頃 駿河湾 M2.7
8月11日11日06時27分頃 駿河湾 M4.1
8月11日11日06時13分頃 駿河湾 M3.7
8月11日11日06時07分頃 駿河湾 M3.9
8月11日11日06時04分頃 駿河湾 M3.0
8月11日11日05時28分頃 駿河湾 M2.9
8月11日11日05時07分頃 駿河湾 M6.6 震度6弱
8月10日10日01時02分頃 東海道南方沖 M4.9
8月09日9日19時56分頃 東海道南方沖 M6.9 震度4

●二枚とも南西です。画像中央下のこんもりした山をはさんで左側が相模湾、右側が駿河湾の方向です。二枚ともこのこんもり山の右側から雲や光が発生しているのがわかっていただけるでしょうか。

さまざまな方面から、防災用品の見直しを訴えられています。とりあえず、3日分の水と非常食の確保を・・・とか、お風呂に水を溜めておきましょう・・・など。

ゆりこの銀嶺日誌 http://ginrei.air-nifty.com/
KS SKY REPORT http://kobe.cool.ne.jp/promises/(私が画像投稿させていただいているサイトです。阪神淡路の震災後、前兆によって心構えができ被害を軽減できるならとはじめられたそうです。)
前兆雲写真館 http://homepage2.nifty.com/syounan_iku/(湘南IKU氏のサイト。私はこの方に雲前兆の見方を教えていただきました。)

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2009.8.6 出埼統監督「源氏物語千年紀 Genji」について【まとめ】・・・久しぶりに中孝介さんの歌を聴いて

018  朝、テレビで久しぶりに中孝介さんの歌を聴きました。あまりメディアに堪能する時間がとれないので、出崎監督のアニメ『Genji』のテーマ曲だった「恋」からもここしばらく遠ざかっていました。聴きたいなあって思っても、CDを買ったところでかける時間がないし・・・

 今朝のテレビでは「恋」はほんのサワリだけ。別の二曲が披露されましたが、私には何とももったいない・・としか。「花」もいいし、新曲の「空が空」にも聴き入りましたが、やはり中さんは「恋」です!!

 というのは、ここから出崎監督の「源氏物語千年紀 Genji」について書こうとしていることに触れるのですが、「恋」には「訴える」「ほとばしる」思いがあるんです。別の曲にだってそれがあるといえばあるのでしょうけれど、思いの吐き出し方が違う・・・。それは、よく、「血を吐くような」という形容をしますが、その「血を吐くような切実さ」があるかどうか、なんです。辛いし、苦しいし、それを思いやって切ないし、胸を打つ・・・そういう歌、ドラマ、はいろいろありますが、その胸を打つ打ち方に「血を吐く」ほどの切実さ、ほとばしりがあるかどうか・・・

 「恋」にはそれがありました。そして、出崎監督のアニメ「源氏物語千年紀 Genji」にも。

 私はアニメをあまり読まないし、見ないので、それがアニメの世界なんだよといわれてしまえばそれまでですが、私は人間の本質はこの「血を吐くような本物の思い」にあると思っています。でも、日常に埋もれているとそれは必要ないし、見えない。どころか、そんなのあったら邪魔・・・、のみならず、そんなの本質でも何でもないし、社会的問題となんの関係もない・・・・、って、そういうのが一般的社会のようですし、一般的文学でもあるよう・・・

 で、私は目下文学的流浪者で、「血を吐くような本物の思い」を求めてさまよっています。そういう中で巡り合ったのが出崎監督の「源氏物語千年紀 Genji」でした。アニメ未経験者の私にはそれは衝撃でした。何も、放映当初言われたようにアニメなのにエロス満点に衝撃を受けたわけではないんですよ。ぐいぐいともうどうしようもなく登場人物の言葉に引き込まれていくその凄さにです。これを求めていたんだ・・・と思い、毎回が楽しみでした。

 最終回を見終わったらまとめを書こうと意気込んでいました。そして、見ているあいだもそのセリフにぐいぐいと引き込まれて、やはり凄いなあと堪能していました。そして、「まとめ」には録画したビデオからテープ起こしして、冒頭からの光源氏のセリフを長々と引用・ご紹介させていただこうと思っていました。それくらい、最終回にも「血を吐くような本物の思い」が溢れていて凄かったのです。

 なのに、半年がたっても書けないでいたのは、それがアニメだったから・・・。アニメという分野だからというのではありません。アニメという「絵」があったからです。

 最終回を見終わったときの感慨は・・・、「あれ、今日は『平家物語』を見たんだっけ?」

 セリフによる言葉からの感動とは別に、目で見た印象の感慨が、???という疑問符として残り、見ているあいだの感動とちぐはぐ。どうしても素直なままの感動を書けなかったのです。今も、こうして書いていて思い浮かぶ「絵」は、鎧兜をつけてひざまづく光源氏・・・

 私は『平家物語』も好きですし、平家の公達の一人一人のファンです。重衡なんて、それはもう、好きです。だから、アニメに『平家物語』を拒否しているわけではありません。

 ただ、その日、私が見たかったのは、『源氏物語』なんです。史実考証がどうのなんて堅苦しい話をしているのではありません。ムード・雰囲気・その時代・・・に浸りたかったんです。その時代の中で、光源氏の「血を吐くような思い」の吐露を聞きたかったんです。今も思い出すのは、『源氏物語』の世界ではなく、『平家物語』・・・・。それが最終回でした。もったいなかったですね。あんなにいいセリフ、アニメでしたのに。

 それとは別に、やはり私は出崎監督の「源氏物語千年紀 Genji」に喝采です。本質にぐいぐいと錐もみするようにして喰い込んでいく手法、シナリオ。正面から「思い」に向き合って、主人公たちがその「思い」に突き動かされて、ドラマが進みました。

 『源氏物語』自体がそういう内容といってしまえばそれまでですが、ただ、大きく『源氏物語』というと、どうしても先入観的ムードができていて、それを破るのは大変。夕顔・空蝉・浮舟・・・、その三人を無視するなんて、さらにいえば、末摘花を語らないなんて・・・

 出崎監督が奇しくもなさったのは、『源氏物語』の本質部分を、その部分だけを切り取られてダイナミックに繰り広げられたのでした。『源氏物語』の本質・・・、それは紫の上ではありません。藤壺です。『源氏物語』本編は紫の上が主人公で長~い時間が、頁が費やされて進みます。藤壺は光源氏がその紫の上に惹かれる原因として語られるだけです。初恋の人藤壺に紫の上が似ているから・・・と。

 でも、光源氏の心を切り取ったら、思っても思っても届かない相手藤壺は永遠の恋人。対して紫の上は手に入れることのできた現実の人。深さが違います。

 人は「届かない」ものに永遠に憧れ続けます。光源氏の心の中は、一生、遂げられなかった愛・・・、藤壺への愛で、ズタズタに引き裂かれて血まみれになっていたのです。出崎監督の嗅覚はめざとくそれに吸いつけられました。紫の上を中心とする一連の事件、ドラマなんかより、この「一事」こそが紫式部が書きたかった本質だということを見抜かれたんです。今まであったでしょうか、紫の上でなく、藤壺が主人公の『源氏物語』なんて。

 最終回も、出家した藤壺と光源氏のドラマで終わりました。やはり、「最後も藤壺」だった・・・と納得して、やはり凄さを改めて確認して、さあ、では、まとめを・・・と思うと、藤壺がなんと、中世の『とはずがたり』の二条のように、墨染姿で全国行脚をする・・・、そのときに発する光源氏への思いのセリフもよかったのですが、見ている私の眼には、「あれ、今私は『とはずがたり』を見てるんだっけ????」

 やはり、アニメは「絵」の影響が大きいですね。はじめて『源氏物語』に接した方には問題ないかもしれませんが、『源氏物語』世界に堪能したかった私には、どうしてもちぐはぐな、もったいない最終回でした。

 ただ、ここで最初の「血をはくような本物の思い」に戻りますが、現実生活にこれはありません。みんな、これを持っていても、隠して、自分の中に秘めて、生きています。なぜなら、そんなものを標榜して暮したら、「破壊」につながりますから。危ないんです。本物の思いは・・・。

 たしか、それも、朧月夜のセリフにそういう内容のことがありましたよね。そのときも感心して、「深い」なあと思いました。ちゃんと監督は意識されてるんだ・・と思いました。

 人は本質で生きようとしてもできるものではありません。だから、人は文学とか芸術にそれを重ね合わせて消化・・・、昇華するんです。昔はその関係がとても一体化していました。純粋だったし、シンプルでした。今の時代、それがとてもできにくくなっています。というか、そんなことすら見失われているというか・・・。私には今の時代の文化、芸術、文学が、本物の思いから離れて表面的な事象に左右されすぎている気がします。だから、私には魅力ないんです。だから、私はそれを求めて文学的流浪者になっていました。そこに現れたのが出崎監督のアニメ「源氏物語千年紀 Genji」でした。久々に胸を打たれました。久々に「血を吐く思い」を思い出させられました。喝采!!!です。

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