2009.8.29 安達景盛は頼朝のご落胤?・・・『保暦間記』をコピーしてきました!
連載中の小説【花の蹴鞠】の第4回が載っている歌誌『月光』が届きました。隔月刊ですので偶数月毎に載ります。そうしたらこのブログに転載することにしています。
【花の蹴鞠】は飛鳥井雅経・典子夫妻の生涯を追う予定ではじめました。それで、知り合って結婚してという鎌倉での状況を書き終わり、蹴鞠の腕を買われて後鳥羽天皇に京へ召される・・・というところまで書いたのが第三回でした。なので、第四回はもう上洛して後鳥羽天皇にお目もじ・・・を書く予定でした。
が、どういうわけか筆が進まず、若い夫妻の面倒をみる安達盛長・明子夫妻に筆がこだわって、とうとう、第四回は盛長・明子夫妻が主人公みたいになってしまいました。
というのには理由があって、これからもうずっと先のことになりますが、夫雅経に先立たれた後、典子は明恵上人に帰依します。その間をとりもったのは安達景盛(かげもり)という盛長・明子夫妻の子息ではないか・・・というのが私の設定です。
景盛は実朝が暗殺されたときに出家して覚智となり、高野山に籠ります。そして明恵上人と親交を結ぶのです。典子が盛長・明子夫妻との縁から、京で覚智と親交をもつようになったとしても不思議はないでしょ!
それで、雅経夫妻が上洛する頃はまだ景盛もまだ少年で親交もなにもないのですが、ゆくゆく重要人物になる景盛の生い立ちを書いておくのも必要かも・・・といった背景が第四回にはありました。それで、比企尼の長女の明子(仮名です)を追って書いたら、乳母の子だから、頼朝とは姉弟のようにして育ったことは容易に想像でき、それを書いていたら、では、伊勢物語の筒井筒のような関係もあって不思議はない・・・と発展し、とうとう、頼朝・明子の初恋同士の関係からはじまる生涯の恋・・・に結論がいってしまいました。
というのも、頼朝の盛長妻に対する不思議な熱意は『吾妻鏡』に実際書かれているのです。例えば明子が病気になったときの頼朝の心配、回復したときの安堵・・・が、あの歴史書たる『吾妻鏡』に「なぜ?」といった感じで記録されているんです。頼朝が泊りにいった・・・とか。
安達景盛の頼朝ご落胤説は『保暦間記』に書かれています。保元(1156)から暦応(1339)に至るまでの間の歴史書です。保元の乱から後醍醐天皇の死去までだそうです。ここにご落胤説があるのは有名なのですが、誰も半信半疑。安達一族の箔をつけんがための虚飾・・・みたいな感じで、今まで誰も事実として認めてはいないようです。
が、【花の蹴鞠】第四回で、頼朝・明子の関係を、幼少時から、後年の『吾妻鏡』の記載に至るまでをずうっと追ってみたら、景盛は頼朝の子以外はあり得ない結果になってしまいました。明日、ブログにアップしますので、詳細はそちらをご覧ください。
で、私も今まで『保暦間記』を信じていなかったし、読もうとすら思わなかったのですが、これは読んでおかなければいけないという気になって、今日、立川の国文学研究資料館に行って、コピーしてきました。そして、どこにそれが書かれているか探して、ありましたのでご紹介させていただきます。
泰盛が嫡男、秋田城介宗景と申しけるが、驕りの極みにや、曾祖父景盛入道は右大将頼朝の子なりけるなればとて、俄かに源氏に成りにける。
(『校本保暦間記』から現代仮名遣いに直しました。)
これは安達泰盛が平頼綱によって滅ぼされたときの原因を書いた文章です。頼朝の血を引く一族だからと、宗景が源氏の姓を名乗ったのを、頼綱によって「将軍になろうとする謀反の意思」とされ、霜月騒動となって安達氏が滅びるといった経緯です。
ご参考までに安達家の系図を書かせていただくと、「盛長―景盛―義景―泰盛―宗景」となります。義景の妻に雅経・典子夫妻の娘がなっています。が、泰盛の母ではなくて義景には別に正妻がいました。このあたりもいずれ【花の蹴鞠】に登場させます。安達家で蹴鞠が盛んだったのは、こういう縁戚関係があったからでした。
『保暦間記』の話は今まで聞いてはいましたが、ほんとうに私も軽く聞き流していました。でも、頼朝・明子の関係を掘り下げた今、たったこれだけの短い記述が、短いゆえに揺るぎなく、当時の人には周知の事実だったろう真実に思えました。有り得たなんていう話ではなく、いとも自然に書いている文章にしか感じられないのです。
後世の人はとかく権威付けのための虚飾と貶めがちなのは、源光行を追っている事例で経験しています。光行のような地下の役人に、後徳大寺実定や後京極良経のような中央のそうそうたる人脈があるはずがない、だからこれは子孫の箔付けのための虚飾・・・。これが従来の考え方でした。
でも、執筆中の『紫文幻想ー源氏物語写本に生きた人々ー』で光行を追っていたら、光行は平家文化圏の中で育っていますから、若いときからこういう人脈の下で働いていたことが判明。決して不自然ではなかったのです。
どうして後世の人は身分が低いと歴史書に書かれているのに信じないで貶めるのでしょう。私は光行の場合と同様、今回も、頼朝・明子の関係を年譜をつくって追っています。年譜は嘘をつきません。それで、景盛の生まれる原因となる関係のあった年まで推測ができました。それは第五回にまとめます。(景盛は没年は明確に記載されていてわかるのですが、生年未詳。没年の記事に母が丹後局ということも明確に記されています。)
不思議なことに、その、頼朝・明子の関係を記した記事があるはずの部分の『吾妻鏡』は欠落して存在しません。こんなところに、もしかして故意の削除が?・・・なんて思ってしまいました。
■写真は稲村ケ崎の下の岩場。遠くに江の島が見えています。