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2009.8.31 連載小説【花の蹴鞠】 第四回

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 安達盛長妻の明子は、後年比企尼と呼ばれることになる母親の泰子が頼朝の乳母だった関係で、頼朝とは姉弟のようにして育った。のみならず明子が少し年長だったから泰子を真似て、さながら自分が母親ででもあるかのように、おしゃまな女の子特有の使命感をもって頼朝に接していた。

「明子が一生守ってさしあげる」
 それが幼いころからの明子の口癖だった。遊ぶときもいつも頼朝が困ることがないか気を配ったし、頼朝がころんだりするとさっと駆けつけて世話をした。それで武士の子として厳しく躾けられ、棟梁としての風格をもつよう育った頼朝だったが、明子にだけは心を許し年相応に無邪気に甘えてみせるのだった。

 例えば四、五歳のころ、泰子はよく二人を連れて清水の観音様の参拝に出向いたが、本堂にのぼる長い坂道の途中になると必ず頼朝は「もう歩けない」とぐずりだし、すると明子が「しようのない鬼武丸さま。明子がおんぶしてさしあげる」としゃがんで背中を向ける。頼朝はいそいそと明子の首に手をまわしておぶわれた。鬼武丸が頼朝の幼名である。ふだんは厳しい泰子も、明子にだけは弱みをさらけだして甘える頼朝が微笑ましく、黙って見ていた。

 その清水寺に頼朝が三歳のとき泰子は参籠した。二十七日後、霊夢のなかでお告げがあり、忽然として二寸の銀の正観音像を授かった。泰子はそれを「これは貴方様をお守りするみ仏です。生涯肌身離さずお持ちくださいますよう」と頼朝に与えた。頼朝はそれを忠実に守り、平治の乱で捕えられ清盛に処刑されそうになったところを池の禅尼に助けられたのはこのみ仏のお陰と信じた。しかし、治承四年(一一八〇)、以仁王の令旨を得て挙兵したものの石橋山の合戦で敗れたとき、結いこんでいた髻(もとどり)のなかからそれを取りだし籠った岩窟の奥に置き去った。死を覚悟した頼朝の、首をかかれたときみつかって敵に神仏にすがる女々しい奴と侮られないための配慮からだった。これは後に探し出されて無事頼朝の手元に戻っている。

 頼朝は終生信心深くいたが、それにはこの泰子の影響が大きかった。泰子は頼朝のためなら命をかけていたし、伊豆に流された頼朝に二十年間仕送りをつづけ支援したのも泰子だった。明子はそういう母親のもとで育った。とはいうもののそこは幼い子供どうし、互いの体の違いに興味をもつのは自然の成りゆきで、いつしか二人は厩の蔭に隠れて睦み合う仲になっていた。
「鬼武さまのここ、ぷにゅぷにゅしてちっちゃくて可愛い」
と明子が言い、それから着物の裾をひらいて下腹部を出し、
「ね、わたしのここに当ててみて」
と誘うと、頼朝は恥ずかしそうに従った。最初はそうした他愛のないただの遊びではじまった行為だったが、頼朝が伊豆に流されることが決まった十四歳のころにはすでに二人は大人の関係になっていた。伊豆の流刑は二人にとって永遠の別れと思われた。

 頼朝はその後伊豆で政子と出逢い結婚する。明子は二条天皇のもとに女房として出仕し成人する。が、思いもかけず二条天皇の早い譲位、崩御にあって宮中をさがり、後白河上皇に仕える惟宗広言に嫁して忠久をもうけた。後年、明子とともに鎌倉に下り頼朝に仕えて薩摩国の守護に任じられ、島津家の祖となる人物である。

 明子が出仕した二条天皇の宮廷には、のちに「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし」と詠んで「沖の石の讃岐」の名で親しまれることになる二条院讃岐がいた。源頼政の娘で明子より数歳上。頼政が歌人として秀でていたからその血を引いて讃岐もまた歌の上手だった。

 この讃岐が四十年を経たのちふたたび出仕することになるのが後鳥羽院仙洞で、『新古今和歌集』成立に向けて異様な熱気に包まれるなか、讃岐は新しく台頭してきた若手の女流歌人、俊成卿女・宮内卿らに引けをとらない活躍をする。後鳥羽天皇に蹴鞠の腕を買われて上洛した雅経だが、院の関心の歌への移行とともに雅経も歌をやらざるを得なくなり、讃岐とも親しく交わることになる。

 頼朝は幕府を開いて落ち着いたとき、武蔵国比企郡にいた泰子を鎌倉に呼び寄せた。泰子の夫は比企の代官で、頼朝が伊豆に流されたあと夫婦は領地に下り、そこから泰子は二十年間頼朝を支援しつづけたのだった。すでに後家になって比企尼と呼ばれていた泰子に頼朝は材木座のとある谷戸(やと)を与えた。以後この地は比企谷(ひきがやつ)と呼ばれるようになる。現在、妙本寺が建つ地である。

 鎌倉に来て比企尼が驚いたのは幕府を開いたとはいえ、文化の香りの何もないことだった。頼朝を取り巻くのは何かといえば大声で怒鳴り合うむくつけき田舎武士の集団ばかりである。京に育った頼朝がどんな思いを抱いているか、誰よりも頼朝を知る比企尼には胸の潰れる思いがした。のみならず御台所の政子である。気質はいいし大器の器の持主であることは認めるが、鎌倉主の御台所としてあまりに品位がなさ過ぎた。比企尼は京から明子を呼ぶことを頼朝に進言した。

 頼朝は明子の名を耳にした途端、世界が変わったことを知った。それまで何をして生きてきたのか何も思い出せない、何も考えられない状態に陥った。如何に自分が長く孤独に一人で生きてきたかだけが思われた。二度と会えないと思っていた女人……。頼朝にとって明子はこの世で誰よりも大切な女人だった。優しい姉であり、母親のようであり、初恋の人であり、初体験の相手であり、すべてだった。今後どのような女人と巡り合うことがあろうと、明子にだけは終生思いが変わることのない……、そういう女人だった。

 じきに明子が広言と別れ忠久を連れて下向してきた。宮中の女房経験をもつ明子の存在は、鎌倉中の誰しもの目をみはらせた。これが京というものかと文化の神髄を人々はまのあたりにする思いだった。人目をはばかっての手前、頼朝と明子はかつての関係の片鱗も見せなかったが、二人には同じ空気を共有しているだけですべてを分かり合っている安堵があった。明子は政子に仕えて丹後局と呼ばれる。

 しかし人は一度封印した思いを解いたあとは、二度とふたたび封印するなどできはしない。いつしか二人はまた愛し合うことになり、政子の知るところとなる。が、伊豆の流刑時代の比企尼の貢献を見ている政子は、明子に対して単純に嫉妬したり非難することもできず、苦しんだ。それを知って頼朝は明子の政子への出仕を止め、盛長を呼ぶと、
「丹後局を預ける」
と言い渡した。盛長はすべてを察し、
「畏まりました」
と答えた。明子は盛長の妻となり、甘縄の盛長邸に移った。そしてそこに時折ごくごく内輪に頼朝が訪れ、盛長はそれを受け入れた。(つづく)

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