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2009.9.26 峰岸純夫先生ご講演【歴史における自然と人間―災害史の視点から】を拝聴して!

017 ●写真は今朝の空です。綺麗な朝焼けの空ですが、地震の前兆として福島県沖M4.5規模前後・・・ということが読み取れる雲です。朝日から後光のような放射が見られるのは大気中に電磁波が充満している証です。

 世田谷区民会館で峰岸純夫先生のご講演があり、行ってきました。とても大切な内容でしたので、書かせていただきます。ご著書『中世災害・戦乱の社会史』に書かれたことをわかりやすくお話してくださいました。

 群馬県出身でいられる峰岸先生は前橋市にあった「女堀(おんなぼり)遺跡」を卒業論文にされたそうです。まだ発掘調査がされていない時期でした。その後発掘調査が進み、事実が解明されて、この遺跡が浅間山が噴火したために造った用水と判明したそうです。そういうようなことから、先生の歴史における災害史の研究がはじまったのだそうです。

 でも、当時はそういう視点で歴史を見る方はほぼ皆無で、「自然決定論者ですね・・・」といわれたとか・・・。今は普遍的になってきているどころか、重要な視点にすらなっている分野ですが、最初にこういう世界に着目されたところに峰岸先生の先生らしさがあるなあと思ってしまいました。

 歴史はただ人間が作るのではありません。その人間は住む環境によって支配されています。浅間山の噴火が遠くフランス革命を引き起こした遠因という話も聞いたことがあります。噴火によって上空に塵が溜まり、日射時間が少なくなって、食物の不作となり、人民に不平が溜まって革命・・・、これはまだ自分でたしかめた情報でないので曖昧ですが、こんなふうな連環は有り得るでしょう。

 歴史の中に災害の爪痕をみるのは簡単です。例えば鎌倉の大仏様に東大寺のような大仏殿がないのは、津波によって流されたから・・・とか。

 でも、大切なのは、知識として、「そうだったのか・・・」と驚いたり納得して終わることではありません。そういう繰り返される歴史を読んで、私達の今後にどう生かすかを考え、実行することが大事なのです。

 今日の峰岸先生のお話の根幹はそこにありました。凄いな、と思いました。視点がはるかにグローバルです。

 地球も、人類も、大小の差はあれ、「生成→消滅」の過程を歩んでいることに変わりありません。現代は両者ともに「生成・誕生」からはじまって頂点に達したあたりに位置します。これから「絶滅・消滅」に向かうのです。

 生成から頂点に達する「昇り」のときはキーワードは「発展・開発」でした。でも、消滅へと下降するこれからのキーワードが同じでいいはずはなく、それは「メンテナンス」なのだそうです。それを心に置いて、事に当たるときは物事の決定をしなければならない。今までと同じ考え方で仕切っていてはいけない・・・・、

 峰岸先生はそう訴えかけられました。これは「歴史」の講演ではないなあと、感嘆しました。鳩山首相が「25%削減」と呼びかけられた問題にしても、そうしなければ地球が駄目になってしまうのです。人間の側の利益で「それは無理」などと言っていてはいけないのです。視点を変える必要を、峰岸先生は歴史を見た目で語られました。政治家とか実業家といった方々にこそ心していただきたいとても大切なお話と思いました。

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2009.9.25 滋賀県立安土城考古博物館特別展【戦国の城-安土城への道-】のお知らせ

仁木 宏様からのメールを転載させていただきます。

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みなさんへ
 滋賀の高木さんからの情報です。
                    from  仁木 宏

★★★特別史跡安土城跡発掘調査20周年記念・平成21年度秋季特別展「戦国の城-安土城への道-」★★★

◆趣旨・内容
 戦国時代、各地の戦国大名たちは領国支配の強化を目指し、その居城を発達させました。一方、強力な戦国大名の登場しなかった畿内と近国では、寺社や村などが自分たちを守るため、寺社や村そのものを城塞化していきます。こうして地域色豊かな戦国の城が各地に誕生していきました。
  そしてこの戦国の動乱を天下統一へと導いたのが織田信長です。信長が天下統一の拠点として築いた安土城は、高石垣の上に高層の天主がそびえ立ち、それまでの戦国の城とは一線を画する画期的な城でした。そして、その姿は、後に全国に広まる江戸時代の城のモデルともいわれています。
  この展覧会では、近年盛んに行われている各地の戦国期城郭の発掘調査成果を紹介し、さらに特別史跡安土城跡発掘調査20年間の調査成果を総括して、近世城郭へとつながる安土城の特質に迫ります。そして、戦国時代の城郭と安土城とを比較するなかで、安土城が誕生する歴史的背景についても考えてみたいと思います。

◆高木よりの勝手な見どころと注意点
 (1)今回は六角氏式目などの古書籍類を除き、古文書は1点もありません。城絵図と考古資料が中心です。ご了承下さい。ただし、絵図は山科古図や4鋪の郡山城絵図、小田原城の絵図、武田氏館絵図、観音寺城絵図は木瀬本と大久保本が出ます。なお、郡山と小田原については、10月13日を境に半分ずつ展示替えをしますので、ご了承下さい。
 (2)吉川氏の、小倉山城と日乃山城の絵図は、吉川史料館所蔵のものですが、当該館は基本的に、国家権力や某国営放送以外、なかなか資料を出陳しません。今回は、特別のご配慮で2鋪の絵図の出陳をお許しいただきました。二鋪は、前半・後半で入れ替えます。これは、岩国に行かないと基本的にみれない絵図なので、今回の注目品です。
 (3)唯一重要文化財の斎藤道三の画像は、10月10日からの展示です。平成19年度に作成した復元模写と並べて見られるようにします。可視光線の分光分析により、画像全面に蘇芳と思われる赤色染料で染められていることがわかった画期的な復元です。ピンク背景もなんのその、非常に風格ある画像に仕上がっています。全体に褪色の激しい原本ですが、剥落は少なく、染料の影響で顔料まで変色した結果だとわかりました。原本との比較展示はなかなか実現できませんので、ぜひこの機会にご覧下さい。
 (4)洛東高校所蔵の山科古図は、大きな絵図なのでなかなか他所では展示できません。今回初公開ですので、こちらも必見です。

◆会  期  平成21年9月19日(土)~11月8日(日)
◆会  場  滋賀県立安土城考古博物館 企画展示室
◆開館時間  9:00~17:00(入館は16:30まで)
◆休 館 日  月曜日および10月13日(※ただし9月21日・10月12日・11月2日は開館)
◆入 館 料 大人660円(500円)、高大生500円(350円)、小中生350円(250円)、

◆主な展示資料(◎は重要文化財、△は市町指定文化財)
            ・山科古図(京都府立洛東高等学校蔵)
            △甲州古城勝頼以前図(甲州市恵林寺蔵、信玄公宝物館保管)
            ・吉田郡山御城下古図(山口県文書館蔵)
            ・織田信長居館跡出土資料(岐阜市教育委員会蔵)
            ◎斎藤道三画像(岐阜市常在寺蔵)
            △近江国蒲生郡安土古城図(安土町ハ見寺蔵)
            ・織田信長画像(安土町ハ見寺蔵・安土町淨厳院蔵)
            ・安土城跡出土資料(滋賀県教育委員会蔵)
            ・観音寺城跡出土資料(当館蔵)

◆関連行事 *記念講演会「戦国の城下町 信長の城下町」
        日 時  11月3日(祝) 午後1時30分~3時
        講 師  仁木 宏(大阪市立大学教授)
      *博物館講座「吉川氏の城と権力」
                日 時  9月20日(日) 午後1時30分~3時
          ★すみません、もう終わってしまいました:汗
        講 師  木村信幸氏(広島県教育委員会指導主事)
      ※会場はいずれも当館2階セミナールーム
              定員140人 当日受付先着順

◆展示のみどころ    戦国大名の中から毛利氏・北条氏・武田氏を、寺社勢力からは山科本願寺などをとりあげ、これまでほとんど公開されていない絵図や、最新の調査成果を一堂に公開し、さらに近江の戦国期を代表する観音寺城・安土城の最新調査成果を含むこれまでの調査成果を総括して展示・公開します。

◆問い合わせ先 滋賀県立安土城考古博物館 
          〒521-1311 滋賀県蒲生郡安土町下豊浦6678
          Tel 0748-46-2424   Fax 0748-46-6140
                    E-mail:gakugei@azuchi-museum.or.jp
                    URL     http://www.azuchi-museum.or.jp/

以上

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2009.9.23  中世「山の寺」見学会・研究会の御案内

仁木宏様よりいただいたメールをご紹介させていただきます。

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みなさんへ
 2009年10月3日(土)~5日(月)、滋賀県米原市で、山寺サミット、ならびに「山の寺」科研の見学会、研究会が開催されます。詳細は添付ファイルを参照ください。
 なお、山寺サミットについては、下記のHPも参照ください。http://www.city.maibara.lg.jp/index.php?oid=7408&dtype=1000&pid=300

(以下、添付ファイルです)
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「山の寺」科研 2009年度 第2回 研究会・見学会 要項   2009.9.21

 科研費基盤研究(B)「日本中世における「山の寺」(山岳宗教都市)の基礎的研究」(URL=http://ucrc.lit.osaka-cu.ac.jp/niki/yamanotera/index.html 、2008~2011年度、研究代表者=仁木宏)では、年3~4回、日本各地の「山の寺」遺跡を見学するとともに、最新の「山の寺」研究の内容を交流・紹介するための研究会を開催しています。
 今回は、滋賀県にお邪魔し、「山寺サミット」のイベントに参加するとともに、研究会を開催します。
 興味をお持ちの方はどなたでも参加できますので、要項を参照の上、下記メールアドレスまで参加希望日程を至急、御連絡ください。

★参加を希望される方は、以下のEメール・アドレスまで、名前、所属、参加日程(予定)を知らせてください。
★最下欄のフォームを使ってください。
    yamanotera_mail@yahoo.co.jp (山の寺科研 事務宛)

 *部分参加、日帰りでもかまいません。
 *1日目のバス(研究者用)は定員40名です。先着順ですので早めに申し込みください。

 日程;2009年10月3日(土)~5日(月)

◆第1日(10/3)
◆第2日(10/4)
  *第1日、第2日の詳細は、別ファイルの「山寺サミット」の案内を参照ください。
  *第1日の講演会・イベント会場は、京極氏館・上平寺城下町跡の至近です。
  *第2日の夕刻、米原駅界隈で懇親会を予定しています。
  *宿舎は、米原駅周辺にはほとんどありません。彦根駅や長浜駅周辺がお薦めです。
各自で予約ください。

◆第3日(10/5)
研究会  9:00~15:00
会 場  米原区会議所
米原市米原678
米原駅東口から徒歩5分
※右地図参照

報 告 (タイトルは仮題のものもあります)
  9:00~ 9:40 櫻井信也氏(古代の山林寺院、崇福寺、比良山系)
  9:40~10:20 福永清治氏(野洲市教育委員会)「近江湖東の山寺の平坦面群の展開」  
  10:30~11:10 竹内吉史氏(愛荘町立歴史文化博物館)(金剛輪寺の発掘・測量調査)
  11:10~11:50 高岡徹氏(富山県立図書館)「越中の『山の寺』について」

  13:00~13:40 阿部来氏(勝山市教育委員会)「地籍図、地域とのつながりからみた白山平泉寺」
  13:40~14:20 山村亜希氏(愛知県立大学)「『山の寺』の景観と地形について」
  14:20~14:50 仁木 宏(大阪市立大学)「『山の寺』データベースについて」

★参加申込フォーム
   名前 (     )
   所属 (     )
   Eメールアドレス (     ) *以後、連絡はEメールのみで行います

   参加日程  10/3 見学会       参加(バス乗車限定) 不参加
               講演会・イベント  参加  不参加
           10/4  シンポジウム    参加  不参加
                懇親会       参加  不参加
           10/5  研究会       参加  不参加

★各種問い合わせは、yamanotera_mail@yahoo.co.jp (山の寺科研 事務宛)までお願いします。

★「山の寺」科研、今年度の予定
  2009年11月26~28日 福岡県ないしその周辺
以上。

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2009.9.21 有賀眞澄氏【反魂化相展「光象群」】・・・拝見してきました!

20090920aligaa 20090920aliga 有賀眞澄氏【反魂化相展「光象群」】・・・、素敵な空間でした。私は有賀さんのオブジェがとても好きなのですが、この空間ではたっぷりそれを堪能させていただきました。

 写真一枚目は入って最初に目にするオブジェです。二枚目は入口ドアの横に貼ってあった会場内の順路の説明です。携帯で撮らせていただきました。

 最近の有賀さんの作品には宗教的な匂いがします。仏教なのですが、それが西洋絵画的になされていて、しかもチベット仏教を思わせる・・・、こう書いてしまうとまたイメージを限定してしまうので読み飛ばして下さい。でも、そういう美的な神秘なそして硬質の世界です。

 会場内で綿密に作品と取り組んでシャッターを押している男性がいられたので、画集とかの準備でプロのカメラマンを頼まれたのかと思い、聞いてみましたら、違うとのこと。好きに撮っていいのだと言われ、カメラを持参しなかったことを悔やみました。有賀さんも、「なあ~んだ。持ってくればよかったのに・・・」と。また一月に開かれるというので、そのときは・・・と思います。

 作品を撮ったら、それだけでもう「芸術」。写真はともすると被写体に寄り掛かったり、作品を「盗む」行為になりかねないので、最近は滅多にカメラを持ち歩きません。でも、有賀さんの作品は撮らせていただきたいですね・・・。一月に挑戦です!!

 有賀さんの友人の方が撮って「フォト蔵」サイトに載せていられると、アドレスを伺ってきました。ここにリンクを貼らせていただこうと思って見ているのですが、手書きのアドレスで、どこか読み違っているらしく、まだつながりません。成功したらご紹介させていただきますね。

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2009.9.19 革嶋氏館(京都市)発掘調査現説の御案内

仁木宏様よりのメールを転載させていただきます。

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みなさんへ
 京都市西京区の革嶋氏館跡が住宅開発されることになり、添付ファイルのとおり、現地説明会が開催されます。
 『革嶋家文書』(京都府立総合資料館架蔵)で知られる革嶋氏の居館については、近世絵図をもとに福島克彦氏の研究によって現地比定され、その広がりが推定されてきましたが、これまで本格的な発掘調査がなされたことはありませんでした。
 今回、その南端部分が開発にかかり、発掘調査したところ、室町時代の堀(幅の広い立派なもの。近世絵図には描かれていない)、井戸(石積み)、集石遺構(建物の基礎?)、柵、ならびに近世の堀(近世絵図に一致)などが発見されました。決して面積の広い現場ではありませんが、今後、館の全体構造を考えてゆくにあたり、貴重な成果になると考えられます。

 発掘担当の方からは一人でも多くの方に見学いただきたいとお聞きしておりますので、みなさんにお知らせします。
 なお、現場は9月中には閉めて、業者に引き渡す予定だそうです。

●参考文献
  福島克彦「乙訓・西岡の城館と集落」 ・同「革嶋城」。
       いずれも中井均・仁木宏編『京都乙訓・西岡の戦国時代と物集女城』文理閣所収。
  仁木宏『戦国時代、村と町のかたち』山川出版社

■添付ファイル(PDF)の内容
     場所: 京都市西京区川島玉頭町
     日時: 9月26日(土) 10:00~12:00(小雨決行)
     問合せ先: 現場事務所
              090-3995-3936(担当 加納)
             財団法人京都市埋蔵文化財研究所
              415-0521

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2009.9.19 有賀眞澄氏【反魂化相展「光象群」】のお知らせ・・・明日までです!!

001 有賀眞澄さんが渋谷で【反魂化相展「光象群」】を開かれています。以下、詳細をお知らせさせていただきます。

 有賀眞澄さんの作品は繊細緻密で不思議です。なんとも形容できなくて、いつも言葉の限界を感じてしまうのですが、惹かれる!の一言です。もっと早くお知らせすべきでしたが、明日までです。遅くなって済みません。

■有賀眞澄【反魂化相展「光象群」】

光を踏み切り木を揺する流身の荘厳
さあおいでわたしはここにいない

日時: 9月15日(火)~20日(日)
    11:00~19:00(最終日17:00)
場所: ギャラリー ルデコ5
     渋谷区渋谷3-16-3 5F
     03-5485-5188
     http://www.tacji.com/masumi/

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2009.9.18 福島泰樹氏主宰「月光の会」から、『文藝 月光』が創刊されました!!

032福島泰樹先生主宰の「月光の会」から『文藝 月光』が創刊されました。

 これは以前『季刊 月光』として刊行されていたものの第三次版となります。今回新たに勉誠出版社からの刊行となって名称が改まりました。編者には福島先生の他、立松和平氏が加わっていられます。

 冒頭「創刊の辞」から、福島先生の熱い言葉を引用させていただきます。

 昭和という時代の終焉を間近に控えた一九八八年二月五日、私は文藝季刊雑誌「月光」創刊号巻頭に、「月光の辞」をしたためている。

 それは、六〇年代末から、八〇年代末まで二十年間に及ぶ、短歌前衛を担った私自身の運動の総括であり、同時に「月光の会」創設への決意表明であった。商業主義と無縁の一短歌結社の一機関紙(誌)に過ぎない「明星」が、明治という文芸復興期のアンヴィヴァレンツに富んだあの時代を担い、果敢にリードしたではないか。評論、時評を充実させよう。海外詩を紹介しよう。斬新な短編小説も欲しい。創刊号は、話題を呼び、五千部は品切れ、二千部を新たに増刷した。

 以来、二十年。昭和は、平成に移行し、二十世紀は長大な時代の幕を落とした。中原中也「サーカス」の一節ではないが、「幾時代」かがあって、「茶色い戦争」はあったのである。平成の子は成人の春を慶賀し、昭和の子は八十三歳のゆく春を迎えた。再びの大恐慌の時代へと、時間は永劫に回帰してゆく。

 時は移ろい、人も変わってゆく。しかし、どのように時は移ろいゆこうとも、人は言葉を棄てることはできない。言葉の限界に絶望し、逆に言葉から見放されたとしても、猶である。(中略)

 「月光」よ、「綜合文藝誌を復興せよ!」 いまここに、勉誠出版社長池嶋洋次氏の申し出を受け、「月光」創刊以来の太田代志朗、竹下洋一、そして新たに強靭なる両翼、作家立松和平、評論家黒古一夫両氏の編集参画を得、第三次季刊「月光」を開帆する。

 一九八八年の『季刊 月光』のとき、私はまだ会員ではありませんでした。ちょうど早稲田文学で新人賞をいただいた頃で、審査員のお一人でいらした福島先生からのお電話で、「創刊号の巻頭インタビューに同行して写真を撮って欲しい」とお話をいただいたのが私の会とのご縁の最初です。それは坪野哲久先生のインタビューでした。短歌世界に馴染みのなかった私は坪野先生を存じ上げなかったのですが、福島先生は「いい風貌をしてるから。行けばきっと貴女の気に入る」と電話の向こうでおっしゃられたのです。

 白い顎髭を長くのばしふさふさした白髪の坪野先生は、仙人さながらの風貌そのままに深い、この世にこんな方がいらしたのかと思われるような賢者・賢人といった方で、それもそのはず東洋哲学を修められた方でした。もちろん、写真家として、こんな絵になる方はいない、と内心唸ってしまいました。坪野先生のお話になると話がそれてしまいますから止めますが、坪野先生のお歌は凄い!!です。歌集に『碧眼』などがお有りです。この巻頭インタビューで、福島先生は坪野先生のご存在を再び世に知らしめられたのでした。

 そして、同時に「月光の会」の設立。でも、まだ私は会員ではなく脇からそういう流れを拝見しつつ、熱さを共有させていただいていました。『季刊 月光』には第三号から掌編小説で参加させていただいています。会員にならせていただいたのはずっと後で、短歌は書かなくていいという条件で、書き溜めていた小説「白拍子の風」を載せていただくことになりました。それから、「寺院揺曳」という、鎌倉のとある廃寺を舞台にしたエッセイを連載させていただき、その後「紫のうたのかがみ」という中世和歌史のような連載・・・と、福島先生には感謝してもし尽くせない「場」を頂いて成長させていただきました。源氏物語写本の研究のように的が絞られてきた経緯の中心はこれら連載があったからです。

 私は福島先生の「熱い言葉」が好きです。『季刊 月光』のときの巻頭「月光の辞」は今思い出してもロマンに溢れ、文学の原点のように思っています。先生は戦っていられるのです。心の中で血を噴きながら「ロマン」を死守されようとしています。それにこちらが奮い立たせられるのです。『文藝 月光』も素敵です。書店販売されていますのでどうぞご覧になってください。

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2009.9.17 小野小町や和泉式部と似た伝承をもつ丹後局・・・安達盛長妻の周辺をめぐって 2(まとめ)

057_2 目下私が疑問を抱いている丹後局に関する問題点を並べてみます。

●薩摩氏の祖である子息島津忠久は頼朝のご落胤

●頼朝の弟で義経の兄の範頼の妻は、安達盛長の娘

●丹後局は門脇少将の娘で、比企尼の養子だった・・・

 以上3点が、この問題に関する年譜を作っていて浮かび上がった問題点です。

 結論を列挙させていただきます。●島津忠久が産まれたのは頼朝の伊豆流刑時代なので年代的に有り得ない。●丹後局が盛長と結婚したのはずっと後なので、二人の間に産まれた娘が範頼妻となるのは不自然。●丹後局が平教盛の娘というのは年齢的に無理ではないが、範頼妻に教盛の娘がいるので、盛長娘(=丹後局娘)が範頼妻になっているから、二人が同一視されて、その母だから教盛の娘となったのではないか。

 以下、詳細をまとめました。

■島津氏系の伝承について、
 ・ 頼朝と丹後局の関係を政子が嫉妬し、身ごもった丹後局を追放して、
      その為に住吉大社で忠久を産んだ・・・とあるので、
   鎌倉幕府成立以降のこととなり、おかしい。
 ・ 忠久は『山槐記』に治承3年(1179)春日祭使の行列に供奉しており、
      この頃にはもう13~14歳だったと思われる。
      よって、丹後局が忠久を産んだ時期は頼朝の伊豆流刑時代であり、
      丹後局は在京だった。
   つまり、島津氏系図の伝承は成り立たない。
 ・ 忠久は頼朝の伊豆流刑時代に京で惟宗氏の子として産まれ、
      摂関家に仕えていたのを、母丹後局の下向に伴って頼朝に仕えるようになった。

■源範頼の妻が安達盛長女(景盛妹)という説について
 ・ 範頼は頼朝の弟で、義経の兄だから、年代的に頼朝の世代。
 ・ 盛長と丹後局が結婚するのは鎌倉幕府成立以降として娘が産まれても、
   範頼と結婚する頃は10歳位でしかない。
   よって、範頼室に盛長丹後局夫妻の娘がなるのは不可能。
 ・ しかし、比企郡吉見には、範頼が住んだとされる吉見御所があり、
   これは丹後局の縁で比企尼が提供したとされるが、
   実は、丹後局には忠久の他にもう一人女子がいて、
      彼女が範頼室になったのではないか。
      いわば安達盛長には妻の連れ子である。
   それが系図に盛長女として範頼室に記されている所以ではないか。
 ・ 年齢的に範頼室となった丹後局女は、河越氏に嫁いだ丹後局の妹の子で
   義経室となった女性と近い年齢ではないだろうか。
 ・ よってこの女性は景盛の妹ではなく、異父姉にあたる。

■丹後局が「門脇少将女」とされることについて
 ・ 範頼は藤原範季の養子だった。
 ・ 範季の娘は後鳥羽天皇妃の修明門院。
 ・ 後鳥羽天皇の養育係に平教盛女がいる。
 ・ 福井県の石見吉見氏の伝承に、平通盛女の日吉御前が範頼室とある。
 ・ しかし年齢的に日吉御前は通盛女では無理なので、通盛の父の教盛女とする
   と整合性がつく。
 ・ もしこの教盛女が後鳥羽天皇の養育係の女性と同一人物としたら、
   範頼と知り合う機会もあっただろうし、室とすることも可能。
   すなわち、範頼室の一人は教盛女だったとなる。
   この女性がもう一人の範頼室である丹後局女と混同され、
   彼女が景盛の姉にあたることから、
   景盛の母(丹後局)=教盛女となっていったのではないか。
 ・ それを記す『尊卑分脈』は室町時代の成立なので、
   それまでの間に混同されて伝わったのだろう。

■参照させていただいたサイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E5%BE%8C%E5%86%85%E4%BE%8D

http://adachi-ke.hp.infoseek.co.jp/toomoto_3-1.html

http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keijiban/yosimi1.htm

http://washimo-web.jp/Report/Mag-Tango.htm

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yasuda-motohisa-adachi.htm

http://blog.livedoor.jp/ak0503hr0406/archives/50639782.html

■参考文献
福島金治『安達泰盛と鎌倉幕府』(有隣新書)

■写真は京都の紫式部の邸宅があった跡という蘆山寺で撮りました。

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2009.9.12 小野小町や和泉式部と似た伝承をもつ丹後局・・・安達盛長妻の周辺をめぐって 1

90912hosea まず最初に、写真は今日撮った吉祥寺の祭礼での一コマです。吉祥寺パルコの路地を曲がったら白馬がいるのでびっくり。携帯で撮ったのでよく撮れなくて残念ですが、素敵でした。祭礼のパレードか何かに神社の宮司様が乗られるとか・・・、それを待っている状況でした。

 連載小説「花の蹴鞠」は第五回を書き終わってほぼ鎌倉を抜け、次回から京都が舞台に入るところですが、私の中ではまだ鎌倉の「盛長妻・・・丹後局」がマイブーム中。今週はほぼこの件で燃えました。だいたいのメドがたったので書いておこうと思います。

 結論として見えてきたのは、子息の島津忠久や安達景盛が頼朝のご落胤説があるように、丹後局という方は相当魅力的ある女性だったようですね。それも、賢母とか賢夫人という主の女性でなく、女としての華やかな魅力。小野小町も和泉式部もその魅力ゆえに伝承が独り歩きして、事実かどうか別として各地に「ここを訪れた」などという碑がある・・・。丹後局にもそれがありました。

 私としては「花の蹴鞠」で頼朝の乳母比企尼の長女として、頼朝とは幼馴染みの関係というふうに筋を進めてきましたから、ここにきて、実は比企尼の養子だったとか、様々いわれても、困った・・・としかいいようのない状況。これは断固として調べなければという思いに駆られた次第です。

(この項、書きかけです。)

 12日に書きかけのまま日が経ってしまいました。今日はもう17日です。読み進んでこられて中断のままになってしまった方には申し訳ございません。

 改めて丹後局に関して問題をもった経緯を簡単に記させていただきます。私は『吾妻鏡を読む会』に参加させていただいているのですが、ちょうど治承6年の政子が頼家を出産するあたりにさしかかっていて、そこに政子の陪膳役をする「丹後局」が出てきます。

 「花の蹴鞠」で盛長妻として描いている女性は、『吾妻鏡』では「丹後内侍」です。で、ずっと丹後内侍と思っていて、『吾妻鏡』に登場するのは文治年間に入ってからです。が、もしかして二人は同一人物?、と思ったのが丹後局問題にかかわる最初でした。調べてみましたが、研究者さんの間では決着がついていないようでした。

 で、私なりに年表をつくって追ったところ、比企尼の長女丹後内侍=丹後局とみていいようです。年譜的に問題ありませんでした。それで「花の蹴鞠」(4)ではあのような展開にしてみました。(カテゴリー「花の蹴鞠」にアップしてあります。)

 そんなことから『吾妻鏡』の会で丹後局の話になったとき、会員のある方から、「箱根から下りてくる道に寒川尼が丹後局を呼び寄せて、そこから時々伊豆にいる頼朝に会いに行かせたという伝承の寺院があるわよ。丹後局の碑もたってるわ」というお話。

 伊豆時代の頼朝とは絶縁のまま、鎌倉幕府を開いた頼朝と再会・・・という内容で小説を進めてきた私には驚きの展開。それが事実なら書きなおさなければなりません。困った・・・と思いつつ、これは調べなければと奮起しました。

 と、そこにまた峰岸先生からのメールで、丹後局は『尊卑分脈』では「門脇少将」の娘とあるというのです。実は平清盛の弟の教盛の娘で、いつの頃か比企尼の養子になったようだと・・・

 それも困ります。それでは「花の蹴鞠」(4)に書いた頼朝と丹後局の筒井筒のような幼児体験が成り立たなくなりますものね。

 で、徹底的に調べました。といっても、図書館へ行っている時間がありませんので、ネットでですが・・・

 長くなりますので、結論を次の記事にまとめます。面白い展開です。それにしても、「美人」といわれる女性はあることないこと真しやかに語られて、方々に伝承が残されて・・・となると、丹後局もよほど魅力的な女性だったのですね。

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2009.9.6 実践女子大学公開講座【「源氏物語」へのアプローチ】のお知らせ

179 吉祥寺の紀伊国屋書店で雑誌を買ったら、入れていただいたショッパーに挟み込まれていたチラシが実践女子大学の『源氏物語』のシンポジウムの内容でしたので、お知らせさせていただきます。

■「源氏物語」へのアプローチ■

●講演会
10月31日(土) 13:30~15:00
講師:池田三枝子氏
演題:「源氏物語と万葉集―誘う女・追う女―」
場所:実践女子大学・本館4階AVホール

●シンポジウム「源氏物語の古筆切」
11月21日(土) 13:30~17:00
パネラー:今西祐一郎氏・田中登氏・池田和臣氏・別府節子氏
司会:横井孝氏
場所:実践女子大学・本館4階AVホール

●「源氏物語の雅楽」
11月28日(土) 13:30開場 14:00開演 15:30終演
講師:田中英機氏
演奏と舞:芝祐靖氏・怜楽舎
演目:「男踏歌」「源氏物語の女楽」ほか
場所:実践女子大学・香雪記念資料館1階大教室

*聴講無料・当日受付、だそうです。
*実践女子大学はJR中央線日野駅下車。 042-585-8880

■国文学研究資料館で実践女子大所蔵の古筆切の展示をされるそうです。
11月9日(月)~23日(日) 立川からモノレールで高松駅下車。

*写真は、小野の髄心院で撮った胡蝶の舞の屏風です。

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