2009.9.18 福島泰樹氏主宰「月光の会」から、『文藝 月光』が創刊されました!!
福島泰樹先生主宰の「月光の会」から『文藝 月光』が創刊されました。
これは以前『季刊 月光』として刊行されていたものの第三次版となります。今回新たに勉誠出版社からの刊行となって名称が改まりました。編者には福島先生の他、立松和平氏が加わっていられます。
冒頭「創刊の辞」から、福島先生の熱い言葉を引用させていただきます。
昭和という時代の終焉を間近に控えた一九八八年二月五日、私は文藝季刊雑誌「月光」創刊号巻頭に、「月光の辞」をしたためている。
それは、六〇年代末から、八〇年代末まで二十年間に及ぶ、短歌前衛を担った私自身の運動の総括であり、同時に「月光の会」創設への決意表明であった。商業主義と無縁の一短歌結社の一機関紙(誌)に過ぎない「明星」が、明治という文芸復興期のアンヴィヴァレンツに富んだあの時代を担い、果敢にリードしたではないか。評論、時評を充実させよう。海外詩を紹介しよう。斬新な短編小説も欲しい。創刊号は、話題を呼び、五千部は品切れ、二千部を新たに増刷した。
以来、二十年。昭和は、平成に移行し、二十世紀は長大な時代の幕を落とした。中原中也「サーカス」の一節ではないが、「幾時代」かがあって、「茶色い戦争」はあったのである。平成の子は成人の春を慶賀し、昭和の子は八十三歳のゆく春を迎えた。再びの大恐慌の時代へと、時間は永劫に回帰してゆく。
時は移ろい、人も変わってゆく。しかし、どのように時は移ろいゆこうとも、人は言葉を棄てることはできない。言葉の限界に絶望し、逆に言葉から見放されたとしても、猶である。(中略)
「月光」よ、「綜合文藝誌を復興せよ!」 いまここに、勉誠出版社長池嶋洋次氏の申し出を受け、「月光」創刊以来の太田代志朗、竹下洋一、そして新たに強靭なる両翼、作家立松和平、評論家黒古一夫両氏の編集参画を得、第三次季刊「月光」を開帆する。
一九八八年の『季刊 月光』のとき、私はまだ会員ではありませんでした。ちょうど早稲田文学で新人賞をいただいた頃で、審査員のお一人でいらした福島先生からのお電話で、「創刊号の巻頭インタビューに同行して写真を撮って欲しい」とお話をいただいたのが私の会とのご縁の最初です。それは坪野哲久先生のインタビューでした。短歌世界に馴染みのなかった私は坪野先生を存じ上げなかったのですが、福島先生は「いい風貌をしてるから。行けばきっと貴女の気に入る」と電話の向こうでおっしゃられたのです。
白い顎髭を長くのばしふさふさした白髪の坪野先生は、仙人さながらの風貌そのままに深い、この世にこんな方がいらしたのかと思われるような賢者・賢人といった方で、それもそのはず東洋哲学を修められた方でした。もちろん、写真家として、こんな絵になる方はいない、と内心唸ってしまいました。坪野先生のお話になると話がそれてしまいますから止めますが、坪野先生のお歌は凄い!!です。歌集に『碧眼』などがお有りです。この巻頭インタビューで、福島先生は坪野先生のご存在を再び世に知らしめられたのでした。
そして、同時に「月光の会」の設立。でも、まだ私は会員ではなく脇からそういう流れを拝見しつつ、熱さを共有させていただいていました。『季刊 月光』には第三号から掌編小説で参加させていただいています。会員にならせていただいたのはずっと後で、短歌は書かなくていいという条件で、書き溜めていた小説「白拍子の風」を載せていただくことになりました。それから、「寺院揺曳」という、鎌倉のとある廃寺を舞台にしたエッセイを連載させていただき、その後「紫のうたのかがみ」という中世和歌史のような連載・・・と、福島先生には感謝してもし尽くせない「場」を頂いて成長させていただきました。源氏物語写本の研究のように的が絞られてきた経緯の中心はこれら連載があったからです。
私は福島先生の「熱い言葉」が好きです。『季刊 月光』のときの巻頭「月光の辞」は今思い出してもロマンに溢れ、文学の原点のように思っています。先生は戦っていられるのです。心の中で血を噴きながら「ロマン」を死守されようとしています。それにこちらが奮い立たせられるのです。『文藝 月光』も素敵です。書店販売されていますのでどうぞご覧になってください。