2009.9.12 小野小町や和泉式部と似た伝承をもつ丹後局・・・安達盛長妻の周辺をめぐって 1
まず最初に、写真は今日撮った吉祥寺の祭礼での一コマです。吉祥寺パルコの路地を曲がったら白馬がいるのでびっくり。携帯で撮ったのでよく撮れなくて残念ですが、素敵でした。祭礼のパレードか何かに神社の宮司様が乗られるとか・・・、それを待っている状況でした。
連載小説「花の蹴鞠」は第五回を書き終わってほぼ鎌倉を抜け、次回から京都が舞台に入るところですが、私の中ではまだ鎌倉の「盛長妻・・・丹後局」がマイブーム中。今週はほぼこの件で燃えました。だいたいのメドがたったので書いておこうと思います。
結論として見えてきたのは、子息の島津忠久や安達景盛が頼朝のご落胤説があるように、丹後局という方は相当魅力的ある女性だったようですね。それも、賢母とか賢夫人という主の女性でなく、女としての華やかな魅力。小野小町も和泉式部もその魅力ゆえに伝承が独り歩きして、事実かどうか別として各地に「ここを訪れた」などという碑がある・・・。丹後局にもそれがありました。
私としては「花の蹴鞠」で頼朝の乳母比企尼の長女として、頼朝とは幼馴染みの関係というふうに筋を進めてきましたから、ここにきて、実は比企尼の養子だったとか、様々いわれても、困った・・・としかいいようのない状況。これは断固として調べなければという思いに駆られた次第です。
(この項、書きかけです。)
12日に書きかけのまま日が経ってしまいました。今日はもう17日です。読み進んでこられて中断のままになってしまった方には申し訳ございません。
改めて丹後局に関して問題をもった経緯を簡単に記させていただきます。私は『吾妻鏡を読む会』に参加させていただいているのですが、ちょうど治承6年の政子が頼家を出産するあたりにさしかかっていて、そこに政子の陪膳役をする「丹後局」が出てきます。
「花の蹴鞠」で盛長妻として描いている女性は、『吾妻鏡』では「丹後内侍」です。で、ずっと丹後内侍と思っていて、『吾妻鏡』に登場するのは文治年間に入ってからです。が、もしかして二人は同一人物?、と思ったのが丹後局問題にかかわる最初でした。調べてみましたが、研究者さんの間では決着がついていないようでした。
で、私なりに年表をつくって追ったところ、比企尼の長女丹後内侍=丹後局とみていいようです。年譜的に問題ありませんでした。それで「花の蹴鞠」(4)ではあのような展開にしてみました。(カテゴリー「花の蹴鞠」にアップしてあります。)
そんなことから『吾妻鏡』の会で丹後局の話になったとき、会員のある方から、「箱根から下りてくる道に寒川尼が丹後局を呼び寄せて、そこから時々伊豆にいる頼朝に会いに行かせたという伝承の寺院があるわよ。丹後局の碑もたってるわ」というお話。
伊豆時代の頼朝とは絶縁のまま、鎌倉幕府を開いた頼朝と再会・・・という内容で小説を進めてきた私には驚きの展開。それが事実なら書きなおさなければなりません。困った・・・と思いつつ、これは調べなければと奮起しました。
と、そこにまた峰岸先生からのメールで、丹後局は『尊卑分脈』では「門脇少将」の娘とあるというのです。実は平清盛の弟の教盛の娘で、いつの頃か比企尼の養子になったようだと・・・
それも困ります。それでは「花の蹴鞠」(4)に書いた頼朝と丹後局の筒井筒のような幼児体験が成り立たなくなりますものね。
で、徹底的に調べました。といっても、図書館へ行っている時間がありませんので、ネットでですが・・・
長くなりますので、結論を次の記事にまとめます。面白い展開です。それにしても、「美人」といわれる女性はあることないこと真しやかに語られて、方々に伝承が残されて・・・となると、丹後局もよほど魅力的な女性だったのですね。