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2009.10.31 源光行の『平家物語』編纂への係わりについて・・・執筆中の『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』遅延の理由と新たな展開!

58momiji090 源氏物語千年紀記念の年に向けて頑張って書いていた源光行の『河内本源氏物語』校訂作業に対する原稿、『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』ですが、完成が遅れに遅れて、まだ書きあげていません。

 ホームページには、【2008年刊行】と銘打ったり、HP自体のリニューアルを宣言してなんとかこの原稿を世に出して、光行の真摯な思いを皆様に知っていただこうと思っていたのですが、どうしても筆が進まないまま夏が過ぎて、2009年の今年ももう終わろうとしています。

 が、ここに来て、「何故、筆が進まないか」がわかりました。まだわかっていなかった真実があったのです。書こうとして書けなかったのは、書くべき内容にまだ思いが至ってなかったからでした。

 「書く」って不思議です。書こうとしている世界を全面的に把握しているときは、どんな状況でもスラスラ書けるのですが、自分でも気がつかない歴史の闇を抱えていると、どんなに意思を強くもって書こうとしても、どうしても筆が進まないのです。そのことが、また、『紫文幻想』の進行上で起きていました。

 それが、先週あたりから、突如として、「これを書かなければいけなかったんだ」と思う事態に遭遇、一気にそれまで書けなかった光行の行動がわかってきて「書ける」気分に突入しています。それを、昨夜徹夜して、ホームページのTOPページにまとめました。

 以前から、光行が『平家物語』の編纂に携わったらしいことは言われてきました。が、それがどのくらいの係わりだったかまでは解明されていません。

 『紫文幻想』を書いていて、光行には不可解な事実が頻繁にあります。例えば、何故唐突に帰洛したか、何故承久の乱のときに鎌倉を裏切って後鳥羽院方についたか・・など。

 それらが皆、『平家物語』編纂事業に携わったからとすると、物凄く整合性がでます。不可解がすとんと私の中で腑に落ちました。光行はただ単に文章を提供した程度でなく、深く深く、『平家物語』編纂の根本のところで関わっていたのです。

 当時、時代は鎌倉が中心でした。後鳥羽院でさえ、鎌倉幕府の威信を恐れていました。その鎌倉にとって「平家」は敵です。その平家を追悼するなどもっての外です。そのために編纂事業は鎌倉の目を盗んで、極秘裏に進められました。おそらく、光行はその根幹にいたために、闇の混沌に没したのです。

 それが確信できたのは、連載中の小説「花の蹴鞠」で、登場人物たちの年譜を作成したときです。それまで『平家物語』の編纂は『新古今和歌集』の大事業が終わってからはじめられたとばかり思っていました。が、二つの事業は同時並行して成されていたのです。いわば、『新古今和歌集』は表舞台。『平家物語』は裏舞台です。華やかな『新古今和歌集』の蔭に隠れて、極秘裏に『平家物語』の編纂は進められたのでした。『新古今和歌集』ダミー説とまで言ったら言い過ぎになるでしょうけれど、私にはそれ位の時代の意思がそこにはあった気がします。

 『紫文幻想』をこの線で早急にまとめればいいのですが、目下のところ「花の蹴鞠」に集中していますので、まずこの小説にこれらを取り入れて書きます。こんなふうなことをHP上に書きましたので、興味がある方にお読みになっていただけたら幸いです。

織田百合子HP http://www.odayuriko.com/

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2009.10.27 高橋淑香さんの書展 【世にありて】・・・於銀座Gallery Togeisha

194  知人の高橋淑香さんが銀座で書の個展を開かれているので拝見させていただいてきました。彼女は国文学の出身で、歌を作られ歌集もだされています。

 と、そんなふうな、書とは関係のない事で書きだしたのには訳があって、今日の個展会場で、私は「文学に生きる人」という彼女を強く感じたからです。書も歌も自分追及の証なんです。

 私は書の世界はよく知りませんが、今まで書道展会場へは「作品」を拝見しに行くものとばかり思っていましたし、そう感じて帰っていました。

 それが、今日は違ったのです。それは、作者である彼女がそこにいて、制作過程をじっくり伺うことができたからでしょう。今までは、グループ展の広い会場で、作者の方とお会いすることもなく拝見して帰るだけがほとんどでしたから、お話を聴く機会がなかったのです。なので、作品を拝見して、ああ凄いなあ、とか、わあ、お上手! みたいに客観的に感動するだけでした。今日は、じかに制作にかける思いを伺えて、そして、個展というある意味一種の起承転結ある本のような構成空間でしたから、それはそれは為になりましたし、なるほどな、書の個展はただ作品発表の場というのではなく、如何に本来の自分に到達するかの修練なのだと納得し、いい一日でした。

 中で、これはブログに書かせていただきたいと思う作品がありました。それをご紹介させていただきます。本来なら彼女の作品を撮って写真を載せさせていただけたらよかったのですが、例によって臆病な私は「携帯で撮っていい?」が切り出せずに帰ったのです。で、気になられた方は是非会場に足を運ばれてください。31日(土)までですから。

 それは、冒頭の写真「浮舟の碑」(京都・宇治川べり)と関係のある書でした。淑香さんは、『源氏物語』の「夢浮橋」巻から、浮舟の言葉を一幅の作品に書きあげられていたのです。それは、浮舟が生きていると知った薫の手紙を見ての浮舟の言葉・・・。周囲の者に返事をするよう責めたてられての苦しい浮舟の本心が語られるところです。淑香さんが、目録に円地文子さん訳を添付してくださいましたので、引用させていただきます。

 気分がとても悪いので、しばらく休んでから御返事いたしましょう。昔のことを思い出そうにも、いっこう覚えておりません。『浅ましかった当時の夢物語』と仰せられるのも、不思議にどのような事なのか、まったく思い当たりません。少し落ち着きましたら、このお文の心などもわけが分ってまいりましょうが、今日はやはりお持ち帰り下さいまし。人違いでもございましたら、まことに相すまぬことですから

 もうお気づきと思いますが、ここは三島由起夫『豊饒の海』の最終章「天人五衰」の最後の最後の聡子の言そのものです。淑香さんはここが気になって気になっていられて、これを書きたいとはじめられて、でも、何枚書いても納得したものが書けずに、用意した料紙を使い果たしてもなお満足されずに紙を取り寄せられて、そうして書きあげられたのだそうです。ほとんど写経する思いで・・・と。

 そう、この写経する思いで、という淑香さんの言葉に私は驚きました。テレビで作品を仕上げるときの書道家のようすを拝見していますが、それは写経とは別世界に私には思えていました。何か、挑戦するといったような、エイッとばかりの勢いで(淡々と書かれている場合でも気魄を込める意味で・・・)、自身の力の最高出力といった感じに思えていました。

 が、写経というのはおのれを無にすることです。作品を仕上げるという観念すら失せさすことです。淑香さんも浮舟の書をはじめようとされたときに、最初から写経のようにしようと思ったわけではないと思います。とりかかっているあいだに、これは違う、これも違う、というふうに、自分のなかのこの言葉に対する思いが、書として一体化してできあがるまで、何度も何度も書き直しているあいだに、自分という思い=自我、が抜けて、「無」に到達されたのだと思います。

 この作品は、料紙が使われていますが、それは渋い紫(というより臙脂?)系のもので、全紙を購入されて半分に切ったものだそうです。それは、国宝『源氏物語絵巻』に倣ってのことと。国宝『源氏物語絵巻』は、他の絵巻と違ってサイズが小さめにできています。それは料紙を使って横につなげたものだから。国文学出身の淑香さんだからこその演出で、少しでも自分を浮舟の世界に近づけたかったからと伺いました。

 『源氏物語』はこんなふうに時空を超えて、女性が生きる道の模索の原典になっています。凄いことと思います。それから、淑香さんは使われたこの料紙に出会ったから「書きたい」と思ったそうで、他の料紙ではそうはならなかったと・・・。私も料紙に関しては格別の思い入れがあるので、彼女のこの感覚はわかります。古風な、とても素敵な料紙でしたし、料紙へのこだわりを伺って一層、私の浮舟の書への思いも深まりました。

 とにかく、深い思いの籠る素敵な作品でした。書家としての彼女自身は良寛さんを理想としているとのことで、他の「大きな字」の作品はそういう書風でしたが、浮舟の書にも良寛さんの「無」のような空白が感じられて、人としての到達境地は一つと思いました。

 いろいろな機会にたくさんの書の作品を拝見してはいますが、ほとんどが漢詩か現代詩の、立派か現代的かみたいな、「おのれを見せるもの」という感じで拝見してきました。書家の方の苦労も思わずに誤っていたと思いますが、それでも、淑香さんの浮舟ほどの内的な書風とは別と思います。その意味で、私は、これからも淑香さんにこの世界に挑戦していって欲しいと思います。頑張ってネ!!

■第七回 高橋淑香書展【世にありて】
       10月26日(月)~31日(土)
       11:00~18:30(最終日16:30)
   Gallery Togeisha 中央区銀座7-12-6 トキワビル5F
              03-6228-4288
             (銀座中央通り7丁目の「ライオン」の角をを曲がります)
              地下鉄銀座線「銀座」 A3出口

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2009.10.25 ハプスブルク展を観たあと、待望のロシア料理を・・・

O69mq 六本木の国立新美術館で開催中の【ハプスブルク展】を観に行きました。たまたま直前に美輪明宏さんがナビゲーターを務められた番組を観た影響で、主眼は三人の女性の肖像画、マリア・テレサ、王女マルガリータ、エリザベート・・・

 会場に入るなり、その内の二枚、マリア・テレサとエリザベートの肖像画がありましたので、じっくり、まじまじ観させていただきました。11歳のマリア・テレサ像はドレスの深い緑がそれはそれは素敵、エリザベート像は宝塚の『エリザベート』を思い浮かべながら・・・と、およそ芸術とは別観点の観方をして、それでも堪能。

 でも、なんだか変。何か忘れている・・・。何だったかしら。たしか二枚でなく、三枚だったけれど・・・と。

 その後、イタリア絵画とかドイツ絵画の部屋があって、忘れたころにその三枚目はありました。それはスペイン絵画の部屋。そう、ベラスケスの≪白衣の王女マルガリータ・テレサ≫です。王女マルガリータの肖像画は年を追うごとに複数書かれていて、私がこの王女様にお目にかかるのは二度目です。

 前回は仙台の宮城県美術館で開催された【ウィーン美術館展】での≪薔薇色の衣装のマルガリータ王女≫。この王女様の絵はテレビなどでその生涯とともに解説されて知っていましたが、特に好きとか観たいといった希望なく歩いて行ってその絵の前に立ちました。すると突然ぐっときて、なんだかとても王女様がいじらしく思えて、可愛くて、涙ぐみそうになって、感動したのです。絵に感動したのか、王女様の生涯を思ってなのか、それとも子供らしい可愛さになのか、わからないまま。

 今回も、マリア・テレサ、エリザベートと並ぶ三大女性の肖像画としての一枚、程度の興味しか持たずに、その絵の前に立ちました。すると、やはり突然胸が熱くなって、泣きたい気持ちに駆られて、感動したのです。

 今回はそこでぐっとこらえて理性をはたらかし、この感動の理由は何か、を考えました。理由は明白でした。ベラスケスだったからです。ベラスケスの絵には魂がこもっていて、それが王女様の人生をこちらに訴えさせ、愛くるしさも伝え、ともかく、画家ベラスケスの力がこちらに訴えるものを持っているからなのでした。前の二枚があるから、一層それが実感されました。芸術ってシビアですね。作品に魂が籠るかどうか、それはほとんど生まれながらにしての才能。どんなに上手に綺麗に描いても、訴えないものは訴えない・・・。明白なんです。文章も同じだと思うと大変です。

 写真は携帯で撮ったのであまりよく写っていませんが、その後に行った「バイカル」というロシア料理のお店の「赤かぶと鰊とポテトのミルフィーユ」という一品。赤い上段はお肉のように見えますが刻んだ赤かぶです。前々からこのバイカルに行ってみたかったのですが、ハプスブルク展を金曜日の夜間開館で観たおかげで、回ることができました。

 ロシア料理というと、ボルシチにピロシキ・・・と、まず浮かぶ有名な料理がありますが、レストランの一品ではまったく別の印象です。吉祥寺にも「カフェロシア」という素敵なロシア料理のお店がありますが、ここでもこの写真のメニューに似た前菜「毛皮のコートを着たニシン」があって、それはそれはおいしいんです。材料を細かく刻んで、重ねて、冷やして・・・、口に入れると複数の材料の味がとろけるようにミックスして、とても「ボルシチ・ピロシキ」の次元のお料理ではありません。どちらかというと、日本の懐石料理に近いと思います。手のかけ方、繊細さにおいて。

 ほんとういうと、メインディッシュに頼んだ「魚のハンバーグのホワイトソース風味」をご紹介したかったのですが、これはメニューを見ただけでおいしそうで出てくるのを待ち焦がれて、運ばれてくるや否やナイフを入れて切り分けて・・・、写真を撮るのを忘れたと気がついたときにはもう半分くらい頂いてしまっていました。と、それくらいおいしかったということなのですが、とにかく、ロシア料理の懐石料理風のおいしさをお伝えしたくて、今日はこの記事を書きました(笑)

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2009.10.22 矢部良明氏『中国陶磁の八千年 乱世の峻厳美・泰平の優美』から、中国陶磁についての思いを・・・

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写真は、東京国立博物館陶磁室長でいられる矢部良明氏の『中国陶磁の八千年 乱世の峻厳美・泰平の優美』(平凡社)です。

 私が中国陶磁に惹かれるようになったのは、東京国立博物館で観た1994年開催の「中国の陶磁」展からです。それまではあまり陶磁器に親しむ環境になかったものですから、ふつうに磁器よりも陶器の方が温かみがあって好き、と思っていました。

 が、この展覧会での中国陶磁の一級品を目の当たりにして、もう、磁器の魅力にとりつかれたのです。そして、ただ「磁器」というだけでなく、「中国の」磁器なのです。これはもう、胸のすく思いのする硬質感、シャープさ・・・、こう書いて思い出すだけでも血が騒いで胸がどきどきしてきます。

 その展覧会を主導された矢部良明氏・・・、その方のご著書ですから、書店でみつけたときは飛びつくような思いで購入しました。一般書ですが学術書タイプの大判で、500頁に近い厚さです!私が好きなのは染付以前の中国陶磁ですから、最初から全部読む意思はなく(済みません!)、好きな窯の頁を大事に大事に読み進んで、途中で放棄したままになってます。

 このご本は中国陶磁についての魅力をご自身の感想で記すのではなく、読んでいくとその流れの中で中国陶磁の歴史とそれぞれの産地の特色が理解できていくように構成されています。でも、矢部氏ご自身が、もう、中国陶磁に陶酔されていて、なので、その陶酔感にこちらが浸されるのです。中身は大著ですから触れずにおいて、「はじめに」から、矢部氏のエッセンスを引用させていただきます。

●私にとって最も大切なのは、比類のない中国陶磁のもつ崇高美そのもの
●人を近づけない荘重美と、人をうっとりさせる普遍美という、一見矛盾するような壮大なスケールを併せもつのが中国陶磁である。
●陶磁器は、現在まで絶えることのない最長最良の文化財なのだから、右の考察にあたって、人間の歴史に一本の思想を貫通させることのできる絶好の材料なのである。
●さて、中国陶磁は二つの要素に還元して考察するのが至便である。一つは技術であり、いま一つは美術であった。
●技術革新と美術革新とが表裏一体をなすことが、中国陶磁が世界史に訴える文化創造のプロセスなのである。
●春秋・戦国期の緑釉、後漢・三国時代の青磁・黒釉、北朝末期の白磁・三彩、晩唐時代の下絵付陶磁、元代の染付磁器など、中国陶磁の骨格をつくる技術はすべて混乱と称される時代に発明され、その段階で、新技術は一見晦渋にみえるほど荘重な、骨の太い造形物を創造して登場してくる。
●私は峻厳なる美を創造期の特色と捉え、「峻厳」と「優美」とを創造展開の対極と捉えるに至った・・・

 これだけの文章の中ですが、「比類のない」「崇高美」「人を近づけない」「荘重美」「壮大」「最長最良」「晦渋」「峻厳」と、極めて孤高な、最高の賛辞を並べていられます。これら「崇高」「峻厳」な言葉を内包する世界が、中国陶磁です。そして、これは、家庭には絶対に持ってこれないもの・・・。手がとどかないところにあるのが中国陶磁です。その美しさ、高貴さにおいて・・・

 ふつうなら博物館のガラスのケースの中でしか目にできない、絶対に触れることなどできないその中国陶磁ですが、幸い私は発掘調査の仕事に携わっていましたので、何回か手にしています。鎌倉の青磁は大量に出土していて例外ですが、定窯の白磁は滅多な出土がなく、あそこからは「定窯の白磁がでている・・・」というだけでその遺跡が記憶されるくらいの貴重さです。鎌倉では金沢文庫の第二代当主金沢顕時邸跡の遺跡から出土しています。鶴岡八幡宮のすぐ目の前の、向かって左側の一画で、お蕎麦屋さんがあるあたりです。これは「鎌倉出土の陶磁器」というと必ず出典する貴重品ですので、今度どこかの展覧会にあったらご覧になってください。

 発掘調査の仕事についていたちょうどその頃、区内の遺跡で「定窯の白磁がでた!」という情報があり、調査員の方についていって見せていただきました。御先手組遺跡という、江戸時代の御家人の組屋敷の調査で、御家人の持物だったとは思えませんから別の歴史があるのでしょうね。面白い遺跡でした。

 鎌倉にはもうものすごい量の中国陶磁が発見されていますが、一つ私が気にかかっている「官窯」の破片についてこの記事を終わりにさせていただきますね。

 それは、鎌倉で「鎌倉出土の陶磁器」という、全国の発掘に携わる人が対象の展示を見に行ったときのこと。ここにも顕時邸跡出土の白磁が展示されていて、滅多に鎌倉の遺物に接する機会のないほとんどの人がそこに固まって混雑していましたから、私は空いている「その他」の未整理の箱が置かれているコーナーを見て歩いていました。

 そこに完型だったら大きな個体だろうと思われる大きな破片があり、あまり馴染みのない地肌の破片だったので、ふと目に留まって手にしました。すると、そこに立ってらした説明員の方が、「それは官窯の青磁だよ」と言われたのです。「特有の貫入があるだろ」って。

 貫入というのは、官窯特有の地肌に入った「ひび」のことで、そのひびが美しい文様を醸し出しているのです。当時まだ私は官窯の青磁など詳しくありませんでしたから、「そうか、官窯の青磁にはこういうひびが入ってるんだ・・・」と、その時に覚えました。なんでも、その方の話では、それは笹目遺跡の近くで発見されて、安達泰盛関連のものではないか・・・と。そのあたりには大きな寺院があって、まだその寺院はどこか確定されていないが、そこの仏器の破片ではないか。ふつうに使う品としては大きすぎるから・・・、みたいなお話でした。

 「寺院」という言葉に弱い私は、それから笹目遺跡のあたりを歩くたびに、「ふうん、この辺に大きな寺院があって、官窯の青磁の花瓶で法要がなされていたんだ・・・」と、感慨深く眺める習慣になりました。

 でも、しばらくして、その方面の知識が進んできたら、ふっと、「ん? そんな官窯の青磁が、あんな雑魚の破片に交じって放置しておかれるのはおかしい。それに、ニュースにもなってないなんて・・・」と、おかしいと思うようになりました。官窯の青磁の、しかもあんな大きな破片が出土したら、「顕時邸の白磁」くらいに知れ渡っているはずです。

 それで、ある時、山梨で行われたシンポジウムの会場で鎌倉の調査員の方がいらしたので、思い切って、「あの官窯の青磁の破片はその後どうなったのですか?」と訊いてみました。すると、その方は、鎌倉出土の陶磁器なら網羅して御存じの方だったにもかかわらず、「そんなの知らない」とおっしゃるのです。「だって、そんなのが出土してたら大騒ぎになってるはずだろ」と。

 そうなんです。今も目に浮かぶのですが、それは手に持ってどっしりとする大きさの、遺物としては大きな破片で、見まがいようがないくらいのもの。しかも、そのとき、そこには同様の破片がざくざくありました。今なら「それがニュースにもなっていない」のはおかしいとわかります。でも、そのときに確かに「存在」したのも確かです。何故なら、私が「官窯の青磁には貫入というひびが入っている」ことを知ったのは、そのときの説明員の方によってでしたから。

 山梨でお訊ねした調査員の方は半信半疑で、でも内心は全く信じてくださらないで、「鎌倉に帰ったら調べてあげる」とおっしゃったまま、そのままになっています。

 何だったのでしょうね。展示会場の一室の展示構成は今でもはっきり覚えていますし、その雑魚の破片が入ったコーナーも目に浮かびます。そこにあった事自体が「夢」だったなんて・・・

 その後、私は「寺院揺曳」という、鎌倉の笹目にあったという安達氏関連の寺院についてのエッセイを書きました。今は廃寺になって所在も明らかでありません。ただ「笹目にあった」ということが知られています。発掘調査でだいたいの場所は「ここではないか」というくらいの存在です。「佐々目遺身院」という名前の寺院ですが、説明員の方がおっしゃった「大きな寺院」はこの寺院だったのでは?と思っています。

 それにしても、説明員の方の口から「安達泰盛」の名前まで出たのです。それが幻だなんて・・・。近く「寺院揺曳」を書くことになる私に、安達泰盛の亡霊が「頑張れよ!」って応援してでてきてくださったのかも・・・なんて、今は思っています。そうとでも考えなければ納得のつかない不思議なできごとです。

ご参考に:http://www2.ttcn.ne.jp/~cyouei/sub4.htm
こちらで官窯青磁の破片の写真をご覧いただけます。

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2009.10.22 「山の寺」科研、福岡見学会・研究会のお知らせ

仁木宏様からのお知らせをご紹介させていただきます。(その三)

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みなさんへ
 「山の寺」科研、福岡見学会・研究会の御案内です。

「山の寺」科研 2009年度 第3回 研究会・見学会 要項   2009.10.16
    福岡平野周縁の山岳寺院

 科研費基盤研究(B)「日本中世における「山の寺」(山岳宗教都市)の基礎的研究」(URL=http://ucrc.lit.osaka-cu.ac.jp/niki/yamanotera/index.html 、2008~2011年度、研究代表者=仁木宏)では、年3~4回、日本各地の「山の寺」遺跡を見学するとともに、最新の「山の寺」研究の内容を交流・紹介するための研究会を開催しています。
 今回は、福岡県にお邪魔し、研究会・見学会を開催します。興味をお持ちの方はどなたでも参加できますので、要項を参照の上、下記メールアドレスまで参加希望日程を御連絡ください。

★参加を希望される方は、以下のEメール・アドレスまで、名前、所属、参加日程(予定)を知らせてください。
★最下欄のフォームを使ってください。
    yamanotera_mail@yahoo.co.jp (山の寺科研 事務宛)

 *部分参加、日帰りでもかまいません。
 *3日目のバスには定員があります。先着順ですので早めに申し込みください。

 日程;2009年11月26日(木)~28日(土)

◆第1日  11月26日(木) 宝満山見学会
  13:10 竈門神社集合
    http://www.dazaifutenmangu.or.jp/kamado/index.htm
    *西鉄大宰府駅12:58発のコミュニティバス「まほろば」号乗車→「内山」バス停(竈門神社前)13:05着が便利です。適宜、タクシーも利用ください。
  13:10~16:30 宝満山見学
  御案内;小西信二氏(太宰府市教育委員会)
  *山登りの軽装備が必要です。雨天決行
  *下山後、「まほろば」号で大宰府駅方面に帰る予定です。
    
◆第2日 11月27日(金)  研究会「福岡平野周縁の山岳寺院」
英彦山・求菩提山・宝満山に代表される北部九州の山岳寺院を概観し、そのなかから、近年調査がすすみつつある国際貿易都市博多を取り巻く福岡平野周縁の山岳寺院を抽出し、事例発表を行っていただきます。

会 場  九州歴史資料館(福岡県太宰府市石坂4-7-1)
          ℡ 092-923―0404
          西鉄太宰府駅下車徒歩10分
http://www.fsg.pref.fukuoka.jp/kyureki/
    *九州国立博物館ではありません。御注意下さい。
      九州国立博物館では宝満山の特展が予定されています。
  
  基調講演
 9:30~11:00 小田富士雄氏「北部九州の山岳信仰」
  報告
   11:15~11:55 大庭康時氏(福岡市教育委員会)「博多と福岡平野周辺の山の寺」
   13:00~13:40 吉良国光氏(大分県立芸術文化短期大学)「中世の脊振山について」
   13:40~14:20 桃崎祐輔氏(福岡大学)「一貴山 夷魏寺」
   14:20~15:00 山村信榮氏(太宰府市教育委員会)「宝満山」
   15:15~15:55 江上智恵氏(久山町教育委員会)「首羅山遺跡」
   15:55~16:35 井形進氏(九州歴史資料館)「薩摩塔について」
   16:35~17:25   質疑応答・連絡事項
               
  懇親会 浜太郎二日市店
       西鉄・JR二日市駅徒歩10分  ℡ 092-925-1233
          
◆第3日 11月28日(土) 首羅山見学会
   9:00 九州歴史資料館集合  →貸切バスで移動します
   9:30~14:00 首羅山見学
   御案内;久山町教育委員会
*山登りの軽装備が必要です。雨天決行
     *昼食は各自持参ください。山中で食べます。
*14:00下山予定です。バスにて福岡空港・博多駅方面にお送りする予定です。
 
★推奨宿泊施設    ※御予約は各自でお願いします。
  ホテルグランティア太宰府(℡ 092-925-5801) 
       太宰府市連歌屋3-6-1、太宰府駅徒歩10分 和室朝食付き6,500円~
       http://www.hotel-grantia.co.jp/dazaifu/
  アイビーホテル筑紫野(℡ 092-920-2130)
       筑紫野市湯町1-14-3、JR二日市駅徒歩15分 洋室食事なし6,825円~
       http://www.ivyhotel.net/map/index.html

★参加申込フォーム
   名前 (     )
   所属 (     )
   Eメールアドレス (     ) *以後、連絡はEメールのみで行います

   参加日程  11/26 宝満山見学会  参加  不参加
         11/27 研究会      参加  不参加
              懇親会     参加  不参加
         11/28 首羅山見学会  参加  不参加

★各種問い合わせは、yamanotera_mail@yahoo.co.jp (山の寺科研 事務宛)までお願いします。
★「山の寺」科研、来年度の予定
    関東方面  四国方面  +α
★「山の寺」科研については、http://ucrc.lit.osaka-
cu.ac.jp/niki/yamanotera/index.html参照。
 今回は参加できないが、「山の寺」に関する情報をお伝えするML(メーリングリスト)に登録を希望される方は、同じくyamanotera_mail@yahoo.co.jpまで、その旨、お知らせください。
以上。

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2009.10.22 四天王寺と都市大坂研究会のお知らせ

仁木宏様からのお知らせをご紹介させていただきます。(その二)

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みなさんへ
 最終回の案内です。
             
四天王寺と都市大坂研究会
 都市大坂にかかわるさまざまなテーマについて、歴史学、考古学、国文学、法制史、美術史、民俗学、居住史などの視角からアプローチすることを目的に研究会を進めてきました。とりあえず今回を最終回といたします。
 どなたでも参加できます。事前の連絡は必要ありません。

第17回(最終回)の御案内
   日時;2009年10月23日(金) 19:00~21:00
    会場;クレオ大阪中央 研修室1
       大阪市天王寺区上汐5丁目6番25号 電話 06-6770-7200
       http://www.creo-osaka.or.jp/chuou/index.html
    地下鉄谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘」下車 徒歩5分
     ※ここ数回と会場が違いますので御注意下さい!
   報告;生駒隆臣氏(大阪市史料調査会)
「中世大阪における南朝の動向と渡辺党」
  
http://ucrc.lit.osaka-cu.ac.jp/niki/shiten-toshi.html

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2009.10.22  「山寺サミット」資料集販売のお知らせ

仁木 宏様よりのお知らせをご紹介させていただきます。(その一)

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みなさんへ
 先日開催されました、「山寺サミット」資料集を販売しています。
 ふるって購入いただけますよう、お願いいたします。

第4回 山寺サミットin米原 資料集
『新視点・山寺から山城へ ―近江の戦国時代―』
【120ページ、図版多数、定価500円】

 これまで、各地域において特徴のある山寺を舞台に議論を展開してきた「山寺サミット」ですが、平成21年度は、琵琶湖の周りに多くの山寺遺跡を抱える近江国全体を取り上げました。中世に山寺が山城に変容している事例が多く確認されていますが、近江においてはこれが特に顕著で、また山寺と城郭の関係が多岐にわたっていることがわかってきました。山寺の景観を色濃く残す事例、完全に城郭化された事例、山寺と城郭が並存する事例など、今後の調査研究に欠かせないのが琵琶湖を取り巻く山寺群です。
 また、滋賀県教育委員会を中心に分布調査が行われ、多くの発掘事例からの検討も可能です。冊子の後半には、今後各地での調査の参考になるように、県内37件の事例を、わかりやすい調査カードと遺構図で、県内の各担当者が紹介しました。山寺研究者はもとより、城郭研究者や歴史好きの方にも喜んでいただける冊子です。是非、お申し込みください。
 (関係機関・団体の複数購入大歓迎です。)

【目  次】
〔講演・報告レジメ〕
湖(うみ)と山寺  大沼芳幸(県文化財保護協会)
山岳寺院から城郭への変容  中井 均(同志社大学)
清水寺と清水山城  横井川博之(高島市教育委員会)
弥高寺と上平寺城  高橋順之(米原市教育委員会)
金剛輪寺と百済寺  明日一史(東近江市教育委員会)
観音正寺と観音寺城  伊庭 功(滋賀県教育委員会)
縄張りから見た山寺と山城  藤岡英礼(栗東文体振)
〔資料集〕 滋賀県の寺院城郭調査カード 37事例
 万福寺・別所山砦、大嶽寺・小谷城、上平寺・上平寺城、
 弥高寺・弥高寺陣所、太平寺・太平寺、清滝寺・柏原城、
 勝楽寺・勝楽寺城、敏満寺・敏満寺城、金剛輪寺・金剛輪
 寺城、百済寺・百済寺城、長光寺・長光寺城、退蔵寺・九
 居瀬城、和南城、成願寺・阿賀神社・小脇山城、長寸城、
 鳥居平城、観音正寺・観音寺城、安土寺・安土城 など
 【購入方法】
★米原市教育委員会まで、FAX(0749-55-4040)メール(manabi@city.maibara.lg.jp)でお申し込みください。氏名(機関名)・住所・連絡先・必要部数(複数大歓迎!)を必ずご記入ください。
★お届けするときに、金額(冊子代+送料)をお知らせしますので、現金書留・郵便小為替または、下記まで振り込んで下さい。振り込みの際は、振込者のお名前が分かるようにして下さい。

(振込先)レーク伊吹農業協同組合 伊吹支店 普通 0016419
   伊吹山文化資料館 館長 細井俊司(イブキヤマブンカシリョウカン カンチョウ ホソイシュンジ)

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2009.10.22 深夜、オリオン座流星群を観てました!

001 コンデジ撮影で恥ずかしいのですが、オリオン座を撮ってみました。何枚か撮るあいだに流れ星が入り込むとおおな、なんて期待して・・・

 でも、20枚くらい撮りましたが、流れ星は一個も流れませんでした。もっと気合を入れて一眼レフに三脚・・・くらいの心構えをしなければいけませんね。

 でも、流れ星はその前に二個観ることができているので満足はしています。それも、そんなに長時間眺めていた訳ではないのに見えた、ということは、やはりオリオン座流星群は確率が高いんですね。

 画像は小さくて、星も点でしかなくて、オリオン座をわかっていただけるでしょうか。冬は空が綺麗ですから、余裕があったらまたチャレンジします。

 下の、定窯の白磁についての記事も書きかけのままなのに、何してるの! って怒られそう。(済みません。)テーマが重くてなまじの事ではまとめきれないと思い放置しているあいだに、連載小説「花の蹴鞠」のための資料を得に、立川の国文学研究資料館へ行ったりしていました。これについても興味深い事があったりして、また後ほどご報告させていただきます。定窯の白磁については、このあと新規に書きなおします。

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2009.10.14 中国陶磁の定窯の白磁について・・・

140 写真は、タイトルの「定窯の白磁」とはまったく関係なく、ずっと以前どこかのワゴンセールで僅か200円という安さで購入した「白磁風」のお皿です。

 でも、私はこれを凄く気に入っていて、定窯の白磁にも匹敵・・・?とはいいませんが、香炉皿として部屋に置いて楽しんでいます。磁器ではなく陶器です。

 何故、今日、この話題をだしたかというと、たまたま寄った書店に中国陶磁の本が刊行されて、その「定窯の白瓷篇」があったのです。それですっかり心が中国陶磁にいってしまいました。

 (この項、書きかけ・・・10月14日記)003

時間がとれずに書きかけになったままで済みません。とりあえず、ご紹介したい本の画像を載せておきます。矢部良明氏『中国陶磁の八千年』(平凡社)です。(10月15日記)

お詫び: 書きかけのまま長引いてしまいました。新規の記事として改めて書かせていただきます!(10月22日記)

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2009.10.6 由緒ある歴史の地【鞆】・・・『崖の上のポニョ』の舞台ともなった地の景観が守られてよかったですね!!

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茶道をなさっているお友達から、「鎮信流(ちんしんりゅう)」という武家流の流れをくむ流派だということを教えていただいて、井伏鱒二さんの『鞆の津茶会記』を思い出しました。

 私はお茶の嗜みがないので知らなかったのですが、この小説を読むと通常私たちが思っているお稽古の世界の茶道とまったく違う、厳しい「男たちの世界」が茶道の世界にはあることがわかります。これは思いもかけない開眼でした。その後、井上靖さんのたしか『本覚坊遺文』だったと思いますが、やはり「男の世界」の厳しい茶道を読んで、以来、お茶というと私の中では「戦いに出る前の死の儀式」、「厳しい地に挑むからこそその前に心を整える大切な時間」・・・というふうな印象に捉えられています。

 が、それは戦国時代の話で、現代にそういう流派が存在するなど思っていませんでしたので、彼女のお話は衝撃的でした。(大袈裟でなく・・・)。 で、すっかりその事に心が捉えられて一日過ごしたのですが、そうだ、せっかくだから鞆のことを書いておこうと思ったのです。というのも、最近、この鞆が話題になったばかりですので。

 鞆は広島県福山市の瀬戸内海に面する港です。鞆が最近脚光を浴びたのは、宮崎駿監督が映画『崖の上のポニョ』を構想されるのに鞆を舞台とされたからでした。その地が県と市の埋め立て・架橋事業で景観が損なわれそうになって裁判がとなり、「免許交付差し止め」という景観を守る原告側の勝訴の判決が出されたのです。

 行くとわかるのですが、ほんとうに風光明媚。こんなに風光明媚な地はないと言い切ってしまいたいくらいな地です。それは、筝曲、宮城道雄『春の海』が、ここで作曲されたというだけで納得していただけるでしょう。あの名曲を生んだ舞台なんです。

 鞆の歴史はそれだけではありません。鞆はかつて「潮待ちの港」として栄えた歌枕の地で、鎌倉時代には宿屋や遊女の店が軒を連ねたほど。万葉集では大伴旅人が「吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき」と詠い、中世には滞在した二条が『とはずがたり』の中で記し、江戸時代には朝鮮通信使が訪れて頼山陽らと詩文を交わし、さらに現代になって井伏鱒二さんが『さざなみ軍記』の舞台として書かれました。『鞆の津茶会記』も。そしてさらに、『崖の上のポニョ』・・・

 私にはどれをとっても大切な、日本の知的財産、知的文化財を含有する地として守りたい景観ですので、「差し止め」の判決にはほれぼれしました。

 話を井伏鱒二さんの『鞆の津茶会記』に戻しますと、それは鞆にある安国寺が舞台です。写真の三枚目の枯山水はその安国寺の庭です。『鞆の津茶会記』はその前に読んでいて感服していましたから、思いがけず舞台となった安国寺を訪ねたときには堪能しました。

 私が鞆を訪れたのはまったくの偶然で、遺跡発掘調査の仕事に就いていたとき、福山市に「日本のポンペイ」と言われる中世の遺跡があると知って、そこを訪ねた縁ででした。せっかく来たのだからどこか近くを周ろうと調べていて、「鞆」に行き当たったのです。

 川の氾濫で町全体がポンペイのように一瞬にして埋まってしまったその遺跡は「草戸千軒町遺跡」と言って、福山市を流れる芦田川の中州にあります。このときのことはHPに写真とともにまとめてありますので、よかったらご覧になってください。書きたいことはみんなそちらに書いていて重複しますので・・・
http://www.odayuriko.com/
の中の、【中世の遺跡と史跡】の中の、「■広島県/草戸千軒町遺跡・鞆」にあります。写真はそこからの転載ですので小さくて済みません。まだフィルムで撮っていた時代ので、スキャンしなおす余裕がなくて・・・(HPもリニューアルを標榜しながら、まだ構想がまとまらなくてそのままになっています・・・)

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2009.10.1 塚本邦雄『 定本 夕暮の諧調 』について・・・

123連載中の小説「花の蹴鞠」が、『新古今和歌集』の時代に突入しますので、その準備に関係の本を読み漁っています。

 『家長日記』についても書いておきたいのですが、時間がないままに過ぎてしまいそうです。一つだけ記しておきたいのですが、コピーした全釈を読み始めて、何だか妙に後鳥羽院のことばかりがリアルに書かれているなあと驚いたら、なんと、『家長日記』は、家長が後鳥羽院を讃美する目的で記されたのだそうでした。

 家長は自分をとりたててくれた後鳥羽院に対する感謝・恩を忘れずにいて、紫式部が道長を讃えるために『紫式部日記』を残したのに倣って、自身も日記を書いたのだそうです。こんなところにまで紫式部というか、源氏物語世界が浸透していると、驚きました。

 で、『新古今和歌集』に話を戻しますと、私の最初の『新古今和歌集』体験は塚本邦雄氏によってでした。地元の図書館に、『新古今新考 ―断崖の美学』があって、それはもう目も覚めるような言葉のあやかしの世界でした。なので、私の『新古今和歌集』感は塚本邦雄氏の「断崖」感に染まってもう離れられません。良経も、塚本氏との出逢いがなかったら、その良さを知らずに通過していたでしょう。

 この『夕暮の諧調』は、塚本氏にすっかり虜になってしまった頃購入したものです。夢中になって読んで、「こんな凄い本は他にない!!」とばかりに燃えました。昨日、久々にこれを取り出して、ぱらぱらと拾い読みしたら、面白い箇所がありましたのでご紹介させていただきます。それは、「紅葉非在」という章の中にありました。

 氏は、なんと、数名の親しい友人の方に、「新古今集ベスト・3」のアンケートを試みられたのです。氏も書いていられますが、これは「暴挙」です。十二巻二千首に近い歌数のなかから三首を抜き出せ・・・、なんて。

 でも、その暴挙だから、楽しいですよね。なんか、本質が浮き出る感じで。結果として選ばれた歌人は八名。歌数は二十一首。それを列挙してご紹介させていただきましょう。

●春日井建・選
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮(定家)
大空は梅のにほひに霞みつつ曇りもはてぬ春の夜の月(定家)
駒とめて袖打ち払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮(定家)

●寺山修司・選
忘れめや葵を草に引き結び仮寝の野べの露のあけぼの(式子内親王)
かへり来ぬ昔を今と思ひ寝の夢の枕ににほふ橘(式子内親王)
生きてよも明日まで人はつらからじこの夕暮をとはばとへかし(式子内親王)

●岡井隆・選
時鳥ふかき嶺より出でにけり外山の裾に声の落ち来る(西行)
きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざかり行く(西行)
年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさよの中山(西行)

●菱川善夫・選
風かよふ寝覚の袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢(俊成女)
うちしめりあやめぞかをる時鳥鳴くや五月の雨の夕暮(良経)
夕暮はいづれの雲の名残とて花橘に風の吹くらむ(定家)

●原田禹雄・選
今日もまたかくや伊吹のさしも草さらばわれのみ燃えや渡らむ(和泉式部)
風かよふ寝覚の袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢(俊成女)
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする(式子内親王)

●山中智恵子・選
樗咲く外面の木蔭露落ちて五月雨晴るる風渡るなり(忠良)
夕立の雲もとまらぬ夏の日のかたぶく山に日ぐらしの声(式子内親王)
遥かなる岩のはざまにひとりゐて人目思はでもの思はばや(西行)

●塚本邦雄・選
夕暮はいづれの雲の名残とて花橘に風の吹くらむ(定家)
見渡せば山もと霞む水瀬川夕べは秋となに思ひけむ(後鳥羽院)
ほととぎすその神山の旅枕ほのかたらひし空ぞ忘れぬ(式子内親王)

 皆様はどう思われたでしょう。この結果に対しての感想を塚本氏自身が記されていて、それも興味をそそりますが、長いのでご紹介できないのが残念です。ただ、私個人としては、「花の蹴鞠」に俊成女を登場させているところなので、菱川先生が彼女を筆頭にあげてらっしゃるところが嬉しかったです。菱川先生にはもっと生きてらして「花の蹴鞠」をご覧になっていただきたかったですね・・・。

 というか、春に発表した論文「『源氏物語』二大写本に秘めた慰藉―『平家物語』との関係をめぐって―」は、菱川先生にこそ読んでいただきたかったんです。というのも、あの着想を得て書いた最初の原稿を読んでいただいていて、「驚きましたね。平家文化の余光のなかで、源氏物語と平家物語がドッキングし、定家と光行が見えない糸で結ばれて・・・」とお手紙をいただいていました。と書いて今更に驚きましたが、あれを書くまで定家と光行、『源氏物語』と『平家物語』が、密接に関係あるなんて、どなたもまだ知らなかったんでした・・・。(菱川先生は短歌評論者でいられる前に、国文学者でもいられました・・・)

 完成したものを見ていただけなかったのが、かえすがえすも残念でたまりません。でも、最後になったお葉書、それは今思うと力を振り絞って渾身の思いを込めて書いてくださったのですが、「必ずや詩神が天恵を与えてくれると信じています」と書いて下さった・・、それが「花の蹴鞠」で実るよう、頑張ってます!!

 菱川先生も、塚本邦雄氏も、すでに幽明界の方です。『夕暮の諧調』から思わず菱川先生の思い出に入ってしまいましたが、素晴らしいとしかいいようのないお二方の、せめてご生前に接しさせていただいたことを幸運と思っています。

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