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2009.10.22 矢部良明氏『中国陶磁の八千年 乱世の峻厳美・泰平の優美』から、中国陶磁についての思いを・・・

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写真は、東京国立博物館陶磁室長でいられる矢部良明氏の『中国陶磁の八千年 乱世の峻厳美・泰平の優美』(平凡社)です。

 私が中国陶磁に惹かれるようになったのは、東京国立博物館で観た1994年開催の「中国の陶磁」展からです。それまではあまり陶磁器に親しむ環境になかったものですから、ふつうに磁器よりも陶器の方が温かみがあって好き、と思っていました。

 が、この展覧会での中国陶磁の一級品を目の当たりにして、もう、磁器の魅力にとりつかれたのです。そして、ただ「磁器」というだけでなく、「中国の」磁器なのです。これはもう、胸のすく思いのする硬質感、シャープさ・・・、こう書いて思い出すだけでも血が騒いで胸がどきどきしてきます。

 その展覧会を主導された矢部良明氏・・・、その方のご著書ですから、書店でみつけたときは飛びつくような思いで購入しました。一般書ですが学術書タイプの大判で、500頁に近い厚さです!私が好きなのは染付以前の中国陶磁ですから、最初から全部読む意思はなく(済みません!)、好きな窯の頁を大事に大事に読み進んで、途中で放棄したままになってます。

 このご本は中国陶磁についての魅力をご自身の感想で記すのではなく、読んでいくとその流れの中で中国陶磁の歴史とそれぞれの産地の特色が理解できていくように構成されています。でも、矢部氏ご自身が、もう、中国陶磁に陶酔されていて、なので、その陶酔感にこちらが浸されるのです。中身は大著ですから触れずにおいて、「はじめに」から、矢部氏のエッセンスを引用させていただきます。

●私にとって最も大切なのは、比類のない中国陶磁のもつ崇高美そのもの
●人を近づけない荘重美と、人をうっとりさせる普遍美という、一見矛盾するような壮大なスケールを併せもつのが中国陶磁である。
●陶磁器は、現在まで絶えることのない最長最良の文化財なのだから、右の考察にあたって、人間の歴史に一本の思想を貫通させることのできる絶好の材料なのである。
●さて、中国陶磁は二つの要素に還元して考察するのが至便である。一つは技術であり、いま一つは美術であった。
●技術革新と美術革新とが表裏一体をなすことが、中国陶磁が世界史に訴える文化創造のプロセスなのである。
●春秋・戦国期の緑釉、後漢・三国時代の青磁・黒釉、北朝末期の白磁・三彩、晩唐時代の下絵付陶磁、元代の染付磁器など、中国陶磁の骨格をつくる技術はすべて混乱と称される時代に発明され、その段階で、新技術は一見晦渋にみえるほど荘重な、骨の太い造形物を創造して登場してくる。
●私は峻厳なる美を創造期の特色と捉え、「峻厳」と「優美」とを創造展開の対極と捉えるに至った・・・

 これだけの文章の中ですが、「比類のない」「崇高美」「人を近づけない」「荘重美」「壮大」「最長最良」「晦渋」「峻厳」と、極めて孤高な、最高の賛辞を並べていられます。これら「崇高」「峻厳」な言葉を内包する世界が、中国陶磁です。そして、これは、家庭には絶対に持ってこれないもの・・・。手がとどかないところにあるのが中国陶磁です。その美しさ、高貴さにおいて・・・

 ふつうなら博物館のガラスのケースの中でしか目にできない、絶対に触れることなどできないその中国陶磁ですが、幸い私は発掘調査の仕事に携わっていましたので、何回か手にしています。鎌倉の青磁は大量に出土していて例外ですが、定窯の白磁は滅多な出土がなく、あそこからは「定窯の白磁がでている・・・」というだけでその遺跡が記憶されるくらいの貴重さです。鎌倉では金沢文庫の第二代当主金沢顕時邸跡の遺跡から出土しています。鶴岡八幡宮のすぐ目の前の、向かって左側の一画で、お蕎麦屋さんがあるあたりです。これは「鎌倉出土の陶磁器」というと必ず出典する貴重品ですので、今度どこかの展覧会にあったらご覧になってください。

 発掘調査の仕事についていたちょうどその頃、区内の遺跡で「定窯の白磁がでた!」という情報があり、調査員の方についていって見せていただきました。御先手組遺跡という、江戸時代の御家人の組屋敷の調査で、御家人の持物だったとは思えませんから別の歴史があるのでしょうね。面白い遺跡でした。

 鎌倉にはもうものすごい量の中国陶磁が発見されていますが、一つ私が気にかかっている「官窯」の破片についてこの記事を終わりにさせていただきますね。

 それは、鎌倉で「鎌倉出土の陶磁器」という、全国の発掘に携わる人が対象の展示を見に行ったときのこと。ここにも顕時邸跡出土の白磁が展示されていて、滅多に鎌倉の遺物に接する機会のないほとんどの人がそこに固まって混雑していましたから、私は空いている「その他」の未整理の箱が置かれているコーナーを見て歩いていました。

 そこに完型だったら大きな個体だろうと思われる大きな破片があり、あまり馴染みのない地肌の破片だったので、ふと目に留まって手にしました。すると、そこに立ってらした説明員の方が、「それは官窯の青磁だよ」と言われたのです。「特有の貫入があるだろ」って。

 貫入というのは、官窯特有の地肌に入った「ひび」のことで、そのひびが美しい文様を醸し出しているのです。当時まだ私は官窯の青磁など詳しくありませんでしたから、「そうか、官窯の青磁にはこういうひびが入ってるんだ・・・」と、その時に覚えました。なんでも、その方の話では、それは笹目遺跡の近くで発見されて、安達泰盛関連のものではないか・・・と。そのあたりには大きな寺院があって、まだその寺院はどこか確定されていないが、そこの仏器の破片ではないか。ふつうに使う品としては大きすぎるから・・・、みたいなお話でした。

 「寺院」という言葉に弱い私は、それから笹目遺跡のあたりを歩くたびに、「ふうん、この辺に大きな寺院があって、官窯の青磁の花瓶で法要がなされていたんだ・・・」と、感慨深く眺める習慣になりました。

 でも、しばらくして、その方面の知識が進んできたら、ふっと、「ん? そんな官窯の青磁が、あんな雑魚の破片に交じって放置しておかれるのはおかしい。それに、ニュースにもなってないなんて・・・」と、おかしいと思うようになりました。官窯の青磁の、しかもあんな大きな破片が出土したら、「顕時邸の白磁」くらいに知れ渡っているはずです。

 それで、ある時、山梨で行われたシンポジウムの会場で鎌倉の調査員の方がいらしたので、思い切って、「あの官窯の青磁の破片はその後どうなったのですか?」と訊いてみました。すると、その方は、鎌倉出土の陶磁器なら網羅して御存じの方だったにもかかわらず、「そんなの知らない」とおっしゃるのです。「だって、そんなのが出土してたら大騒ぎになってるはずだろ」と。

 そうなんです。今も目に浮かぶのですが、それは手に持ってどっしりとする大きさの、遺物としては大きな破片で、見まがいようがないくらいのもの。しかも、そのとき、そこには同様の破片がざくざくありました。今なら「それがニュースにもなっていない」のはおかしいとわかります。でも、そのときに確かに「存在」したのも確かです。何故なら、私が「官窯の青磁には貫入というひびが入っている」ことを知ったのは、そのときの説明員の方によってでしたから。

 山梨でお訊ねした調査員の方は半信半疑で、でも内心は全く信じてくださらないで、「鎌倉に帰ったら調べてあげる」とおっしゃったまま、そのままになっています。

 何だったのでしょうね。展示会場の一室の展示構成は今でもはっきり覚えていますし、その雑魚の破片が入ったコーナーも目に浮かびます。そこにあった事自体が「夢」だったなんて・・・

 その後、私は「寺院揺曳」という、鎌倉の笹目にあったという安達氏関連の寺院についてのエッセイを書きました。今は廃寺になって所在も明らかでありません。ただ「笹目にあった」ということが知られています。発掘調査でだいたいの場所は「ここではないか」というくらいの存在です。「佐々目遺身院」という名前の寺院ですが、説明員の方がおっしゃった「大きな寺院」はこの寺院だったのでは?と思っています。

 それにしても、説明員の方の口から「安達泰盛」の名前まで出たのです。それが幻だなんて・・・。近く「寺院揺曳」を書くことになる私に、安達泰盛の亡霊が「頑張れよ!」って応援してでてきてくださったのかも・・・なんて、今は思っています。そうとでも考えなければ納得のつかない不思議なできごとです。

ご参考に:http://www2.ttcn.ne.jp/~cyouei/sub4.htm
こちらで官窯青磁の破片の写真をご覧いただけます。

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