« November 2009 | Main | January 2010 »

2009.12.27 万葉学者仙覚ゆかりの地・・・、比企一族が眠る鎌倉妙本寺に行ってきました!!

011 003 109 072 091 105 141 162 源光行が下向して子息親行とともに鎌倉で『河内本源氏物語』を成し、それを金沢文庫創設者の北条実時が書写してできたのが重要文化財『尾州家河内本源氏物語』です。

 その『尾州家河内本源氏物語』と全く同じ装丁の万葉集があります。それが『西本願寺本万葉集』です。そしてこの『西本願寺本万葉集』こそが現代私たちが活字で読んでいるその万葉集なのです。その『西本願寺本万葉集』を成したのは仙覚という人物で、それも鎌倉で成立。中世鎌倉に於いては源氏物語のみならず、万葉集まで第一級の文化遺産が成されているんです。これはあまり語られませんが、凄いことと思いません? 私などはどうしてこれがそう問題にならないのか不思議で、それを訴えたくて一人奮戦しているところがあります。

 その『西本願寺本万葉集』の奥書に、仙覚は「鎌倉比企ヶ谷の新釈迦堂にて」と記しています。その比企ヶ谷新釈迦堂があったのが、今の妙本寺境内です。比企能員の娘の若狭局が鎌倉は第二代将軍頼家の側室となり一幡という男児を産んだことから、比企氏は北条氏に代わる勢力を持ちそうになります。それを危んだ北条氏によって比企氏は滅ぼされてしまいます。たった一日の奇襲でそれは成されました。その比企能員の邸宅のあったのがここ妙本寺なのです。

 こういう比企氏ゆかりの地で万葉集の研鑽に励んだ仙覚という万葉学者も、おそらく比企氏の出だろうといわれています。まだそれが誰か特定されていません。で、私は目下、北条実時の業績の『尾州家河内本源氏物語』の関連で『西本願寺本万葉集』について調べていて、仙覚についても調べています。つい最近ほぼそれが誰か、推測がついた段階です。それで、比企氏の地が仙覚と本当にゆかりのあることがわかりましたので、妙本寺を訪ねてきました。細かいことはおいおいまたこのブログでお話させていただくこととして、今日は写真のご紹介をさせていただきます。

 妙本寺は鎌倉駅から歩いて10分ほどです。写真の一枚目は総門にかかっていた額。二枚目はその総門のところにある比企能員邸跡の碑です。三枚目は比企一族の墓。近くには幼くして一緒に滅んだ頼家の嫡子一幡の墓もありました。

 四枚目から仙覚の関連になります。四枚目は万葉学者仙覚の碑。竹御所の墓の下にありました。竹御所の墓は写真の左側に見えている階段をのぼった奥にあり、五枚目の写真がそうです。階段を昇りきって開けた場所は現代の墓地になっていて、その墓地の一番奥まったところに竹御所の墓はありました。写真では下の方の一番中央に写っています。

 私がここを訪ねた最大の目的は、この竹御所のある空き地(現代の墓地)の広さがどれくらいかということを見るためでした。というのも、竹御所の墓の上に新釈迦堂が造られ、そこで仙覚が万葉研究をしたというのですから。妙本寺は日蓮宗の寺院ですが、最初にあった新釈迦堂は天台宗寺院だったようです。仙覚も天台宗の僧侶といわれます。その新釈迦堂がどれくらいの規模の寺院だったか・・・、発掘調査がされていませんのでわかっていません。文献だけではようすがつかめないので、原稿にとりかかる前に一度場所を訪ねて実感して来ようと思って出かけました。

 竹御所も頼家の子です。比企氏が滅んだまさにその年の生まれで、母親が誰かは明確にはわかっていません。ただ、一族が滅んだあと、その地に住んで「竹御所」と呼ばれたほどですから、比企氏の家系・・・ということは、母は一幡と同じ若狭局・・・と推察されています。

 その竹御所の菩提を弔うようにして仙覚がここに住した・・・、ということは、仙覚もまた比企氏のゆかり・・・と、このあたりの明確な解明を今急いでいるところです。うろ覚えの曖昧な書き方になってしまっていますが、取り急ぎのご報告ということで許してください。竹御所の墓の次の写真は、階段をおりて戻る途中の脇に見えた竹の一むら。竹御所の名前の由来にも関係する竹でしょうか。

 その下の写真は階段の下に戻ってきての、仙覚の碑がある一帯のようすです。碑の背後の山の中に竹御所の墓があり、かつてそこに新釈迦堂があったのです。仙覚は竹御所とほぼ同年です。どういう関係の二人だったのでしょう・・・。竹御所は実朝が暗殺されたために第四代将軍となって下向した頼経と結婚します。出産で若くして命を落としますが、その頼経の命を受けて、仙覚は竹御所を弔うために造られた新釈迦堂で万葉集の研究をしました。

 最後の写真は、若狭局ゆかりの蛇苦止明神です。一族とともに滅びた若狭局。文章で読んでいるだけのときには表面的にしか感じられなかった若狭局の悲劇が、お堂を前にしたら一気に肉薄して辛くなりました。でも、最初は翳っていたのに撮っていると背後から陽が射してきてお堂が華やいだ感じに明るくなったのに救われました。

 たぶんこれが今年最後の更新になると思います。来年はどんなご報告ができるでしょう。楽しみです。一年間どうもありがとうございました。そして来年もよろしくお願いいたします。どうぞ佳いお年をお迎えください。

★冒頭のブログパーツの動物をクリックしてみて下さい。素敵な「Tord Boontjeワールド」が出現します!!ただ、私のブログは写真が多くて容量が重いので、全部をご覧になるのに時間がかかります。以下のブログパーツ設置ページの見本で下の方まで見ることができます。
http://blogpartsgarden.jp/cs/blogparts/detail/091211001227/1.html

|

2009.12.22 明日朝にBS2で「私たち、草食系武士です。~新・平家家族物語~」の再放送があります!!

380 392 421  写真は、京都の梅小路公園。昔、平家一門の邸宅が一帯にはありました。京都市都市緑化協会HPより引用させていただきますと、「平安末期には、平清盛の「西八条第」(にしはちじょうてい)が南北は八条大路と八条坊門小路、東西は大宮大路と坊城小路の方6町に造営され、また同時期に八条女院御所も八条大路を中心に造営されていました。しかし、西八条第は寿永2年(1183)7月25日に平氏一門自らの手で火を放たれ焼失しました」のだそうです。
http://www.kyoto-ga.jp/umekouji/history.html

 高橋昌明氏『平清盛 福原の夢』には、西八条殿の他、重盛邸、頼盛邸、宗盛邸、重衡邸等の位置が明確に書き込まれた地図が載っています。

 私は2008年の源氏物語千年紀の年に、【写真でたどる源氏物語の歴史―鎌倉で『河内本源氏物語』ができるまで―】と題した写真展を開きました。そのときに40枚ほどの写真を並べました。『源氏物語』ができた道長の土御門邸宅跡から、『源氏物語』を踏襲した平家文化、源氏の世に移っての鎌倉、そして『河内本源氏物語』の舞台となった金沢文庫の称名寺・・・という流れです。

 古典や資料としての文献を探っているときにはそれほどと思わなかったのですが、長い間に撮り溜めた写真の中から選びに選んで抜粋した40枚を一挙に並べたときに、『源氏物語』が書かれた900年代から、『河内本源氏物語』の成った1200年代までの間の文化で、平家文化の占める比重のとても大きいことに気がつきました。10枚のパネルを用意して、それぞれにテーマを決めて4枚ずつ貼っていったのですが、平家文化だけはパネルが2枚になってしまったのです。それから私の中で平家文化、ひいては平家一門の人たちの、人たちとの、人間関係への興味が広がりました。そうして見ていったなかで、従来言われていたような「奢れる平家」という印象が実はがそうではなかったことに気がついたのです。

 こういったことは今までもこのブログで事あるごとに書いていますので重複を避けますが、先週放送されたNHKの歴史秘話ヒストリア【私たち、草食系武士です。~新・平家家族物語~】では、最近私が思っているのと全く同じ平家観が打ち出されていたわよ、と知人からのご報告がありました。私は見損ねたので再放送がないか探したら、23日朝にあることがわかりました。もう明日の朝なのですね。楽しみに見ようと思っています。内容は、タイトルから察せられると思いますが、「草食系・・・」とは!! 現代風な解釈をするとまったくそのとおり、なのかもです。

 知人に教えられて興味をもったのは、誰の監修なのだろうということ。従来の学者さん方の示唆でこういう内容になるわけがありません。それで、再放送を調べたページで見たら、参考文献に高橋昌明氏のご著作がメインに取り扱われていたことがわかり、納得したのでした。タイトルの「福原の夢」が示すように、ここには従来の清盛の福原遷都が清盛の「横暴」でなく、「夢」だった、というような新しい、温かい、美しい、視点があります。私にとって出逢えて嬉しかった大切なご著作です。http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/28.html

★ご参考までに過去ブログを・・・
2008.2.1 平清盛と「福原の夢」と『源氏物語』
2008.5.7 京都紀行8・・・平家一門の西八条第があった「梅小路公園」
カテゴリー・・・写真展【写真でたどる源氏物語の歴史】

★冒頭のブログパーツの動物をクリックしてみて下さい。素敵な「Tord Boontjeワールド」が出現します!!ただ、私のブログは写真が多くて容量が重いので、全部をご覧になるのに時間がかかります。以下のブログパーツ設置ページの見本で下の方まで見ることができます。
http://blogpartsgarden.jp/cs/blogparts/detail/091211001227/1.html

|

2009.12.20 宝塚瀬奈じゅんさんの退団公演【ラストプレイ ―祈りのように―】を観て・・・

Ran0034 今年は思いもかけず何十年ぶりに宝塚の観劇に行くことができ、ほんとうに思いもかけない一年になりました。

 というのも、私が『源氏物語』に心酔しているのを知る宝塚ファンの友人が、「【夢の浮橋】をやるんだけど、観る?」と誘ってくださってチケットをとってくださったのです。主役が瀬奈じゅんさんでした。一月のことです。

 その後、秋に「瀬奈じゅんさんが【エリザベート】でトート役をするのでどう?」とのお誘いを再びいただいたのですが、その時は原稿の執筆中であきらめました。

 【エリザベート】というのは、私は知らなかったのですが、宝塚にとっては【ベルサイユのばら】以来の豪華ヒット演目なのですね。絶世の美貌を誇るオーストリア皇妃エリザベートは旅行中のレマン湖のほとりで暗殺者にあって殺されます。その史実を踏まえて【エリザベート】は作られました。主役はエリザベートですが、男役が重要な宝塚らしく、もう一人の主役にトートという死神が登場します。そして、もう一人、暗殺者。

 瀬奈さんは【エリザベート】でその三人を演じられています。最初は暗殺者。次にエリザベート。そして、今年の秋にはトート・・・。トートという死神役は、これぞ宝塚!! と言い切っていいほど魅力的です。何しろ美貌のエリザベートに恋して恋して追い詰め、最後は自分に引き寄せて暗殺者に実行させる・・・のですから。観た友人の話では、「瀬奈さんは三つの役を全部されてのトートだから、理解が深かったんだと思う。瀬奈さんの最高の出来ではないかな」て評価してました。

 その友人から、「瀬奈さんが退団するの。12月が最後の公演になるけど行く?」とまたお誘いをいただたのです。原稿はまだ完成していないし、とても行ったりしてたらどこかから怒られてしまいそうな状況なのですが、「行くわ!」って即答しました。なぜって、退団公演というのに興味があったからです。

 退団公演に遭遇する機会など、この先そうそうないでしょう。私はシナリオを勉強していましたから、そのときに「限界設定」という言葉を学びました。「このシナリオには限界設定があるからいい・・・」というような言い方で使います。

 限界設定というのは、個人の状況のギリギリでのこと。そのギリギリの限界状況のときに人間の本質が浮かび上がるのです。私のシナリオはたいていその限界設定が主体でした。なぜなら、私自身、そのギリギリのところで輝く人間の本質が好きだから。で、退団公演というのは、そのスターさんにとっての「限界設定」状況にほかならないと感じたのです。

 これは、『源氏物語』を好きなのも、『平家物語』を好きなのも、それから映画とかで観るのを決めるときも、例えば戦場へ向かうカメラマンを送り出す恋人・・・のような設定だと無名の映画でも行ってしまいます。これは全部限界設定なんですよね。

 話がそれてしまいましたが、で、無事瀬奈さんの退団公演【ラストプレイ ―祈りのように―】を観てきました。公演のあいだ、私はストーリーには関係なく、オペラグラスで終始瀬奈さんだけをアップしてその表情を注視していました。演じているあいだは役に成りきっていられるでしょうけれど、それでも、この公演が終わったら私は宝塚を退団するのだという思いはどこかに何かの影を落としているはずと・・・

 瀬奈さんは素敵でした。華やかで、活き活きして、どこか寂しそうで(というのは私の思い込みとしても・・・)。今も目に焼き付いてその表情とダンスの迫力が残っています。観てよかった・・・と思いました。

 それから、この日、思いがけない経験をしました。この日は夜の公演がなかったために、舞台が終わるとタカラジェンヌさんたちは帰宅できる日だったんです。それで、外に出たら劇場の前の舗道の両側にそれを待つたくさんのファンの人垣ができていました。「お出待ち」っていうんですってね。タカラジェンヌさんたちが舞台化粧を落とし仕度をして外に出てこられるまでに一時間もそこで待っているのだそうです。テレビでは見たことがありますが、私には初めての経験。これも千載一遇とばかりに私も「待つ」ことに決め、友人を付き合わせてしましました。

 で、その一時間後のことですが、瀬奈さんが出ていらして、居並ぶファンの前をゆっくりファンレターを受け取りながら乗り込む車までのあいだの短い距離を歩いていかれるのを、私も拝見しました。そして、このときも、私はじっと、瀬奈さんの表情だけを見続けました。偶然居た場所がよくて車のすぐ前だったので、人垣越しではありましたが、バッチリと瀬奈さんのお顔を間近にアップで拝見することができました。

 なんという崇高さ・・・。胸を打たれました。すべてを成し遂げた方の表情というのはこういうものかと。そこには直前に終えたばかりの激しい情熱的な舞台の余韻と、迫っている千秋楽、そしてその先の退団・・・があるのです。彼女の胸に去来するものは凡人たる私たちにははかり知れないですね。おそらく究極の「無」なのです。

 舞台でもそれを感じたのですが、舞台化粧を落としてほぼスッピンの瀬奈さん。そして、高い襟を立てたウールのコートに黙々とファンレターを受けとりつつ歩く伏せ目がちのその表情・・・、その孤高さは今も胸に突き刺さっています。

 帰ってから何がこんなに私を感動させているのだろうと、ずっとそれを考えていました。それでわかったのです。人間はやはり限界設定のときに本質が際立つし、輝くのです。『徒然草』に京極為兼が捉えられて佐渡に流されるとき、籠のなかの為兼を見た日野資朝が「あなうらやまし」と、そのときの為兼の凛とした姿を見て感動した話が載っています。資朝が自分もそうありたいと思ったほど、そのときの為兼の表情は崇高だったのです。瀬奈さんの表情はあれだったんだ・・・って、ふっと思いました。

 そんな訳で、今、私の胸には瀬奈さんに重なって為兼がいます。昔も今もすべてを成し遂げて人生の岐路に立つとき、人はすべての思いを断ち切って自分を「無」にするから美しいのでしょう。そんな感慨に退団公演を観て以来ずっと浸っています。

★冒頭のブログパーツの動物をクリックしてみて下さい。素敵な「Tord Boontjeワールド」が出現します!!ただ、私のブログは写真が多くて容量が重いので、全部をご覧になるのに時間がかかります。以下のブログパーツ設置ページの見本で下の方まで見ることができます。
http://blogpartsgarden.jp/cs/blogparts/detail/091211001227/1.html

|

2009.12.18 重点研究国際シンポジウム「都市の歴史的形成と文化創造力」のお知らせ

仁木宏様からのメールをご紹介させていただきます。

みなさんへ
 先にも御案内しましたが、添付ファイルのようなシンポジウムを開催します。
2010年1月9~10日。
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/ja/priority-research/research.html

 第1セッション(1/9午前)の高橋さんの報告は、地方の都市・町場から首都・京都に迫り、両方を視野に収めることで見えてくる中世前期の社会システムを展望するものとなるようです。
 在地領主論の蓄積、網野善彦さん以来の「都市的な場」論と、首都・京都論がばらばらに論じられている現状に鑑み、それを克服する視座のヒントとして、戸田芳実さんから保立道久さんの都市論を踏まえられます。限られた史料からの立論ではあるが、最終的には論理的な枠組みを示したいとおっしゃっていただいています。

 私の報告は、16世紀前半までの京都の都市史を、「都市文化」という切り口から評価し直すことができないか、試みるものです。中世前期の王朝都市、権門都市については、国家システム論としてではなく、「文化論」として解く工夫をしたいと考えています。その中に、在地領主の、都市を通じての地域へのかかわり(高橋さんの議論)を組み込めればと思います。
 林屋辰三郎さんの「町衆文化」論については、逆に、都市社会論として読み替えてゆきたいと考えています。室町時代の「平和」、幕府-守護体制論などもかかわってきます。そして、町(ちょう)以前の都市共同体。これこそが日本中世固有の都市共同体であると明らかにしたいと思います。

 よろしく御参集ください。

*************************************

重点研究国際シンポジウム テーマ「都市の歴史的形成と文化創造力」
日時 2010年1月9日(土)、1月10日(日)
会場 大阪市立大学学術情報総合センター、大阪市立大学高原記念館
主催 大阪市立大学大学院文学研究科都市文化研究センター(重点研究)
共催 大阪市立大学都市研究プラザ

プログラム
1月9日(土)
9:00―12:00 (於 高原記念館学友ホール)
(第1セッション)都市の歴史的段階Ⅰ 中世都市文化の形成と変容
   ・高橋修(茨城大学教授)「中世東国における都市形成と在地領主」
   ・仁木宏(大阪市立大学教授)「中世都市社会の変容――町(ちよう)形成以前の京都」
   ・呉松弟(復旦大学教授)「東南沿岸山区的市場与市鎮――以浙江泰順為例」
     (中国東南沿岸部山地における市場と都市――浙江省泰順県を例として)
     (司会)仁木宏(大阪市立大学教授)・平田茂樹(大阪市立大学准教授)

13:00―17:00 (於 学術情報総合センター1階 文化交流室)
(基調講演)都市の歴史的形成と文化創造力
   ・井上徹(大阪市立大学)「趣旨説明」
   ・サスキア・サッセン(コロンビア大学教授) 
     「世界同時不況以後の都市システムと社会秩序」(仮題)
     *通訳つき
   ・吉澤誠一郎(東京大学准教授)「中国近代都市の社会変遷と文化再造」
   ・吉田伸之(東京大学教授)「伝統都市の社会=文化構造」
     (司会)井上徹(大阪市立大学教授)・土屋礼子(大阪市立大学教授)

1月10日(日)
9:00―12:00 (於 高原記念館学友ホール)
(第2セッション)都市の歴史的段階Ⅱ 近世都市文化の成熟
   ・塚田孝(大阪市立大学教授)「身分社会としての都市大坂――垣外仲間にそくして」
   ・谷直樹(大阪市立大学教授)「近世大坂における都市生活文化」
   ・早瀬晋三(大阪市立大学教授)「『商業の時代』後期の交易品――イギリス東インド会社『マカッサル文書』」
     (司会)後藤雅知(千葉大学准教授)

13:00―17:00 (於 高原記念館学友ホール)
(第3セッション)都市の歴史的段階Ⅲ グローバリゼーションと現代都市
   ・妻木進吾(大阪市立大学特任講師)「現代大阪の都市下層」
   ・青木秀男(社会理論・動態研究所所長)「グローバリゼーションとマニラの都市下層」
   ・高畑幸(広島国際学院大学専任講師)
     「通過点としてのマニラ―韓国人学生、フィリピン人船員、そして若年女性」
   ・祖田亮次(大阪市立大学准教授)「ボルネオ先住民の都市-農村間移動」
   ・谷富夫(大阪市立大学教授)「沖縄の過剰都市化と移動世代」
     (コメント)野村親義(大阪市立大学准教授)
     (司会)水内俊雄(大阪市立大学教授)・多和田裕司(大阪市立大学教授)

連絡先 大阪市立大学都市文化研究センター事務局
      TEL/FAX 06-6605-3114
      E-mail ucrc_office◎lit.osaka-cu.ac.jp
      (メールをお送り頂く場合は◎を@に変えて下さい。)

|

2009.12.18 第43回 1617会・兵庫例会「丹波国やがみ八上城・城下町と波多野氏」のお知らせ

仁木宏様からのメールをご紹介させていただきます。

***********************************

第43回 1617会・兵庫例会「丹波国やがみ八上城・城下町と波多野氏」

 1617(いちろくいちなな)会は考古学・文献史学・建築史学・歴史地理学など、複数の分野の研究者が集い、16世紀以前(中世)と17世紀以降(近世)の特定の地域(都市的な場)を対象に、学際的に研究を深めることを目的とした研究会です。3ヶ月に1回程度のペースで開催しています。
 今回は、兵庫県篠山市の東郊に位置する八上城とその城下町を対象とします。丹波国多紀郡の八上守護所(郡代役所)に入った波多野氏(細川京兆家被官)は、地域権力として成長をとげ、戦国後期には畿内政治に影響力を行使するまでになります。この波多野氏は最初に奥谷城を、ついで八上城を築き、それぞれ城下(町)を経営していました。やがて波多野氏はきびしい籠城戦の末、明智光秀によって滅ぼされます。その後、八上城・城下町は明智氏、前田氏に引き継がれますが、慶長14年、篠山に城と城下町が築かれると、その地位を譲ります。
 本例会では、2000年代前半に進められた八上城・城下町の総合調査の成果(『八上城・法光寺城跡調査報告書』篠山市教育委員会、平成15年3月)をもとに、その後の知見も加え、城と城下町の歴史的意義を解明します。その際、八上城・城下町や波多野氏を丹波レベルで位置づけるだけでなく、戦国時代の畿内近国のなかで考えることにしたいと思います。

●日時 2010年(平成22年)1月30日(土)~31日(日)

◎見学会 1月30日(土) 八上城下町 見学会
  集合 神姫バス「下立町」バス停12:30 
      ①大阪10:54発→(JR丹波路快速)→篠山口11:59
      ②大阪11:10発→(JR特急北近畿)→篠山口12:04
      篠山口駅12:09発→(神姫バス)→下立町バス停12:29着
      ⇒日本交通タクシーに分乗して八上地区へ
    ★自家用車で参加される方は、その旨、事前に世話人にお伝えいただき、当日は、「十兵衛茶屋」バス停近くの「八上ふるさと館みちくさ」付近で、12:45頃お待ちください。
  行程 八上城北麓の城下地区(居館跡、家臣団屋敷想定地、町屋想定地)
     →八上城下町西端の惣構周辺→奥谷城下地区(奥谷城、その他)
       ★注意:八上城(山城の上)には登山しません。
  解散 神姫バス「十兵衛茶屋」バス停 16:50
      (16:50発「篠山口駅」行きバスに乗車予定) 

 懇親会・宿泊  篠山(王地山公園)ささやま荘  *18:00~ ぼたん鍋宴会
  http://www.sasayamaso.com/index2.htm

◎研究会・シンポジウム 1月31日(日) 10時~16時30分
会場 四季の森 大会議室
(生涯学習センター、篠山市網掛429、JR篠山口駅から徒歩20分)
 http://www.city.sasayama.hyogo.jp/karuka/st001301.html
 ①-1 大阪7:56→(JR)→9:16篠山口駅9:28→(神姫バス)→9:33四季の森会館前
 ①-2 大阪8:12→(JR特急北近畿)→9:05篠山口  *同上
 ②大阪8:36→(JR/尼崎乗換)→9:42篠山口駅9:51
                    →(神姫バス)→9:56四季の森会館前

報告 藤田達生氏(三重大学)「戦国・織豊期政治史における波多野氏」
    村田修三氏(元大阪大学)「八上城から見た戦国の城と合戦」
    仁木 宏氏(大阪市立大学)「八上城下町の構造」
司会 大澤研一(大阪歴史博物館)、山上雅弘(兵庫県立歴史博物館)
 ★昼食を摂るところ(食堂など)は会場周辺には少ないようです。御注意下さい。

■参加申込フォーム
  *懇親会に参加される方、(事務局確保済みの宿所に)宿泊される方のみ、以下の情報を仁木宏(1617会発起人)にお伝えください。現在、宿所は数名分の「空き」があります。
    →先着順で、この「空き」がなくなった後は、各自で宿所を確保ください。
     別の宿所に宿泊される場合も、懇親会だけ参加いただくことは可能です。
  *懇親会・宿泊を申し込まれない方、1日目のみ、2日目のみの参加(日帰り)の方は、以下の情報を事前にいただく必要はありません。
  *事務局では、「ささやま荘」(1泊+宴会・朝食で1万円強)を確保しています。

   名前 (     )
   所属 (     )
   Eメールアドレス (     ) *以後、連絡はEメールのみで行います

   参加日程  1/30 八上城下町見学会   参加  不参加
            懇親会(ささやま荘) 参加  不参加
            宿泊予約(ささやま荘) 必要  不必要
              →宿泊予約の方は性別も教えてください。
         1/31 シンポジウム      参加  不参加
 
 
◆1617会発起人  (*アドレスの★マークは@マークです。)
   大澤研一(大阪歴史博物館)   E-mail kenouou★viola.ocn.ne.jp
   仁木 宏(大阪市立大学)     E-mail CYN00403★nifty.com
   松尾信裕(大阪城天守閣)   E-mail dpbre700★gaia.eonet.ne.jp
   山上雅弘(兵庫県立考古博物館)E-mail m-yamagami★hcc1.bai.ne.jp

*1617会の案内を希望の方は、その旨をE-mailアドレスとともに、発起人までお知らせください。また、アドレスを変更された際には、発起人までご連絡ください。
*今後の予定   2010年4月25日(日)  滋賀・佐和山(彦根市)
  以後、大阪・平野、和歌山城下町などを予定しています。

|

2009.12.17 日本史研究会【中世都市奈良研究の現在】のお知らせ

仁木 宏様からのメールをご紹介させていただきます。

*********************************

日本史研究会【12月例会】12月26日(土)13:00~
 テーマ:中世都市奈良研究の現在
 報告者:松尾剛次氏「中世都市奈良と律寺
              ―平安京.鎌倉と比較しつつ―」
     佐藤亜聖氏「考古学から見た中世都市奈良」   
   会場:キャンパスプラザ京都 第三講義室
    京都市下京区西洞院通塩小路下る
    JR.近鉄.京都市営地下鉄京都駅下車、JR京都駅ビル駐車場西側

*********************************

 今ちょっと奈良まで行くのは無理ですが、興味深い内容ですね。

 私にとって奈良といえば、西大寺。西大寺は律宗の寺院で、その西大寺の中興の祖といわれる叡尊が下向して関東に律宗を定着させたのです。それは北条実時の要請によるもので、弘長2年(1262)のことでした。叡尊の教えに触れた実時は篤く帰依し、それから称名寺が律宗寺院となるのです。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/wajima-yoshio-kantogeko.htm(和島芳男氏 「関東下向」)

 叡尊は翌年帰洛しますが、弟子忍性は鎌倉に定着して北条重時建立の極楽寺の開山となります。悲田院もある慈善救済の大寺院極楽寺・・・その根幹にいられたのが叡尊です。

 ついでに書きますと、律宗集団は石工集団を操ってもいて、(即ちそれが財源?)宇治平等院がある宇治川の中州にある十三重塔も弘安9年(1286)の叡尊による建立です。鎌倉での忍性の活動でも石工集団の存在が認められていますし、忍性が鎌倉に来る前にいたつくば市の三村山極楽寺付近でも石の採掘場がありました。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/3tukuba.htm(わらびゆみさんの「忍性がたどった中世の風景」)

 と、こんなふうに奈良西大寺と律宗の関係は、私には大切なテーマなので、松尾剛次氏のご講演は興味深いです。

★冒頭のブログパーツの動物をクリックしてみて下さい。素敵な「Tord Boontjeワールド」が出現します!!ただ、私のブログは写真が多くて容量が重いので、全部をご覧になるのに時間がかかります。以下のブログパーツ設置ページの見本で下の方まで見ることができます。
http://blogpartsgarden.jp/cs/blogparts/detail/091211001227/1.html

|

2009.12.12 新しく【HP Tord Boontjeブログパーツ 】を設置しました!!

【サイトに訪れるたびに変わるかわいい動物たち。
動物をクリックするとサイト全体にTord Boontjeの世界が広がります。】

とのことです・・・・
是非、動物をクリックしてみて下さい。
素敵な「Tord Boontjeワールド」が出現します!!

追記:私のブログは写真が多くて容量が重いので、
全部をご覧になるのに時間がかかるみたい・・・
以下のブログパーツ設置ページの見本で下の方まで見ることができます。
http://blogpartsgarden.jp/cs/blogparts/detail/091211001227/1.html

≪トード ボーチェ≫は世界的に注目されているプロダクトデザイナーです。
名前は知らなくても、森の中の動物や小鳥がシンプルにデザインされている
食器やテキスタイルをどこかできっとご覧になっていると思います。
そんなデザインものを無料で自分のブログに使用させていただけるなんて、
ブログパーツって、凄い!! ですね。

ちなみに、ブログ本体の壁紙(テンプレート)は、
これも凄いことに、デザイナーの黒田潔さんデザインです。
最初、知らないで、ただ一目ぼれして選んだのですが、
その後「黒田潔ワールド」がブームになって、「あれっ!」って思って、
そんな凄い一流デザイナーさんのがテンプレートには用意されているんだ・・・って
驚きました。

|

2009.12.1 足利氏ゆかりの史跡【樺崎寺跡】に行きました・・・オークションで話題になった運慶の大日如来像はもとはここの寺院にありました!!

362 365 370 534 552  栃木県足利市は足利氏ゆかりの地です。足利学校や鑁阿寺で有名ですが、【史跡樺崎寺跡(法界寺跡)】はその鑁阿寺から車で北へ20分ほど行った地域にありました。そして、こここそが足利氏の御廟もある本拠地のような場所でした。

 立札に書かれていた説明がわかりやすいので引用させていただきます。
 足利義兼は、晩年鑁阿と号し建久年間生母菩提のため、理人上人を開山として法界寺を創建しました。法界寺は鑁阿寺を壇上とした奥の院で、義兼自身もここに住み念仏三昧し、正治元年に当地で入寂しました。樺崎八幡宮は、義兼の入定後、子の義氏によって八幡神を合祀したことに由来します。法界寺は、明治以降廃寺となりましたが、この地は樺崎八幡宮を含めて、足利氏関係の遺跡として極めて貴重なものです。
(ご参考までに尊氏までの足利氏の系図を挙げます:義兼―義氏―泰氏―頼氏―家時―貞氏―尊氏)

 この遺跡については遺跡発掘調査の仕事に従事していたころから関心をもって行きたく思っていました。それは、浄土式庭園が出土したからで、浄土式庭園は形式としては明確な分類がされているのですが、実際に目にすることができるのは数少ないのです。著名なのは平泉毛越寺・いわき市白水阿弥陀堂・京都宇治平等院・神奈川県称名寺・・・

  他にもありますが、ざっと思い浮かべていえるのはこれくらい・・・。そんな状況ですから、この樺崎寺遺跡の浄土式庭園出土は、私には歓喜!でした。でも、写真でご覧になっておわかりいただけると思いますが、なんだか辺鄙(失礼!)・・・、どうやったら行けるのかしら・・・で、憧れながら行かないまま過ぎていました。そこに、先週、やっと行くことができて今は夢見心地のような幸せ気分にたゆたっています。

 行って驚いたのは、ここがつい先日オークションで真如苑さんに落札されて話題になった運慶の大日如来像のあった寺院だったのです。ここから流出して個人蔵となりオークションに出されたのでした。話題になったとき、私も関心をもちましたが、そのときはまだまさかその寺院がこの樺崎寺だったなんて結びつきませんでした。大日如来像が法界寺にあったと伝えられたためです。法界寺は樺崎寺遺跡の中にあり、私が遺跡として関心をもったころにはまだ大日如来像はオークションに出されていませんでした。

 一枚目の写真は車窓に、山腹に樺崎八幡宮に登る赤い階段がある史跡の山が見えてきたときのもの。二枚目は車をおりてすぐの調査事務所に飾られていた大日如来像の写真。三枚目は鑁阿寺を中心とする樺崎八幡宮などゆかりの寺院関係。四枚目は法界寺のあった場所。ロープで区画が示されていました。最後は国道に立って八幡宮本殿を遠望したものです。赤いさざんかが見事でした。

 車をおりて、遺跡を目の前にして、まず思ったのは「鎌倉の永福寺と似ている」ということでした。永福寺は頼朝が奥州征伐後に平泉の寺院を模して建てた華麗な寺院です。今は影も形もありませんが、発掘調査が終了して史跡公園として復元されるのを待っている状況です。その永福寺の発掘時に現地説明会で現場に立ちましたが、山を背景にして社殿があり、眼前に浄土式庭園が広がる光景がそっくりでした。

 それもそのはず。樺崎寺もやはり奥州征伐から帰って、平泉を模して造られたのです。平泉の華麗な寺院文化が如何に関東武士の目を驚かせ感動させたかが思われますね。頼朝は鎌倉武士の棟梁となりながら、鎌倉に京のような雅な文化がないことを嘆いていました。でも、それは一人頼朝だけではなく、足利氏にあっても同じだったんですね。

 一般にある私たちは京と鎌倉というふうに、鎌倉時代の文化をそのどちらかしかないように思っていがちですが、群馬県には新田氏の、宇都宮には宇都宮氏の・・・といったふうに、それぞれの地で、鎌倉同様の、もしかしたら鎌倉をしのぐ優れた文化があります。それを知らなくてはいけないと思います。(もしかしたら鎌倉をしのぐ・・・というのは、鎌倉の主である北条氏よりもなんか文化度が高い感じがしています。雅さにおいて・・・。最近、小説「花の蹴鞠」を書いていて、執権という最高権力者である北条氏だけが京との文化的繋がりがなく鎌倉オンリーという気がしているんです。)。足利といえば鑁阿寺・・・としか知らない私たちはまだまだ日本史の実際を知らないことを、この遺跡を訪ねて実感しました。

樺崎寺跡ホームページ: http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/01_kakuka-page/10_kyouiku/05_bunka/kabasakideraato/kabasakitop.htm

|

« November 2009 | Main | January 2010 »