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2010.1.29 万葉集の歴史の森に分け入りましょう!! 番外編・・・⑪埼玉県比企郡 慈光寺

019_2 133_2 084_3 010_2 102 105 117_3 118_3 【万葉集の歴史の森に分け入りましょう】シリーズは先日10回をもって終了にしましたが、ここにきて慈光寺について書いておきたいことがでてきましたので番外編として追加させていただきます。

 『承久記』という承久の乱について書いた合戦記がありますが、その諸本のうちに「慈光寺本承久記」というのがあるのだそうです。ある方からそれを伺って、早速国文学研究資料館の図書室で調べてきました。私が仙覚をめぐって埼玉県の慈光寺に行ってきたことをお話したところ、「『承久記』に慈光寺本というのがあるのだけれど、その慈光寺と関係あるか・・・」みたいなことで教えていただいたのです。

 「慈光寺本承久記」について書かれているのは、村上光徳先生の「慈光寺本承久記の成立年代考」と「慈光寺本承久記の出所をめぐって」です。拝読して、「出所」としての結論は、村上先生のご論考のなかでは「江戸時代に慈光寺家にあった本を書写したもの」ということでした。たしかに江戸のその段階ではそうなのでしょうけれど、では、その慈光寺家に伝わる前の室町・鎌倉時代へとさかのぼったらどうなのか・・・では、まだ埼玉の慈光寺との関係がまったく否定されるほどでもないなあ、という感触をもちました。何か、関係を示す資料が現れたら面白いのですが・・・。

 慈光寺を訪ねたときに、ここがあの日本三大装飾経の一つ『慈光寺経』の寺院なのだと驚いたのですが、その後調べていくうちに、この『慈光寺経』が九条家ゆかりのものだと知りました。どうして京の中枢に位置する九条家のものが、こんなといったら埼玉に失礼ですが、鄙びた関東の奥地の寺院に?といった疑問が湧きました。

 それでなお調べていって、当時の幹線道路は東山道で、現代のような東海道ではなく、奈良・京都の文化は東山道を通って関東についたらまず群馬や埼玉といった地域に定着した。それから鎌倉街道をくだって南下して鎌倉に入った、とありました。成程納得です。現代の私たちは現代の流通機構でしか考えられませんが、当時を知るには当時の機構を綿密に知らなければなりません。以前、称名寺の長老を下野薬師寺から招いた・・・みたいなことを読んで、そのときもどうして「下野」にそんな大きな寺院があったのか・・・も疑問だったのですが、そういうことだったのですね。案外、当時において、鎌倉のほうが文化が遅れていたんです!! これって、結構、案外、みなさん知らないことではないでしょうか!!

 経路はわかりましたが、それでもまだ「何故、京の九条家が関東の奥地の慈光寺にまでわざわざそんな宝物を奉納されたのか?」の謎は不思議です。それを今探っていて、もしかしてここに「仙覚が誰か」の謎を解くキーワードが隠されているのかも・・・みたいなことになってきています。一つヒントを書きますね。仙覚に『万葉集』の校定を命じたのは九条家出身の将軍第四代頼経です。

 慈光寺と、『慈光寺経』と、『慈光寺本承久記』と、仙覚・・・、そこにどんな繋がりがあるのでしょう。ほんとうのことをいいますと、うっかり答えをここで書いてしまいそうにほぼ全貌が見えてきています。わくわくする世界です。実証できるかどうかはともかく、論文では納得いただけるようには書いていくつもりです。

 写真は慈光寺を訪ねたときのもの。時間がなくて最初の本堂をしか訪ねられませんでしたが、山全体が慈光寺です。宝物殿や観音堂、五重塔(五重か…不確かですが)などへはもっと上へのぼっていきます。下の二枚は境内に建てられた「空海の破体心経」と「良寛の楷書心経」の碑です。

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2010.1.27 有賀眞澄氏【うつしみうつしゑ】展のお知らせ

002 有賀眞澄さんが人形作家の衣(メリユ)さんと銀座で【うつしみうつしゑ】展を開かれます。
以下、詳細です。

会期: 1月30日(土)~2月4日(木) 12:00~19:00 
                        最終日は20:00まで
会場: ギャラリーツープラス 中央区銀座 1-14-15 2・3F
                  03-3538-3822

追記:2010.2.1 
 拝見してきました。人形作家衣(メリユ)さんとのコラボレーションの世界は素敵でした。辻村ジュサブローさんの人形ファンの私には、衣(メリユ)さんの作風が少し似ているような・・・。心惹かれて飽かず観てしまいました。でも独学でここまで来られたそうです。サイトにお作品が並んでいますから、是非ご覧になってください。死ぬ思いで創作されたとのこと。そういう魂の籠った気魄を感じます。
 有賀さんの世界は最近少し宗教的な深みを帯びてきてらっしゃいます。仏教とかそういう宗教でなく、私には《釈尊》といった《原始》の哲学を感じます。美しすぎて怖くてうかつに言葉にできない世界です。でも、今日はその創作過程を伺って、作品の奥の透明感が理解できました。

有賀眞澄氏サイト: http://algasmi.jp/
衣(メリユ)さんサイト: http://melsine.com/

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2010.1.27 シンポジウム【書写山円教寺と兵庫県下の山岳寺院】のお知らせ

仁木宏様からいただいたメールのお知らせを転記させていただきます。

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シンポジウム 書写山円教寺と兵庫県下の山岳寺院

日時: 2月20日(土) 10:30~17:00

場所: 日本城郭研究センター 大会議室
     〒670-0012 姫路市本町68-258
     TEL: 079-289-4877

参加費: 無料

申込先: 〒662-0965 西宮市郷免町8-17 
          大手前大学史学研究所 山寺シンポジウム係
          E-mail oteshigaku@gmail.com
                      FAX  0798-32-5045

【プログラム】

趣旨: 大手前史学研究所では、平成19年度より「中世「山寺」と地域社会」と題し、いわゆる播磨六ヶ寺(書写山円教寺・増位山随願寺・八徳山八葉寺・妙徳山神積寺・法華山一乗寺・蓬莱山普光寺)をとりあげて空間構造の復元やその展開、また寺院が地域社会に果たした役割などを考察する研究プロジェクトを企画しました。播磨六ヶ寺は『峯相記』に「公家・武家ノ祈願寺」とあるように、時の権力者の保護をうけて国家安寧を祈願した寺々であり、播磨の歴史にとって非常に重要な役割を果たしていたと考えられるからです。この3ケ年は六ヶ寺中最大の規模をもつ書写山円教寺の遺構や遺物、史料について調査・研究をすすめてまいりました。今回のシンポジウムではその成果をご紹介しつつ、兵庫県下の調査研究の現状を概観して、中世山岳寺院遺跡研究の展望を得たいと思います。

11:00~ 開会挨拶
11:10~ 基調報告  「書写山円教寺の調査と中世寺院研究」 中井敦史
11:50~ 事例報告1 「書写山円教寺の空間構造」 山上雅弘
12:20~ 昼食
13:30~ 事例報告2 「中世後期の書写山円教寺」 小林基伸
14:00~ 事例報告3 「多可町の山林寺院」 宮原文隆
14:30~ 事例報告4 「但馬地方の山岳寺院」 西尾孝昌
15:00~ 休憩
15:10~ 討論
16:40~16:50 閉会挨拶

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2010.1.26 【平安京・京都研究集会 第19回】のお知らせ

仁木宏様からのメールをご紹介させていただきます。

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平安京・京都研究集会 第19回 御案内

  平安京・京都研究集会では、「検証 考古学が明らかにした古代・中世の京都像」と題する一連の企画を催すこととしました。近年刊行された、京都の考古学にかかわる3冊の論集を順次とりあげ、連続書評会をおこないます。これらの研究集会によって、考古学を中心とする京都研究の成果を確認するとともに、今後の研究の課題を見出すことができれば幸いです。
 第19回は、そのうちの第1回として、鋤柄俊夫著『中世京都の軌跡』(雄山閣、2008年)をとりあげます。同書で鋤柄氏は、11世紀から16世紀までの京都内外のさまざまな歴史事象に注目し、多角的、学際的に都市京都の特色を解明しようとしておられます。研究集会では、権門都市論、室町幕府論などの視角や、考古学の方法論をめぐって議論したいと考えています。

  日時:2010年2月28日(日) 13:00~17:00

  会場:機関紙会館 5F大会議室
       京都市上京区新町通丸太町上ル東側。日本史研究会事務所の建物 
              市バス「府庁前」バス停すぐ。
        地下鉄「丸太町」駅下車、2番出口より西へ、2筋目を北へ。徒歩6分
    http://homepage2.nifty.com/kikanshi-keiji/kaizyou.html

    報告(評者);美川 圭氏(摂南大学、日本中世史)
          桃崎裕一郎氏(立命館大学、日本中世史)
          山本雅和氏((財)京都市埋蔵文化財研究所、日本考古学)
  コーディネート;仁木 宏氏(大阪市立大学、日本中世史)

     *事前の申込不要。一般来聴歓迎。
     *当日、資料代をいただきます。

  主催  平安京・京都研究集会

          集会案内のHP http://ucrc.lit.osaka-cu.ac.jp/niki/kenkyu/staff.html

  後援  日本史研究会

  問合先  平安京・京都研究集会事務局(山田方) 090-9697-8052

  本シリーズの第2回では、堀内明博『日本古代都市史研究』(思文閣出版)、第3回では、山田邦和『京都都市史の研究』(吉川弘文館)をとりあげる予定です。

●鋤柄俊夫『中世京都の軌跡-道長と義満をつなぐ首都のかたち-』雄山閣、2008年
  序章 慶滋保胤の意図
  第1章 分裂する都市-鳥羽殿の意味-
   1 京の外港
   2 鳥羽殿
  第2章 再生する都市-上辺と下辺-
   1 七条町と八条院町
   2 西園寺公経と持明院殿
  第3章 主張する都市-「首都」の条件-
   1 花の御所を掘る
   2 洛中洛外図の発掘調査

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2010.1.24 万葉集の歴史の森に分け入りましょう!! 最終回・・・⑩鎌倉妙本寺 竹御所ゆかりの新釈迦堂跡地

Dsc_0090 Dsc_0081 Dsc_0070 Dsc_0122 Dsc_0104 Dsc_0129 Dsc_0141 竹御所は頼家の遺児ということは確かですが、母が誰かについては確定されていません。比企一族亡きあと、そこを相続するようにして比企ケ谷に御所を構えて住んだことから一族の血を引く・・・、つまり母は若狭局だろうというのが通説です。が、室町時代にできた『尊卑分脈』では木曽義仲の娘になっています。

 私も最初は『尊卑分脈』のこともあるし、通説を疑って、もっと別の女性の可能性もあると考えていました。小説的にはその方がずっとゆたかな話になるんです・・・。が、仙覚についていろいろ知識が深まるとともに、竹御所についても自然と経緯が読めてきて、今ではすっかり若狭局の娘という考えに定着し、揺るぎなくなっています。

 つまり、比企の乱の年、それは建仁3年(1203)ですが、竹御所は産まれたばかりで若狭局とともに政局とは関係のないメインの館でない場所にいた。それで乱に巻き込まれずにすんで生き残ったが、母若狭局が悲嘆のあまり自殺してしまったために、祖母政子によって養育された・・・、というのが私のなかでの自然な決着です。そして、これは通説通りです。

 成長した竹御所は頼家の遺児として、実朝亡きあとは源家の血を引く最後の人として御家人たちの象徴的存在になります。政子も竹御所を後見人のようにして育て、竹御所自身、それに応えられるしっかりした女性になっていきます。『吾妻鏡』をみるとそのころ竹御所主導でいろいろとりしきられていることが明記されていますから、さすが政子の孫!といった感じです。

 28歳のとき、15歳も年下の第四代将軍頼経と結婚します。これは今一度源家の血を引く人間を将軍にという切なる望みを一身に背負ってのことでした。その夢が叶いそうになっての出産で竹御所は命を落とし、ここにほんとうに源家の血が絶えてしまったのでした。京に滞在していた御家人たちが彼女の訃報を聞くや慌てて鎌倉にこぞって戻ったといいますから、如何に源家血筋の唯一の存在として人望を集めていたかが伺われます。15歳も離れて年上の女性とはいうものの、頼家は彼女を慕っていたようで、『吾妻鏡』にいっしょに名前を連ねている歌会の記事などをみると微笑ましくなります。

 生きてらしたら素敵な女帝が鎌倉に存在して、鎌倉の歴史ももっと彩られたでしょうと思います。なにしろ政子の血を引くやり手で、若狭局から受け継いだ優しさと美しさを兼ね備えていたでしょうから。(そうでなくて頼経があれだけ心を寄せるはずはないですよね・・・)。薄倖の女性で若狭局の娘というとどうしても楚々としてはかない美しさと思いたくなりますが、実際は鎌倉の長にふさわしいしっかり者だったと思います。彼女自身、頼家の娘としての尊厳を自覚していたようですから。

 彼女の死を悼んで建てられたのが新釈迦堂です。それは妙本寺境内の一番高い位置にある平場といわれ、現在そこは妙本寺の墓地になっていて、その一番奥に竹御所のお墓があります。一枚目の写真がその光景です。二枚目はお墓です。お墓の脇に女扁に美という漢字に子と書いた「びし」と呼ぶのでしょうか、名前が刻まれた碑があります。が、竹御所にはもう一つ別の名前があって鞠子といいます。頼家が蹴鞠を好きだったことからつけられたのでしょうね。私はなんと読むのかわからない「びし」よりも鞠子の方が好きですから、「花の蹴鞠」では鞠子を使うつもりでいます。

 この新釈迦堂の僧侶として仙覚はここで万葉集の研究に勤しみました。仙覚は竹御所と同じく比企の乱の年の生れです。母親も、父親さえもわかっていませんが、『万葉集』『万葉集註釈』の二つの奥書に「比企」があることから、比企一族ということが察せられます。乱のあと、一族の血を引く男児として殺されないために鎌倉を離れ、おそらく埼玉の比企郡に身を寄せたのでしょう。そこからさらに京都にのぼったり変遷して、竹御所を悼む新釈迦堂ができたときに、同じ一族の血を引く者として住職に迎え入れられたのではないでしょうか。そして竹御所亡きあとの頼家に仕え、その頼家から万葉集の校定を命じられるのです。

 仙覚は竹御所と会っているでしょうか。産まれたばかりでちりじりになって、その後は仙覚がほとんど鎌倉に戻っていませんから、もし竹御所の死後、その追悼のために呼ばれたのだとしたら一度も会っていないことになります。仙覚がいつ鎌倉に戻ったか・・・のあたり、もっと詰めて考えたいですね。気持ちとして孤児どうし残された身内・・・、心の通い合いがあったと思いたいですものね。

 仙覚の万葉集の功績を称える碑は竹御所のお墓がある平場にのぼる石段の下に建っています。ひっそりと、永遠に、竹御所を守り続けるかのような風情です。妙本寺の境内には、日蓮宗寺院としての現在の伽藍・お堂とは別に、こんなにも深い比企一族の方々の歴史があるのです。当時を偲ぶものは何も残されていませんが、その地にはたしかに一族の方々の生きた思いが込められているのを感じます。比企の乱のあった地として、その狭い空間で歴史の流れが変わった地として、若狭局、竹御所が暮した地として、一度妙本寺を訪ねてみていただきたいと思います。そうしてそこに仙覚が万葉集を研究した地として・・・。(このあたり、もっともっと思いは深いんですが上手く書けなくてもどかしい・・・です。これからかかる論文と「花の蹴鞠」とに思い切り書きこむことにします。)

 これで10回に分けてご紹介させていただいた「万葉集の歴史の森に分け入りましょう」シリーズを終わらせていただきます。私のなかではすでにはっきりと仙覚が誰かメドがたっています。その人生を追うと、さまざまな折で当時の重要な文化にも遭遇し、それがまた仙覚が誰かの問題解決につながったりして面白い展開になっています。論文の発表は夏以降になりそうです。そのときに仙覚がいったい誰だったかをまたここで書かせていただきますね。

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2010.1.22 万葉集の歴史の森に分け入りましょう!!・・・⑨鎌倉妙本寺 若狭局ゆかりの蛇苦止堂

052 156 054 043 049 036 若狭局は比企能員の娘です。頼家の側室となって男児一幡を産んだことから、能員が北条氏に代わる外戚となる可能性ができたために、比企一族は滅ぼされました。

 比企の乱とはいうもののたった一御家人の屋敷を襲うだけですから、一日と戦わずにしてあっけなく終わっています。

 妙本寺の境内に入って、昨日地図でご紹介した一族の墓がある平場へ昇る坂道はちょっとした山道のようなすずやかさがありました。この山道があるために鎌倉市街からはちょっと遊離した避暑地的空間になっています。その昇り詰めたところにあった屋敷・・・。火を放ってもそんなに一日中燃えているわけではなかっただろう狭い空間・・・。乱のとき、こんもりした小さな森を隔てた高台でそれだけの殺戮が行われていることを市街の人は知っていたでしょうか。もちろん、武具をまとった武士団が乗り付けて入っていったのですから、察しはついたでしょうけれど、中の雄叫びや悲鳴が市街にまで届いたか、私には気になります。たったひとっ跳びの森を隔てての地獄とふつうの日常・・・。一方では怒号が飛び交い血しぶきが飛び散る命がけで戦う人々。その一方で反対側ではいつものとおりの時間が流れていて、人々は心配しつつも別世界のように谷を窺っている・・・

 一族の墓がある場所で討たれたのは一族のうちの男性陣と幼い一幡君だけだったようです。あとで乳母が一幡君の遺体を確認しています。それで一幡君は骨を拾ってもらって高野山に葬られています。ということは、乳母は一幡君と一緒にいなかったことになります。『吾妻鏡』で、その一日の事の顛末を読んだとき、最初はどうしてもいろいろ不可解でした。何故乳母なのに一緒にいなかったの・・・とか、母親の若狭局はどこにいたの・・・、いえ、若狭局自体、ほんとうにこの乱で死んでいるの・・・とか。

 若狭局の死は『吾妻鏡』に明記されていません。ただ、ずっと後に執権北条政村の娘にとりついて、「自分は若狭局の霊で蛇となって未だに苦しんでいる」と告げたということが書かれています。幕府が関わってできた『吾妻鏡』の記載にそうある以上、若狭局が乱のときに亡くなっていることが幕府の中では認知されていたのでしょう。気持ちの上では比企郡にある「若狭局が逃げ延びて住んだ」という伝承を信じたい気もしますが・・・

 蛇苦止明神を祀る蛇苦止堂は、前回地図で確かめていただいたとおり、一族の墓がある広い平場とは離れたところに独立してあります。この堂自体は政村の娘にとりついた若狭局の霊を慰めるために建てたそうですが、ここだったのか、それとも別の平場か、私の推測ですが、とにかく若狭局は乱のときの屋敷とは別の私的な住居に乳母と一緒にいたのでしょう。

 おそらくそのとき、若狭局は一幡の妹となる女児(竹御所)を産んだばかりで、その育児に乳母とともに専念していた・・・。一幡はすでに比企氏を背負う長として公の場であるメインの館に男たちに交じっていたのだと思います。それで一幡は一族とともに果て、若狭局・竹御所・乳母は助かります。

 が、その後、絶望のあまりに若狭局は井戸に身を投げて死んだそうです。残された竹御所は祖母政子に引き取られて成長したようです。若狭局の霊はずっと後になっても祟ってでるほどだったといいますから、如何に比企の乱が理不尽な許せないものだったかがうかがわれます。

 蛇苦止堂に向かって狭い石段を昇り詰め、視界が目に収まったとき、一瞬来るのでなかったと後悔したほど思わず足がひるみました。なにかとても不吉なおどろおどろしい感じがしたのです。全体に薄暗く、蛇とか祟りとかの伝承を知っているからというだけではない不気味さがそこにはありました。そして、若狭局が蛇となって住んでいるという池や、身を投げた井戸、というものが実際にそこにあるのです。

 でも、蛇苦止明神というのは、前回でも記しましたが、「苦を止める」のです。一瞥したときに感じる文字の怖さと意味は正反対です。どうにかならないでしょうか、この名前。美しかったでしょう若狭局にもっとふさわしい名称はなかったのでしょうか。

 そんなことを思いつつ、こわごわと井戸を撮ったりしながら、次第に境内の雰囲気に慣れて、それから最後に再びお参りしてから帰ろうとお堂に向かって手をあわせて「これから恨みを晴らしてさしあげる小説を書きますね」と心のなかで呟いた時、ふっと後ろから陽が射してきてあたりが明るくなりました。振り返るとそれまで空を覆っていた雲が引いて青空が見えています。若狭局に気持ちが通じたんだ、よかった・・・と思いつつ石段を下りはじめました。一枚目の写真がそれです。お堂に陽が射していますでしょ。着いたときは射していなかったんですよ。下の方の池や井戸の写真はそれより前に撮ったもので薄暗いままです。

 石段の途中に妙本寺の庫裏があります。そこにさしかかったとき、ガラッと引き戸があいて、中から作務衣姿のお坊様が出て来られました。「写真を撮らせていただきました」とお礼を申し上げると、「いい写真が撮れましたか?」といわれます。「はい、ちょうど陽が射してきましたので」と申しあげると、「それはようございました」と、その方がおっしゃるのです。なんか変な会話・・・と思ったとき、ふっと私は若狭局がそのお坊様に乗り移って言葉を発せられたかのような感覚にとらわれてしまいました。

 三枚目のお墓の写真は「讃岐局の墓」で、一族のお墓の脇の細い階段をのぼったところに一基だけあります。若狭局はのちに讃岐局と呼ばれました。仙覚が頼家の子と推測されるご本を拝読したことがあります。そうすると母は若狭局ということになります。けれどいろいろな事情を重ね合わせてみて竹御所の母はやはり若狭局とするのが妥当というところに私の気持ちは固まってきています。すると、同じ年に竹御所が産まれているのですから、仙覚と竹御所は双子?! なんて驚異的な考えにまで飛躍してしましました。目下は治まって、やはり竹御所の母は若狭局、仙覚の母は別の人・・・という考えに落ち着いています。

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2010.1.21 万葉集の歴史の森に分け入りましょう!!・・・⑧鎌倉妙本寺 比企能員一族の墓

007_2 803 009 008 001_2 023 015 鎌倉の妙本寺のある地はかつて頼朝から比企尼がこの地を与えられて住んだことから比企ケ谷と呼ばれています。能員は比企尼の甥です。比企尼の養子となって頼朝から格別にとりたてられたご家人です。妻が頼家の乳母となり、娘の若狭局が側室となって男児一幡を産んだことから、順調にいけば将軍の外戚となって北条氏に代わる権力者になるはずでした。

 そんなことをみすみす許すはずのないのが北条氏です。建仁3年(1203)、比企一族は北条氏によって滅ぼされました。それが比企の乱です。一族の墓が妙本寺境内にあります。

 現在日蓮宗寺院の妙本寺は、能員の子孫が一族を弔うために建てたものです。日蓮に帰依した僧侶でしたから日蓮宗寺院になりました。それまでは比企の乱で生き延びた頼家の遺児竹御所が住んでいたようです。竹御所は成長して第四代将軍頼経の室となります。が、出産時に死去。御所のあった地あたりに葬られ、そこに新釈迦堂というお堂が建てられました。この時点では天台宗寺院だったようです。仙覚は天台宗の僧侶です。

 妙本寺境内は平場が何段かになっていて複雑な地形です。下から二枚目の地図をご覧になっていただきたいのですが、赤く「現在地」と記されたところまでは鎌倉駅から通ってきた通りと同じ平地です。そこから斜め左にあがった平場に現在の方丈があります。そこへは行かずにまっすぐ進むとかなりな急坂になり、祖師堂のある別の平場に出ます。この一帯に比企一族の墓と一幡君の墓があります。なので能員の屋敷はここにあり、ここで攻められて滅びたのでしょう。

 竹御所の墓や新釈迦堂があった平場はここからさらに階段で上に昇ったところにあります。地図では階段だけが描かれていて平場は切れてしまっています。階段を昇ると現在は広い墓地になっています。仙覚の万葉集の碑は、この階段の下にあります。上の平場の竹御所の墓を守っているような感じです。仙覚も比企の乱の年の生まれ。同い年の二人です。どういう関係の二人だったのでしょう。

 地図に戻って赤い「現在地」から左へくねくねと延びる小道の先にあるのが蛇苦止明神。若狭局のお堂です。おどろおどろしい名前ですが、「蛇」となった「苦」を「止」めるというのですからいい名前なのですが・・・。若狭局の旧跡と竹御所ゆかりの平場については順次アップしていきます。

 仙覚は最初鎌倉の「比企ヶ谷新釈迦堂」で万葉集の研究に勤しみ、晩年近くなって「埼玉県比企郡小川町」で万葉集註釈を成しました。これまでずっと比企郡の地をたどってきましたが、ここから鎌倉に戻ります。仙覚の移動した空間を追体験していただけましたでしょうか。写真は昨年暮れの27日に訪ねたときのものです。なので一枚目の写真には門松が立っています。

【織田百合子ホームページ】 http://www.odayuriko.com/ 

★冒頭のブログパーツの動物をクリックしてみて下さい。素敵な「Tord Boontjeワールド」が出現します。rtsgarden.jp/cs/blogparts/detail/091211001227/1.html

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2010.1.20 万葉集の歴史の森に分け入りましょう!!・・・⑦埼玉県東松山市 物見山岩殿観音正法寺

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 埼玉県東松山市にある岩殿観音正法寺ですが、東武東上線の駅としては隣の高坂駅になります。大東文化大学の広いキャンパスに隣接している場所といったらわかりやすいでしょうか。ここも比企氏ゆかりの寺院です。比企能員の中興といいますが、行くまであまりその重要性を考えずにいました。が、行ってきた今になって、斉藤慎一氏の「まぼろしの比企能員屋敷」という『本郷』に掲載されたご論を拝見して、そうだったのか・・・と、改めてこの寺院に思いを馳せています。

 斉藤氏の説はこうです。この寺院と参道をはさんだ反対側にかつて阿弥陀堂が存在した。その阿弥陀堂の前には弁天沼という池がある。池からは中世の瓦が採集されていて鎌倉時代初期のものである。そして「坂東第十番武蔵国比企郡巖殿山之図」には「比企判官旧地」の記載がある。比企能員が岩殿観音の中興と伝承されていることからも、この一画に比企能員の屋敷があった可能性は高い・・・

 そしてさらに斉藤氏は続けられます。阿弥陀堂とその前面の池、そしてその周囲の景観を含む「この空間構成はまさに近年に確認されつつある鎌倉ご家人の本拠の景観である」と。

 斉藤氏のこのご論を知ったのはほんのつい最近です。が、思わずはっとし『本郷』を急いで探して拝読しました。というのも、東松山市大谷の宗悟寺一帯の「比企尼・比企能員館跡」を訪ねて③でご紹介もさせていただきましたが、ほんとうのことをいうと「ほんとうにこんなところにかつて屋敷が建ち並んでいたのかなあ・・・」といった感じをぬぐいきれずに帰宅したからです。平場があるとはいうものの深い竹藪のなか・・・、あとは大きな沼・・・、そのあたりにあったというだけの伝承で、確かなもののつかみようがないらしいのです。で、私は時間が足りないのもあって奥まで踏み込む必要を感じず手前のところでUターンして帰ったのでした。

 が、岩殿観音のあたりが比企能員の屋敷だったとすると、まさに斉藤氏のいわれる空間構成として心から納得できます。現地に行った感覚では、比企能員館は宗悟寺一帯よりもこの岩殿観音のある地です。

 阿弥陀堂があった場所に隣接して「足利基氏館跡」があります。訪ねたのは最初の踏査の4日で、この日は「岩殿観音→慈光寺→小川町仙覚万葉集碑」でした。これだけ回るために急いでいたので岩殿観音には参道を歩かずに直接裏から入ってしまいました。阿弥陀堂があったとされる参道の入口一帯に行くには「足利基氏館跡」という案内板が目安です。もう一度訪ねて確認したい景観です。

 岩殿観音は写真でご覧のとおりに境内の観音堂にのしかかるようにして大きな岩盤が切り立っています。こういうところに籠って修行される僧侶の方の精神性の孤高を思ってしまいました。

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2010.1.17 万葉集の歴史の森に分け入りましょう!!・・・⑥埼玉県比企郡吉見町御所 伝源範頼館跡【息障院】

0040_2 0043_2 0061_2 0060_2 0047_2 0083_2 0052_2 前回ご紹介した吉見観音安楽寺から東に500mほどのところにある息障院は源範頼の館跡といわれています。範頼は頼朝の弟で義経の兄にあたり、源平の争乱では義経とともに戦っています。その後頼朝に仕えていますが逆鱗に触れることあって修善寺に幽閉され、そこで殺されたというのが一般的味方です。

 が、『吾妻鏡』にその記述がないために逃げ延びてここ比企で暮したとか(御所はそのときのものとか・・・)、そうではなく横浜市金沢区に逃げて、そこの太寧寺で自害したとか、はたまた比企から能登に逃げ延びて、そこで吉見氏の祖となったとか、最期の説はいろいろです。そういえばかつて金沢文庫に通っていたころ、金沢地区を散策して範頼の墓というのに会って「こんなところに?」とふしぎに思ったことがありますが、そのときの範頼さんだったんですね。

 吉見観音の項でも書きましたが、平治の乱のあと範頼は吉見観音の稚児僧となったとか・・・。その後もこの地域に暮らしてこの息障院のある一帯が範頼の居館跡とされています。地名も、「御所」です。私が「比企の範頼」を知ったのは、比企尼の孫娘がその妻となっているからです。比企尼の娘の丹後局の娘です。比企尼は孫娘のために範頼に比企の領地を与え、それで範頼はここに住んだ・・・と。これだと平治の乱後稚児僧となってこの地にゆかりができたというのと合いませんね。

 どうも範頼のこの地との関連は曖昧です。私も「比企尼から与えられた領地」を見るために行ったのですが、実際のこの場所に立つまで、ここがこんなに立派に堂々と「御所」の風格を成しているとは思っていませんでした。もっと小さな鄙びた館と思っていたのですが、もしほんとうに修善寺からこの地に逃げ延びて住んだというのなら、とても立派に堂々と暮らしていたように見受けました。それとも、修善寺幽閉事件前より別邸としてすでにこの地と関わりをもっていたのでしょうか。そのあたり曖昧模糊として判断できません。

 事実や伝承がどうにしても、範頼がこの地と、そして比企尼一族と密接だったことは実感しました。最後の一枚は山門の前からおそらく吉見観音のある方を望んだ風景。もしほんとうに範頼がここに暮らしたのなら、範頼も見た風景です。

 範頼が修善寺に幽閉されて殺されたとされるのは建久4年(1193)。仙覚が産まれるのはずっとあとの建仁3年(1203)ですから、仙覚は範頼と関わっていません。ただ、比企一族の子孫のなかの誰かが「仙覚」ということで、範頼と比企尼の孫娘のあいだにできた男児系統にもその可能性があるので興味をもちました。その男児二人が、範頼の修善寺幽閉後、比企尼・丹後局の二人の女性の必死の懇願で命を助けられ、お寺にいれられて生き延びます。そのお寺が慈光寺です。

http://www.town.yoshimi.saitama.jp/guide_sokusyouinn.html(息障院)

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2010.1.14 万葉集の歴史の森に分け入りましょう!!・・・⑤埼玉県比企郡吉見町御所 吉見観音安楽寺

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埼玉県比企郡吉見の吉見観音安楽寺へは、東武東上線東松山駅から行きます。ここは源範頼ゆかりの寺院。あの源頼朝の弟で、義経の兄にあたる人物です。私が現地を訪れたいと思った最初の寺院です。というのも、範頼は比企氏の女性と結婚しているのです。

 伊豆流刑時代の頼朝を支えた比企尼。その長女の丹後局。その丹後局が安達盛長と結婚してできた女性と範頼は結婚しているのです。つまり範頼の妻は安達盛長の娘なのです。(と、こんなところで源家と比企氏、安達氏が繋がっているのも面白いですね・・・)

 というのは通説で、というより『尊卑分脈』にそうあるからなのですが、ここは私はちょっと異説をもっています。それは原稿の方に書くことにして、一応ここでは通説のとおりに書いておきます。

 通説では、(事実かもしれませんが・・・)、比企尼は孫娘と結婚した範頼に領地を与え、そして住んだのがこの地区といわれています。で、この吉見観音のある地名も「比企郡吉見町御所」です。写真四枚目にあるように、安楽寺入り口の「岩殿山安楽寺」と記した石塔(三枚目)の裏には「蒲冠者 範頼旧跡」とあります。

 実際にこの地を訪れるまで、範頼の影がこんなにこの地に色濃く残っているなんて思ってもいませんでした。御所という地名があるからには本当なのでしょう。ただ、いつどんな形で範頼がここと関わったのかというと、まだ不可解はたくさんあります。第一に、吉見観音には「範頼が平治の乱後ここに逃げ延びて稚児僧として暮らした」とあります。これだと比企尼に領地を貰って・・・というのと辻褄があいません。また、範頼には京で範季に引き取られて成長したという、これはほぼ事実らしいのですが、そうすると吉見観音の「稚児僧」はなかったことになります。このあたり、真実はどうなのでしょう。そんなことを確かめたくて吉見観音に行ったのですが、実際に目でたしかめた「範頼の影」はかなり明確に現実的でした。

 ここからすぐのところに息障院という寺院があります。こここそ伝範頼館跡という旧跡です。範頼が頼朝の怒りを買って殺された後、比企尼と丹後局の必死の嘆願で命を救われた二人の子息(丹後局の娘との子)の子孫がここで暮したともいいます。そのあたりも曖昧ですが・・・

 その二人の子供が命を助けられた代わりに入寺させられたのが、このシリーズで①としてとりあげた慈光寺です。慈光寺については、その後どんどん知識が広がって、書こうとしている原稿もとんでもない方向に膨らんで、面白くなってきています。原稿にはしっかりまとめますが、このシリーズでその面白さを感じていただけるよう、これからも続けて書きますね。万葉学者仙覚さんも、しっかりとこのワールドに踏み込んできています!

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2010.1.12 万葉集の歴史の森に分け入りましょう!!・・・④埼玉県東松山市大谷 大谷瓦窯跡

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 二枚目の写真に写っている案内板にはこう書かれています。【瓦が多量に生産されるようになるのは、寺院建築が盛んになる飛鳥時代からです。奈良時代から平安時代には、各国に建立された国分寺やその他の寺院が盛んに建立されたので、各地で瓦が生産されるようになります。大谷瓦窯跡もその頃つくられたものです。瓦を焼く窯は「登り釜」です。傾斜地を利用し斜めに高く穴をあけ、下の焚き口で火をもやし、還元熱を応用し高熱を得るよう工夫されています。この窯跡も三十度の傾斜角を有しています。さらに、高熱に耐えられるよう、焚き口の火床は粘土を積み固め、側壁は完型の瓦を並立して粘土で固定し、床面は粘土と粘板岩の細片をまぜて固め段を作るなど、補強工作が慎重に行われています。】

 実際に焼くときは確か蒲鉾型に粘土を積み上げてドームを作り、そこに焼くものを入れるんですよね。それが「側壁は・・・」なのだと思います。焼きあげたあと壊して取り出すから床しか残っていないのでしょう。

 遺跡発掘作業に従事していたとき、関係する遺跡が中世のものだったので、主要遺物は陶磁器でした。なのでその陶磁器がどこの産地かが重要となります。それで窯跡関係(産地関係)にちょっと傾倒しました。でも、「登り窯」という言葉は覚えても実際の窯を目にする機会なんてそうそうありません。こんなところで思いもかけず出逢えてラッキーでした!

 下の宗悟寺の項にも書きましたが、現地に行くまで私は瓦の生産が比企氏の財源の一つとばかり思っていました。が、国分寺建立の頃の律令制の時代が最盛期で、鎌倉時代にはもうすたれてしまっていました。比企尼、能員館跡はここからもうすぐ、最後の写真の左手奥。左端のこんもりした林の一帯がそうかもしれません。

 4日と8日の二回の現地踏査でほぼ比企氏の現地でのようすがつかめました。東京にいて、鎌倉の視点で埼玉県比企郡を見ていると「奥地」・・・、文化から離れた在地豪族でしかないイメージです。が、行ってみたらとんでもない!! そこには国宝「慈光経」があるような大きな寺院があり、範頼の御所まであって、もしかしたら鎌倉よりも風流な、京に近い文化圏が広がっていました。

 慈光寺の項で書きそびれてますが、慈光寺は浅草の浅草寺、日野の真慈悲寺と並ぶ、頼朝の三大祈願寺だそうです。昨日、峰岸純夫先生と電話でお話して、行ってきましたとお伝えしたらそう教えていただきました。こんなところでまた峰岸先生のライフワーク「真慈悲寺」と重なるなんてとふしぎな感じです。

 慈光寺はもっともっと追究する必要があるようです。目下急速に溜まった比企氏現地関係の資料に目を通していますが、もやもやととても深い真実の森に分け入った感。仙覚の万葉集研究から離れに離れていく感じがしないでもありませんが、その森に仙覚の息吹が感じられているのも事実です。仙覚は、今まで研究されていたよりももっと広がりのある魅力的な人物の気がします。

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2010.1.10 万葉集の歴史の森に分け入りましょう!!・・・③埼玉県東松山市大谷 比企能員館

120 131 180 182 174 192 203比企能員館は埼玉県東松山市大谷(おおや)にあったと推定されています。東武東上線東松山駅から北へ行った森林公園に近い一帯です。まだ不明の点もあるようですが、宗悟寺境内に接して東側一帯がそうだそうですので、八日に行ってきました。

 一枚目は車をおりて宗悟寺の山門を遠く望んだところ。二枚目がその山門です。扇谷山宗悟寺・・・、なんとなく鎌倉の扇ヶ谷を思ってしまいますね。

 写真では切れていますが一枚目の右側に案内板があります。それが三・四枚目です。あいにく文字がかすれてどうにもよく読めず、仕方ないので写真に撮って、画像補正をしてここまで読めるようにしました。なので、現地に立っていたときはこの内容や地図が読めずに、「この山門の東側一帯」というだけの知識を頼りに歩きました。ネットで調べたときに、この地図以外に碑や案内板、遺跡や遺構などの所在を示すものはないと書かれていましたので、最初からそうするしかないと決めていました。
http://ckk12850.exblog.jp/5127390(【そこに城があるから/比企能員館(城ヶ谷)】)

 サイトをご覧になっていただくと、東側一帯の奥に入っていったところに沼が幾つかあるようですが、誰もいない本当に広いところで、ちょっと怖くなったし、図書館に回って資料調べをする時間もとりたいので、そこまでは行きませんでした。ただ、そこへ至る場所として、比企尼も比企能員も、そして鎌倉から訪ねてきたこともあるとしたら若狭局も、この土地を通って踏みしめたことは確かでしょう。最後の二枚がそれです。六枚目が奥を望んで、最後が振り返って宗悟寺のある方を望んで撮ったものです。

 この地域に隣接するようにして男衾郡があります。深谷市になります。男衾三郎絵詞という、東国の御家人の屋敷のようすが描かれた絵巻がありますよね。吉見二郎と男衾三郎兄弟を描いたといいますから、まさにこの一帯の地方武士の生活が描かれているわけです。私が訪ねたこの現在荒涼として広がる一帯にも、当時は比企能員館、比企尼の館として、絵巻のような館が建ち、活気ある人々の生活が為されていたのでしょうか。
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?processId=00&Title=%92j%E5%CE%8EO%98Y%8AG%8E%8C&Artist=&Site=&Period=&FromNo=&ToNo=&pageId=F07&filmnum=16967

 吉見二郎は都風の優雅な生活を送り、男衾三郎は武士一辺倒という対照的な兄弟だそうです。男衾は畠山重忠に、吉見は比企能員に縁のある一族のよう。仙覚を追い始めて私は比企氏が案外、鎌倉よりも京に近い優雅な文化の持ち主で、それで一族の子孫となる仙覚もただの天台宗の僧侶だけでなくゆたかな感性で万葉学者になった・・・のでは?という感想を持っています。

 吉見二郎の、「吉見」の名は、この日この大谷を訪ねる前に回った吉見観音に通じます。吉見観音についてはまた順次アップしていきますね。この日のコースは、吉見観音(吉見百穴の近くです!)→源範頼御所跡→比企能員館跡→東松山市図書館、です。

 比企一帯が瓦の産地ということを、昨年開かれた府中市郷土の森博物館の【武蔵府中と鎌倉街道】展で知ったばかりです。比企氏の財源の一つだったのかなと、それを見て思いました。そうしたら、宗悟寺の近くに「大谷瓦窯跡」という登窯の遺跡があって、やはりそうだったんだ・・・と感慨を深めました。宗悟寺へ行く前に回って撮ってきましたが、宗悟寺の入り口にも案内がありました(五枚目)。比企能員館のある一帯で瓦を焼いていたんです・・・。現地に赴くといろいろ実感がつながって面白いですね。(追記:その後東松山市立図書館で得た資料を読んでいたら、大谷瓦窯などの瓦生産は古代瓦で、比企尼や能員の頃には衰退していたとありました。これも、現地に行ったからこその資料ですが、間違ったことを記してしまって済みません。)

 万葉学者仙覚も比企氏ゆかりの人なら、この地を歩いたでしょうか。比企乱で能員が殺された年の生まれの仙覚ですから、当然、能員とは会っていません。比企尼とも多分会っていないでしょう。比企尼の没年がわからないので実際はわかりませんが・・・。若狭局とは・・・? 仙覚の万葉集の碑がある小川町駅は東松山駅から4つ目です。そこに政所があって、そこで仙覚は万葉集の註釈書を完成させました。

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2010.1.7 万葉集の歴史の森に分け入りましょう!!・・・②埼玉県比企郡小川町 仙覚律師遺跡【万葉の碑】

139 142 143 145 148 174 文永六年(1269)、仙覚はここ埼玉県比企郡小川町で『万葉集註釈』という万葉集の註釈書をを完成させます。67歳でした。そして仙覚のその後の消息はわかっていません。巻10の奥書に「文永六年孟夏二日於武蔵国比企郡北方麻師宇郷政所註之了」とあり、「麻師宇郷」がここ小川町の増尾あたりといわれています。

 碑は、仙覚の研究者佐々木信綱博士らによって、昭和三年に建立されました。信綱博士の思い入れは篤く、博士の存在なくして今日の仙覚並びに万葉集研究の進展はなかったでしょう。詳細は以下のHPでご覧ください。
http://manyo.web.infoseek.co.jp/sengaku_isekiannai.htm
http://manyo.web.infoseek.co.jp/sengaku_kaisetu.htm

 碑は「中城」という中世の城跡上に建っています。ちょっとした古墳を登っていくような感じで車では入れません。写真は車をおりて、ここを登るんですよ、という最初の案内の石の標識から順に載せました。二枚目は少し登って振り返って見た小川町の風景。五枚目と六枚目がその万葉の碑で、表と裏です。碑は雑木林の中に建っていて、かろうじて間に合った沈みかけた夕陽を浴びていました。背面を撮った六枚目では、その向こうにテニスコートが開けています。

 仙覚の碑はもう一つ、鎌倉にあります。それは今は妙本寺となっている比企能員邸跡にあるのです。仙覚は万葉集の研究を鎌倉の比企ケ谷で成したあと、註釈を比企郡小川町で成したのでした。そのことから仙覚が比企一族と密接な関係のある人物だろうということが窺われます。ただ、まだそれが誰か、決定的な特定をされていません。さあ、一体、仙覚とは誰だったのでしょう。その解明に向けて、このブログを更新しつつ原稿を仕上げていきたいと思います。

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2010.1.5 万葉集の歴史の森に分け入りましょう!!・・・①埼玉県比企郡都幾川村 慈光寺

019 087 104 129 133 134 現在私は「北条実時と『西本願寺本万葉集』」と題する、万葉集に関しての原稿を執筆中です。これは、『源氏物語』で二大写本といわれた「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」のうち、「河内本源氏物語」系統の写本で最も由緒ある『尾州家河内本源氏物語』を調べていたら、それに付随して出てきたテーマです。

 『尾州家河内本源氏物語』は、「河内本源氏物語」を完成させた源親行と親しかった北条実時が、親行から直接「河内本源氏物語」を借りて書写したものと言われています。

 その『尾州家河内本源氏物語』と全く同じ大きさ・装丁の万葉集があると、一昨年10月にある方から教えていただきました。それが『西本願寺本万葉集』でした。完成させたのは仙覚という方ですが、装丁が同じということでこれも実時書写ではないかといわれています。で、私は本当にそうなのかを追ってみたいと思いました。『西本願寺本万葉集』については青山学院大学の小川靖彦氏のブログに詳しいのでそちらをご覧になってください。
http://manyomakimono.blog118.fc2.com/blog-entry-15.html

 昨年ほぼ一年間、どういうふうにしたらそれが解明できるだろう・・・とか、テーマをどこに絞ろうか・・・とか、いろいろ悩みました。それが決まったのはもう暮れも間近に迫ったころ。現在私は「花の蹴鞠」という中世が舞台の小説をあるところに連載中で、そこで比企氏のことを書いていました。比企一族の比企尼といわれる女性は源頼朝の乳母で、伊豆流刑時代の頼朝を物心両面から支えた人です。その長女の丹後局は頼朝の愛人といわれ、子息景盛には頼朝のご落胤説があります。

 と、そういうことをいろいろ調べて書いているうちに、すっかり比企氏が身近な存在になりました。そこに万葉学者仙覚という人物が登場。その仙覚が比企氏のゆかりらしいのです。というのも、万葉集の研究を鎌倉の比企ヶ谷新釈迦堂で行い、万葉集注釈を埼玉県の比企郡で完成させ・・・と、如何にも比企一族と関係あるような奥書があるのです。俄然、興味が湧きました。凄い偶然というか、運命的なものさえ感じて。だって、そうでしょ。比企氏の人々を書いていたら、まったく別の過程から仙覚が浮上し比企氏に交わってきた・・・なんて。

 が、仙覚でわかっているのはそれだけ。あと、北条氏によって比企氏が滅ぼされた比企の乱の建仁三年(1203)の生年らしいことと、生地が「あづまの道の果て」らしいこと・・・

 『源氏物語』でもそうでしたが、古典の研究には「本文研究」と「歴史研究」の二つがあるのですね。「本文研究」の方はそれこそじっくり古典そのものを読みこなして内容に迫る・・・。「歴史研究」は本文や内容ではなく、写本や享受の歴史を追う・・・、とそんなふうに分けたらいいでしょうか。私は後者で、『源氏物語』では「河内本源氏物語」系統の写本を追いましたし、今度の『万葉集』でも仙覚という研究者を追います。

 『西本願寺本万葉集』は二十巻揃った最古の写本で、現在全集などで活字化されている万葉集そのものです。そういう貴重な書を成し遂げたのですから、仙覚については十分な研究が成されていて当然と思うのですが、それがそうではないのですね。未だに誰か特定されていません。でも、比企氏の歴史をほぼ知ってから仙覚に出逢った私にはピンとくるものがあり、万葉集学者の方の行き詰まりはこの比企氏があまり身近でいられないからだ・・・と思いました。一応、昨年暮れに「この人かしら・・・」と特定できそうな人物を探り当てましたので、今はそれをどう論証するかの段階に入りました。それで、お正月の三が日も明けましたので、昨日早速ゆかりの地の探訪を開始しました。

 比企一族を調べるのですから、まずは比企氏ゆかりの埼玉県比企郡です。できるなら一日で全部回りたいところですが、それは到底無理。仙覚の碑がある小川町ははずせないとして、他に岩殿観音と慈光寺を訪ねるのがやっとでした。そして思ったのです。そうだ、私のこの「仙覚とは一体誰だったのか・・・」を探る旅を、「万葉集の歴史の森に分け入りましょう・・・」というシリーズにして随時ご紹介させていただこうと。

 今日はその第一回で、【慈光寺】編です。小川町の仙覚の碑からはじめるのが王道なのに、あえてこの慈光寺からとしたのには訳があって、「歴史はその地を訪ねてみなければわからない」事を痛感した出来事があったからです。

 比企一族のゆかりとして慈光寺を訪ねた理由は、「丹後局の娘が源範頼に嫁して産んだ二人の男児が慈光寺に入寺しているから」です。範頼は頼朝に殺されますが、二人の男児は比企尼と丹後局の必死の懇願で命だけは助けられ仏門に入れられるのです。それが慈光寺でした。

 と、それくらいの知識で訪ねた慈光寺ですが、なんと、こここそがあの日本三大装飾経の「平家納経」「久能寺経」と肩を並べる「慈光寺経」の寺院だったのです。国宝展などで「慈光寺経」は何度か観ていますが、まさかそこを訪ねるとは・・・と、驚きました。これこそ実際に行かなければ体感できない文化です。慈光寺経は宝物殿にしっかりと収められていて拝観できませんが、そういう文化の寺院に行ったという感慨はひとしおでした。詳細は以下のホームページでご覧になってください。

 でも、さすがというか、やはりでしょうか、範頼の子といえば頼朝の甥。入寺させられた寺院は一級でした。これは、その前に回った、比企氏子孫が入寺させられた岩殿観音との印象があまりに違ったから一層思ったのでした。

●慈光寺公式HP
http://www.temple.or.jp/

●慈光寺
http://www.bell.jp/pancho/travel/saitama/jikoji.htm

●慈光寺経
http://www.town.tokigawa.lg.jp/forms/info/info.aspx?info_id=11961

■慈光寺は山の中腹にあります。車で登っていく途中の景色は、お正月にちょうど見ていた箱根駅伝の山登りさながらでした。鎌倉時代の全盛期には七十五坊が甍を連ねたという壮大さです。頼朝の寄進状も残っていますし、慈光寺経は後鳥羽院をはじめ九条兼実の一門の方々が結縁のために書写した一品経です。埼玉県のこんな人里離れた山の中に、こんな京の一級の文化があったなんて・・・。埼玉県には失礼と思いますが、ほとんどの方がこれを知ったら驚かれるのではないでしょうか。写真は主に山門ですが、宝物殿や坂東三十三観音霊場第九番札所の観音堂はもっと奥の山を登ったところにあります。今回は日没が迫っているので仙覚の碑へ急ぐために行くのをあきらめました。最後の一枚は山を下りる車窓風景です。

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2010.1.1 あけましておめでとうございます!!

2010nenga あけましておめでとうございます。

 昨年は春に「『源氏物語』二大写本に秘めた慰藉―『平家物語』との関係をめぐって―」を駒沢大学高橋文二先生のご退任記念特集号『駒澤國文』に載せていただきました。

 これは、源氏物語千年紀の2008年に「写真でたどる『源氏物語』の歴史―鎌倉で『河内本源氏物語』ができるまで―」と題した写真展を開き、その会場に立ったとき、『源氏物語』享受の歴史のなかで、平家文化の栄華が如何に高く聳え立っているかに圧倒され、この華やぎが文学者に影響しなかったわけがないとの着想を得て書いたものです。藤原定家と源光行の平家一門の人々との交流を明かしました。

 福島泰樹先生主宰「月光の会」の歌誌『月光』に連載中の「花の蹴鞠」は第七回まで進みました。新古今歌人で蹴鞠の名手飛鳥井雅経の生涯を軸に、源平の争乱から承久の乱までの歴史を一大絵巻の如く、心のなかで「目指せ!NHK大河ドラマ」を目標に書いています。これまで後鳥羽院率いる『新古今和歌集』時代の幕開け前夜といった状況をめぐって書いてきました。『新古今和歌集』の活動と並行して鎌倉では比企の乱が起きます。近々それを書きます。≪「花の蹴鞠」はこのブログでもカテゴリー「連載小説【花の蹴鞠】」に随時アップしていきます。≫

 現在「北条実時と『西本願寺本万葉集』」という原稿にとりかかっています。これは実時書写の『尾州家河内本源氏物語』と全く同じ装丁の『西本願寺本万葉集』をめぐって、鎌倉の万葉集研究事情を書くもので、比企氏の出といわれる仙覚という万葉学者が誰かをほぼ特定したところで年の瀬となりました。今年はこの原稿の完成が最初の仕事になります。論文と「花の蹴鞠」の内容がリンクして不思議な展開となっています。これは本当に偶然の思ってもいなかった相乗効果です。「花の蹴鞠」に仙覚さんも登場させます!

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。

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