2010.1.29 万葉集の歴史の森に分け入りましょう!! 番外編・・・⑪埼玉県比企郡 慈光寺
【万葉集の歴史の森に分け入りましょう】シリーズは先日10回をもって終了にしましたが、ここにきて慈光寺について書いておきたいことがでてきましたので番外編として追加させていただきます。
『承久記』という承久の乱について書いた合戦記がありますが、その諸本のうちに「慈光寺本承久記」というのがあるのだそうです。ある方からそれを伺って、早速国文学研究資料館の図書室で調べてきました。私が仙覚をめぐって埼玉県の慈光寺に行ってきたことをお話したところ、「『承久記』に慈光寺本というのがあるのだけれど、その慈光寺と関係あるか・・・」みたいなことで教えていただいたのです。
「慈光寺本承久記」について書かれているのは、村上光徳先生の「慈光寺本承久記の成立年代考」と「慈光寺本承久記の出所をめぐって」です。拝読して、「出所」としての結論は、村上先生のご論考のなかでは「江戸時代に慈光寺家にあった本を書写したもの」ということでした。たしかに江戸のその段階ではそうなのでしょうけれど、では、その慈光寺家に伝わる前の室町・鎌倉時代へとさかのぼったらどうなのか・・・では、まだ埼玉の慈光寺との関係がまったく否定されるほどでもないなあ、という感触をもちました。何か、関係を示す資料が現れたら面白いのですが・・・。
慈光寺を訪ねたときに、ここがあの日本三大装飾経の一つ『慈光寺経』の寺院なのだと驚いたのですが、その後調べていくうちに、この『慈光寺経』が九条家ゆかりのものだと知りました。どうして京の中枢に位置する九条家のものが、こんなといったら埼玉に失礼ですが、鄙びた関東の奥地の寺院に?といった疑問が湧きました。
それでなお調べていって、当時の幹線道路は東山道で、現代のような東海道ではなく、奈良・京都の文化は東山道を通って関東についたらまず群馬や埼玉といった地域に定着した。それから鎌倉街道をくだって南下して鎌倉に入った、とありました。成程納得です。現代の私たちは現代の流通機構でしか考えられませんが、当時を知るには当時の機構を綿密に知らなければなりません。以前、称名寺の長老を下野薬師寺から招いた・・・みたいなことを読んで、そのときもどうして「下野」にそんな大きな寺院があったのか・・・も疑問だったのですが、そういうことだったのですね。案外、当時において、鎌倉のほうが文化が遅れていたんです!! これって、結構、案外、みなさん知らないことではないでしょうか!!
経路はわかりましたが、それでもまだ「何故、京の九条家が関東の奥地の慈光寺にまでわざわざそんな宝物を奉納されたのか?」の謎は不思議です。それを今探っていて、もしかしてここに「仙覚が誰か」の謎を解くキーワードが隠されているのかも・・・みたいなことになってきています。一つヒントを書きますね。仙覚に『万葉集』の校定を命じたのは九条家出身の将軍第四代頼経です。
慈光寺と、『慈光寺経』と、『慈光寺本承久記』と、仙覚・・・、そこにどんな繋がりがあるのでしょう。ほんとうのことをいいますと、うっかり答えをここで書いてしまいそうにほぼ全貌が見えてきています。わくわくする世界です。実証できるかどうかはともかく、論文では納得いただけるようには書いていくつもりです。
写真は慈光寺を訪ねたときのもの。時間がなくて最初の本堂をしか訪ねられませんでしたが、山全体が慈光寺です。宝物殿や観音堂、五重塔(五重か…不確かですが)などへはもっと上へのぼっていきます。下の二枚は境内に建てられた「空海の破体心経」と「良寛の楷書心経」の碑です。