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2010.1.5 万葉集の歴史の森に分け入りましょう!!・・・①埼玉県比企郡都幾川村 慈光寺

019 087 104 129 133 134 現在私は「北条実時と『西本願寺本万葉集』」と題する、万葉集に関しての原稿を執筆中です。これは、『源氏物語』で二大写本といわれた「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」のうち、「河内本源氏物語」系統の写本で最も由緒ある『尾州家河内本源氏物語』を調べていたら、それに付随して出てきたテーマです。

 『尾州家河内本源氏物語』は、「河内本源氏物語」を完成させた源親行と親しかった北条実時が、親行から直接「河内本源氏物語」を借りて書写したものと言われています。

 その『尾州家河内本源氏物語』と全く同じ大きさ・装丁の万葉集があると、一昨年10月にある方から教えていただきました。それが『西本願寺本万葉集』でした。完成させたのは仙覚という方ですが、装丁が同じということでこれも実時書写ではないかといわれています。で、私は本当にそうなのかを追ってみたいと思いました。『西本願寺本万葉集』については青山学院大学の小川靖彦氏のブログに詳しいのでそちらをご覧になってください。
http://manyomakimono.blog118.fc2.com/blog-entry-15.html

 昨年ほぼ一年間、どういうふうにしたらそれが解明できるだろう・・・とか、テーマをどこに絞ろうか・・・とか、いろいろ悩みました。それが決まったのはもう暮れも間近に迫ったころ。現在私は「花の蹴鞠」という中世が舞台の小説をあるところに連載中で、そこで比企氏のことを書いていました。比企一族の比企尼といわれる女性は源頼朝の乳母で、伊豆流刑時代の頼朝を物心両面から支えた人です。その長女の丹後局は頼朝の愛人といわれ、子息景盛には頼朝のご落胤説があります。

 と、そういうことをいろいろ調べて書いているうちに、すっかり比企氏が身近な存在になりました。そこに万葉学者仙覚という人物が登場。その仙覚が比企氏のゆかりらしいのです。というのも、万葉集の研究を鎌倉の比企ヶ谷新釈迦堂で行い、万葉集注釈を埼玉県の比企郡で完成させ・・・と、如何にも比企一族と関係あるような奥書があるのです。俄然、興味が湧きました。凄い偶然というか、運命的なものさえ感じて。だって、そうでしょ。比企氏の人々を書いていたら、まったく別の過程から仙覚が浮上し比企氏に交わってきた・・・なんて。

 が、仙覚でわかっているのはそれだけ。あと、北条氏によって比企氏が滅ぼされた比企の乱の建仁三年(1203)の生年らしいことと、生地が「あづまの道の果て」らしいこと・・・

 『源氏物語』でもそうでしたが、古典の研究には「本文研究」と「歴史研究」の二つがあるのですね。「本文研究」の方はそれこそじっくり古典そのものを読みこなして内容に迫る・・・。「歴史研究」は本文や内容ではなく、写本や享受の歴史を追う・・・、とそんなふうに分けたらいいでしょうか。私は後者で、『源氏物語』では「河内本源氏物語」系統の写本を追いましたし、今度の『万葉集』でも仙覚という研究者を追います。

 『西本願寺本万葉集』は二十巻揃った最古の写本で、現在全集などで活字化されている万葉集そのものです。そういう貴重な書を成し遂げたのですから、仙覚については十分な研究が成されていて当然と思うのですが、それがそうではないのですね。未だに誰か特定されていません。でも、比企氏の歴史をほぼ知ってから仙覚に出逢った私にはピンとくるものがあり、万葉集学者の方の行き詰まりはこの比企氏があまり身近でいられないからだ・・・と思いました。一応、昨年暮れに「この人かしら・・・」と特定できそうな人物を探り当てましたので、今はそれをどう論証するかの段階に入りました。それで、お正月の三が日も明けましたので、昨日早速ゆかりの地の探訪を開始しました。

 比企一族を調べるのですから、まずは比企氏ゆかりの埼玉県比企郡です。できるなら一日で全部回りたいところですが、それは到底無理。仙覚の碑がある小川町ははずせないとして、他に岩殿観音と慈光寺を訪ねるのがやっとでした。そして思ったのです。そうだ、私のこの「仙覚とは一体誰だったのか・・・」を探る旅を、「万葉集の歴史の森に分け入りましょう・・・」というシリーズにして随時ご紹介させていただこうと。

 今日はその第一回で、【慈光寺】編です。小川町の仙覚の碑からはじめるのが王道なのに、あえてこの慈光寺からとしたのには訳があって、「歴史はその地を訪ねてみなければわからない」事を痛感した出来事があったからです。

 比企一族のゆかりとして慈光寺を訪ねた理由は、「丹後局の娘が源範頼に嫁して産んだ二人の男児が慈光寺に入寺しているから」です。範頼は頼朝に殺されますが、二人の男児は比企尼と丹後局の必死の懇願で命だけは助けられ仏門に入れられるのです。それが慈光寺でした。

 と、それくらいの知識で訪ねた慈光寺ですが、なんと、こここそがあの日本三大装飾経の「平家納経」「久能寺経」と肩を並べる「慈光寺経」の寺院だったのです。国宝展などで「慈光寺経」は何度か観ていますが、まさかそこを訪ねるとは・・・と、驚きました。これこそ実際に行かなければ体感できない文化です。慈光寺経は宝物殿にしっかりと収められていて拝観できませんが、そういう文化の寺院に行ったという感慨はひとしおでした。詳細は以下のホームページでご覧になってください。

 でも、さすがというか、やはりでしょうか、範頼の子といえば頼朝の甥。入寺させられた寺院は一級でした。これは、その前に回った、比企氏子孫が入寺させられた岩殿観音との印象があまりに違ったから一層思ったのでした。

●慈光寺公式HP
http://www.temple.or.jp/

●慈光寺
http://www.bell.jp/pancho/travel/saitama/jikoji.htm

●慈光寺経
http://www.town.tokigawa.lg.jp/forms/info/info.aspx?info_id=11961

■慈光寺は山の中腹にあります。車で登っていく途中の景色は、お正月にちょうど見ていた箱根駅伝の山登りさながらでした。鎌倉時代の全盛期には七十五坊が甍を連ねたという壮大さです。頼朝の寄進状も残っていますし、慈光寺経は後鳥羽院をはじめ九条兼実の一門の方々が結縁のために書写した一品経です。埼玉県のこんな人里離れた山の中に、こんな京の一級の文化があったなんて・・・。埼玉県には失礼と思いますが、ほとんどの方がこれを知ったら驚かれるのではないでしょうか。写真は主に山門ですが、宝物殿や坂東三十三観音霊場第九番札所の観音堂はもっと奥の山を登ったところにあります。今回は日没が迫っているので仙覚の碑へ急ぐために行くのをあきらめました。最後の一枚は山を下りる車窓風景です。

【織田百合子ホームページ】 http://www.odayuriko.com/ 

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