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2010.2.25 鎌倉の万葉学者【仙覚】は誰か・・・、の原稿は書き終わったのですが、また難題が!

Rose289 一昨年来、『尾州家河内本源氏物語』と全く同じサイズ・装丁の万葉集『西本願寺本万葉集』について調べています。そこで出逢ったのが「仙覚とは誰か」という問題。『西本願寺本万葉集』は今日私たちが読んでいる万葉集の基となっている本で、仙覚はそれを成した人です。それまで万葉集は大方において訓が付けられてはいましたが、全部ではありませんでした。それを仙覚が知って最後の残りの歌全部に訓を付け終わったのです。鎌倉時代の人です。

 当初は『西本願寺本万葉集』についての考察ががメインになるはずでした。が、これほど重要な人物なのに、なんだかおかしい・・・。不明部分の来歴が多いんです。それで、俄然、仙覚とは誰か・・・を追求する方に興味がいってしまいました。(これについては1月に【万葉集の歴史の森に分け入りましょう】というシリーズをつくって10回に分けてご紹介しました。)

 で、2月に入って本格的に書き出して、一昨日、一応「完」を記すところまでしたんです。最終章を書きあげて、さあ、これで清書をして、編集部宛に投函すれば、ほぼ丸一年、何をしていてもずっと頭の隅から離れなかったこの原稿と、ほんとうに離れられる・・・と、昨日は晴々した心境でした。

 なのに・・・。最後の最後になってまた難題が起きてしまいました。それは、『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』そのものについての問題・・・。そもそも『尾州家河内本源氏物語』はほんとうに奥書にあるように「正嘉二年」に「北条実時」が書写したものか・・・

 それについての疑義が最近の研究で浮かびあがってきています。2008年の源氏物語千年紀記念の刊行で源氏物語本文についての論文集がいろいろ出ていたんです。私が『西本願寺本万葉集』について書こうと思った時点ではまだ刊行になっていなかったので、知らないでいました。でも、原稿の最後に『西本願寺本万葉集』のまとめとして『尾州家河内本源氏物語』との関係を書くわけですから、念のためにと最近の動向をみたら新しく本文研究の本が出ていました。(源氏物語千年紀の効果ですね!!)

 で、今日、まとめてそれらに目を通させていただいていたら、なんと、『尾州家河内本源氏物語』は実時の書写本そのものではなさそう・・・。それについては花押等の問題から私もうすうすそう思っていたのですが、なんと、『尾州家河内本源氏物語』は最初から「河内本」でなく、最初は「青表紙本」の本文だったようなんです。それが訂正されて「河内本」の本文になっているのだと・・・。正嘉二年に実時がじきじきに親行から借りた本を書写したのなら、そんなことになるはずありませんよね。『尾州家河内本源氏物語』は実時の書写ではない????・・・

 果たして、そんなことがほんとうにそうなのでしょうか・・・・

 だとしたら、『西本願寺本万葉集』との関係はどうなってしまうのでしょう。2月いっぱいという〆切にゆうゆう間に合うと思って呑気にしていましたが、今日、一気に焦ってしまいました。これから『西本願寺本万葉集』が成立したあたりの状況をゆっくりみて、結論を導きだしたいと思います。

 今日は、「原稿が終わりました!」って、はしゃいでご報告・・・なんて朝は思っていたのですが、とりとめありませんが、更新もとどこっていることですし、ご報告がてら、「終わりませんでした」の記事を書かせていただきました・・・

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2010.2.18 今朝の地震【2月18日10時15分頃 ウラジオストク付近 M6.9】への前兆空

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02092 1月下旬から大きな地震の前兆となる空が続きました。これは2004年の新潟県中越地震・スマトラ沖地震の前兆として、当時頻繁に観測した空です。その頃は雲観測初心者でしたので、あまり頻繁なものですからそれが普通の空と思って撮っていました。

 でも、スマトラ沖地震後ぱったりとそういう空が出現しなくなって、翌2005年にはほとんど撮っていません。それで私のなかでは「こういう空が現れたら大きな地震がある・・・」という認識になっています。たまに撮ることがあると、やはり世界のどこかで大きな地震が起きます。ただ2004年ほど頻繁なことはなく、一日だけの空が多いので、地震も一回の単発で終わっています。で、なおさら、こういう空と地震は関係あるのだなあ・・・という気持ちになっています。

 今朝、【2月18日10時15分頃 ウラジオストク付近 M6.9】の地震がありました。日本からは北西の、ちょうど能登半島沖になります。実はこの方向に大きな地震があるだろうということは予測していました。1月下旬に繰り返された大きな地震への前兆空からの予測です。

 震源地の予測は、前兆らしい雲の発生の方向でたてます。1月下旬の空の雲はこの能登半島沖へのラインでした。当地三鷹から、浅間山のあたりを通って、能登半島の先端をかすめるように通る線上という予測です。写真二枚目の漏斗のような、回るコマのような雲の垂れさがる先端が震源地方向です。これは2003年から空を撮ってきて、発生地震との照合で身に付けた経験則です。ですから、「あの方向は能登半島沖」とか、「この方向だから新潟県」とか「この方向の発生は福岡県沖が震源地」とか予測がつくんです。最初の写真はその雲を真横から撮ったものです。

 この日、窓から見て「非常に緻密な鱗雲」が空いっぱいに広がっているのに驚き、急いでカメラをもって撮りにでました。この「非常に緻密な鱗雲」がまず滅多にない規模の地震前兆です。写真では一枚目の上空に写っている細かな鱗雲がそれです。でも、出てみたらそれだけでなく、日没近い太陽の周辺が巨大な彩雲になっていて驚きました。

 彩雲も大きな地震前兆です。もうほんとうに綺麗でした。これほどの規模の彩雲も滅多に出ません。地震前兆の雲は磁気性が強いので彩雲ができるのです。そして、下の写真のような日輪(日暈)や月輪(月暈)もそうです。日輪も珍しいことは珍しいのですが、月輪はもうほんとうに珍しく、こんなに大きい月輪を撮ったのははじめてです。最後の一枚は地震雲観測仲間のあいだで「全方位放射の空」と呼んでいる空です。これはまさにスマトラ地震時に頻繁に撮った夕景です。

 大きな地震になると、震源地のそこだけでなく、地球内部の岩盤を伝ったりして広い範囲で影響があるのでしょう。それでこういう空になるのだと思います。震源地を示す雲だけでなく、あちこちで岩盤から電磁波が放射されるのです。別名、「飛行機雲のできやすい空」といえばわかりやすいですね。

 写真は上四枚の彩雲までが1月27日。月輪は30日。最後の二枚の日輪と「全方位放射の空」は2月9日です。

 M3とかM4くらいまでの前兆の雲だと、翌日の発震です。が、M6以上では一週間から一ヶ月、或いはもっと長い期間をおいての地震発生となります。それで一月下旬からの空の結果となる地震の発生は一カ月後くらいと思っていました。

 これらの写真を撮ったあと、能登半島沖への、ちょうどこのライン上になる内陸でM4前後の地震が幾つかありました。その度にこれらの空を思い出して、「この前兆の空だったのかしら・・・」と考えました。でも、滅多にない「鱗雲」「」巨大な彩雲」「月輪」を思うと、M4とかM5の規模の地震が該当するとはどうしても思えません。それで写真のアップを見合わせていました。今朝、ウラジオストク付近でM6.9があったと知り、やっと腑に落ちた感じでこの地震の前兆だったのだと思った次第です。

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200.2.11 【美しい無念】立松和平先生を偲んで・・・昨夜の福島泰樹先生≪吉祥寺曼荼羅短歌絶叫コンサート≫から

Cagnnv69今日2月11日は立松和平先生のお葬儀の日です。たぶん、今頃・・・と胸しめつけられながら思いを馳せています。後日偲ぶ会が開かれ、お葬儀は近親者の方々でということですので参列させていただきたいのをじっとこらえています。

 報道で知ったときから信じられない、信じたくないという気持ちで、昨夜吉祥寺曼荼羅の福島泰樹先生の短歌絶叫コンサートに伺いました。でも、福島先生の「今夜のコンサートは作家立松和平に捧げます」という最初の言葉に、やはり事実なんだ・・・と

 お通夜は昨夜で、福島先生はお勤めを果たされてから曼荼羅にお見えになりました。そしてコンサートが始まり、時折、ふっと、「立松和平・・・」と、呻くような感じで声を洩らされるのです。「辛いよな」とか、「たまらねえよな」とか、「人間は簡単に死んでしまうんだよな」とか・・・

   振り向けば倒れてゆくあいつが見える…
   同じ夢に賭けたあいつの
美しい無念が見える。
   振り向くな、振り向くな。
   男の後ろにあるのは、いつも果てしない荒野ばかりだ。
   人生は終わりのないロードワーク。
   何ひとつ終わったわけじゃないのさ、
   さらば、友よ

 冒頭に福島先生はこの歌を絶叫されました。いつも聴いているこの歌が昨夜はなんと辛く迫ってきたことでしょう。「美しい無念・・・」、急に逝ってしまわれて、立松和平先生はどんなにかほんとうに無念でいらしたでしょう。

 私の立松和平先生との出逢いは「まほし まほろば」という小説で福島先生と同じく早稲田文学新人賞をいただいたときの審査員でいらしたことです。立松先生は高校のとき写真部でいらして、小説のなかの暗室作業の描写にとても共感をもったと審査員評に書いてくださいました。その後その小説を入れた短編集『潮香』を上梓したときには帯を書いていただきました。とても素敵な、珠玉のような、ご文章でした。改めてお礼の気持ちを込めてご紹介させていただきます。

   はじめての酒を飲んだような官能的な気分に酔った。
   夢の中から破れでてきたような小説世界がここにある。

 私はその後文学に挫折し、福島先生の月光の会に入会させていただいて苦しみながら再生をめざしていました。会を通して立松先生はときどきお目にかかることがあり、その都度声をかけていただいていましたが、最後にお会いしたとき、「ご活躍ですね」と言っていただいたときの嬉しさは何よりもの報いを思いました。ずうっと低迷していたことをご存じでいられた方からですから。そのときは先生も『道元禅師』を書かれて充実されていて、白いアフガン編のセーター姿の先生も神々しく輝いていました。

 私が福島先生の短歌絶叫コンサートに伺うようになったのは新人賞受賞を機に誘っていただいたからですが、その頃は立松先生もよくいらしていました。いらっしゃると後ろの方で立って観てらっしゃいました。当時は演奏がギタリストの龍さんでした。昨夜はたまたまその龍さんが十年ぶりくらいに復活されていて、はからずも立松先生がいらした当時を彷彿・・・、振り向けばそこに立松先生が立ってあのにこにことしたお顔で舞台を観ていられるような錯覚に陥りました。今も、そんな気がしています。

 あんな優しい笑顔の方がどこにいられるでしょう。昨夜は福島先生がどんなにかお辛いだろうという思いでいっぱいでコンサートを聴いていましたが、今は私も泣きたくてたまりません。泣きたくて、どうしようもなくて、それでこのブログを書くことにしました。昨夜の福島先生の無念、それがすべてです。

 福島先生は「読売新聞」「東京新聞」「共同通信」に追悼文を書かれたそうです。今朝の朝刊に載っているそうです。先生はこうおっしゃっていました。「三本もいっぺんにとても書けないと思ったのだが、俺が書かなくて誰が書く・・・。それはあの盗用問題だ。あれは立松が悪いんじゃない。そのことを俺が書く」と。

 立松先生はあの問題で世間のバッシングにあったとき、一心不乱に福島先生のお寺で仏道に身を入れられたそうです。寒い冬の道中の、あの団扇のような太鼓を叩いて練り歩く寒参りっていうんですか、それもなさったそうです。それが『道元禅師』になりました。読売新聞で福島先生はこう書かれています。「この間作家は、真摯に苦悩した。苦悩は光明をもたらした。仏陀との出会いである。やがてそれは泉鏡花賞を受賞した大作『道元禅師』上下二巻となって結実してゆく」と。

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2010.2.6 栃木県立博物館連続講演会【足利尊氏再発見―肖像・仏像・古文書からみた尊氏―】のお知らせ

Totigi003 「最新の研究成果をもとに、尊氏と足利一族の実像に迫る」と銘うたれた連続講演会です。以下、詳細をお知らせさせていただきます。

 会場: 栃木県立博物館講堂
 時間: 午後1:30~3:30
 定員: 200名(先着順)
 申込・問合せ: 栃木県立博物館普及資料課 028-634-1312
           お電話でお申し込みください。2名まで予約可。一回のみ受講可。
 ■第一回 3月6日(土)  米倉迪夫氏   【足利氏の肖像】
 ■第二回 3月13日(土) 山本勉氏       【足利氏と仏像】
 ■第三回 3月20日(土) 峰岸純夫氏    【足利尊氏と直義】
 ■第四回 3月27日(土) 入間田宣夫氏 【青年尊氏の財産目録】

  先年、10何億の単位で落札されて話題になった運慶作の大日如来座像は、もとは足利市にある足利氏の菩提所「樺崎寺」の下御堂「法界寺」にありました。明治維新後の神仏分離政策で境内にあった八幡宮が残って樺崎八幡宮となり、仏教寺院は壊されて仏像が海外に流出したとされています。

 この連続講演会は、こういった新しい情報が加味された足利氏像のお話と思われます。全部拝聴したいのですが、連続4回、毎週土曜日に宇都宮まで行くのはちょっと大変。悩んでしまいます・・・。栃木県立博物館は、宇都宮市の中心部にほど近い栃木県中央公園内にあります。

●栃木県立博物館
http://www.muse.pref.tochigi.lg.jp/news/2010/03/post_73.html

●樺崎寺を訪ねたときの記事
http://ginrei.air-nifty.com/kujaku/2009/12/post-182a.html

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2010.2.5 昨日は立春でした・・・、古今集「春立つ日の歌」から万葉集の仙覚へ

221 昨日は立春でした。一年のうちで一番好きな日です。何かそれらしいお花を撮ってアップしようと思っていたのですが、時間がとれずに今日になってしまいました。写真も撮っていたなかから探して水仙の花を・・・。小さな鼓はお正月の飾り用に売っていた小物です。いたずらに乗せてみたら意外とマッチしてパチリ・・・と。春を寿ぐ写真になりましたでしょ!

 立春ということばを思うと頭のなかで「春立つ日に詠みたまいける・・・」みたいな文言が離れなくなって、そしてすぐに「年のうちに春は来にけり・・・」と続きます。歌は特に意識しているわけでないのに、こうして日本人の感性の基層になっているのですね。

 ちょうどいい機会なので古今集のこの歌のあたりを見てみました。「巻一 春歌上」です。

     ふるとしに春たちける日よめる 在原元方
一. 年のうちに春は来にけりひととせを こぞとやいはんことしとやいはむ
     春たちける日よめる 紀貫之
二. 袖ひぢてむすびし水のこほれるを 春立つけふの風やとくらん
     よみ人しらず
三. 春霞たてるやいづこみよしのの 吉野の山に雪は降りつつ
     二条のきさきの春のはじめの御うた 二條のきさき
四. 雪のうちに春は来にけり鴬の こほれる涙いまやとくらん
     よみ人しらず
五. 梅がえにきゐる鴬春かけて 啼けどもいまだ雪はふりつつ

 万葉集研究の歴史をひもどいていて、歌集の書き方に、題詞を高く書くか、歌を高く書くか・・という流派のような経緯があるそうです。

 例えば、
「題詞を高く」の場合は、
 ふるとしに春たちける日よめる 在原元方
   年のうちに春は来にけりひととせを こぞとやいはんことしとやいはむ
 となり、
「歌を高く」の場合は、
   ふるとしに春たちける日よめる 在原元方
 年のうちに春は来にけりひととせを こぞとやいはんことしとやいはむ

となります。

 第四代将軍頼経によって最初に万葉集の校定を命じられた源親行の本は「歌を高く」だったそうです。これはその当時の普通の形式で、親行が底本にした万葉集もそうなっていたようです。これはどうも歌が上の場合の方が歌を一行に書き切れるという合理性から普遍的になったようです。

 その後、再び頼経の命によって今度は仙覚が万葉集の校定にかかります。いわゆる寛元本です。そのときは親行が成した本を底本にしたので「歌を高く」でした。が、そのとき、仙覚の心のなかにはある思いが湧いていたようです。それは、「万葉集の古い時代にあっては題詞が高いのが正しいのではないか・・・」というものでした。

 そして、宗尊親王のもとで再度万葉集の校定にかかったとき、仙覚は「題詞を高く」を採用しました。これが文永二年本、文永三年本です。この問題に言及されている小川靖彦氏はご著書『万葉学史の研究』のなかで、「『万葉集』本来の姿を復元を強く志向する仙覚の万葉学の性格からすると、(中略)、仙覚は題詞の高い体裁こそを『万葉集』本来のものと考えていたのであろう」と書かれています。

 古今集の歌を引きながら、話がついつい万葉集にいってしまいました。万葉集で有名な春の歌って何でしたでしょう・・・。春の野にすみれ摘みにし、が思い浮かびますが、これは立春の歌ではないですね・・・

【織田百合子ホームページ】 http://www.odayuriko.com/ 

★冒頭のブログパーツの動物をクリックしてみて下さい。素敵な「Tord Boontjeワールド」が出現します。rtsgarden.jp/cs/blogparts/detail/091211001227/1.html

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2010.2.2 雪の称名寺を撮りに行ったのですが・・・

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067 昨夜は珍しく関東でもかなりの雪が降って、ここ三鷹でも一面真っ白に積りました。たまたま最近称名寺の写真を整理していて四季折々撮り溜めてはきたものの雪景色だけがないなあ・・・と思ったばかりのときでしたから、これは!とばかりに出かけました。私は称名寺を1999年頃から撮っていますが、あいにくその頃から温暖化が進んで雪が積もらなくなっていたんです。たまに降っても、二時間かけて行ったころには溶けてしまっていて・・・

 昨夜の降りでは相当真っ白の銀世界が撮れるものと思っていました。で、期待して行ったのですが、やはり消えてしまっていて、地面が濡れている他は雪が降った形跡すらもないくらいでした。でも、一応、折角来たのですから撮ってきました。午前中に撮りたてのほやほやの写真の称名寺です・・・、といっても荒涼とした真冬の光景で寒々しいばかりですが(笑)

 橋は昨年春に塗り替えられたばかりのはずですが、もう褪色がすすんでいて唖然としました。塗り替えって、こんなに早く褪せるものですか? この以前の橋のときはもっと長く色が保たれた気がするのですが・・・

 先日来、ある必要があって称名寺の写真を見返しています。1999年からというとほぼ10年ですよね。そのころがその当時の真新しい橋で、とても真っ赤で綺麗でした。側面の剣菱のような文様も金色の輝きが見事で。浄土式庭園というのは平安時代の作庭の形式ですが、平安風にほんとうに優雅な光景を醸し出していました。称名寺は関東で数少ない平安の面持ちを有する寺院です。

 写真一枚目は赤門の「称名寺」の額。二枚目は苑池。三枚目は山門の上にかかっている扁額を守る鳳凰?です。今まで下の仁王様にばかり気をとられていて気がつきませんでした。最後は苑内に咲いていた蝋梅です。

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