« February 2010 | Main | April 2010 »

2010.3.31 四月からNHKラジオで、真鍋俊照先生の【四国遍路を考える】がはじまります!

047

 もう三月も最後なんですね。このことを三月尽っていうんですよね。以前、金沢文庫の図書室でみていた古い写本の奥書にあって、知りました。乗一という僧侶の書写した図像集でしたが、称名寺の一室で一心不乱に書写し続けて、書きあげてふと見上げた目に映ったのが、三月も終わろうとして季節が春めいた苑池の光景・・・、風に柳がなびいて桜の花びらが舞い・・・といった感じのとても綺麗な文章でした。で、三月尽というと、そのときの僧侶の思いでもって称名寺の光景が浮かぶんです。

 真鍋俊照先生は金沢文庫の文庫長をしてらした方ですが、今は四国の第四番札所大日寺のご住職をされています。私はカルチャーセンターで密教の講座を拝聴して、それがご縁で金沢文庫に通うようになりました。

 話すと長くなるのですが、小説作法をカルチャーで学んでいたとき、講師の平岡篤頼先生が森敦さんの『意味の変容』というご本を紹介してくださったのです。それがふしぎなご著作で、あえていうと、数式で書いた小説・・・みたいなもの。平岡先生は凡人の私たちには理解できないと思われて、あらかじめ真ん中に円をくり抜いた白紙を用意してらして、その紙を頭上にかかげながら、「この円の円周は白紙の側にあるわけでなく、かといって切りぬかれた円に属するものでもない・・・」みたいな、とうてい理解不能なことを一生懸命伝えようとしてくださいました(笑)

 難しかったのですが、でも興味を惹かれて『意味の変容』を必死で読み、それから井筒俊彦先生の神秘主義にいって、だんだん密教に近づいたとき、真鍋先生のNHKカルチャーでの「空海の哲学」という講座がはじまりました。その講座に目をとめたのは、森敦先生が真鍋先生のことを『マンダラ紀行』に書いてらしたからです。とてもいいお話をされる方と印象に残っていました。

 「空海の哲学」は、密教を学ぶにあたってこれほどコンパクトに充実された内容はないといった感じのお講義でしたが、半年で終わりました。受講者が残念がって継続を望んだのですが、先生は頑として聞き入れてくださいませんでした。なぜなら、密教は「学んで理解するもの」ではなく、「みずから体験して悟るもの」だからでした。徹底して頭で理解することを忌避します。このあたり、歴史上でも大変な事件があって、空海と最澄の疎遠はここからはじまっているんですよね。

 そのために「空海の哲学」という素敵なお話の講座は、写仏という「体験」の講座に変わり、先生を慕う受講者は全員しぶしぶ面相筆という慣れない絵筆をとって、線描のほとけさまを一体、一体、描いていく修練に移行したのです。

 写仏は数年通いました。そのときの写仏で描いたほとけさまの原本のようなものが、冒頭に書いた乗一も書写した図像集です。(曖昧な名称の書き方で済みません。調べればわかるのですが・・・)

 真鍋俊照先生のラジオ放送が四月からはじまりますので、ご案内させていただきます。ラジオ第2放送、NHKシリーズ「こころをよむ」の時間帯で、4月から6月にかけての13回の放送です。放送日は日曜日:午前6:45~7:25。再放送は翌週日曜日:午後1:20~2:00です。テキストはすでに発売されていて、初回は4月4日午前6:45からです。

|

2010.3.30 今日はブルームーン・・・二回目の満月です!!

 ふつう満月は一ヶ月に一回ですが、ひと月のうちに二回あるとき、後の方の満月をブルームーンというのだそうです。別に青く見えるわけでなく、神秘的な雰囲気からつけられたようです。

 3月は1日に満月でしたので、月の満ち欠けの周期の関係で30日の今日が二回目となりました。でも、これは滅多にみられない現象だそうです。なのに、その滅多にない稀な現象が、今年は二回もあるんですよ。1月1日が満月だったので、やはり1月30日にブルームーンとなりました。

 今日はちょっと記念すべきことをしました。ツイッターに登録したんです。地震雲を撮っていて、地震予知の掲示板に情報が集まって見ることはできるのですが、リアルタイム性に欠けることがあって、もどかしく思っていました。そこにツイッターが登場して、これは・・・と以前から注目していました。

 そうしたら案の定、中国の四川地震のとき、一番最初に地震の情報発信をしたのがツイッターだったそうです。四川に住む中国の方が「今、地震が起きている」とつぶやいたのを、アメリカにいる知人の方が読んで広がり、一般のマスコミが感知する前から状況が把握できていたそうです。そして、こういう地震ではマスコミの取材が入るのには時間がかかりますよね。そのあいだも被害が広がって、ツイッターのような現にその場に置かれている当事者の方の書き込みが本当に役に立ったのだそうです。

 ツイッターのおどろくべき効用は、あるジャーナリストが危険な国にいって捕まったとき、ツイッターに「捕まった」とつぶやいたら、それを本国にいる友人が見て、彼がどの国に行ってどういう状況かすぐに察し、国にはたらきかけ、国が相手の国に交渉して助けだした・・・。そのとき、ふたたび本人がツイッターで「保釈された」とつぶやいて、本国にいる友人が安堵した・・・というような状況まで起きたそうです。

 しばらく前から、ツイッターのこういう効用はいざというとき本当に必要と考えて、いわゆる攻略本みたいなツイッター関連の本を読んでいました。今のところ何を書きこもうなんて目標はないのですが、地震のようなリアルタイム性に適応できるように、とにかく登録だけはしておきたいと思っていました。まだどんなことをつぶやいていこうか、何も決まっていませんが、ひとまずおかしな雲がでたらつぶやいてみようかな? なんて思っています。

 ちなみに、ツイッターとは鳥のさえずりのことだそうで、それを日本語で最初に訳した方が「つぶやく」とされたので、書きこむことを「つぶやく」というのだそうです。

|

2010.3.29 井の頭公園の桜・・・開花状況

002

011

031

032

 花冷えが続きますね。咲き始めてからようやく青空の写真が撮れました。でも、寒さに耐えて蕾のほころびはまだまだです。水辺の桜は枝の先からほんの少しずつ咲いていっています。写真二枚目は私が一番好きなボート乗り場近くの枝垂れ桜。毎年この木が最初に満開になって黄色い連翹の花とともにとても華やかに水に映るので、私が開花のバロメーターにしている木です。

 今年は吉祥寺の伊勢丹が閉店するとともに、駅ビルのロンロン一階のフードフロアも3月30日で改装閉店になります。なので、例年、ここでお花見弁当を買うのを楽しみにして来られる方はご注意ください・・・と、地元民は心配しています。

|

2010.3.28 立松和平先生は忍辱に徹しられたのでした・・・追想集『流れる水は先を争わず』を拝読して

036_2

 偲ぶ会でいただいた立松和平先生の追想集『流れる水は先を争わず』を拝読していて感銘を受け、これは是非世の皆様に知っていただきたい深いご文章がありましたので引用させていただきます。 佼成会出版社編集者の村瀬和正氏の「一九九三年、インド」からです。

 それは、「著作の一部が盗用との指摘を受けた年の末、私は、身が竦むほどのバッシングを浴びる立松さんとインドへ向かいました」とはじまります。そして、「あのできごと以来、立松さんに対する世間の評価はさまざまですが、ただ、どのように評されようと、あらゆる責めを一身に負い、憔悴しながらもなお旅のあいだ内省を深め続ける作家の姿を、私はいつか正しく伝えなければと思ってきました」と続きます。

 人には、それぞれ正義があります。しかし、立松さんはその後も、他が押し立てる正義に正義をもって抗するのではなく、ひたすら己の至らなさを見つめる忍辱に徹したのです。(中略) 釈尊は「怒りに対して怒り返さず、むしろ自分の心を制御する。そこに私の精進がある」と言っていますが、立松さんの秘めたる意志がこの言葉と重なります。そして、インドにおいて立松さんは「人はみな火宅に棲み、生ある限り罪悪深重の身であるがゆえに精進を続けるのだ」との気づきを得たと私は思っています。それはやがて、小説家は書くことによってのみ身を雪ぐ精進となるという信念に昇華されました・・・

 忍辱は「にんにく」と読みます。仏教の言葉で、何があっても耐え忍ぶことです。じっと己に耐えて、例え理不尽なことでも抵抗しないで、自分を主張しないで、ひたすら己に耐えることをいいます。六波羅蜜のひとつの忍辱波羅蜜のことです。波羅蜜というのは悟りに至る修行のこと。その方法に六つあり、そのひとつです。

 悟りへ至る修行ですから、並大抵の人のできるものではないでしょう。でも、立松先生はそれをされたのでした。「身が竦むほどのバッシングに耐えて」、「ひたすら己を見つめる忍辱に徹しられた」のでした。

 このご文章に接して、ここに立松先生のお姿がほうふつと顕ちあがったのを感じるのは私だけではないでしょう。このご文章に接して、良かった・・・、と思いました。偲ぶ会には法隆寺や清水寺の管主様方、京都の仏教界の方々がたくさんいらしてご列席になってらっしゃいました。

 タイトルの「流れる水は先を争わず」は、立松先生が好んで色紙に書かれていた言葉だそうです。色紙に書く言葉はいろいろありますが、こういうふっと身を引いて遠くから自分を見ているようなのを選ぶ方ってあまりいらっしゃらないのでは・・・。凄いと思いました。

 それから、昨日、宗次郎さんが献奏されたオカリナのことを書きましたが、宗次郎さんがやはり追想集に書かれていて、立松先生は「オカリナは震えるような繊細さで温かい音をだす。土を焼いてつくったから素朴な楽器だというのは間違っている。目のつんだ緻密な音は、素朴さからはおよそ遠い高度なテクニックによって編りなされている」と書かれたそうです。それに対して宗次郎さんは、「立松さんは解って下さっている」と、「それだけで充分、心強かった」と書かれています。

|

2010.3.27 今日は立松和平先生の偲ぶ会でした・・・

060

立松和平先生の偲ぶ会が青山葬儀所で行われました。
宗次郎さんがオカリナを献奏されて、そのあまりに澄んだ美しい音色に泣きました。オカリナの音はほんとうに美しく「澄みのぼる」んですね。音はこの世とあの世を結ぶ手だてだそうですが、そのとき祭壇の向こうで立松和平先生もご一緒にじっと耳を傾けて聞いていらっしゃるような温かい気配を感じました。残された者は、惜しいとか、もっともっといて欲しかったとか、あの世に行っても私たちを見守っていてくださいとか、こちらの側での執心をもって語りかけてしまいがちですが、これはいけないことなんだそうですね。あちらに逝かれた方のためにご成仏をだけ祈らなくてはならないのだそうです。ほんとうに私もそういう思いでいっぱいなんですが、だから私もそれを断ち切って、ご恩に報いらせていただくべくこれから頑張ることにします。ほんとうはようやく今年なんとか頑張ってきたことの一端の成就の曙光がみえて、ご報告させていただくことを楽しみにしていたのですが・・・。心からご冥福をお祈り申し上げます。

|

2010.3.26 井の頭公園の桜・・・開花状況

007

017

010

034

039

明日から晴れる予報ですので、今日はまだどんより暗い状況の桜です。少しですが、寒いなか頑張って咲いています。都心では3分咲き、多摩のこちらは咲き始めとテレビでいったとおりの状況です。でも、ご覧のとおり、前回よりは大分咲きました。

|

2010.3.23 井の頭公園の桜・・・開花状況

008

023

029

015

昨日、都心で開花宣言がだされ、井の頭公園でも咲いているのを確認しましたので撮ってきました。あいにく曇り空で綺麗な写真というわけにいかなかったのですが、今年最初の一輪(? 最初の一枚・・・ですね)という記念にアップします。

 咲いたといってもまだほんの一枝、二枝にちらほら見えるだけです。全体では最後の写真のように、池の周囲をぐるっと覆う桜の木はまだまだで寒々しい光景です。

|

2010.3.22 旬のアスパラガスをきんぴらにしてみました・・・ついでに「井の頭公園の桜も開花しました!!」

015

テレビでアスパラガスを育てている産地の方が、「きんぴらもおいしいですよ」とおっしゃってたので、試してみました。きんぴらといえば人参に牛蒡、それと大根の皮か蓮根・・・くらいしか作ったことがなかったので意外でした。

 ちょうど連休だったからか、吉祥寺の丸井の前で特別に産地の方々が野菜を売ってらして、これは長野産のアスパラガスです。あまりの太さにびっくりしてたら、「これは最初に伸びたものだから」って教えてくださいました。そんな貴重なものをもったいないかな?とも思ったのですが、試してみて家族の評判も良かったのでご紹介させていただきますね!

 都心では今日開花宣言がなされたそうですね。井の頭公園の桜も一輪、二輪と、ちらほら咲いていました。もう暗くなってから見たので写真は撮れませんでしたが、明日、撮れるかなあ・・・、でもお天気があまりよくなさそうです。

|

2010.3.21 宇都宮氏ゆかりの【宇都宮二荒山(ふたらさん)神社】に参拝してきました!・・・峰岸純夫先生のご講演「足利尊氏と直義―歴史における兄弟の相克―」を拝聴して

001

035

012

015

010_2

昨日は宇都宮市にある栃木県立博物館の【足利尊氏再発見―肖像・仏像・古文書からみた尊氏―】の連続講演会の、峰岸純夫先生のご講演「足利尊氏と直義―歴史における兄弟の相克―」を拝聴してきました。米倉迪夫氏が解明された神護寺の「伝・頼朝、重盛、光能」像が、実は「足利尊氏・直義兄弟と、尊氏息の義詮」像であるという説をもとに、お話がはじめられました。「頼朝像→直義」、「重盛像→尊氏」、「光能像→義詮」という状況です。そうした肖像画で人物をインプットされた上での三者の相克の歴史をたどるというご講演は、ただお話で伺うより身に迫って感じられました。

 それにしてもあの崇高な頼朝像が直義だった・・・ということは、直義もまた従来頼朝に与えられていたような印象の人物だったということになります。峰岸先生もそこを抑えてらして、直義は頼朝を意識した政治家だったというようなことをおっしゃってました(言葉は違いますが、そういうようなニュアンスでした)。直義が冷静な人物だったのに対し、尊氏は温情の人、というようなお話でした。だから、人の罪は憎んでも人を憎まない尊氏が直義を殺すはずがない・・・と。(歴史では、特に『太平記』では、直義の死は尊氏の毒殺説となっているそうです。)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%AD%B7%E5%AF%BA%E4%B8%89%E5%83%8F(神護寺三像について)

 ご講演は午後からでしたので、午前のうちに宇都宮に着いて、市内の中心部にある二荒山(ふたらさん)神社に参拝し、それから博物館へ向かったのです。二荒山神社は、日光にも同じ名称の神社があり、区別するためにこちらは「宇都宮」と冠するそうです。

 この神社を訪れるのは二回目です。以前、冷泉為相について書いていたころ、為相が宇都宮氏の方々と懇意にしていると知り、それから宇都宮氏についての関心が高まって、一族のゆかりの神社として参拝したのでした。

 宇都宮氏と冷泉為相との関係をちょっと記しますと、為相は藤原定家息の為家の末子です。為家の最初の妻が宇都宮頼綱の娘でした。頼綱は鎌倉幕府の御家人でしたが、謀反の嫌疑をかけられて無実の罪を晴らすために出家し、蓮生となって上京します。そして構えた山荘の隣に定家の小倉山荘がありました。頼綱が定家と交流するなかで両者の娘と息子の婚姻関係となり、頼綱の中院山荘の障子を飾るべく色紙歌を定家に依頼してできたのが、今に残る小倉百人一首となりました。

 が、為相の母は頼綱女ではなく、為家が晩年近くなって妻に迎えた阿仏尼です。ですから、為相と宇都宮氏とは直接の血縁関係はありませんが、歌をとおしての交流があったわけです。

 定家・為家といった御子左家と縁戚関係をもった宇都宮氏です。当然、鎌倉にあって武家の棟梁として君臨する北条氏よりもゆたかな文化を創り出します。その業績の一旦に『新○和歌集』や頼綱の弟の塩谷朝業が出家して成した『信生法師集』があります。

 栃木県立博物館の展示の中世の部屋では、御子左家との関係を示す系図とともにそれらが展示されていて懐かしく拝見してきたのですが、地元の貴重な文化遺産というのに、それらの展示解説をする史料がないんですね。展示図録では省かれて載っていないし、単行本になっているようすもない・・・・、地元の方々にこの貴重さがわからないのでしょうか。

 地元の方が熱意をもって紹介しなければ文化というものは伝わりませんよね。どうも博物館とか歴史家の方々のあいだでは国文学的史料は重要視されていない嫌いがあって、私などはもったいないとしか思えないでいます。歴史家の方々のあいだでは宇都宮氏も宇都宮歌壇も周知のようですが、まったくの素人だった私には、この文化を知ったときは晴天の霹靂でした。

|

2010.3.19 連載小説【花の蹴鞠】の途中経過・・・、特に俊成卿女について

Sakuratopa_2
 「花の蹴鞠」は現在第七回まで書き進みました。頼朝の時代が終わって、後鳥羽院率いる『新古今和歌集』の時代に突入する前夜というところまでです。このブログでは第四回でとまっていましたので、先ほどざっと第七回までをアップしました。

 この小説は『新古今和歌集』の花形歌人である飛鳥井雅経の生涯を軸に、鎌倉時代における文化の様相を書いています。源平の争乱で運命を狂わされた雅経が鎌倉に下向したことから鎌倉に蹴鞠がもたらされ、第二代将軍頼家が蹴鞠に狂います。

 雅経はその蹴鞠の腕を買われて後鳥羽院に召され、上洛して、新古今歌人となっていくのです。今は、そのあたりで、『新古今和歌集』には女流が少ないとの後鳥羽院の仰せで、かつて活躍した古い女房歌人たちが呼び出され、彼女たちはもう出家したも同然の静かな余生を送っていましたから、「念仏の妨げになる」などとぶつぶつ迷惑がって参内するのです。そうした一人に二条院讃岐がいました。

 また『新古今和歌集』から新たに歌人として加わった女流に俊成卿女と宮内卿がいます。この二人は年齢も離れているし、作歌の態度も正反対で有名です。俊成卿女が古い歌を調べあげたあとは全部しまって自分自身の思念にのみ集中して作歌するのに対し、宮内卿は調べものをした資料を最後まで周辺において参考にしつつ歌を作った・・・、そのあまりの集中ぶりに身体を壊して早世するほどでした。後鳥羽院歌壇に召されたときが18歳くらいで、20歳以前に亡くなっているんです。

 俊成卿女は俊成の娘となっていますが、実際は孫です。この女性は時の権力者源通親の息子の通具と結婚しますが、通親の策謀で離縁させられ、通具は別の有力者の女性と再婚します。つまり、捨てられた女、というかたちです。それで、従来、この女性については華やかさに欠けるみじめな運命のひととしか語られてこなかった嫌いがあります。

 でも、今回、「花の蹴鞠」を書くにあたって彼女の年譜を作成してみたら、驚きました。彼女は離縁させられたあとも、ずっと通具を慕って生涯を送るのです。ときどき、歌の下手な通具に頼まれて代作をまでしてあげています。

 従来、この代作のところだけがとりあげられて、なんでそんな・・・とあきれられてきたか、通具を勝手と非難するかの言われ方をしてきました。

 でも、終生彼女がかつての夫を思い続けていたとして、ときどき歌の代作までしていたとするなら、二人は親の都合で離縁させられたものの、心の交流、そして実質的な交流はあったということです。そこには、日蔭の身でも我が愛を貫きとおす強い女性がいます。

 「花の蹴鞠」の前半は頼朝と比企尼の娘の丹後局との恋愛が主軸でした。頼朝が亡くなって前半の幕がおりましたので、後半の主人公にどんな女性を据えようか考えたときに俊成女が浮かび上がりました。第六回から登場しはじめています。歌をとおして女の一生を強く生き抜いた彼女を書ききれるか・・・、頑張ってみようと思います。一年間、万葉集の原稿で中断していましたので、目下この小説世界へ気分を取り戻すべく、万葉集のための資料の下になっていた関連の資料を掘り出して読み返しているところです。

|

2010.3.19 連載小説【花の蹴鞠】 第七回

 正治元年(一一九九)一月、相模川の橋供養の帰途落馬して床に伏した頼朝が生涯を閉じた。あまりのことに鎌倉中が呆然自失、右往左往するなか、逸早く立ち直って政子が指揮をとり落ち着く。政子は出家し、尼御台所となっていた。京で訃報に接した雅経夫妻はとるものもとりあえず下向。葬儀には間に合わなかったが二十一日の法要に列席した。頼朝にはどんなに助けられたか。頼朝との出逢いがなかったら今の自分はない。雅経の胸には頼朝の恩恵の篤さだけが去来し、典子は雅経の泣くのをはじめて見た。

 明子もまた政子に次いで出家していた。挨拶に出向こうと思ったが盛長から拒否され、明子の失意の深さを知った。明子は甘縄の盛長邸から一歩もでず、ひたすら仏事に専念する日々という。もう以前の明子ではなく、記憶の彼方の、追憶のなかの、ただ現在もない、未来もない、まっさらな世界に生きているという。典子はここでも言葉がなかった。

 次期将軍には頼家が就いた。鎌倉に来て久々に頼家に会った雅経はそのあまりの変貌ぶりに驚いた。かつての初々しい若き獅子といった面影がまったく失われている。代わりにあるのは荒んだ目で人を見下すような猛々しい驕りだった。かつて兄と慕った雅経に対してでさえ、臣下の礼を尽くして臨むことを要求した。京で奔放過ぎるほどに人々に胸襟を開く後鳥羽院に接している雅経には、頼家のそれはかえって卑屈に思われた。院は前年譲位し、在子の産んだ土御門帝が三歳で即位していた。

 その前年の春、景盛は京から琴子を呼び寄せていた。景盛にとって琴子ははじめての恋だった。雅経夫妻が順調に京での生活をすべりださせたのを見届けて、盛長一家は鎌倉に戻った。その際、余程景盛は琴子を伴いたかったが泣く泣く断念した。しかし思いは日を追う毎に募り、苦悩の影は深まるばかりだった。明子にはそれはかつての頼朝と自分のすがたに他ならず、見ていられなかった。明子は盛長と相談し、琴子を鎌倉に迎え入れた。こうして甘縄に於いて景盛と琴子のささやかながら幸せな生活がはじまっていた。

 可憐な琴子の評判が広まるのに時間はかからなかった。それは頼家の耳にも達し、景盛に対する敵意を一層激しく煽った。同時にそれは琴子に対する興味でもあった。興味は執着に変わり、頼家は琴子を差し出すよう書簡をもって景盛に度々要請した。景盛はこればかりは応じることができず困惑した。このとき頼家には去年若狭局とのあいだに一幡が産まれている。

 七月に入って参河で騒動が起こり、頼家は景盛をその始末に向かわせた。景盛は頼家の真意が琴子にあるのを察し固辞したが逆らい切れずに十六日に進発した。二十日は午後から激しく雨が降り、雷鳴が轟いた。夜になってそれは上がり、明るい月夜となった。頼家は甘縄に人を遣ると強引に琴子を連れ去った。そして家臣の家に預け、日々通った。寵愛甚だしという。その後琴子は御所の石の御壺に移され、そこに出入りできるのは決められた五人のみ、それ以外は禁止という厳重警戒がなされる。

 八月十五日、景盛が参河から戻り、あまりのことに愕然とする。頼家は景盛の逆襲を防ぐ先手に、琴子の件で恨んで景盛が謀反を起こそうとしているとし、十九日、景盛を誅すべきの沙汰をだす。靡いた御家人らが旗揚げ、鎌倉中の武士が競って集結、市内は人馬で騒然となった。それを知った尼御台所政子は急いで甘縄に赴き、盛長宅に立て籠もると、人を遣わして「頼朝亡きあと幾許もないのに闘争などもっての外。殊に景盛は頼朝にとっては特別の人物。その人物を討つならこの政子をまず殺してからにせよ」と諌めた。

 二十日、ふたたび政子は盛長邸を訪れ、「昨日は一旦頼家がわたしの忠告を聞き入れたにしても、わたしももういつまでそなたを庇い切れるかわからない。そなたに野心の意はないと起請文を書いてわたしに預けなさい」と言った。ここに及んで景盛には成す術もなく政子の言に従うしかなかった。景盛の失ったものは埋めようがなく、傷ついた心の癒しようもなく、眼差しの影はいよいよ濃くなった。

 典子はことの次第を父広元の手紙で知った。広元は「こういうことは先例のないことではなく、鳥羽院が源仲宗の妻を仙洞に召して寵愛し、仲宗は讃岐に流された例があるにしても、辛くて景盛を見ていられない」と書いてきた。雅経も典子も書状を手にしたまま茫然と顔を見合わせた。典子は琴子を鎌倉に遣るのではなかったと悔やみ、雅経は頼家への杞憂が現実となったとしてもここまでひどくなろうとはと暗澹とした。

 辛い話は京にもあった。通具(みちとも)の妻妙子が通親の手で離縁させられたのだ。妙子の母は俊成の娘で、妙子が七歳の頃、夫盛頼が鹿ケ谷の陰謀に連座して離婚。妙子は俊成のもとに預けられた。定家とは叔父と姪の関係だが、姉ばかりに囲まれて育った定家には急にできた妹のようで可愛くてならずよく面倒を見た。とはいうものの妙子は定家よりも姉たちに似てしっかり者で、成長すると十歳近く年が違うのに定家の方がやり込められていた。その妙子が離縁させられたのである。定家は通具を恨んだ。

 権謀家の通親により次に通具は土御門天皇の乳母按察局(あぜちのつぼね)と再婚させられた。通具は優しい男だった。妙子もそれを知っていたから、父親に逆らえない通具の決断を受け入れた。俊成の家で定家とともに歌に明け暮れ、歌を通して早くから人生を見てきた妙子は、耐え忍ぶことが女の真価ということを知っていた。『源氏物語』にも精通して育った。そのために妙子は通具を客観的に見ることができ、人が思うほど自身を不幸と思っていなかった。通具が後ろ髪を引かれるようにして離婚し、新しい伴侶を得ても妙子を忘れずにいることが信じられたから、それで良しとする肝が据わっていた。

 時々このときのために歌を学んできたのだと思うほど、妙子は自身の運命を見通していた。宮中で通具に会って帰宅した定家が怒りを吐き出すと、逆に妙子はそういう境地を説明してなだめた。定家には歌は作るものだった。目に浮かび、心に思うことを言葉にすることだった。しかし、妙子は違った。歌はみずからがどう処世していくべきかを教える生きた指針だった。妙子は歌に女の一生を学んでいた。古来女は待つことをのみ詠い、詠うことで苦しみを昇華させた。妙子は今度は自分がそれをするのだと思っていた。

 典子には妙子の深い思いの知る由もなかった。ただ明子とともに訪れた日の通具夫妻の円満だった姿を思い、ひどい、と憤った。定家が内の昇殿を許されるのは翌年だから、院の寵臣雅経とはまだ別世界にいた。雅経にとっては定家よりも通具の方が毎日顔を合わせる親しい仲だったから、仕方ないと通具を擁護した。すると典子は、じゃあ、雅経様も誰かがもっと力のあるお方に乗り換えなさいと言ったら、わたしを離縁なさるのですか、と詰め寄った。雅経はその迫力にたじたじとし、断じてそんなことはないと言った。典子はそれでも気が治まらずに雅経に起請文を書くよう言い、それで済むならと雅経は書いた。それを聞いた通具は寂しく笑って羨ましがった。こののちしばらくして曹洞宗の開祖道元がこの世に生を受けるが、父はこの通具ともそうではなく通親ともいわれている。
 後鳥羽院率いる『新古今和歌集』時代の幕開けは翌年に迫っていた。(つづく)

|

2010.3.19 連載小説【花の蹴鞠】 第六回

 建久八年(一一九七)二月四日、雅経と典子は鎌倉を発ち、二月十九日に京に入った。駿馬十二疋をはじめとする後鳥羽天皇への献上品を頼朝が揃え、その守りに盛長を付けてくれたために、一行はものものしい行列になった。しかし、中に盛長妻の明子と子息景盛が加わっていたので典子は安心できてかつ楽しかった。本来なら母親が同行するところを、広元の意向で明子が付き添うことになったのである。十四歳になっていた景盛(かげもり)は経験のために両親が伴った。もちろん陰で頼朝の意がはたらいている。落ち着き先はかつての雅経の住居で荒れ果てていたのを通親(みちちか)が手配して整えていてくれた。現在白峯神宮が建っているその地である。

 景盛が付いてくると決まったとき、雅経は頼家を心配した。雅経は頼家の景盛に対する異常なまでの敵愾心を知っていた。腹違いの弟である。その弟に対して自分は京へのぼったことがある、お前はないだろう、というような見下した態度をとることがあるのを雅経は見ていた。二年前、東大寺再建落慶供養に上洛したとき、頼朝は政子ともども大姫と頼家を伴っていた。その権威が損なわれてしまうのだ。果たして頼家は怒り、それを察して雅経は常以上に蹴鞠の相手に時間を割いた。雅経は自分が上洛したあと誰が頼家を助けてやれるかそれが気がかりでならなかった。

 入洛しての翌日早々、後鳥羽天皇から参内して蹴鞠を披露するようお達しがあった。しかしさすが旅の疲れでそれは無理とお断り申し上げた。再三のお召しののち、二十五日にはじめて雅経は参内した。装束や車の手配も自らの猶子の上洛として頼朝がすべて仕切り準備万端整えていた。供には盛長が従い、謁見の場でも傍に控えていた。兄宗長はすでに伊豆から戻っていて、上鞠を務めるなどひと足早く蹴鞠で復帰していた。その日見せた雅経の華麗な技は帝をして感嘆せしめ、一躍雅経は寵臣となった。

 典子は明子に付き添ってもらい、範子に挨拶すべく通親邸に行った。雅経上洛を促す御教書は範子によって発せられていた。範子は父親が早く亡くなったために妹の兼子と二人叔父の藤原範季によって育てられた。範季が後鳥羽天皇を養育していたからおのずと姉妹は乳母となった。範子は最初清盛の妻時子の異父弟にあたる能円と結婚し、在子という女子をもうけていた。しかし能円が平家の都落ちに従ったとき離縁して都に残り、通親と再婚したのである。在子は通親の養女となり、後鳥羽天皇妃となって土御門天皇を産むと、通親は外戚としての地位を確立した。雅経が上洛した年、後鳥羽天皇は十八歳で、土御門天皇は二年前に産まれている。妹の兼子も後鳥羽天皇女房となって仕えていて、典子は宮中に出仕して兼子のもとではたらくことになっていた。

 後鳥羽天皇は父帝高倉院と二歳のときに死別している。のみならず平家全盛の時代にあって兄安徳天皇にのみ世は靡き、帝位につく可能性のない四の宮は忘れられた存在だった。しかし乳母の夫となった通親は誠意をもって養育にあたり、四の宮も父同然に信頼し切って成長した。和歌の嗜みも文人政治家通親の手ほどきである。その関係は帝が定家と出逢い、新しい作風の和歌に目覚めると同時に主体性をもつ新古今前夜まで続く。

 典子にとってはじめての都は見るもの聞くもの興味津津の連続で毎日が楽しく嬉々として飛び回っていた。明子も、
「わたしが付いて来なくても大丈夫でしたね」
と言ったほどだった。通親邸でも典子は臆することなく堂々と接し、通親夫妻や同席していた兼子に好感をもたれた。逆に典子にはこういう高官の前にあっても風格どころか優艶さにおいて引けをとらない明子が驚きだった。しかもそれが兼子のような女性をさえ引き込んで魅了している。明子のようには絶対なれないと、改めて典子は感嘆した。

 平家全盛の時代、通親のもとでは光行がはたらいていた。福原に都を造るときには通親采配のもと、光行が丈尺をとった。以来光行は通親家に親しむ。何かの拍子で範子の口からその光行の名前がでた。すると突然典子が、
「光行様ったら、何につけても『源氏物語』『源氏物語』なんですの。なのに、蹴鞠は少しもお上手でなくて」
と、不平たらたらの様子で言ったので、通親をはじめ一同が笑いこけた。範子は、
「まあ、あの光行が。蹴鞠を……」
と、唖然として言ったので、かえって典子が不審がって、
「光行様と蹴鞠って、おかしいのですか」
と問い返すと、
「そうね。さもお似合いとは言えませんわね」
と、また笑いこけた。        

 そこに子息の通具(みちとも)夫妻が訪ねてきて話に加わった。通具は通親の先妻の子ですでに成長して一家を成している。妻の妙子は後年俊成卿女の名で歌人として知られる女性だが、このときはまだ通具の妻として平穏な日々を送っていた。俊成の娘とはいうものの実際は孫で、定家には姪にあたる。典子には兼子や明子といった女たちの前で、妙子は如何にも目立ちそうにない大人しやかな女性に思われた。
「ご立派な方たちでした。鎌倉よりずっと楽しくていいですわ」
と、帰宅して典子は雅経にそう報告した。

 典子に自宅で人を迎える経験をさせる意味もあって、明子が雅経邸へ以前二条天皇の宮廷に仕えていたときの同僚讃岐を招いた。車で乗りつけた讃岐を降ろすところから明子が手本を見せるようにして出迎え、讃岐もことの次第を承知で、面白半分宮中の南庭さながらに演じて見せたりした。明子が鎌倉に下ったあと、讃岐は九条兼実の娘の任子に仕えた。当時通親と兼実は熾烈な権力争いをしていた。任子が入内すると通親も養女在子を入内させた。ほぼ同時期に二人の妃は妊娠。そして任子が産んだのは皇女で、在子が産んだのが土御門帝ということで、通親が外戚としての地位を獲得。兼実は失脚し、任子は宮中を追われた。それが去年のことだったから讃岐の語る話は生々しく、任子への同情とともに苦渋に満ちていた。通親邸でのひとときが楽しかっただけに、その裏にこういう悲劇があったのかと典子は慄然とするとともに京の怖さを知った。

 典子は身の回りの世話をする役として琴子という可憐な少女を傍に置いた。その琴子に景盛が恋した。景盛には眼差しに深い影がある。その眼差しが一層濃くなっていた。
「景盛様は、薫ですわね。生い立ちが複雑だからでしょうね。薫も仏道に志深かったでしょ。あの若さであの思慮深さは普通じゃありませんわ」
と言った。雅経は一回読んだだけの『源氏物語』を典子がそんなふうに理解できていることに驚いた。男とは違う感がはたらくらしい。精通しているはずの光行や自分より余程しっかりと人間関係を見据えた発言を折に触れする。この頃では雅経は内心典子に舌を巻いていた。   (つづく)

|

2010.3.19 連載小説【花の蹴鞠】 第五回

 盛長に嫁したとき、明子は妊っていた。そして産まれたのが景盛(かげもり)である。頼家にとっては二歳下の腹違いの弟となる。聡明な政子は頼朝と明子の愛の質を知り、また景盛の資質を見抜いて自分の入るべき筋合いでないことを悟り、自身もまた頼朝の心に沿って彼らに接することを固く決意すると、以来終生それを崩さなかった。

 頼家は父時政に似ていた。北条の血を継いでいるのである。それに対して景盛は伊豆に流されてきた当時の頼朝だった。明らかに源氏の血を継いでいる。政子は頼朝を愛していた。誰にも犯すことのできない棟梁としての気品を備えた頼朝に心から惹かれていた。それを景盛は備えて産まれたのである。政子は我が子ながら頼家に失望し、ひそかに景盛に対し頼朝にもつのと同じ信愛の情をもった。頼家はそれを感じて育ち、景盛を憎んだ。後年、景盛の愛妾を頼家が奪う事件が起きるが、その背景にはこのような兄弟間の事情がある。そのときも政子は景盛を気遣い、頼家を責めた。

 政子が頼家を懐妊していた寿永元年(一一八二)、頼朝は亀の前という女人を囲った。前年伊豆を訪れた際に見初め、呼び寄せたのである。人目をはばかり御所から遠い小窪という地に住まわせた。現在の逗子市である。臨月に入った政子が比企尼邸に移るといっそう繁く頼朝は通った。政子がそれを知ったのは御所に戻ってからで、時政の後妻牧の方の告げ口による。政子は怒り、牧の方の父宗親に亀の前が身を寄せている家を襲撃させた。頼朝は激怒し、宗親を召し出すと自らの手で髻を切り落とすという恥辱を与えた。今度は時政が怒り、牧の方をはじめ一族郎党ともども伊豆へ引き上げてしまった。その頃明子はすでに鎌倉に下って政子に仕えていたから事の始終を見ていた。頼朝をよく知る明子はさもあろうと達観しながら、出産という大事を乗り越えたばかりの政子を労わったので、政子も明子に感謝しつつ信頼した。

 寿永二年(一一八三)七月、都では平氏一門が安徳天皇を奉じて西国に都落ちするという非常事態が起きた。京中が大混乱に陥るなか、八月には高倉天皇の第四皇子が践祚する。四歳の後鳥羽天皇である。そして木曽義仲に平氏追討の宣旨がだされ、あれほど栄華の絶頂を極めた平氏一門が今は朝敵となって運が尽きようとしているという。これらの報を頼朝にもたらしたのが三善康信だった。彼は母が頼朝の乳母の妹だったために、明子同様頼朝と少年期をいっしょに過ごして育った。七歳年長だったから、頼朝にとっては兄のような頼れる存在だった。明子との関係も康信が時にかばい時に便宜をはかったから無事くぐりぬけたのである。頼朝への忠誠は伊豆に流されてからも続き、源氏追討の沙汰を急報したり、清盛の死去など京の情勢を逐一知らせていた。

 頼朝は伊豆で十四歳から三十四歳までの二十年の歳月を過ごした。その間清盛は太政大臣にまで昇りつめ、娘の徳子が高倉天皇の中宮となって安徳天皇を産むと晴れて外戚となった。かの道長に匹敵する望月の欠けたることのなしと思えばといった勢いの清盛。それに比しての我が身を思うと暗澹たる心地に陥らないことはなかった。二度と浮かび上がれないかもしれないという不安が離れることはなかった。その一門が滅びようとしている。鎌倉に幕府を開き棟梁となって安定したといっても、京に一門がはびこる限り頼朝に真の勝利はなかった。その勝利を頼朝はつかんだのだ。

 しかし頼朝の心は浮き立たなかった。そのときがきたら如何に万感の思いが湧くかと想像していた感慨に浸れない。何故だろう。書状を携えた使者や居並ぶ御家人たちの手前その場は鷹揚に構えて対処してみせたが、内心頼朝は戸惑っていた。そして、その夜、頼朝は寝付けなかった。

 その夜、明子もまた寝付けないで、御所の内の与えられた局で一人過ごしていた。夜は更けて邸内はすでに寝静まっている。鎌倉に下る話があったとき、明子はすべての思いを封印した。私は頼朝様とは違うのだ。私はただの乳母の子。あの頃は幼かったから身分の違いも知らずに愛し愛され無邪気に戯れていた。でも今や頼朝様は東国の大将。たくさんの女子も知っておられる。頼朝様は変わっておられるだろう。私はお仕えする身の一人に甘んじるのだ。今更再燃すべくもない愛を断じて望んではならない。その覚悟で明子は下向した。

 平氏一門都落ちの報が明子の気持ちを砕いた。平氏によって二人は引き裂かれた。その平氏という間にはさまっていたものが取り払われて、明子の心に甦ったのは頼朝と過ごした時間の最後の最後だった。今の時間が引き裂かれたときの時間と直結したのだ。伊豆に流されていくことが決まったときの絶望。見送ったときの悲しみの絶叫。泣いて泣いて泣いて過ごした苦悩の日々……。

 逢いたい。かつてのように親密に二人だけで話したい。話して話して失った日々を埋めたい。そうではなく、抱かれたい。かつてのようにむさぼり合いたい。今すぐ……。明子の肉体の内側から熱く激しい欲求が突き上げていた。

 そのとき背後に衣ずれのような人の気配を感じて明子は振り返った。そこに思いもかけず頼朝が立っていた。立って食い入るように明子を見下ろしている。頼朝の目もまた明子を求めていた。頼朝にもわかったのだ。平氏によって失われたものは源氏の棟梁としての未来ではなかった。明子という自分の生の拠って立つ基盤そのものを失ったのだ。何よりも一番に取り戻さなければならないのは明子だった。それが叶ってはじめて長かった孤独が癒される。思いがそこに至ったとき頼朝の足はおのずと明子の局に向かっていた。

 言葉はもういらなかった。頼朝は両手で明子を抱き寄せると深く深く包み込んだ。懐かしい匂い。懐かしい温もり。求めていたもののすべてがここにある。もう二度と離さない。いや、離してはならない。頼朝は固く決意した。明子のなかに入ったとき、これほどまでの安らぎがあったかと身震いした。失ったもののすべてを取り戻した思いがした。こんなにも愛おしい女。この女のためになら自分は何を失ってもかまわない。武家の棟梁としての地位もいらない。こんなふうに思ったことが未だかつてあっただろうか。この女への愛は次元が違う。これまでの誰とも比べようがないほどこの女は大切だ。と、次から次へと思いが湧き、そして満ち、溢れ、感動が全身を貫き、その夜二人は終わりのない抱擁を重ねた。力が尽きて顔を見合わせたとき、二人は互いの目に究極の満足ともいうべきものが広がっているのを見た。外はしらじらと夜が明けはじめていた。

 鎌倉に下向した雅経が頼家に蹴鞠の指南をすることになったとき、景盛は十二歳の少年に成長していた。頼家が嫌がったので蹴鞠に加わらなかったが、雅経にも景盛がただの家臣の子でないことは察しがついた。立居振る舞いに凛とした風格のようなものがあった。頼家が雅経を慕ったので御所で景盛と接触することはなかったが、盛長の家に行くようになって自然親しくなった。雅経や典子の前で明子と景盛母子の仲睦まじさは微笑ましく、自分たちも子供をもったらあのように育てたいと話し合ったりした。 (つづく)

|

2010.3.13 おかしなことをいうようですが、地震の前に感じる体感について・・・

044

035

049

三枚の写真は2月19日の空です。上二枚は16:40頃。三枚目は16:10頃の撮影です。まるで火山の火口からあがる噴煙を観るような感じで南からむくむくと雲が噴出してきました。一枚目が南東で、東へ雲が流れていくようす。二枚目が南でまさに噴出している方向です。地震前兆の雲としては形態が整っていませんが、噴出し方の異様さで要注意と思って撮っていました。三枚目は雲が収まってきたころのもので、雲のある部分以外はご覧のように真っ青でした。雲のなかはまるで黄砂の空のようでした。この日の雲の結果として八丈島沖にM4.6の地震が発生しています。当地で南発生の雲は伊豆諸島域での前兆です。

 地震予知のために雲の写真を撮っていたら自然に対して感覚が繊細になりました。例えば雲も要注意な雲が出そうな日はなんとなくわかりますし、(撮りにでかけなければならなくなりそう・・・、って)、どこにいても太陽の位置から方位を的確に判断するのが自然にできています。そしてその方位の向こうに続く各都道府県も・・・。あれは島根の発生かな・・・、とか、あれは大分県だ・・・、なんて。もちろん経験則のない地域はわからずに???となりますが。

 地震前兆のなかに体感というのがあります。これは地震予知の掲示板では信じない方が多くて、そんなことを書こうものなら掲示板が荒れてしまいます。体感予知に優れた方は感じる体の部位で地震の規模や発生地域を予知されたりしますが、私はまだそこまでいっていないので体感に関しては報告しません。

 でも、今回異常な経験をしましたので、ちょっと書いておきたくなりました。信じる信じないは皆様の自由です。でも、何かの折に感じることがあって、それがとてつもなく大きなものだったら、それはもう被害級の地震前兆ですから、覚えておいていただいて地震予知として、身の回りの整備とか、周囲の方々への勧告とか、避難用品の準備とかに役立てていただきたいと思って記します。

 地震前兆の体感は本当に知られていませんが、ほんとうにあるんです。私が信じるようになった一つのきっかけは、阪神淡路大震災を経験された方からメールをいただいて、地震前の一週間は体調が悪くてほとんど這って暮らした、と教えていただいたことです。それから自分の体の調子に耳を澄ますと、地震前の体の不調ということが同調していることがわかってきたのです。

 千島列島の方でM8があったときとか、大きな地震がある前は必ず絶不調です。近隣の県でM3~4規模のときの体感は「急激な疲労感」とか「猛烈な睡魔」。何もしらないときは日中寝込むなんて、と自分の怠惰を責めていましたが、今は、あ、また地震だ・・・、と呑気にしていると翌日やはり揺れます。結構、今までも不調のときは体が悪かったわけでなく、地震の前触れで不調になっていただけ・・・があったと思います。

 今回の体感は深刻でした。二週間ほど前、朝起きたときに突然左の親指に激痛が走り、悪化する一方。途中では指の動きが固まって関節を曲げるのさえ不自由に。もちろん痛みは続いていますからタオルを絞るのもできない状態。どうなることかしらと思いつつお医者様に行かなかったのはなんとなく体感かな・・・っていう気があったからでした。

 昨日、また朝起きたときに、ふっと親指の痛みが「抜けた」気がしたんです。痛みが実際に指サックをはずしたみたいに指先から外へ出ていったんです。それで触ってみると、さわるだけでも痛かったのが和らいでいる・・・。余韻の痛み程度なんです。それからみるみる楽になって、固まっていた動きも自然に自由に折ったり曲げたりできるようになり・・・。やはり体感だったんだ、だとすると地震があるぞ・・・って思っていたら、夕刻、茨城県南部でM4.2がありました。

 M4.2は普通ではこんなにひどい体感をもたらす規模ではありませんが、内陸の地震は海域のものより前兆が大きいんです。特に茨城県南部の前兆は我が家には悪い影響をもたらす傾向です。内陸のM4.2は大きいですよね。指の痛みはもうほんとうに余韻が残っている程度です。骨にひびが入っていたり何かの悪い病気だったら、こんなふうに突然ある朝「痛みが抜ける」なんてことはありませんよね。

 おかしな話と思われる方に説明させていただきますと、地震の発生には岩盤が壊れる=岩石の摩擦が起きることから、電磁波が発生します。電磁波が空に昇って雲になります。電磁波は地球を駆け巡りますから、人間の体内をも通過します。それが体調に影響を及ぼすという仕組みです。

■追記(13日22:21):
【3月13日21時46分頃 福島県沖 M5.7 震度4 】の地震が発生しました。親指の激痛は朝の書き込み後も余韻として継続していて、おかしいなあ、もっとすっきりしていいはずなのに、と思っていました。福島県沖のM5.7にも反応していたようです。いつも該当地震を探るとき、最初に「これだ!」と思うのがあったあと、「あれ? こっちかなあ・・・」というのが発震します。きっと地中深くで連動していて、例えば今回でいうと、茨城県南部だけでなく、福島県沖だけでもなく、二つが重なったからこそのいつもより激しい「激痛」という前兆になったのでしょう。茨城県南部地震も、福島県沖地震も、久しぶりに当地でも揺れを観測しました。

■追記 2(14日18:45):
異常ですね。また【3月14日17時08分頃 福島県沖 M6.6 震度5弱 】が発生しました。親指の激痛はその後もまだ残っていて、おかしいなあ、痛みをひきずっているあいだに本当に痛めてしまったのかなあと思っていましたが、まだ地震が続いていたのですね。これだけ異常な連続発震の体感だったのですから痛みがあれほどひどかったのでした。どこかの掲示板でこれで福島県沖のひずみも開放されただろうとあるのを読みました。ほんとうにそうあって欲しいです。指の痛みはまだ関節がギコギコしていますが・・・

|

2010.3.11 薄いピンクのラナンキュラスです!

115

ラナンキュラスというと原色の赤や青といった濃い色ばかりと思っていたのに、このほんのり薄くピンクがかった白い花の愛らしさ・・・。薄い水色をバックに撮ったら似合うかな、って試したのですが、よく見るとまだ花は咲ききっていなかったんですね。その後飾っておいたら満開になって、真ん中の雄蕊がすっかり見えて、やっとそれに気づきました。

 なんてうっかり者・・・って思われても仕方ないのですが、じつは買ったとき、もうしおれていて、そこから切り花を長持ちさせる液体を入れて吸い上げさせていたら、ここまで生き返ったんです。それで嬉しくなってシャッターを切っていました。まだ満開を迎えていないなんて、まったく思いもよりませんでした。

 お花の写真て、難しいですね。あの大写真家たる秋山正太郎氏でさえ、あれほど有名な女優さんばかり撮り尽くして、最後にお花の写真を撮られるようになったら、「花は難しい・・・」って。一見簡単そうに見える花の写真でも、簡単なんてことはないようです。

 そういえば、昨日、テレビにフラワーデザイナーの赤井勝さんが出演されていました。「春」をテーマにその場で即興で活けられたのが、「苔の大地に生えるぜんまいのような大きな芽とクリスマスローズの花」。で、そのクリスマスローズですが、全部茎を切り落として花首の部分だけにして苔に挿していかれたんです。

 我が家では毎年クリスマスローズの花が満開で、いつもいい写真を撮りたいと思いつつ、この花は下を向いて咲くので困っていました。茎を切って埋め込むなんて、どっきりですが、やってみようかな・・・って思いました。今年もまた満開に咲いていますので・・・

|

2010.3.7 【鹿背山城の講演会・見学会のお知らせ】のお知らせ

仁木 宏様からのメールをお知らせさせていただきます。

************************************

【鹿背山城の講演会・見学会のお知らせ】
                    木津の文化財と緑を守る会 会長 岩井照芳

 今年の鹿背山城の発掘調査で、従来枡形虎口だと思われていたところからは何も出ず、枡形虎口ではないことがわかりました。今まで全く知られなかった様式の虎口であり、防御だけでなく儀礼の場を兼ね備えるという特徴が浮かび上がってきました。
 村田修三先生は2月27日の木津川市教育委員会による現地説明会の解説で「この虎口の発見は城郭史を書き換える。70才になるまでの半世紀に及ぶ城郭研究を見直し嬉しい反省をしなければならない」と言われたほどの大発見でした。
 また、当会では城域整備をするなかで毎年道や郭・竪堀等の施設を発見しますが、今年村田先生も竪堀を発見されました。その近くに郭群も見つかり、興福寺時代の城域が今より一層大きくなる可能性が出てきました。
 この大きな城を、松永久秀は小さな範囲で改修して防御ラインとし、堅固で小さな城に仕上げていたこともわかってきました。これら最新の情報をお伝えするため、講演会と見学会を下記のとおり開催しますので、お誘いあわせの上ご参加下さい。

                        記

《演題》  鹿背山城の調査から学ぶ ~城域の全貌~
《講師》  村田修三先生(大阪大学名誉教授)
《日時》  3月14日(日) 午前9時から 1日コース(午後3時半頃終了)
                         半日コース(午後12時半頃終了)
《講演会場》東部交流会館(JR木津駅東側へ4分)、講演会は9時~10時半
《その他》 筆記具、弁当(1日コース)、水筒、ハイキングの服装、軍手、帽子
《参加費》 300円(資料代を含む)
《申込み先》FAX 0774-72-0014(岩井照芳)、住所・氏名・電話・コースを記入
       3月12日(金)申込み締め切り
《主催》   木津の文化財と緑を守る会

*************************************

■関東人の私はあいにく「鹿背山」を知りませんので調べてみました。木津川あたりというと興味ありますものね・・・。以下、リンクを貼らせていただきます。「鹿背山」は「かせやま」と読むようです。

●鹿背山の史跡
http://www.eonet.ne.jp/~yamashiro/kizu/kaseyama.html
(磨崖仏など写真がいっぱい。鹿背山城の城郭図もあります。)

●鹿背山城
http://www.yamashiro-kodo.gr.jp/contents/katudo/sir_db_1.html
(詳細な説明があります。)

●鹿背山城/近江の城郭・京都編
http://www.oumi-castle.net/takoku/kyoto/kase.html
わかりやすい説明です。ここから引用させていただきますと、(鹿背山城は伊賀街道(現国道163号線)に沿って流れる木津川の南岸、通称城山(標高136m)に築かれている。鹿背山城は木津太郎英清が文治4年頃に築いたと推定され、文明2年10月畠山義就によって攻められ落城したとされている。 永禄8年から信長が上洛する永禄11年までの間、松永弾正(久秀)が大和の北の守りとして南山城方面への出城として築いたものと考えられている。)ということです。

山城って、面白そうですね!!

★冒頭のブログパーツの動物をクリックしてみて下さい。素敵な「Tord Boontjeワールド」が出現します。rtsgarden.jp/cs/blogparts/detail/091211001227/1.html

|

2010.3.3 仙覚と『西本願寺本万葉集』の原稿が終わりました・・・比企氏の遺産の凄さについて

164

 『源氏物語』の写本を追って鎌倉で成立した『尾州家河内本源氏物語』を中心にいろいろ探っていましたが、ある方から『尾州家河内本源氏物語』とそっくり同じ装丁の万葉集、『西本願寺本万葉集』があると教えていただいて、『万葉集』の世界に踏み込みました。

 昨年一年、資料集めと構想に費やし、今年に入って埼玉県比企郡の現地踏査を行い、二月初旬から書き始めて、二月いっぱいぎりぎりの原稿締め切りに間に合って書き終え、投函しました。

 当初は『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』の成立がメインのテーマのはずでしたが、万葉集について読み始めたら、『西本願寺本万葉集』の底本となっている仙覚という鎌倉の万葉学者の正体が不明というおかしな事実に尽きあたり、俄然、興味がそこに移って、「仙覚とは誰か」の内容の考察になってしまいました。

 経緯についてはこれまでいろいろアップしてますので省略しますが、仙覚がどうも比企氏にゆかりの人物とまでは言われていました。でも、従来のそうそうたる学者さん方が研究されても、あるところまでいくと行きどまり・・・、みたいにしてわからなかったのです。

 たまたま私は昨年来「花の蹴鞠」という小説を連載していて、それが頼朝の時代からはじまって承久の乱までいく時代設定ですから、比企の乱も当然入ってきます。比企氏は、比企尼が伊豆に流されていた頼朝をずっと支援し続けた縁で、鎌倉幕府の成立後、頼朝に重用された氏族です。

 比企尼には男子がなかったために甥の能員を養子にして家督を継がせます。その能員女の若狭局が第二代将軍頼家の側室となり、嫡子一幡を産んだことから、能員はゆくゆくは一幡が第三代将軍となるとその外戚といった地位を持つまでに至ります。 が、それを恐れた北条氏が、第三代将軍には実朝をつけ、比企氏を滅ぼしたのが比企の乱です。

 仙覚は、その比企の乱の年の生れです。『万葉集』を成したのが比企ケ谷、『万葉集註釈』を成したのが埼玉県比企郡の小川町、といったことから比企氏のゆかりとされていますが、比企の乱の年の生まれとなると、これはもう比企氏の残党と考えるしかない・・・というところから私の考察ははじまりました。結果からいいますと、仙覚はたしかに比企氏の残党で、その為に身を隠していたから、正体が曖昧にしか伝わっていなかったんです。隠しているのですから、従来の方法で正面から研究しても追及し切れなかったという状況です。

 私が「仙覚はこの人」と見当をつけた最初のころ、メールである方にそれをお伝えしました。そうしたら、返信に「比企氏の遺産に感じ入っています」といただきました。私はハッとして、それから比企氏という氏族に対する見方が大きく変わりました。

 比企の乱は学校の教科書で習う範囲では、鎌倉によくあった一御家人が滅ぼされた内乱でしかありません。しかも、一般的には和田義盛等他のそうそうたる御家人が滅ぼされてゆく内乱のなかでは小さめの扱いです。でも、事実は比企の乱の方が物凄い大変な意味を持っていたのです。

 和田義盛や梶原景時が滅びてもただの御家人の話です。でも、比企能員が滅ぼされたということは違うんです。滅びていなかったら能員が外戚となって、幕府の権威は比企氏に移るんですから。それまで北条氏がその立場でした。比企氏がそうなったら、北条氏の立場はまったくなくなるわけです。おそらく北条氏は比企氏の復活を恐れて徹底的に打ちのめしたのでしょう。私は専門に歴史を学んでいませんでしたから、比企氏についても、比企の乱についても、一般的な知識として「小さく」しか思ってなくて、ただの滅ぼされた一氏族でした。

 が、「比企氏の遺産」と返信をいただいたとき、はじめて比企氏という氏族がもつ高度な文化に気がついたのです。比企尼は京都で頼朝の乳母をしていた女性です。比企氏の内部には京の文化が定着しているんです。だから、おそらく頼家の側室となった若狭局も優美な女性だったことでしょう。そういう高度で雅な文化をもつのが比企氏でした。仙覚はその一族のなかの人です。滅ぼされた一族の残党・・・という立場の人間はたくさんいるでしょうけれど、『万葉集』の研究に生涯を捧げたような人は他にいません。仙覚の万葉研究は、比企氏の人間ならではの結果だったんです。

 「比企氏の遺産」を心に執筆を続けていると、仙覚の心の軌跡が手にとるようにわかる気がしました。心に「知の遺産」をもって生涯をわたることの素晴らしさを思いました。(原稿は二月中に投稿していますが、華やかな気のするお雛様の日にこれを記します。載せていただくご本の刊行は11月の予定です。)

|

2010.3.1 2月25日深夜の【不審な明るい夜空】・・・チリ地震M8.6の前兆だったと思います。

02231035

02252347

02252348

02260353

02260354

02260406

02260407

02260408 まず最初にお断りしておきます。2003年10月以来、空を撮っていますが、何でも撮るというのではありません。ん? おかしい・・・と感じるから撮るんです。不審だから、撮るんです。そのことを前提としてご覧になっていただけたらと思います。

 最初の青空の写真はスマトラ地震の前兆として頻繁に観た空です。大きな地震が起きる前には必ずこのようなシャープな直線状の雲が何本も「西から東へ」流れます。飛行機雲かもしれませんが、飛行機は毎日飛んでいるのに、こういう空になる日は滅多にありません。で、この空が現れると数日後くらい後に地震があるのでは・・・と警戒します。ただ、スマトラ地震のときは規模が大きかったので、こういう空は一ヶ月前後ほぼ毎日出続けました。今回はこの日だけでしたので、スマトラ地震ほどでないと思って油断していました。

 その下からの7枚は25日夜から、日付を超えて26日未明までのおかしな明るい夜空です。二枚目と三枚目(月の写真)が25日23:47頃の撮影です。大きな地震の前兆として、「夜空が透明感ある澄んだ水色」になります。この夜、窓から観た南西低空の夜空が澄んだ水色になっているのに気付いて、「まさか・・・」と思いました。見上げると月に薄い雲がかかって暈ができています。これも地震前の現象です。夜9時過ぎの夜空は黒くて、普通にはこんなに明るく撮れません。画像処理して目視に近く見えるようにしてありますが、この「澄んだ水色の空」はほんとうに大きな地震前の空です。

 その後原稿を書くのに没頭してうっかり経過を見忘れていて、ふと気づいて「さっきの空はどうなっているのだろう」と、再び撮ったのがその下の二枚で、日付が変わって26日になった3:53頃の撮影です。まだ空は水色で、薄い靄のような雲が上空にたゆたい、東南東から夜なのに輝くように真っ白な雲が湧いていました。「澄んだ水色の夜空」ではよくこの「夜なのに真っ白な雲」がセットになります。

 やはりおかしいと気になって、三度目に撮ったのが、最後の三枚です。4:06頃の撮影です。まだ夜空は明るい水色です。だいたい深夜の3時とか4時なんていつもは真っ暗ですから、撮っても画像処理もできないくらいに真っ黒にしか写りません。どんなにこの日の夜空が明るいかおわかりいただけると思います。

 最初にも記しましたが、「おかしい」から撮るんです。とにかく不審な空だから撮るわけです。何が何でも地震の前兆に結びつけようとして撮っているわけではありません。「おかしい」「何かある」と思っていたら、やはり、27日にチリで地震が起きてしまいました。

 4:06ころの写真はチリの震源地の方向です。深夜ですので外に撮りに出るのはためらわれ、隣家越しにしか撮れませんでしたが、三本の真っ白な雲が八つ手の葉状に広がっていました。地震前兆雲の形態として「放射状」になります。扇の要のような一点から何本かの帯雲が放射状に広がるかたちです。この夜の白い雲がそう見えたのですが、今まで経験したことがないほど巨大な大きさでしたので、見違いかと思いました。でも、どう見ても中心があるように見えます。東南東から北側へ延びるのが一本、南側へ延びるのが一本です。見間違いとしか思いようがない巨大さでしたが、一応撮っておこうと思って撮ったのがこの二枚です。下から二枚目の雲は、その北側へ延びる帯雲だけをアップにして撮ったものです。

 ずっと上空に薄い靄のような雲がたゆたっていました。こういうとき、割と近場とか直下の地震があるので、東京湾とか千葉沖の震源を考えました。というのも、ちょうど羽田で濃霧が発生して飛行機の欠航のニュースがあった直後でしたから。でも、それにしてはあの放射状の雲の巨大さ・・・です。あの雲の巨大さに匹敵する他の宏観前兆は報告されていません。例えば鼠が集団移動するとか・・・。どういうことかしらと思っていたのですが、チリ地震の発生を知って、この前兆だったんだ、と思いました。

 自然現象のなかではおそらく様々にいろいろなことが起きています。人間の知覚能力の範囲でないことを信じるのは難しいと思いますが、「おかしな現象」はやはり普通でない結果の前兆です。私はこの頃思うのですが、空と地震の関係は、大木の枝と根っこの関係で、大きく枝を張った大樹の根っこが地中で大きく張り巡らされているように、大きな空の現象は地中の大きな活動に比例するのだと思います。

 宏観はたった一件だけでは「何かある・・・」と感じて終わりです。この空の場合、巨大な雲の発生が東南東でしたから、東南東に何かある、と思っても、その先成す手はありません。でも、みんながこういうことを知って、みんなが報告し合えば、どこかの地域に異常が集中していることがわかり、そこが震源地となることも予測でき、被害を軽減することができるのです。最近、ツィッターを始めておこうかな・・・って考えているのですが、地震被害を最小限に食い止めるには、こういうリアルタイムの各地からの情報が一番効果あるのではと思うからです。

 この夜空をアップするのは、何でも地震に結びつけるというお叱りを受けそうで躊躇していました。が、先ほどのニュースで津波にさらわれたらしいお父さんを探してと訴える小さな姉弟に思わず涙して、こういう現象も地震の前兆の一つなのだと知っていただきたくてアップしました。

|

« February 2010 | Main | April 2010 »