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2010.3.28 立松和平先生は忍辱に徹しられたのでした・・・追想集『流れる水は先を争わず』を拝読して

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 偲ぶ会でいただいた立松和平先生の追想集『流れる水は先を争わず』を拝読していて感銘を受け、これは是非世の皆様に知っていただきたい深いご文章がありましたので引用させていただきます。 佼成会出版社編集者の村瀬和正氏の「一九九三年、インド」からです。

 それは、「著作の一部が盗用との指摘を受けた年の末、私は、身が竦むほどのバッシングを浴びる立松さんとインドへ向かいました」とはじまります。そして、「あのできごと以来、立松さんに対する世間の評価はさまざまですが、ただ、どのように評されようと、あらゆる責めを一身に負い、憔悴しながらもなお旅のあいだ内省を深め続ける作家の姿を、私はいつか正しく伝えなければと思ってきました」と続きます。

 人には、それぞれ正義があります。しかし、立松さんはその後も、他が押し立てる正義に正義をもって抗するのではなく、ひたすら己の至らなさを見つめる忍辱に徹したのです。(中略) 釈尊は「怒りに対して怒り返さず、むしろ自分の心を制御する。そこに私の精進がある」と言っていますが、立松さんの秘めたる意志がこの言葉と重なります。そして、インドにおいて立松さんは「人はみな火宅に棲み、生ある限り罪悪深重の身であるがゆえに精進を続けるのだ」との気づきを得たと私は思っています。それはやがて、小説家は書くことによってのみ身を雪ぐ精進となるという信念に昇華されました・・・

 忍辱は「にんにく」と読みます。仏教の言葉で、何があっても耐え忍ぶことです。じっと己に耐えて、例え理不尽なことでも抵抗しないで、自分を主張しないで、ひたすら己に耐えることをいいます。六波羅蜜のひとつの忍辱波羅蜜のことです。波羅蜜というのは悟りに至る修行のこと。その方法に六つあり、そのひとつです。

 悟りへ至る修行ですから、並大抵の人のできるものではないでしょう。でも、立松先生はそれをされたのでした。「身が竦むほどのバッシングに耐えて」、「ひたすら己を見つめる忍辱に徹しられた」のでした。

 このご文章に接して、ここに立松先生のお姿がほうふつと顕ちあがったのを感じるのは私だけではないでしょう。このご文章に接して、良かった・・・、と思いました。偲ぶ会には法隆寺や清水寺の管主様方、京都の仏教界の方々がたくさんいらしてご列席になってらっしゃいました。

 タイトルの「流れる水は先を争わず」は、立松先生が好んで色紙に書かれていた言葉だそうです。色紙に書く言葉はいろいろありますが、こういうふっと身を引いて遠くから自分を見ているようなのを選ぶ方ってあまりいらっしゃらないのでは・・・。凄いと思いました。

 それから、昨日、宗次郎さんが献奏されたオカリナのことを書きましたが、宗次郎さんがやはり追想集に書かれていて、立松先生は「オカリナは震えるような繊細さで温かい音をだす。土を焼いてつくったから素朴な楽器だというのは間違っている。目のつんだ緻密な音は、素朴さからはおよそ遠い高度なテクニックによって編りなされている」と書かれたそうです。それに対して宗次郎さんは、「立松さんは解って下さっている」と、「それだけで充分、心強かった」と書かれています。

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