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2010.5.30 第17回 【東京国際ブックフェア】のお知らせ

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☆今年も東京国際ブックフェアが開催されます。以下、メールを転載させて頂きます!☆
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          第17回 東京国際ブックフェア (TIBF2010)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ http://www.bookfair.jp ━

会期 : 2010年7月8日[木]~11日[日]  会場 : 東京ビッグサイト
主催 : 東京国際ブックフェア実行委員会 / リード エグジビション ジャパン株式会社

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       ▼展示会招待券(通常\1,200)を差し上げます(無料)▼
                 http://www.bookfair.jp/inv/

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|■ 第17回 東京国際ブックフェア は・・・
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 ◆過去最大 1000社が出展!
  総合出版社から、学術、児童などの専門出版社まで国内外の出版社がさらに充実!

 ◆テーマ国 ~サウジアラビア~
  サウジアラビアが大規模パビリオンで出展
    ・ 人文社会、教育、児童などを中心に600種類の本を展示
    ・ 様々なイベントやセミナーを開催
    ・ サウジアラビアの文化を紹介

 
 ◆佐野 眞一 氏の基調講演はじめ、書籍・出版に関する様々な話題を網羅した
   計24講座の専門セミナーも開催!
    詳しくは >>> http://www.bookfair.jp/seminar/

 ◆姜尚中氏や浅田次郎氏の読書推進セミナーをはじめ、
  さまざまな併催イベントを開催!
    詳しくは >>> http://www.bookfair.jp/dokusho/

 ◆電子書籍に関するソリューションが一堂に集結!
  「デジタル パブリッシング フェア」を同時開催!

    詳しくは >>> http://www.digi-fair.jp

 ◆学校・塾向けの大規模専門展
  「教育ITソリューション EXPO」を同時開催!
    詳しくは >>> http://www.edix-expo.jp/

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     ▼展示会招待券(通常\1,200)を差し上げます(無料)▼
                 http://www.bookfair.jp/inv/

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写真は昨日、足利学校で展示されていた勉強室の光景です。いいなあ!、この雰囲気・・・と思っていて、何かにこの写真を使わせていただきたいなあって考えたら、ブックフェアのお知らせを思いつきました。電子書籍に関する「デジタル パブリッシング フェア」も同時開催です。「まさに、これは行かなくちゃ!!」で、お勧めです(*^-^)

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2010.5.29 足利氏の菩提所である【樺崎寺】は薊に包まれていました・・・

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日野市の「真慈悲寺ボランティアグループ」の方々の足利市を訪ねるバスツアーに便乗して参加させていただいて行ってきました。足利氏の氏寺鑁阿寺と菩提所樺崎寺と、高氏の菩提所清源寺、です。

樺崎寺は桜の季節に撮りにいき、このブログでもご紹介させていただきました。今日はもうその桜は散って、山は青々とした緑一色。夏が近いこんもりさでした。そこに、薊の花が一面・・・。こんなにたくさんの薊の群生ははじめて見ました。素敵でした。

ボランティアグループのなかのお一人がこのブログをご覧になってくださっていて、「もしかして、雲を載せているあのブログの方ですか・・・」って声をかけてくださいました。私はボランティアの一期生で、しかも体力不足で脱落していますので、二期生のその方を存じ上げてなかったのです。「はい」ってお答えしたら、「どこで撮ってられるんですか」って。

よくその質問をされるのですが、雲は家から数分で駆けつけられる範囲で撮っています。というのも、窓から見て「おかしい」と思うと撮りに出るわけですから。

でも、だいたいに、ふつうに暮らしていていつもご紹介させていただいているような「異常な」というか、カレンダーにでもしたいような激しい雲が、そんなに撮れるものかしらと思われて不思議はないですよね。でも、雲は、雲自体が雄大で、壮大で、荘厳なんです。誰でも、空を見ていれば、同じ雲を見れるわけです。

ただ、恵まれていると思うのは、家の近辺に畑があって、そこだとかなり遠方まで、発生の「根っこ」の部分まで見通せること。これが都心だと、ビルや民家の屋根に遮られる狭い空間でしか見られません。すると、その雲の全容なんてつかめないですよね。私も一応23区で育ったのでよくわかります。その頃は、雲は上空を流れるものという認識でした。

私はもう一つ別に【地震雲】専用のブログをもっているのですが、最近は雲もこちらのブログに意識的に載せています。それには訳があって、専用のブログにはほぼ「地震雲」専門の方が訪れられます。私は「地震雲」の認知のために検証と一緒に載せているのですが、ほぼ専門の方にしか見ていただけないのなら、もうそのブログの役目は果たしたと思っています。

代わりに、最近、「文学や歴史」専門と思ってもう一つ作ったこちらのブログに載せるようにしたら、「文学や歴史」専門の方が雲の記事をご覧になって、「空を見るようになった・・・」とおっしゃっていただくことが増えたんです。そうっか、知らない方の多い方に載せた方が意味がある、って気づいたという事情です。

空も、雲も、ひとしなみにすべての人の上に広がっています。そして、その空や雲に意味があるなら、とにかく多くの方がその意味に気づかれることを願います。見ていれば、自然と、いろいろわかってきますし、ただ、空を見るだけでも心洗われますものね。

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2010.5.28 昨日27日の東南東の不審な巨大レンズ雲

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昨日27日18:30頃の空です。雲が怪しく、どこが中心か観に撮りに出ました。そうしたら、南東遠方に居座る巨大なレンズ雲を発見。こんな巨大なレンズ雲を当地で見たことはありません。しかも、この方角のレンズ雲ははじめてです。

レンズ雲をよく見るのは南西発生のときです。駿河湾とか、富士五湖近辺では頻繁に見られます。でも、南東のこれは・・・、目を疑いました。

一枚目がその雲をズームでアップしたもの。二枚目は南東を中心に撮ったもので、レンズ雲は左端下にあります。ですから正確には東南東になるのでしょうか。時間のあるときに磁石で正確な方位を見てきますね。でも、この雲、ただならない巨大さです。近くで見たらさぞ迫力あったと思うのですが、ほかに撮られた方がいられないようで報告されていません。私は、カメラマンとして、近くで撮りたかった!!!! です。

三枚目は西から西北西にかけての一帯で、左側から二枚目の雲の先っぽが入り込んできています。沈みかけた太陽の周辺は綺麗なオレンジに染まっています。

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2010.5.26 昨日朝の空・・・

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昨日25日朝、7時頃の空です。南南東発生の勢いある雲がありました。放射状に噴出して青空に映えていました。当地での南南東発生の雲は小笠原諸島地域での地震の発生になります。この雲だとM5~6の規模。ただし、割と離れた海域なので震度に及ぼす影響はなく、この地域でのこの規模は割と頻繁に発生していますが、あまり知られていませんよね。

一枚目の彩雲は太陽の周辺です。二枚目の写真の左端に太陽があります。そのあたりが漣状になっていましたのでアップにしたら、ちょうど太陽が雲間から顔をだしはじめ、みるみる彩雲がかってきました。漣状の雲は海域震源の前兆です。小笠原諸島に発震があると思いますが、先程書いた前の記事の赤い月とは関係ない気がしています。

今日は、ツイッターで気象予報をされている方のコメントでは雹や霰といった今年の最大最悪の天候になるかも・・・くらいに厳しい天候になるようです。皆様ご注意ください。

追記(19:35):ツイッターより
気象予報士さんの朝のつぶやきは下方修正されました。4時間ほど早く、大気下層に涼しい空気が入って雷雲がでていないそうです。でも、下方修正した途端に状況が変わることもあるらしく、悩んでいられます。大変ですね。

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2010.5.26 昨夜の月は当地では山吹色でした・・・横浜では深夜、真っ赤な月が報告されています!

<a href="http://twitpic.com/1qxjmb" title="11th moon tonight.  on Twitpic"><img

↑は、ツイッターから宇宙飛行士野口聡一さんが撮られた宇宙から見た昨夜の月です。野口さんのホームをよく見たら、貴方のwebsiteにどうぞとHTMLが張り付けられるようになっていましたので、してみました。クリックしてご覧になってください。

地球での当地の月はいつもならぬ濃い山吹色でした。大きな地震の前には赤い月が報告されます。阪神淡路大震災の前夜には熟れたトマトのような色合いの月だったそうです。

昨夜7時半頃、帰宅途中の道を歩きながらふと見た月がほのかな赤みを帯びていて気になりました。どう見ても黄色ではなく、薄いけれど「赤」なのです。それから家に帰っても何度となく月を見ていましたが、赤い色は消えたものの、いつもより濃い目の山吹色。

地震予知の掲示板でも黄色い月は報告されていました。でも、真っ赤な月ではないから・・・とひとまず安心を決め込んで就寝したのですが、起きて、今見たら・・・、横浜の方が深夜二時に撮った時が真っ赤・・・、私はまだこんなに赤い月を見たことがありません、といえるほどにほんとうに赤い月でした。気になっています。

追記(5月28日):
以下の地震が発生しました。
27日01時19分頃 南大東島(沖縄)近海 M5.0 震度1
26日17時53分頃 南大東島(沖縄)近海 M6.1 震度4
28日02時15分頃 南太平洋(バヌアツ) M7.2

地震予知サイトの掲示板で、2月27日に沖縄で震度5弱(M7.0)の地震の10時間後にM8.8のチリ地震が起きたことから、26日の沖縄震度4のあと警戒を書き込まれた方がいられました。そうしたら果たしてバヌアツでM7.2が発生。地殻は一体ですから、こういう連鎖はありうると思いますし、一人一人が何かに注意して、別々にでも何かを発見しあって、お互いに喚起しあえるようになればいいですね。

沖縄でM6.1が発生したときに、前夜の赤い月を思いましたが、M6規模ではあの赤さにはならないと思ってここに追記するのを見合わせていました。M7.2が発生したと知って、これが該当だろうと思った次第です。

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2010.5.21 畠山重忠ゆかりの菅谷館・・・また比企郡へ行ってしまいました!

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驚きました! 木曽義仲が比企郡にいたことがあるなんて・・・

峰岸純夫先生が埼玉県にある嵐山史跡の博物館で講演をされるというので行ってきました。東武東上線の武蔵嵐山駅です。次が終点で小川町という地域です。仙覚の足跡を追ってお正月から通っている東武東上線。岩殿観音のある駅が高坂。比企能員邸跡や吉見御所の駅が東松山市。小川町には仙覚の万葉碑があって・・・といった沿線です。

ご講演のタイトルは「大蔵合戦と大蔵館」・・・、なんとなく耳にしたことはあるもののまったくの無知の領域。どういう展開になるのだろうと漠然と期待はしていたのですが、なんと、ここには源頼朝が鎌倉幕府を築くことになった原点中の原点が隠れていました。

峰岸先生は配られたレジュメの最初に、はじめにとして、「歴史を学び調べる意義、未知なる過去の探索、過去から照射される現在の理解、未来への展望を導き出す」と書かれていますが、まさにそのとおりと思いました! 「12世紀後半の日本社会の変革期に武蔵国比企郡の一角、大蔵館を中心とする合戦が注目を集めた・・・」という、そのお話です。

大蔵館は源義賢の館です。義賢は源為義の子。その兄に義朝がいます。そして義賢の子が木曽義仲・・・。義仲は大蔵館で育ったのでした。驚きでしょ! 義朝の子が頼朝です。つまり(というか、だから)、義仲と頼朝は従兄どうしです。

為義は兄の義朝よりも弟の義賢を可愛がります。その為に義朝は子息の義平と組んで為義・義賢に挑みます。つまり、「源氏内部の父子・兄弟の相克が、秩父・児玉党および武蔵を中心に、関東の武士を巻き込んだ争闘に発展した」のでした。

その結果、「義朝―義平」側が勝ち、「為義―義賢」側が滅亡。頼朝の父義朝の武蔵武士の掌握の成功となるのです。このとき木曽義仲は2歳。木曽に生き延びて木曽義仲となります。ゆくゆく手を組んで平家打倒をめざすことになる頼朝と義仲ですが、その後の展開の義仲の悲劇はすでに比企郡の大蔵合戦のときにはじまっていたのでした。歴史の奥は深いですね!

嵐山史跡の博物館は菅谷館跡という史跡のなかにありました。菅谷館とは畠山重忠の居館があったとされるところ。比企氏の一帯に隣接して畠山氏の勢力地帯があるのは仙覚の足跡を追っているなかでちらほら垣間見えていましたが、まさかこんな間近に足を踏み入れるなんて思っていませんでしたから、なんとなくなんとなく比企郡に呼ばれているような感覚がしないでもありませんでした(笑)

今残る史跡の形状は戦国時代の城跡のようですが、鎌倉時代の重忠の居館もここにあったようという状況です。ぐるりと回ってきましたが、この印象から、比企能員の居館もこんな感じだったのかなあ・・・と想像しました。

そしてこの畠山氏ですが、菅谷館跡と慈光寺は地域的に近く、慈光寺は畠山氏の氏寺的存在かと思われているようです。

写真は上から畠山重忠像。本廓跡。堀から本廓を見上げる。土塁の状況。堀の状況。看板・・・。緑の清々しい、とてもいい散策の一日でした。写真はXperiaで撮っています。快晴だし、大きなカメラを持っていくべきか迷ったのですが、ちょっと疲労が溜まっているし・・・ということで、エイッとばかりにXperiaオンリーで試してみることにしました。マニュアル本でお勧めの撮影モードは「シーン認識」とありましたので、もっぱらそうして使っています。

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2010.5.20 玉縄歴史アカデミア連続セミナー【玉縄城の遺構を読む】のお知らせ

■玉縄歴史アカデミア連続セミナーのお知らせ■

玉縄城の遺構を読む

日時: 5月22日(土) 13:30~16:30
会場: 玉縄学習センター 3F第4集会室
        (鎌倉市岡本2-16-3 JR大船駅西口徒歩10分)
主催: 玉縄城址まちづくり会議
後援: 鎌倉市教育委員会
先着100名
資料代500円
問合せ・申込み: Tel/Fax 0467-45-7411

講演: 戦国の城と庶民の暮らし…藤木久志氏
対談: 玉縄北条氏の城づくり…藤木久志氏・伊藤一美氏

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2010.5.20 ツイッターから・・・當麻寺の国宝、東塔と西塔の初層が開扉されます!!と、★口蹄疫被害に対する義援金募集窓口★

今日から當麻寺の国宝、東塔と西塔の初層が開扉されます。
6月20日まで。創建以来初!だそうです。
http://www.1300.jp/event/detail/yamatoji/yeve10119-2.html
http://www.1300.jp/event/roam/yamatoji/shaji/47.html

それと・・・
『がんばれ宮崎!!』まけるな! ★口蹄疫被害に対する義援金募集窓口★
宮崎県庁ゆうちょ銀行口座へ(詳細はこちら)⇒ http://bit.ly/b8xYca
ゆうちょ銀行に口座があれば1円から送れます。

追加:
本日5月20日は彫刻家・詩人である高村光太郎の妻、高村智恵子が生まれた日です(1886)。詩集『智恵子抄』で描かれる智恵子の姿が印象的ですが、光太郎との結婚前にも雑誌「青鞜」創刊号の表紙絵を描くなど、若き女性画家として活動していました。
生家である造り酒屋を再現した記念館には、現在も高村智恵子の制作した油絵や紙絵が展示されています。

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2010.5.17 今日はがんばりました(*^-^)・・・『吾妻鏡』を読む会で発表担当でした!・・・と、宇都宮朝綱のこと

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『吾妻鏡』を読む会に参加させていただいています。講師は峰岸純夫先生。テキストは寛永版影印本です。まだはじまって何年も経っていないので、今日の担当もやっと元暦元年(1184)五月末~六月初旬。平家はまだ屋島の海上で滅びていません。先月担当の方が、南都焼討の罪で捕われて鎌倉に送られた平重衡をめぐっての千手前とのエピソードのあたりでした。

私の好きな箇所ですのでやりたかったなあ・・・って、ちょっと悔しかったのですが、今日の箇所でよかった・・・、というのも、ここではじめて宇都宮朝綱と大江広元が初見なのです。宇都宮朝綱といえば宇都宮氏の初代。宇都宮氏自体は初代が宗円という人で、朝綱は三代になるのですが、宇都宮を名乗るのがこの朝綱からです。

なぜこの朝綱に思い入れがあるかといえば、もう数年くらい前に「寺院揺曳」という鎌倉の廃寺をテーマにしたエッセイを書いていて、そこで冷泉為相が鎌倉でもった人脈を探ったりするなかで、宇都宮歌壇という存在に遭遇したからです。当時の宇都宮には鎌倉に勝るとも劣らない高度な文化圏があって、それが宇都宮歌壇でした。

それは五代頼綱が出家して蓮生と名乗り、京にのぼって定家の小倉山荘の近くに中院山荘を建て、定家と交流したなかであの小倉百人一首が生れた・・・という凄い歴史的経緯をもつのが宇都宮氏です。蓮生の娘と定家息為家とが結婚したことで、宇都宮氏は御子左家と縁戚関係を結びます。中院山荘の障子を飾るための百首の色紙を定家に依頼したのが小倉百人一首の原型です。

と、そういう宇都宮氏を、当時夢中になって調べました。朝綱の代に関係ありませんが、その朝綱も大番役として京都にのぼっていたりして、鎌倉武士のなかでも京に馴れ親しんだ家柄です。たしか、どの当主の方だったか京の女性を奥方に迎えたりしていますものね。

朝綱はその大番役で京にいて平家に仕えていたときに、東国で源頼朝が旗揚げしたので、平家に捕われてしまいます。が、頼朝に仕える思いやみがたく、朝綱は逃げだして鎌倉に駆けつけ、以来、頼朝に忠誠を誓って生きます。その思いに報いるべく、頼朝が朝綱に伊賀国壬生野郷の地頭職を与えた・・・というのが今日私が担当した中に入っていました。一枚目の写真の上段「六月小」とある前の条「五月二十四日」の記事です。書き込みが凄いでしょ! こんなふうにしてやたら書き込んで発表に臨むんです(笑)

重衡と千手前の項に比べて、なんだか馴染みのない難しそうな箇所とおそるおそる目を通したのですが、この一件を見ただけで、ヤッター!とばかりに張り切って、昨日一日かけて写真下のようなレジュメを作ったり・・・と奮起。他に小笠懸の資料を探したり、伊賀国壬生野郷の地図を探したり(と、これはgoogleマップで手抜き!)、と結構時間をかけてしまいました。

お陰で、寝る時間になって気がついたら漢文を一回も読んでいなかったんです。仕方なく、一回、とにかく通しで読んで、赤をいれて・・・などをして休みました。お陰で発表の「読み」はつっかかって助けられて・・・でしたが、朝綱についてとか、大江広元についてとか、説明をはじめたら楽しくて!かなり恣意的な発表内容になってしまいました。ほんとうは大江広元についても同じくらい語りだしたらキリがなかったのですが・・・(なにしろ連載中の小説「花の蹴鞠」の主人公典子のお父さんですものね!)

レジュメの右半分は宇都宮氏歴代当主の墓の一覧です。以前一族の墓域である尾羽寺を訪ねてホームページにアップしてありますので、それを張り付けてご紹介させていただきました。栃木県益子町の近くにあります。個人で行くには不自由なところですが、朝綱が晩年籠った浄土式庭園のひっそりしたいいところです。歴史探訪で折がありましたら是非お勧めです。

それにしても宇都宮氏の存在、宇都宮歌壇のことはもっともっと知られていいことと思います。小倉百人一首の歴史の原点がこんなところにあるなんてと、はじめて知ったらおそらく皆様感動されます。

http://www.odayuriko.com/(織田百合子のホームページ)
■Photo Gallary →【中世の遺跡と史跡】→【尾羽寺・宇都宮一族墓域】と進むとでます。

追記:
昨日、Xperiaの画質が爽快感ないと書きましたが、今日のこれもXperiaで撮りました。設定を変えて撮ったら、昨日のよりずんとピシャッと定まりました。早まって書いたかも・・・って反省しています。Xperiaさん、ごめんなさい。

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2010.5.15 巨大な波状放射の雲を撮りました!

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いわゆる地震雲と呼ばれる典型的な形状の雲です。空の話題の記事が続いていますが、地震の震源にはサイクルがあって、しばらく関東が続くと次は別の地域・・・というように震源は日本列島を循環しています。なので、関東震源の時期、数日間は撮るのに追われます。

このサイクルを統計とっていれば、例えば九州に地震が多発したから、じゃあ次は○○・・・って、震源地の予測が可能です。すでに把握されている方もいらして、その方の発生予知は正確でした。

地震は断層とかプレートの境とか、震源となる地殻が決まっていますから、検証を続けていると雲の方位で「宮城県沖」とか「茨城県沖」というふうに特定した予測が可能です。観測をはじめるまでそんな決まった場所があるなんて知らずにいて、結構驚きました。地震は広範囲に揺れますから、誰もピンポイントの震源にまで思考が及びませんものね。

よく九州で発震が続くと関東にくる気がしますし、新潟と千葉は連動しています。私が気づいたのは茨城県南部で発震すると島根県で同規模の地震があること。全部、地殻の問題と捉えています。よく同じ日に同じような形状の雲が東と西に出て、しばらくたつと東と西に同じような規模の地震があって・・・という経験を重ねたあと、茨城県南部と島根県の連動に気がつきました。同じ一つの岩盤のあっちとこっちの出入口・・・みたいなことでしょうか。

今日の雲は教科書にしていいような綺麗な形状でしたので、検証結果なしにご紹介させていただきましたが、もうひとつアップした理由は、これは携帯のXperiaで撮った画像です。前に使っていた携帯のカメラ機能がまったくダメでしたので、今度はどうかなあ・・・ってアップしてみました。Xperiaはちょっとしたコンデジ風にカメラを構えられるんです。前の携帯に比べたら格段に使えますし便利ですが、画質はまあ、本当のカメラと比べたら可哀想かな・・・。胸のすく爽快感がありません。
追記:爽快感がないと書いたのは早まったかも・・・って心配になってきました。まだこなしてないので仕様が多種多様。もっと設定を変えて撮ってみます!

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2010.5.14 5月12日朝の雲・・・東南東に湧きあがる雲が北北東発生の畝状の雲に引き込まれていっていました!

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写真は、四枚目までは上から順にズームしての東南東部分(一枚目右下)の拡大画像。最後は一枚目の写真の画面に入りきれなかった北北東の雲の発生部分です。この雲が画面右側外の東まで延びて畝状になっていたんです。

家でなんだか空がおかしいと思って撮りに出たら、北北東から発生する雲の延びた先が東で段々の畝状になっていました(一枚目)。そこに、東南東から立ち上がる入道雲のような巨大な雲があって、むくむくと上へ延びていっていると思ったら、畝状の雲に届くと直角に曲がってさらに先端が延びて、畝状の段々に同化していってるんです。え? と最初は目を疑いました。

北北東はよく北海道東南沖に地震があるときの方位。三陸沖震源よりも北寄りです。東南東は千葉・房総沖の方向です。でも、こんな立ち上がる巨大な雲は、長く雲を撮ってきた私でもはじめての経験。しかもそれが反対側から延びてきた雲に引きずられて同化していくなんて・・・。居ながらにして映画の大スペクタクルシーンを見るような雄大さでした。

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2010.5.13 与謝野晶子の「新新訳源氏物語」原稿が国文学研究資料館のHPで公開されているそうです! と、ツイッターのこと

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ツイッターで、与謝野晶子の「新新訳源氏物語」自筆原稿が、国文学研究資料館のHPで公開されていると紹介されていましたのでお知らせさせていただきます。「桐壺」の冒頭部分で、晶子の生地である堺市所蔵のものだそうです。

これまでに一般公開されたのは35枚でしかないところ、デジタルの時代が進んで522枚もの公開が可能になったとか。市の文化財課の方も「宝の持ち腐れにならなくてよかった」と喜んでいられるそうです。

国文学研究資料館では、すでに鞍馬寺所蔵のものも公開されているそうです。それを知っての堺市の決断とか。旧家や地域での文化財は、どんなに貴重なものでもしまいこんでしまっていたら、それを知りたい・見たい一般人には拝謁は不可能。デジタルの時代は文化財にとっても凄い進歩!! ですね。

以下、ツイッターでお知らせくださった川村裕子先生のブログから直接引用させていただきますと、「自筆原稿では、「特別に御愛寵(あいちょう)をえて」(「桐壺」)の「特別に」の部分を線で消し、「深い」と書き直すなど、推敲(すいこう)の跡が生々しく残る。市文化課は「晶子がどんな風に作品を作り上げていったか、思いを巡らせてほしい」としている。」そうです。

http://school.nijl.ac.jp/kindai/SKIY/SKIY-00001.html
http://base1.nijl.ac.jp/~kindai/index.html
(国文学研究資料館 近代書誌・近代画像データベース)

■写真は源氏物語の王朝文化を具現した平家一門の方々の邸宅があった梅小路です。今はこういう日本庭園になっています。(再掲です

ツイッターは不思議な力をもっています。上手に使っていくと今までにない世界になっていく気がします。原口大臣による災害時の緊急利用に消防庁への働きかけは凄い画期的ないいことと思いますし、新聞やテレビよりもいち早くリアルタイムで世界の情勢を知ることができます。

例えば口蹄疫の問題もテレビで取り上げられるよりずっと前から怒りと悲しみのつぶやきが投稿され続けていて、「どうしてこれが報道されないんだ!」という憤りが連なりました。今年の太宰治賞の決定も、「、決まりました!」とありました。それから、イギリスのキャメロン首相がはじめて官邸入りしたときも(正確には違う場所かも・・・、うろ覚えで曖昧ですが)、「足を踏み入れている・・・」みたいなことがご本人のつぶやきで全世界に広がりました。

今まで原稿を書いていたために時間がなくて、新聞もテレビも一切見なかったので、一人社会から離れてひっそり暮らしていた感の私でしたが、ツイッターをはじめたら、今や家族の誰よりもいち早く、しかも世界にまたがっての情報通。

それも、一方的に報道されて知らされているだけの情報でなく、操作される前のリアルタイムの情報だし、隠そうとする意志があったりすると逆に憤ってのつぶやきで真理が暴露される・・・といった状況。「・・・なう」とかいって自分の現在地や現在の状況をつぶやく個人的な利用の仕方だけがツイッターのように紹介されてきましたが、これは使い方によってはもっともっと凄いことができる大変な装置です。

昨日は昼頃突然雷が鳴って雨が降り出し、変な空・・・と思ってツイッターを見たら、気象予報士の方が「今南関東に雨雲が発達して・・・」みたいなことを逐一情報発信されてました。

ちなみに、「・・・なう」というのはツイッター用語で、「自分は今・・・をしている」みたいなことを、ツイッターでは140字という少ない文字制限があるので、誰かが使ったのが広まった新語のようです。「・・・なう」を使ってみたくてツイッターをはじめる人が増えているそうですが、私は新語が苦手で使いたくなりません(笑)

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2010.5.9 今日の地震【5月9日13時33分頃 東京都23区 M4.0 震度3】は、我が家からとても近い震源です・・・

私は出ていて知らなかったのですが、【5月9日13時33分頃 東京都23区 M4.0 震度3】があって、家にいた家族は揺れたといってました。震源地は杉並区和泉3丁目とか。隣の区です。こんな身近な場所でのM4.0は驚きです。

雲の前兆ってあったかしら・・・、と考えたら、ありました! 昨夜、南東に「絹糸のように細く繊細な棚引く白い雲」があって、これは必ず発震する雲です。「ああ、南東に地震があるなあ」って、そのとき見ていたのですが、またこれもいつものように千葉での発震と思ってました。南東・・・といえばもう習慣のように千葉の発震と思ってしまうのですが、まさかこんな近場だったとは・・・

撮ってなくて悔やまれるのは、夜だったこともありますが、M4規模の前兆は最近はもう撮らないことにしているんです。以前はM3規模でも、スワッとばかりに、そして夜でも構わず撮りに走りましたが、その後原稿を書くほうが重点の生活になって、M4とかM5でも、被害地震でないとわかるとカメラを取り出しません。撮ってしまうと、その後の処理とかネットへのアップとか相応に時間をとられますから。滅多にない地域での地震と知っていたら撮っていたのにと今更に悔いても遅いですね。

珍しい地域での地震・・・ではありますが、歴史的にみると、江戸時代に同じ震源でM6くらいの被害地震があったところのようです。断層が走っているわけではなさそうなんですが、どういう状況の地震なのでしょう。

それから、今日は鹿児島で桜島が噴煙をあげて降灰が大変だったようです。4月26に徳島・和歌山など西の地域で巨大な環水平アークが観測されてましたが、私はこの桜島の前兆だったのではないかと思います。以前も神奈川で環水平アークが観測されたとき、ほどなくして桜島が噴火したことがありました。そして、その近辺での国内大き目地震はありませんでしたから。火山の火口から電磁波が噴出されていることは実証されています。
http://www.agara.co.jp/modules/dailynews/article.php?storyid=188669
追記2:その後11日に噴火したもようです。

それから、今日はまた海外でも、スマトラでM7.3がありました。スマトラではつい先日もM6があったばかり。2004年のスマトラ大地震ではあれほど空が吹き荒れたのに、不思議とこの頃スマトラ前兆の雲を観測しないのですが、衛星写真ではこの規模の地震予測ははっきり読み取れて報告されていました。

追記1:
スマトラで大きな地震が断続的に起きていますが、地震雲観測のベテランでいられる湘南のIKU様が、3月25日の衛星画像でスマトラに危険な雲の兆候がと報告してくださったものです。画面左下にスマトラ島沿岸に沿って小さな円形の雲が数珠状に一列に斜めに並んでいます。おそらくM7規模以上との危険を予知されていました。その後M6規模が二回はあり、M7.3の発震となりました。エネルギーが分散される複数発震でよかったです。
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2010.5.7 エミール・ガレの「薊」で思い出して、昔作った歌を・・・

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今、何となく流れていたテレビの声が耳に届いて、「エミール・ガレの薊の作品です・・・」と。それでふっと、「そういえば昔、私、薊の歌を作ったなあ」って思い出しました。

月光の会の会員なんですけど、私は小説家だから歌を作らなくていいっていうことで入会させていただいたので、(もう福島泰樹先生は忘れてられるかも・・・ですが、私はしっかり覚えていて)、今は完全に作歌から離れています(^-^;

でも、入会当初は殊勝に、歌会に出るにはつくらなければって、毎回5首作って参加してたんですよ。それで、一応、何首か溜まっているのですが、もう昔のこと・・・って忘れてました。

でも、この薊の歌は自分で気に入っていて、もし何かのときに一首っていわれたらこれだろうなあって思っている歌です。ご紹介させていただきますね。

  往ぬべしと透徹の恋一身に星に訴ふ月下の薊

と、なんだか恥ずかしいですね。わざわざ一首とりあげてネットに載せるなんて・・・

もう一首、忘れられない歌があって、これは歌誌『月光』に連載していた小説「白拍子の風」に、主人公銀嶺姉さまの作として流用しましたが、

  修羅を経てしずかなるときあかときの底に棲みたる大いなる修羅

というもの。一時、数か月ほど坪野哲久先生主宰の「氷河」に在籍させていただいていたときに提出したものです。会員の方はもう皆様凄いベテランの方ばかりで、年齢からいっても作歌の経験からいっても、ほんとうに未熟な立場でした。が、会員の皆様には不評で、「何をいっているのかわからない・・・」って異口同音の合評でした。

そこに夫人の山田あき先生が、「これはね、生活を歌った歌でないからわからないかも知れないけれど、深~い歌なのよ」って、会員の皆様を説得してくださったのです。有難かったし、さすが山田あき先生! なんて心のなかで思ってしまいました。

「氷河」には、季刊『月光』の創刊号巻頭インタビューで、福島先生が坪野哲久先生宅を訪ねられたときに、カメラマンとして経堂のお宅に同行させていただいたのがご縁です。そこに山田あき先生も同席されていて、とてもおいしいお茶を入れていただきました。その後、福島先生は紹興酒などいただいてすっかり感激されてましたが・・・

「氷河」は凛とした結社ですが、時流におもねらないので会員数も少なく、相当な年配の方ばかりでした。私は坪野先生が亡くなられたあと、福島先生が山田あき先生をインタビューされるときに、ふたたびカメラマンとして同行させていただき、婦人運動をされていたという山田先生の女性としての素晴らしさに打たれ、福島先生のご承諾を得て入会させていただきました。福島先生には山田先生を守ってさしあげてくれのような思いがあったと思います。でも、数か月通ううちに、小説を書き進めていた私は両立が難しくなって辞めざるを得なくなってしまいました。月光の会はその点、「作歌はしません」を許していただいているので続いています(笑)

テレビのガレの作品の薊から、久しぶりに坪野哲久先生にまで思いがいってしまいました。東洋哲学をされていた坪野先生のお歌にはほんとうに凄い!としかいいようのないお作品がたくさんあります。私は大好きです! 私の拙い歌のあとに揚げさせていただくのははばかられますので、いずれ記事を改めて坪野先生について書かせていただきますね。

(インタビューで撮らせていただいた坪野先生の写真は、それから間もなく先生が逝去されたので、はからずも遺影となってしまいました。その後、山田あき先生もインタビューからほどなくして去られたのでまた遺影。そのあと、月光の会で北海道から菱川善夫先生をお招びして講演していただいた際に、会場の撮影係をしたら、福島先生が菱川先生に「この人が撮ると遺影になるんですよ」なんて紹介されたんです。菱川先生は笑って「じゃ、僕がそのジンクスを破ってあげる」っておっしゃって、ほんとうに頑張ってくださいました。「白拍子の風」も凄く喜んで読んでいただきました。でも、その菱川先生も先年他界されました。いろいろと思い出しますね・・・)

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2010.5.6 木工薔薇がまぶしいくらいに輝いてます!

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今年も見事に咲いてくれました!!

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2010.5.5 昨夜は朧月でした。一昨夜も朧月でした・・・そして、中原中也の詩を思い出しました

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手持ちで撮ったのでブレてますが(望遠も半端で恥ずかしいですけど・・・)、昨夜の朧月です。微粒子のような雲が墨流しのように流れていて、その奥に半月のような月があって幻想的でした。

朧月は春の夜に特有の月だそうですが、地球の一年の温められて冷めていってまた溶け始めての周期を考えると自然の摂理なんだなあと思います。

でも、そんなこととは関係なく、久々に見る朧月。しかも、昨夜も一昨夜もとつづき、不思議な感じで魅入ってしまいました。アイスランドで火山がまた噴火したそうで、その影響なのでしょうか。でも、一昨夜はまだ影響届いてないと思うのですが・・・

と、そんなことを考えていたら、中原中也の「秋の夜は、はるかの彼方に、小石ばかりの、河原があって」を思い出しました。ここの「珪石か何かのようで、非常な個体の粉末のようで」が好きなんですが、もうずっと以前に読んだまま「微粒子」っていうイメージで定着してたんですね。微粒子って書いて思い出したのですが、読んでみたら使ってませんでした

でも、この詩、不思議です。「秋の夜」なのに、「陽が射している」んです・・・

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2010.5.3 4月26日【南東の大きな地震前兆の雲】の結果の地震がありました・・・「鳥島近海M6.1」が該当と思います。

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写真は4月26日夕刻撮影のものの再掲です。

当日の記事にも書きましたが、4月26日の空は異常でした。M5以上、もしくはM6規模の前兆と記したその結果の地震が今日起きました。【5月3日19時28分頃 鳥島近海 M6.1 震度2】が該当と思います。

M6規模くらいでないと、例えば上二枚の左下のようなシャープな直線状の境界線は現れませんし、三枚目のような縦の虹も出ません。当地から南東は東京湾から房総半島を突っ切るので、どちらにしても心配でしたが、海域のしかもかなり離れた場所での震源でほっとしました。

この空の規模予測はだいたいM6、方向は南東、そして発生までの日数はこの規模だと一週間前後・・・でした。この三つを満たすとき、私は「これが該当地震だ」と思うことにしています。発生までの日数は経験則で、M3前後の小さければ24時間内とか、M6よりもっと大きいと一ケ月とかそれ以上、です。

西の空の結果として、【4月30日00:19 日本海  M5.6】が発生しています。二つの地震が合わさっての異常な空だったようです。

でも、南東に近々地震があると予測できても、ただ南東では長い線上で地域の特定ができませんよね。それが、二人以上の人が観測しているとできるんです。例えば、当地三鷹で南東にその雲を見て、同じ雲を茨城の人は南に見たとします。三鷹から南東へ線を延ばしていき、茨城から南へ線を延ばしていくと、ある一点で交差します。そこが震源です。

実際、何回か、その方法で「多分、ここだろうな」と思った地域で地震がありました。当地から南西に見た雲が、静岡からは南に見えていた・・・とか。だから、宏観は大勢の方がなさることに意味があるんです。私が一生懸命経験をここに書いているのも、なんとなくなんとなくでいいですから、「空を見る」習慣を多くの方にもっていただきたいからです。

ツイッターで、原口大臣が、災害時の情報にツイッターを活用するようにした(する?)との発表がありました。私がツイッターをはじめたのも、いざというときのリアルタイム情報に活用できるようにとの思いからです。何もないときはただの趣味的楽しみで使っていて、それで慣れていけばいいんです。いろんな意味で、いろんなことで、災害時への心がけを増やしていきたいです!

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2010.5.2 ちょっとイタズラを・・・このブログが画面に出ているXperiaを撮ってみました!

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真ん中の白い携帯が私のXperiaです。背後の黒いのは攻略本の表紙の写真です。テレビCMではこの黒い携帯で放映されてますね。

わかりづらいかもしれませんが、白い携帯の画面に映しだされているのは、このブログ「孔雀のいる庭」のTOP画面です。ひとつ下の六勝寺の記事が出ています。拡大・縮小もできますが、タッチパネルで指で上下左右自由に見たいところへ移動できます。

まだやっとメールが使えるようになったばかりで何の活用もしていませんが、環境は快適です メールは従来のiモードのはiモードネットというサイトで使えるようにして、新たにGメールを取得しました。それを家族でやりとり実験して大丈夫となったばかりです。なにしろメールが使えないのは恐怖ですよね。待ち合わせとかリアルタイムに必要なのは・・・

新しい携帯の自慢をするつもりはなかったのですが、いろいろ設定をしてたら何かの拍子に「孔雀のいる庭」が出て、自分でびっくりして、これってブログに載せたら鏡のなかの鏡みたいで面白い!って思って撮ってみました。

でも、こういう先端をいく新製品の報告って、時代を経ると逆にすごく古ぼけて、「そんな時代もあったんだよなあ」って笑い草になりますから、それも覚悟でこの記事を載せました(*^-^) 

攻略本は、アスキー・メディアワークス発行のヤシマノブユキmemn0ckという方の『Xperiaビジネス活用術』です。この本で説明される順番どおりに設定していってます。いやに簡単に設定が進むのは著者の書き方がお上手なのか、Xperiaがよくできているのか・・・。早くフォトの設定をして、携帯からツイッターやブログに写真を投稿するのが当面の目標です!

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2010.5.2 鎌倉の源氏物語パワーポイント初体験記(4) 白河院と国宝源氏物語絵巻について思い出したら・・・六勝寺のこと

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これは京都は平安神宮前の交差点付近に設置されていた案内図です。雨の日に撮ったのでなんだかまるで古~い写真のようでしょ。かつて白河には六つの大きな寺院が建ち、それがみんな「勝」の字が入っているので総称して六勝寺と呼ばれていました。

パワーポイントで「写真でたどる源氏物語の歴史」の構想を練っていたら、俄然、白河院のことが浮上して、しばらくその世界に浸って文章を書いていました。

白河院は待賢門院璋子という孫ほども年の離れた女性を寵愛します。この二人が協力して作ったのが今に残る有名な国宝源氏物語絵巻です。白河院が即位したのは二十歳のときで、紫式部が仕えた中宮上東門院彰子はまだそのとき存命でした。翌年あたりに亡くなるのですが、二十歳くらいまで存命だったということは、おそらく白河院は幼少年期から思春期にかけての成長期、源氏物語を非常に身近に感じて育ったことと思います。彰子から直接紫式部の話を聞いたことだって考えられます。源氏物語自体にはほんとうに読み込んで育ったことでしょう。

そういう白河院が、「光源氏と紫の上」におのれを模して「白河院と待賢門院璋子」という関係をもったというのは、常識で考える以上に、白河院にとってはふつうのことだったのかもしれません。そして、絵巻の制作も、たんに美術としてとか、工芸としてとかというふうなものでなく、身内のことだから絵に・・・みたいな内輪の感覚での制作だったのです。国宝源氏物語絵巻の絵は、後世のどの流派にも伝わらない独自の絵だそうです。如何に深く宮廷のなかでだけ継承されてきたかがわかります。

その白河院が建てたのが六勝寺のなかでも最大規模の法勝寺。現在そこは京都市動物園になっています。そこには巨大な八角九重塔がありました。一枚目の写真がその一帯の復元図ですが、巨大なモニュメントの九重塔が聳えています。白河院という方ははじめて院政を敷くなど政治力の相当ある方ですが、同時に寺院の建立や絵巻の制作など、パワーが並外れて秀でてられますね。そういう白河院も即位されるまで二十歳になるのを待たなければならなかった・・・、もしかしたら帝位につけないかもしれないという不安をもって青春を過ごしたとき、帝の子でありながら臣下に下って源氏を名乗らなければならなかった光源氏に我が身を投影して身近に感じただろうことは容易に想像されます。

この国宝源氏物語絵巻はのちに建礼門院徳子の所有するところとなります。建礼門院徳子の父、平清盛は白河院のご落胤説があるほど院とは近い存在です。白河院が寵愛する祇園女御の妹が母なのです。が、その人は早逝し、姉の祇園女御に清盛は養育されたらしいのです。しかも、祇園女御は待賢門院璋子を養女にしています。絵巻が制作された年、清盛はまだ二歳でしたが、清盛をとりまく環境はまさに源氏物語世界そのものでした。

後に平家が力をもって、王朝文化の再来というまでの平家文化を築きますが、これはたんに武士が頑張って貴族化したというのでなく、清盛の体質そのものだったのですね。今にして思えば・・・

「河内本源氏物語」を成す我らが光行は、その清盛の側近中の側近を叔父にもつ、これもやはり生粋の源氏物語文化のなかで育った人物です。

源光行というと、従来あまり研究されてきませんでしたから、平家との関係も曖昧でした。そして源平の争乱や承久の乱など、何度も人生を翻弄されて、その度に命乞いをするようなはめになったいるので、世間的にはどうしてもみじめな地下の一役人に過ぎない印象で語られてきました。でも、白河院の流れをくむ清盛の王朝文化のただ中で育った人というと、従来のイメージがどんなにか間違っているかわかっていただけると思います。

講演のスライドに六勝寺の件をどれくらい入れるか、作業はまだ詰めの段階にも入っていませんが、パワーポイントで白河院を思い出させられて、すっかり「写真でたどる源氏物語の歴史」の色合いが変わりました。八王子の写真展のときにはまだここまで見えてきていませんでした。

待賢門院璋子の法金剛院の写真はまだ探してません。というのも、スライドで撮っていることが明らかなので、出してもスキャンしなければならないんです。今は一々に手をかけないで先へ進むことにします。

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2010.5.1 4月10日夜の「何か埼玉の地下を通過していった?」の結果の地震発生でしょうか・・・、と「Xperia」のこと

昨夜、【4月30日19時33分頃 群馬県南部 M3.9 震度3】の地震がありました。珍しいところでの発震です。

4月11日に、「何か埼玉の地下を通過していった?」という内容の記事を書きました。深谷と熊谷と加須と、深谷断層に沿って順番に揺れていった現象があったのです。断層のズレが起こしたのではないかと推測されていました。気になっていたのですが、やはりこんな珍しいところでの地震ですから、珍しい前兆が捉えられたのだろううなあ・・・と、そんなことを思いました。

でも、もう五月なんですね。私は目下昨日購入したdocomoの新しい機種「Xperia」の設定に徹夜で頑張っています(現在3:56)。古い携帯を買い替えなくてはならない時期にたまたまツイッターをはじめました。パソコンでしか見られないと時間がとられるので、携帯で外でも見たいと思ったら、ツイッターはスマートフォンという機種でしか見られないんです。でも、わざわざiphoneに買い替えるなんて嫌だなあと思っていたら、docomoで対応機種が発売されるというので、ラッキー!とばかりに予約していました。それが届いたのです。一ヶ月待ちました。

ツイッターを外でも見るのを優先に迷いもなく決めたのですが、iモード対応でないので今までのメールが使えるか、それが心配でした。やはりそのままでは使えなくて、でも、「iモード.net」を利用すると、パソコンや「Xperia」などのスマートフォンで送受信できると教えていただき、その設定をしていました。

ご参考になるか、ちょっと書いておきますね。まず、「Xperia」からフォーマカードを抜き取って、古い携帯に入れ、それから、「iモード.net」にログインすると、すぐに古い携帯にワンタイムパスワード(認証キー)というメールが届きます。そこにある数字をパソコン画面の入力の場所に入れると、OK、という手順です。無事、「iモード.net」に登録出来たら、古い携帯からまたフォーマカードを出して「Xperia」に戻して終了です。

というわけで、今まで機種変更というと古い携帯は没収か破棄だったのに、「Xperia」ではフォーマカードさえ入れ替えれば古い携帯もそのまま使っていられるんです。手続が面倒そうだったので、二個持ち歩いて、カードを抜き差しして、そのときどきでツイッターを、メールを、と使い分ければいいかも・・・なんて思ったのですが、フォーマカードの一々抜き差しをするほうが大変とわかって、「iモード.net」にログイン・・・をやってみました。一応、無事、成功してほっとしたところです。(今までもカード抜き差しで古いのが使えたのかしら・・・(o^-^o)とは今気づいきました!)

追記(朝起きて・・・):
興味深いものをみつけました。これはHi-net という、気象庁とはべつの地震情報のサイトのですが、24時間内に発生した地震の震源の規模と深さが、色と○の大きさで地図上に表示されるものです。昨夜の群馬県南部での地震は有感だったので気象庁発表になりましたが、無感でも千葉から群馬へ向かう小さな地震が数珠状の一列になってあったようです。まるで4月10日の夜の「埼玉の地下を何かが通過していった・・・(加須→熊谷→深谷)」が具現化したみたいな地震群ですよね。

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