2010.5.7 エミール・ガレの「薊」で思い出して、昔作った歌を・・・
今、何となく流れていたテレビの声が耳に届いて、「エミール・ガレの薊の作品です・・・」と。それでふっと、「そういえば昔、私、薊の歌を作ったなあ」って思い出しました。
月光の会の会員なんですけど、私は小説家だから歌を作らなくていいっていうことで入会させていただいたので、(もう福島泰樹先生は忘れてられるかも・・・ですが、私はしっかり覚えていて)、今は完全に作歌から離れています(^-^;
でも、入会当初は殊勝に、歌会に出るにはつくらなければって、毎回5首作って参加してたんですよ。それで、一応、何首か溜まっているのですが、もう昔のこと・・・って忘れてました。
でも、この薊の歌は自分で気に入っていて、もし何かのときに一首っていわれたらこれだろうなあって思っている歌です。ご紹介させていただきますね。
往ぬべしと透徹の恋一身に星に訴ふ月下の薊
と、なんだか恥ずかしいですね。わざわざ一首とりあげてネットに載せるなんて・・・
もう一首、忘れられない歌があって、これは歌誌『月光』に連載していた小説「白拍子の風」に、主人公銀嶺姉さまの作として流用しましたが、
修羅を経てしずかなるときあかときの底に棲みたる大いなる修羅
というもの。一時、数か月ほど坪野哲久先生主宰の「氷河」に在籍させていただいていたときに提出したものです。会員の方はもう皆様凄いベテランの方ばかりで、年齢からいっても作歌の経験からいっても、ほんとうに未熟な立場でした。が、会員の皆様には不評で、「何をいっているのかわからない・・・」って異口同音の合評でした。
そこに夫人の山田あき先生が、「これはね、生活を歌った歌でないからわからないかも知れないけれど、深~い歌なのよ」って、会員の皆様を説得してくださったのです。有難かったし、さすが山田あき先生! なんて心のなかで思ってしまいました。
「氷河」には、季刊『月光』の創刊号巻頭インタビューで、福島先生が坪野哲久先生宅を訪ねられたときに、カメラマンとして経堂のお宅に同行させていただいたのがご縁です。そこに山田あき先生も同席されていて、とてもおいしいお茶を入れていただきました。その後、福島先生は紹興酒などいただいてすっかり感激されてましたが・・・
「氷河」は凛とした結社ですが、時流におもねらないので会員数も少なく、相当な年配の方ばかりでした。私は坪野先生が亡くなられたあと、福島先生が山田あき先生をインタビューされるときに、ふたたびカメラマンとして同行させていただき、婦人運動をされていたという山田先生の女性としての素晴らしさに打たれ、福島先生のご承諾を得て入会させていただきました。福島先生には山田先生を守ってさしあげてくれのような思いがあったと思います。でも、数か月通ううちに、小説を書き進めていた私は両立が難しくなって辞めざるを得なくなってしまいました。月光の会はその点、「作歌はしません」を許していただいているので続いています(笑)
テレビのガレの作品の薊から、久しぶりに坪野哲久先生にまで思いがいってしまいました。東洋哲学をされていた坪野先生のお歌にはほんとうに凄い!としかいいようのないお作品がたくさんあります。私は大好きです! 私の拙い歌のあとに揚げさせていただくのははばかられますので、いずれ記事を改めて坪野先生について書かせていただきますね。
(インタビューで撮らせていただいた坪野先生の写真は、それから間もなく先生が逝去されたので、はからずも遺影となってしまいました。その後、山田あき先生もインタビューからほどなくして去られたのでまた遺影。そのあと、月光の会で北海道から菱川善夫先生をお招びして講演していただいた際に、会場の撮影係をしたら、福島先生が菱川先生に「この人が撮ると遺影になるんですよ」なんて紹介されたんです。菱川先生は笑って「じゃ、僕がそのジンクスを破ってあげる」っておっしゃって、ほんとうに頑張ってくださいました。「白拍子の風」も凄く喜んで読んでいただきました。でも、その菱川先生も先年他界されました。いろいろと思い出しますね・・・)