2010.6.26 まもなく七夕・・・、7月7日は源親行が「河内本源氏物語」を完成させた日でもあります!!
「河内本源氏物語」を完成させた源親行は、奥書に「建長七年七月七日果其篇」と記しました。即ち、その日に『源氏物語』の校訂作業のすべてを終わったのです。その後手を入れたりして正式には七月七日を過ぎての完成ですが、親行はこの日付にこだわって残しました。たぶん、「七夕」だからでしょうけれど、親行がそれほどこだわった七夕の中世での実態がどういうものか、考えてみるとあまり知られていませんよね。まして、親行のような立派な成人男子がこだわったなんて・・・
そんなことがずっと疑問でしたので、この際、今年は中世における七夕行事がどんなものだったか、少し追ってみようという気持ちになっています。できれば、親行がそんなにこだわってその日に完成させた「河内本源氏物語」を、七夕にちなんで・・・・、【7月7日は鎌倉の源氏物語の日】みたいな記念日にできたらいいな・・・という気持ちも湧いてきています。
で、昨夜は、七夕の歌というと真っ先に思い出す『建礼門院右京大夫集』を取り出して読んでみました。この痛切な日記とも歌集ともとれる集にあって、一連の七夕の歌のだけが大量にあって異質です。七夕だから作った行事の歌で、彼女の人生と密着した内容でないから、今までは読み飛ばしていたのですが・・・
歌は「彦星の行き合ひの空」という括りで、51首。最初の歌と最後のにだけ詞書があって、あとはただ歌だけが並んでいます。滅び去った平家の公達を恋人にもった女性の歌集として、生きた『平家物語』の実況中継のような意味合いが濃い歌集にあってのこの無造作な羅列・・・、とても不思議でした。
七夕の歴史をざっとみたのですが、現在のような短冊に願いを書いて笹の葉につける風習は江戸時代からなんですね。中世では冷泉家の乞巧奠(きっこうでん)にみるように、梶の葉に古歌を書いて飾ったもののよう。右京大夫の最後の歌をみると、毎年七首作ったようですから、中世での儀式は七首を梶の葉に書いたのでしょうか。『建礼門院右京大夫集』の51首は、そうして毎年溜まっていった歌からの抜粋のようです。深く読むと、そこにはやはり織姫彦星にかけて彼女みずからの資盛との悲恋を思う切なさが込められているのがわかりますが、この構成はもったいないですね。
幾首か引用させていただくつもりですが、今はまず一首だけを!!
なにごとも変りはてぬる世の中に契りたがはぬ星合の空