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2010.7.31 今日から井の頭公園の雑木林で東京の地酒祭・・・【東京地酒と酒器うつわ祭り・八丈島物産展】を開催!!

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井の頭公園奥の雑木林のなかで、ご覧のような催しがはじまりました。模擬店や射撃・輪投げといったゲームもあり、縁日のようなのに、まだ知られていないのかあまり人が集まっていません。宣伝が行き届いていないんでしょうね。せっかくこれだけ設営してもったいないので、かつて報道をやっていたときの魂が頭をもたげて、「これはお知らせしなくては!」とばかりに撮ってきました。

地酒の利酒もあって、蝉しぐれの降る中、かなかなを間近に聴きながらの一杯は如何ですか? 最後のチラシは新聞に折り込まれてきたもの。8月8日まで、10:00~19:00ですので、夏休み、ご家族でどうぞいらしてください!!

私はあまりお酒をたしなみませんが、東京の地酒がこれだけ一堂に会するのも珍しいのでは? 場所は、吉祥寺駅をおりてバス通りをまっすぐ文化園の方へ進んだところの、動物園の前あたりの雑木林です。

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2010.7.31 ちょっと不気味な空を載せます!・・・【7月31日05時44分頃 小笠原諸島西方沖 M5.2】の前兆夜空です

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7月29日夜、私が近々M4.5規模以上の発震があるなあと思う、「明るい夜空に白い雲が点在する」空が出現しました。夜空なのに紺碧の部分が澄んだ水色。そして、雲が夜なのに昼のように白いんです。

大き目の地震前兆のこういう空は全天に及びますから、いつもは震源地の特定はできません。ただ、29日のこの空では、一枚目のように南東発生のグローブのような放射状雲がありましたので、震源は南東、つまり小笠原諸島方向とわかりました。

そして、二枚目低空にみるように、南東から発生する白い雲が列になって流れてますでしょ! これは以前宮城県沖地震でみたときと同じ現象。被害地震だったあのときは、もっと激しく夜空に真っ白な雲が整列して流れていました。

【7月31日05時44分頃 小笠原諸島西方沖 M5.2】が発生しました。震度は1です。この海域は陸より遠いので被害にまで及ばないことがわかっていますから、安心していられます。

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2010.7.30 面白い発見!!・・・朝焼けと夕焼けでは焼ける色の順序が逆

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昨日29日早朝、4:30頃に撮った雲の朝焼けです。徹夜したので気づいたのですが、そうでもないかぎり、この時間起きていませんから、朝焼けは滅多に撮りません。

夕焼けは、朝焼けに比べたら撮る機会が多いのですが、そういうとき、雲はまず黄金色の焼け方を呈し、それから次第に色の濃さを増して、真っ赤な焼けになり、最後はどす黒い紫がかった赤になって終わります。それで、朝焼け、夕焼け、ともに、私は焼けるときの色の順序は「金色→真っ赤」と思っていました。

が、今朝のこの写真ですが、撮った順です。つまり、「真っ赤→金色」なのです。昇る朝日と沈む夕陽で、焼ける色の順が逆なんですね。はじめて気がつきました。考えれば当然のことですが・・・

昨朝、真っ赤に焼けた雲を撮って、「あ~あ、大好きな黄金色の朝焼けを撮りにがした」と悔しい思いを抱きつつ帰りかけたんです。そうしたら、移動中の空にまぶしく金色に輝く雲が。驚いてまた撮るポイントへ戻りました。そうして撮ったのが下の二枚です。最初より太陽が上に昇ってきたので明るい焼け方になったんでした。

こういう経験て、いいですね。自分のうっかりさを置いて、得した気分になりました。

ちなみに、この焼けた雲は北から発生していました。二枚目の写真が東を向いて撮っていますから、左側から入ってきている雲は北から南へ向かっていることになりますでしょ。雲自体の規模は小さいのですが、この強烈な焼けはどうなのでしょう・・・

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2010.7.29 やっと全貌が見えてきました・・・「武士の都 鎌倉」について!!

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ずっと、「武士の都 鎌倉」ということについて考えていました。『尾州家河内本源氏物語』『西本願寺本万葉集』という貴重な二大古典の写本を残した鎌倉・・・、その文化と「武士の都」のイメージが合わないからです。

鎌倉には『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』という、素晴らしい写本を制作する文化がありました。それは、公家文化です。なのに、現在、鎌倉で謳われているのは「武士の都」・・・。

その整合性のつかなさに、ここのところずっと苦しんでいました。というのも、この二大写本の成立までの経緯をまとめようとしていますので。「河内本源氏物語」の校訂をした源光行と、『万葉集』の研究に生涯をささげた仙覚、この二人の伝記をメインにして、鎌倉の文化そのものの実態を明らかにする作業です。

それが、はじめたら、どうにもこの二大写本の成立と、「武士の都」の整合性がつかない・・・。原稿を書こうとして論が先へ進まず、ほんとうに苦しみました。

一昨日あたりから、もやもやとした霧が晴れて、隠れていた文化の実態が見えてきました。鎌倉を単純に「武士の都」と言い切ってはいけなかったのです。そこには三期に分かれる状況がありました。

何故、このようなことにというと、おそらくそれは、第一期の頼朝が武士で、第三期の執権北条氏が武士・・・だから、いっしょくたにして「武士の都」と考えることに誰も不自然を感じがなかった・・・、とそんなことだと思います。

でも、源家将軍の武士と、北条氏の武士とでは、時代も意味も違います。以降、これを三期に分けて説明させていただきます。

◆第一期 源家三代将軍の時代
頼朝が鎌倉に幕府を開いて武士の都を造ったといっても、武士の文化は御家人たちのことで、頼朝から実朝までの将軍家は、京都で育って以来の公家文化圏に属しており、いわばこの時代の鎌倉は武士文化と公家文化の折衷的状況。幕府を置いた御所自体が寝殿造りであったりして・・・

◆第二期 第四代将軍頼経から第六代将軍宗尊親王の時代
都からきた摂家将軍、親王将軍によって、鎌倉に真の公家文化が流入。宗尊親王の時代には鎌倉歌壇なるものもできて、公家文化が活況を帯びていた。この時代に『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』が制作される。

◆第三期 執権北条時頼以降の鎌倉
執権の地位を脅かす宗尊親王を更迭し帰洛させた北条氏が、鎌倉の公家文化を表舞台から消し去った。代わりに禅宗をとりいれた独自の文化を屹立する。これが現在の「武士の都」のイメージとなる。

と、如何でしょう。頼朝が武士だっただから、どうしても一貫して鎌倉は「武士の都」だったで納得してしまいがちですが、そんな単純なことではありませんでした。あいだには公家文化が対等に花開いていた時代もあったのに、それが抹殺されていたのです。禅宗が入って以降の北条氏の文化と、きっちり分けて考えると、何も不都合はなくなりました。

ほんとうに、ここ三週間くらい、この問題にかかって、この三期の違いにたどりつくまで苦しかったんです。霧が晴れて気分がすがすがしくなりました。

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2010.7.27 24日夕刻の入道雲は【7月27日21時13分頃 千葉県北東部 M3.2】の方向でした!

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これは、7月24日夕方に湧きあがっていた巨大な積乱雲。気になったのは、23日にM5.3の地震があった千葉県北東部の震源地方向ということ。そうしたら、やはり、【7月27日21時13分頃 千葉県北東部 M3.2】が発生しました。緯度・軽度もまったく同じ震源の地震です。

それで、25日、この雲について、地震予知の掲示板に、「昨夕は東(先日M5規模のあった方向)に巨大な積乱雲が湧きあがっていましたので、その方位での発生もあるかもしれません。積乱雲自体は小さなものでしたので心配はしていません。」と投稿させていただきました。(今読むと、巨大な積乱雲と書きながら、小さなもの・・・とは矛盾してますね。見た目に巨大・・・、でも地震の規模としては小さい・・・のつもりでした(゚ー゚;)

積乱雲(入道雲)はこどものころから見なれた夏の風物詩ですが、震源から湧くので地震雲す。ただ、この写真のような単体雲はM3規模。これが壁のように横幅いっぱいな規模だったら大変。その意味で、「心配はしていません」なのでした。

真っ青な空に真っ白なのが入道雲と思っていますが、夕焼けしていない真昼の入道雲でも、よく見ると中心部がピンク色です。やはり地震前兆としての地殻活動で、火山の火口のようなんだなあ・・・といつも思います。

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2010.7.26 吉岡幸雄氏『源氏物語の色辞典』に溜息・・・平安装束礼賛!

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吉岡幸雄氏の染色による源氏物語の装束が大好きです。といっても本物のお作品に接したことはまだありませんが、折に触れ、雑誌や何かで目にする『源氏物語』の特集号に掲載される氏の作品の写真には、もうほんとうに胸がどきどきします。

私は写真家だから、本物はともかく、その写真がまたいいんです。平安の装束は平面が原点。スパッと切ったシャープな布の色と色の重ね合わせ・・・、もうそれだけで芸術です。「襲の色目」が平安装束の粋ですが、その粋をシャープに現代的に視覚化したのが氏の写真です。

かねがね、雑誌でみるたびに、ふうっと溜息をつきながら、ここだけを特集した本が欲しい・・・と思っていました。大著のご著書ならありますが、高価だし、大きいし、とても気軽に楽しもうという気にはなれません。そうしたら、『「源氏物語」の色辞典』という、ふつうのサイズのコンパクトにまとまった単行本をだしてくださいました。写真がその表紙ですが、写真だけでも溜息・・・という気持ち、おわかりいただけるでしょ!

帯に「五十四帖に描かれた襲の色目を完全再現」とあり、内容はまさに「襲の色目からみた五十四帖のストーリー」です。「桐壺」からはじまって「夢の浮橋」までの五十四帖各巻を、象徴する色で読み解いていく・・・。まずその色の染色布の写真に数行の本文を紹介し、つぎにその巻のあらすじを書かれながら、その中に象徴する色の物語における意味と、染色の本格的・具体的な説明を織り入れる・・・、といった内容です。

例えば「桐壺」巻をご紹介させていただきますね。この巻の色は「紫」です。桐壺帝の桐の花の紫、そして藤壺の藤の花の紫・・・。氏は「桐の襲」として紫根(花の紫)と蓼藍×黄蘗(葉の緑)の染めを、「藤の襲」として紫根と白平絹(花の紫)と蓼藍×黄蘗(葉の緑)を染められました。それぞれ紫を3段階のグラデ―ションに、「桐の襲」は2段階の緑のグラデーションを重ね、「藤の襲」はそれより濃い目の紫の3段階のグラデーションに、白と緑を一色ずつ・・・

平安の色の襲は、違った色どうしの重ね合わせも素敵ですが、グラデーションがもう、命!ですね(o^-^o)

最近私はこのご本をバッグに入れてもち歩いて、ちょっとした待ち時間などに取り出しては拝読しています。そうしていると、五十四帖のあらすじが甦るし、色の勉強にもなるし・・・で一石二鳥というか、三鳥にも、四鳥にも・・・、しかもコンパクトにまとめられているので、ほんの短いあいだだけでも一瞬取り出して、すぐ仕舞っても堪能・・・、素敵な時間の余韻だけで一日優雅に過ごせます!

色の勉強は、それはもうためになりますよ! 例えば、二藍(ふたあい)・・・。よくみかけるこの語・・・、なんとなくわかったように読み進んでいて、何もわかっていなかったことが判明しました。私が説明するより、吉岡氏の文章でご紹介しますね。この二藍は「帚木」巻の雨夜の品定めの場面で光源氏が着ていた直衣の色として紹介されています。

 「藍」は、いまでは藍色のことをさすが、その昔は染料の総称でもあった。また赤の染料である紅花は、かつて呉(くれ)の国から運ばれた染料であるところから「呉藍(くれのあい)」と記された。だから青糸の染料である蓼藍で染め、呉藍(紅花)で染める、つまり二つの染料(藍)で染めたため、「二藍」とよばれる。
 色彩は、青と赤が重なりあって紫色となり、その色調は、藍と紅のかけあわせによって無限といっていいほどの数になる。

と、この「無限の数」がグラデーションになるんですよね!

私は生絹(すずし)が、語も、実物の装束も、たまらなく好きなんですが、その意味もこのご著書ではじめて明確に理解しました。生絹は、あの白拍子が着ている白い装束、といえば想像できますでしょ。緋の袴に真っ白な生絹・・・、そうまさに白拍子の衣装・・・。それは・・・

 生絹と書いて「すずし」と読むが、これは、蚕が吐いたままの透明な、ややシャリ感のある絹のことをいう。現代人が着ているのほとんどは、練絹、つまり生絹を藁灰の灰汁(あく)のなかに入れてやわらかくした不透明なものが多い。
 平安朝の公家たちは、衣装を何枚も重ねて着て、上に透明感ある生絹を着て光を透過させ、色を効果的に表現しようとしていた。したがって、こうした透明でやや固い、張りのある絹がふさわしいと思う。

私などはこの生絹が平安装束の極みと思っているのです。だから、よく源氏物語をテーマにした展覧会にいくと、江戸期の源氏物語絵をみますでしょ。すると、それらの絵には、衣装(あえて装束とはいいません!)にみんな具体的に強烈な模様が描かれている・・・。ああいうのは源氏物語の世界ではありません!平安装束のセンスは、透明感ある「シャリッとした」生絹に、あるかないかの光によって浮かびでる有職文様です!(と、私は思います。)

このご著書を拝読していると、『源氏物語』を私が好きなのはあの装束だからだ・・・と思ってしまいます! いいですね、平安装束・・・!!!!! 再来年の大河ドラマの主人公が清盛に決まったということで、またタッキー演じた「義経」以来のあの平安装束が堪能できるかともう期待にうずうずしています。 

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2010.7.25 【7月23日06時06分頃 千葉県北東部 M5.3】地震の前兆の空画像がみつかりました・・・携帯で撮っていて忘れてまして

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7月19日18:55頃の撮影です。上が【7月23日06時06分頃 千葉県北東部 M5.3 震度5弱 】の震源地方向。二枚目がその北東側。三枚目が南東側です。一枚目を中心にパノラマ風につなげた形で想像してご覧になってください。

この地震の前兆と思われる空をたしか撮っているはず・・・と思って、ずっとPCやHDのなかのファイルを探していました。ここのところ朝焼け・夕焼けが頻繁で、それで随分撮っているものですから、なかなか探すのが大変。無くて、どこか見落としたのだろうともう一回見直して、やはり無くて・・・としているあいだに日が経ってしまいました。

今日、ふっと思いついて、携帯だ! と。見たら、やはりありました。一番下の南へ延びるただれたような帯雲が目に焼き付いていて、前兆としたらあれだ! と思っていたとおり、たしかに中心が一枚目のように震源地方向でした。

四月に携帯をスマートフォンに変えたものですから、以前のiモードのような画像アップの気楽さにまだなってなくて、それでせっかく撮っても携帯のなかのまま・・・が続いています。情ないなあとは思いながら、PCにアップするのにPicasaとかいうソフトをダウンロードしなければならなかったりして、今、それでなくても忙しいのに・・・と放ったままにしてたんです。

でも、この地震の前兆はきちんとした形で残しておきたいから、今日は頑張ってPicasaのダウンロードからはじめました。そうしたら簡単! 悩んでいるあいだに頭のなかでやり方に対する心構えが完了していたようです(*^-^) これでまたウェブフォトとかの世界が広がって、明日からまたどんなことができるのか・・・、便利というか、予測もつかないというか・・・・、とにかく昨今のネットの世界は驚異です。

この夕刻の空は綺麗でした。これは東の空ですが、反対側の西でも同様に火焔のように揺らぐ雲が金色に焼けていて、そちらの方が日没なのもっと綺麗でした。危ない空、と思ったのですが、内陸でのM5規模でありながら被害のなかったのが救いです。

前日朝の24時間前の状況は下の記事でご紹介していますが、再掲しておきますね。

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22日4:50の撮影です。やはりM5規模だと、前兆雲から地震の発生まで3~4日かかるんですね。

ちなみに、19日撮影の同時刻反対側(西)の夕焼け雲も載せておきます!

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2010.7.24 夜、群馬・埼玉一帯での異常な雷の発生・・・このカナトコ雲が雷雲に?

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ここのところ頻繁にカナトコ雲を観ます。それも決まって同じ方角・・・

一枚目と二枚目は同じ雲ですが、当地より西北西に発生していました。じつは昨日も同じ方向に出ていました。しかし、今日のが違うのは、左端の夕陽に染まった部分がレリーフ状の焼け方を呈していること。「レリーフ状焼け」は割と強い地震の前兆です。あれは嫌だなあと思いつつ撮りました。

その後、夜になって、落雷情報をみると、群馬県のほとんど全域が真っ赤。群馬県一帯で強烈な雷・落雷状態でした。しばらくして雷雲は南下して埼玉県に移動していました。たぶん、この雲がその雷雲だったと思いますが、雷・竜巻の発生した地域にはその後地震が起きることがよくあります。竜巻は埼玉に警報が出ていましたし・・・

三枚目は夕陽にかがやく綺麗な雲です。これは静岡の方ではカナトコ雲になっていたようです。当地では流れてきてこういう状況に見えました。夏の雲は入道雲のようにむくむくと分厚い巨大な単体雲が多いのですが(カナトコ雲もその一種です)、今年は何故か三枚目のような、薄いベールが開いたような、繊細な感じのする雲が頻繁で、これには何か意味があるのかしらと不思議に思って見ています。

追記:【7月25日22時44分頃 群馬県南部 M3.0】が発生しました。でも、あの落雷情報の広域の真っ赤さに比べてまだ規模が小さい気がします。

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2010.7.23 【7月23日06時06分頃 千葉県北東部 M5.3 震度5】の前日の空

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23日朝、千葉県北部でM5.3(震度5)の地震がありました。連日朝焼け・夕焼けがあり、異常な空が続いていますので、奈良県でM5規模があってもまだ油断できないと思っていたところの千葉でのM5規模・・・

あまり連日の夕焼けで、写真の整理がつかず、震源を示す前兆の空を撮っていたかしら・・・と思いながらまだ検証できていません。ただ、地震発生の24時間前になる前日朝の画像がありますので載せておきます。

22朝の震源地方向の空です。4:50の撮影です。その前日も朝焼け・夕焼けをしてたので、窓から雲が染まっているのを見て、「嫌だなあ、また・・・」と思いつつ、「仕方ないなあ、また撮ってこよう」と、撮りにでました。

全天の朝焼けというのではなく、ぱらぱらと浮かんでいる雲がピンクに朝焼けしている状況・・・、「雲自体に危機感はないけれど、相当大気が磁気を帯びている状況」と思いました。

ただ、東の低空が異様に地気が濃いのです。よく見ると、ぱらぱらした雲がそこから発生しているようでした。それで念のために数ショット撮った画像の一枚がこの写真です。

左下が震源地方向。地気が濃いから青空になっていません。目を凝らせば何かわかるかとしばらく見ていましたが、わかりませんでした。この画像もコントラストを強めるなどの補正をして、ようやくこれだけ見えるようにしてあります。それでも、朝焼けに染まったぱらぱらした雲(右上)は、この地気から発生しているのがおわかりいただけるでしょうか。

地震発生直前の雲は、意外にはかないというのが今までの経験です。「何気なく撮ったけれど、案外これが役立ったりして・・・」などと思いつつ帰途についたのですが、まさかほんとうにこの写真を使うような地震が発生するとは思いませんでした。

先程、インドネシア付近でM7.1の地震が発生しました。連日の異常夕焼けはこの前兆だったのでしょう。そのことを下の夕焼け記事に追記しました。ただ、あまりに連日だったものですから、もうこれでスッキリ終わりという気がしないのが嫌ですね。

追記:【7月24日07時51分頃 フィリピン付近 M7.3】がまた発生しました。今度こそこれで終わりだといいのですが。

追記2:
奈良県でのM5規模発生以降の地震を、気象庁からコピーしてみました。インドネシアへのラインの地震が続いていた気がします。2004年のスマトラ沖大地震のときもそうでした。同じラインで沖縄中心の中規模地震が頻発し、前兆雲の該当地震がいったいどれがどれ・・・と決めかねたことを思い出しています。

23日17時42分頃 和歌山県北部 M2.7
23日14時25分頃 高知県西部 M4.4
23日06時06分頃 千葉県北東部 M5.3
23日01時37分頃 和歌山県北部 M2.7
22日16時57分頃 長崎県南西部 M2.7
22日06時16分頃 沖縄本島近海 M2.9
22日00時18分頃 静岡県中部 M3.0
21日06時19分頃 奈良県 M5.1
他にツイッターから
24日07時55分頃 鹿児島県熊毛郡にてM4.8
24日07時56分頃 高知県室戸市にてM4.8

追記3:【24日08時15分頃 フィリピン付近 M7.2】。やはり連発になってしまいました。テレビをつけていないので状況がわかりませんが、被害や津波の起きていないことを願います。ミンダナオのあたりのようです。

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2010.7.21 昨日20日の夕焼けは身体毎染まってまだ雫が垂れるような気がするほど綺麗でした! 対極の東まで届く光芒まで出て→地震発生【7月24日07時08分頃 フィリピン付近 M7.1】【 M7.3】【 M7.2】

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7月20日の19:05から19:13までのあいだの撮影です。なんとなく空に透明な靄がたゆたっている感じがして気になって見ていました。すると、なんとなくその靄が夕焼け色に染まりはじめて存在を顕してきたので撮りにでました。そのうちにみるみる焼けて、ついには身体毎どっぷり浸ってしまうくらいの夕焼け空・・・。久々の存在感ある焼け方になりました。

一枚目はまだそれほど焼けるとも思っていなかった空。まだ空の水色が綺麗です。それがだんだん西南西からの火焔のような形状の雲がのしてきて、それが夕焼けして、最後には世界全体が焼けているかのような状況に・・・。あまりに綺麗で、撮るのをやめて、しばし只中に浸って立ち尽くしてしまいました。四枚目は火焔状の雲の発生状況。左下にある鉄塔が南ですから、雲は西南西から発生してきています。

このとき、西北西に大きなカナトコ雲があって、ちょうどそれが沈む夕陽の前面になって、雲が夕陽を遮り、長く延びた光芒が対極の東にまで達していました。光芒は薄明光線とか後光とかいい、対極のを反薄明光線とか裏後光とかいうそうです。三枚目の右端に縦にのびている黒い直線状の影がその光芒です。以下、光芒の写真をアップしますね。

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五、六枚目が北西。最後が北西発生の光芒が延びていった先の南東です。空に二機の軍用機が写りこんでいます。

昨日の光芒は黒さがはっきりしていて異様な空でした。六枚目の左下にカナトコ雲がくっきり写っていますでしょ。その影なんです。カナトコ雲というのは湧きあがった雲が大気のある層に達するとそれ以上は上昇しないで横に広がっていった雲で、なので台形状に上の部分が平らです。この雲の影というわけですから、ふつうの光芒とはちょっと違って黒い・・・。ふつうの光芒は雲間から漏れる太陽の光ですから、影ではなく光・・・。だから綺麗です。正式にいって、昨日のような影の光芒も光芒と呼んでいいのでしょうか、わかりません。もしかしたら違うかも・・・

ここのところ、朝焼け・夕焼けが連日のようにあって、大気が異常です。雲が焼けるというのは大気が強く磁気性を帯びているからです。なので、地震前兆としてのバロメーターになります。M3とかM4、もしくはM5くらいの規模では朝焼け・夕焼けにまでなりません。特に当地は内陸なので滅多に焼けません。

このブログでも10日の光芒、12日の夕焼け雲と、ご紹介してきましたが、そのあいだにももっと連日撮っています。特に15日早朝は坩堝の中のような凄い灼熱色の朝焼けが報告されていますし、18日には横浜で綺麗な彩雲(じつは水平虹)が観測されています。これほどの連日の朝焼け・夕焼けは新潟の中越地震の前のときに似た状況で危惧しています。15日の灼熱焼けと18日昼の水平虹のあと、18日22:04にニュージーランド付近でM7.2がありました。
http://www.yomiuri.co.jp/photonews/article.htm?ge=614&id=78669(18日の水平虹)

それで終わりかと思ったら、その後もまだ19日も20日も・・・。今朝、奈良県でM5.1の地震がありました。震源地がちょうど西南西にあたるので、昨日20日の火焔状の雲がその前兆だった可能性がありますが、でも、まだ今日も、昨日ほどではありませんが夕焼けがしていました。関西ではもっと強烈な焼け方の空が報告されています。懸念しつつようすをみています。

追記:その後、【7月23日06時06分頃 千葉県北東部 M5.3 震度5】【7月23日14時25分頃 高知県西部 M4.4 震度3】が発生しました。でも、まだこれらの規模では連日の夕焼けに匹敵しません。

追記2:たった今、【7月24日07時08分頃 フィリピン付近 M7.1 】が発生しました。たぶん、これで落ち着くのではないでしょうか。(とは希望的観測ですが・・・)。連日の夕焼けはM7規模のものです。遠い海外での地震が日本にそんな影響を及ぼすなんてこじつけと思われる方もいられると思いますが、電磁波の地球をまわる速度は信じられない速さだそうです。影響はあると考えています。

追記3:【7月24日07時51分頃 フィリピン付近 M7.3】が発生しました。
追記4:【7月24日08時15分頃 フィリピン付近 M7.2】が発生しました。

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2010.7.18 ツイッターから・・・【遣唐使「円仁」足跡 中国で発見】

最澄の弟子で、唐へわたって『入唐求法巡礼行記』を著した天台僧、慈覚大師円仁の名を刻んだ石板が中国河南省登封市の法王寺で見つかった、というニュースが、ツイッターで紹介されていました。

なんと、凄い話なんですよ。石板はお堂を囲む塀にはめこまれていて、それは最初の唐の時代の塔が盗掘されたときに壊れて散ったもの。それを後代になって飾りとして塀に嵌めこんだ・・・。その石板の一つに「円仁」の名があったというのです。そして、「大唐会昌五年」と。

それを読まれた法王寺の僧侶の方が、「円仁をいくら調べても中国には該当者が見あたらない」として、円仁が少年期を過ごしたと伝わる栃木県岩舟町の大慈寺を今年一月に訪ねて来られたのだそうです。それを調べて、たしかに天台僧の円仁に間違いがないとわかったとのこと。

文体には「日本人が書いた漢文特有の雰囲気がある」として、円仁は帰国の途次、法王寺の僧侶の請われて文をしたためていたのだそうです。『入唐求法巡礼行記』に法王寺の記述はないけれど、帰国の旅程との不具合はないそうです。

詳細はこちらで・・・
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201007100161.html

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2010.7.14 湘南地域のPR誌『湘南世代』さんに「鎌倉の源氏物語」を特集していただきました!・・・7月9日朝日新聞朝刊に折り込まれています。

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秋に、「湘南邸園文化祭」の一環で、鎌倉地区のプログラムとして【鎌倉の源氏物語】を講演させていただきます。開催日は11月27日(土)。会場は鎌倉投信株式会社さんの本社。鎌倉投信さんは、鎌倉の古い民家を社屋にされた風雅な投信会社さんです。湘南邸園プロジェクトさんは、鎌倉など湘南一帯に顕著な「邸園文化」の昨今での衰退を惜しんで、残すための文化事業をされている団体さんです。
http://www.kamakuraim.jp/(鎌倉投信株式会社さんのHP)

写真一枚目は『湘南世代』7月号の表紙。下四枚は鎌倉投信さん社屋です。場所は鎌倉は雪ノ下の、御堂橋を渡ってすぐのところで、頼朝が鎌倉に幕府をつくって最初に建てた勝長寿院跡のある地です。鎌倉投信さんの社屋はほんとうに素敵! 私も幼いころ品川区の戸越公園という細川家の元大名屋敷があった近くに住んでいましたから、そのときの家に面影がそっくり。思いがけない郷愁に駆られてしまいました。まさに谷崎潤一郎さんの『陰影礼賛』の世界です。

鎌倉投信さんの写真二枚目は、お座敷から眺めたお庭の光景。枝ぶりのいい大きな紅葉が一本立っています。文化祭当日はその紅葉真っ盛りということで、源氏物語にちなんで当日を「紅葉の賀」と名付けました。講演させていただく会場は下二枚の写真にあるお座敷。二間つなげても40名ほどの聴衆さんになります。無理をすれば50名・・・?とも考えなくもなかったのですが、源氏物語の優雅な空間の現出という試みですから、ぎゅうぎゅうの無理は止めましょう・・・ということで40名。このこと自体、風雅でしょ!

さらに、ほんとうに優雅なのは、私が講演させていただいたあと、休憩をはさんで坂麗水さんの薩摩琵琶の演奏があるんです。そして、休憩時には源氏物語にちなんだ創作和菓子にお点茶。さらに会場を華道家の宮内信江さんがお花で飾る・・・と、素敵なことこの上ない一日となります。そして、もちろん、鎌倉投信さんの社長鎌田恭幸氏のご案内でお庭の散策・・・

ほんとうに信じられない空間です。外資系の金融業で凌ぎを削ってらした鎌田氏が起業され、選ばれたのが鎌倉の地のこの古民家。ここには鎌田氏の深い金融理念が込められています。その一端で、源氏物語という、金融とはまるで異質の講演も気軽に引き受けて会場を提供してくださったのでした。

『湘南世代』特集号には、鎌田氏と私の対談、そして、「古都鎌倉の源氏物語―『河内本源氏物語』に秘めた恋―」と題した原稿を載せていただいています。対談は、金融哲学からと源氏物語からという、まったく異種の分野からの鎌倉文化の展望。自分で読んでもよく融けあっているなあと感心する不思議な世界になりました。源氏物語にしか目がいっていなかった私には、「金融も鎌倉期に画期的な展開があった」という歴史観はとても新鮮でした。

原稿は、「鎌倉の源氏物語」というテーマにこだわっていた私に、『湘南世代』の編集長芹川氏が「古都」をつけてくださったんです。古都・・・、とついただけで風雅な趣に一転! びっくりしました。「河内本源氏物語」を校訂した源光行には建礼門院徳子への終生変わらぬ愛があり、それが「河内本源氏物語」校訂という大変な事業の原動力になっている・・・というのが私の持論です。

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2010.7.13 昨日の夕焼けは綺麗でした・・・巨大なレンズ雲も浮かんでいたりして忙しい空!

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最初は青い空に真っ白な雲が放射状に、北北東からと、南南東からの、両方向から発生して延びていたんです。それがみるみる天頂に達したかと思うとドッキングして、一本に繋がりました。真っ白で勢いのある雲は磁気性が強いですから、これは焼けるなあと思っていると、ご覧のとおりの夕焼けに・・・

それとは別件で、下二枚のような巨大なレンズ雲が。昨日は空が騒然としていました。北北東はよく「宮城県沖」といわれる震源と「福島県沖」といわれる震源の中間方位からの発生でしたから、千島列島へのライン上に震源があると思います。南南東は小笠原諸島方向です。

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2010.7.11 もう紫陽花の花は終わってしまいましたが・・・、まだ梅雨なのでアップしておきます紫陽花の花

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紫陽花の花って綺麗ですね。雨に濡れて艶々しているとこちらまで心が洗われて・・・

今日は参議院選挙の投票日。雨のなか出かけたら、ちょっと前に見たときには咲き誇っていた紫陽花たちが色褪せていて、ああ、もう終わりなんだ・・・って。それでこの写真を思い出して載せました。上の青い花は称名寺で撮りました。下は我が家の柏葉紫陽花です。奥にちょっと夏萩が咲いているのが見えますでしょ。夏萩はその名のとおり夏に咲くのでいつも一緒に咲きます。

選挙があると当然ですが、そこにワールドカップまで重なって、世の中が騒々しくて落ち着きません。頑張って執筆に籠ろうとしてもどこかから何かが漏れてくる・・・。たぶん、自分の気持ちが落ち着いていないんです。いろいろあって・・・。それで、7日の夕刻、気分転換に吉祥寺にでたら、「あと10分で蓮舫議員の到着です!!!」って、駅前で民主党の車が停まって叫んでいるものですから、じゃあ、私も・・・って人垣に混じって、到着から、はしごを登って車の上で演説をされ、終わってまた車で去って行かれるまで観てしまいました。凄いなあと思いました。迫力があってブレがない、って清々しいですね。

明日からはワールドカップも選挙も終わって静かになるでしょうか・・・。今夜は決勝戦。我が家では決勝戦の行方より、ドイツの占いタコちゃんの結果の方が話題です(o^-^o)

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2010.7.10 今日の夕方の空は珍しい現象でした・・・光背のような後光! それとも反薄明光線?

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一枚目と二枚目、四枚目が西側。三枚目だけ、東側です。シャープな直線の影状の現象は西側からのと東側からのとが繋がって架橋していました。こういう現象は何回か観ましたが、架橋していたのははじめての経験です。

西側、といっても正確には雲は西北西の発生です。あくまでも直感でしかありませんが、浅間山関連の雲と思いました。この時間に火口から電磁波か何かの強い放射があったのだと思います。磁気性の強い空のときに、こうした反薄明光線状の現象が起きます。

シャープな直線状は、地震前兆としては、雲のエッジにしろ、こういう現象にしろ、いずれにしても要注意です。M6規模に繋がることが多いです。ただ、磁気は全方位に蔓延しているのですから、震源の特定はこれだけではできません。

四枚目は西側の雲の部分のアップですが、内部が読み取れるように画像補正をかけてあります。雲は上下二段になっていて、上が湧きあがる入道雲状。下が盛り上がる大地のようなごつごつした岩状。この岩状の雲が気になっています。

こういうこととは別に、最後の写真のとがった部分、この夕焼けは目をみはる美しさでした。ほんの10分程度の撮影でしたが、家をでる前と後とでは、気分がもう一新。どこか旅に行っていたかのような気持ちの転換ができていました。大げさでなく、ほんとうに・・・

追記:
「反薄明光線」を調べてみました。早朝や日没時に、太陽が雲に隠れているとき、その雲の切れ間から放射線状に延びる光芒の現象をいうそうです。なので、昨夕の西側の写真は反薄明光線でいいと思いますが、太陽がない東側からの放射状光芒は何なのでしょう・・・

追記2:訂正です!!
薄明光線と、反薄明光線の区別がわかりました。太陽から発して延びている光芒が薄明光線。それが反対側の太陽がない方にまで延びて、太陽がないのに発して見える光芒が反薄明光線、でした。なので、この日の場合は夕陽ですので、西側のが薄明光線。東のが反薄明光線となります。

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2010.7.7 親行が七夕にこだわった意味がわかりました! 桐壺巻にその答えが・・・

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源親行が「河内本源氏物語」の完成日を【建長7年7月7日】と、あえて七夕の日にこだわって奥書に記したことから、七夕の何がそれほどまでに親行の心を捉えたのか不思議で、ずっとその意味を探っていました。単純に織姫・彦星のロマン溢れる行事だからというのには、かなり物足りなく思っていたのです。まして親行は大人の男・・・、建礼門院右京大夫とは違います。きっと深い意味があるはず・・・と、そんな気がしてなりませんでした。

四苦八苦しながら何もつかめないまま、結局今日が七夕・・・。それで、仕方なく意味がわからないまま、それでも親行にかけて行事だけは祝っておきたいから、朝、ツイッターに、「今日は七夕。親行は七夕にこだわって奥書を書いた」内容のつぶやきを書き込みました。

すると、ある方からRT(リツィート)があって、「長恨歌の7月7日を思い出しますね」・・・と

桐壺巻では、長恨歌の玄宗皇帝と楊貴妃が、桐壺帝と桐壺更衣に重ね合わせられています。「天にあっては願わくは比翼の鳥となり、地にあっては願わくは連理の枝となりましょう」の部分が引用されているのです。その前の詩句が、「それは七月七日の長生殿、誰もいない真夜中に親しく語り合った時の言葉だった」だったのです。

別れに際し、ていねいに重ねて言葉を寄せた。その中に、王と彼女の二人だけにわかる誓いの言葉があった。
それは七月七日の長生殿、誰もいない真夜中に親しく語り合った時の言葉だった。
天にあっては願わくは比翼の鳥となり、地にあっては願わくは連理の枝となりましょう、と。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%81%A8%E6%AD%8Cより)

光源氏は、桐壺帝と桐壺更衣の悲恋の結果として残された皇子です。その悲恋の象徴が長恨歌なのです。その長恨歌のさらに核となっている言葉が源氏物語に引用され、それが「比翼の鳥と連理の枝」。そして、それが玄宗皇帝によって楊貴妃にささやかれたのが七夕の日・・・。親行はここにこだわったのでした。おそらくそうです。ただの五節句としての七夕の儀式にこだわったのではないんです。おかしいおかしいと思っていた親行の七夕へのこだわり・・・。ツイッターのお陰で謎が解けました。

それにしても親行の思いの深さ。ツイッターでのRTを拝見してすぐに長恨歌を読み、ここに触れたとき、親行もまた、おざなりに学問としての権威・名誉の目的でなく、真に源氏物語を読み込んで、真に源氏物語の心に深まっての校訂だったことに打たれ、ほろっとしてしまいました。

親行は11歳のころ、光行の使いで俊成に源氏物語の不審の箇所を訊ねに行かされてます。光行が鎌倉在住のときで、ほんの一年かそれよりも短い期間、上洛したときのことでした。短いあいだの旅路で光行自身がでかける間も惜しんでのことだったのでしょう。それは「楊貴妃をば芙蓉と柳とに例え、更衣をば女郎花と撫子に例う。皆二句ずつにてよく聞こえ侍るを、御本(俊成の本)、未央柳を消たれたるは、如何なる子細の侍るやらむ」という内容の質問でした。

光行は俊成から借りた『源氏物語』に、ふつうなら対句にして残すはずの「大掖の芙蓉未央柳」の一句が、見せ消ちになっているのに疑問を覚え、親行を使いにして質問させたのでした。このときの親行の得た回答が満足のいくものでなかったので、その中途半端さに光行が怒り、読んでびっくりしたほど激しく親行を叱責します。

おそらく親行にはそのときの思い出が強く残っているのでしょう。後年、光行から校訂を引き継ぐほど大人になっても、桐壺巻の「楊貴妃」の語は格別だった・・・。格別の長恨歌だったのです。

奥書のたった「7月7日」の書き込みに込められた、『源氏物語』の根幹を成す玄宗と楊貴妃の悲恋をとおしての親行の思いを、ツイッターをしてなかったら読み取ることはできなかったでしょう。七夕の日にとても深い感動と余韻をいただきました。よかった・・・、奇しくも七夕の日に謎が解けて・・・、というか、これが星に願ったから叶えられたってこと?

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2010.7.3 七夕は技能の上達を祈るのが本来・・・とても小さな十三弦の琴を撮ってみました!

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源親行が建長7年7月7日に「河内本源氏物語」を完成させたことにちなんで、中世当時の七夕の祝いはどういうのだったのかしらという思いに駆られています。それで、ざっとネットをみたところ、そもそも七夕は技能の習熟を願う行事だったとか。七夕というと、笹の葉に願い事を書いて星空に祝う・・・みたいなことで「願う日」になっていますが、本来は「技能」に限ってのことだったんですね。

それもそのはず、織姫・彦星が一年に一度しか逢えなくなったのは、もともと二人が機織りが上手なのと働き者の牛飼いだったことのご褒美に結婚させてもらったのに、愛し合い過ぎて仕事がおろそかになったために引き離されてのこと。そこからきた行事ですから機織りという技能、ひいては技能一般に関する願いとなるわけですね。

親行たちがどんな形の行事をしたかわかりませんが、冷泉家に伝わる乞巧奠(きっこうでん/きこうでん)のような感じかなあと考えています。すると、そこにはお琴を飾る・・・。そうだ我が家には小さな小さなお琴があった・・・と思いだして撮ってみました。厳島神社に行ったときにお土産屋さんで買ったものです。

昨日、書店でふと吉岡幸雄氏『源氏物語の色辞典』をみつけて購入しました。吉岡氏の染色はほんとうに優雅で上品。心惚れ惚れの世界です。雑誌や大きな有職故実的書籍で拝見していましたが、これはそれらをA5版にコンパクトにまとめられたもの。もう絶品としかいいようのない素敵な一冊です。

ここに偶然、探していた乞巧奠についてのコメントがあって、平安時代は五節句といって、人日(正月七日)、上巳(三月三日)、端午(五月五日)、七夕(七月七日)、重陽(九月九日)が、宮中の重要行事だったとのこと。そして、七夕は中国ではじまった乞巧奠の行事が奈良時代より少し前に日本に伝わり、機織り姫の伝承とあいまって浸透、とありました。七夕の飾りは、本来中国の五行思想に基づいて、青・赤・黄・白・黒の五色とするのが基本だそうです。

それで私もこの五色を揃えたく思ったのですが、小川町を訪ねたときに買っていた和紙がたまたま出てきて、風情が素敵でしたので、それをバックに小さなお琴を撮りました。目下、撮影に時間をかけている余裕がないので、取りあえず一枚を収めましたが、本物の乞巧奠らしい写真を撮りたい!!・・・と内心うずうずしています。

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2010.7.1 ツイッターで【写真でたどる源氏物語の歴史】のミニ写真展をしています! 後半をご紹介します・・・

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ミニ写真展【第四章『新古今和歌集』の時代 11水無瀬離宮跡】光行には『水原抄』という源氏物語註釈の大著があり、それには四人の協力者があった。一人は俊成。そして『新古今和歌集』仮名序の後京極良経。残る二人は久我通光と後徳大寺実定。 http://twitpic.com/20r32i

ミニ写真展【第四章『新古今和歌集』の時代 12白峯神宮】蹴鞠の飛鳥井雅経邸跡。雅経も源平の争乱で鎌倉に下向。頼朝に仕えて頼家に蹴鞠を教えていた。後鳥羽院に召されて帰洛し、『新古今和歌集』撰者に。光行の蹴鞠の註釈は雅経によるもの。 http://twitpic.com/20r4va

ミニ写真展【第四章『新古今和歌集』の時代 13比叡山無動寺】新古今歌人慈円の寺。慈円は『平家物語』編纂の主導者といわれ、光行は編纂に関わったとされる。二人の接点を探ると『平家物語』は『新古今和歌集』とほぼ同時並行の編纂となる。 http://twitpic.com/20r6zz

ミニ写真展【第五章承久の乱前後 14勝長寿院】頼朝建立の寺院。暗殺された実朝が葬られた。光行の子親行は下向して鶴岡八幡宮の暗殺の場に立ち会った。以降鎌倉に住んで将軍頼経・頼嗣に仕え歌の指南。光行は帰洛し後鳥羽院に仕えていた。 http://twitpic.com/2194ui

ミニ写真展【第五章承久の乱前後 15高台寺より六波羅遠望】角田文衛氏は『平家後抄』で建礼門院徳子は大原を出て晩年を鷲尾(現高台寺)で過ごしたとされる。光行は娘美濃局を徳子に仕えさせた。承久の乱で後鳥羽院方につき幕府につかまる。 http://twitpic.com/2198p7

ミニ写真展【第五章承久の乱前後 16嵯峨二条良基墓所】角田文衛氏は「藤原定家の小倉山荘」で小倉山荘はここにあったとされる。定家は承久の乱の直前、後鳥羽院の勅勘を得て蟄居していた。嘉禄元年、定家は「青表紙本源氏物語」を完成させる。 http://twitpic.com/219b3k

ミニ写真展【第六章その後の源氏物語 17鎌倉明王院】将軍頼経建立の寺院。頼経夫人は頼家娘竹御所。嘉禎2年、親行は光行の『源氏物語』校訂を引き継ぎ、以降20年とりかかる。また頼経の命で『万葉集』の校訂もする。定家・光行、この頃没。 http://twitpic.com/219jgw

ミニ写真展【第六章その後の源氏物語 18称名寺】北条実時創建の金沢文庫に隣接する寺院。将軍宗尊親王の御所で実時は親行と親交。建長7年、親行「河内本源氏物語」を完成。3年後の正嘉2年、実時は親行から借りて自らも源氏物語を書写する。 http://twitpic.com/21ic1h

ミニ写真展【第六章その後の源氏物語 19蓬左文庫】文永頃宗尊親王は『源氏物語』と『万葉集』の写本制作をする。それが『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』。鎌倉滅亡後、『尾州家本』は金沢文庫→室町将軍家→徳川家とたどる。 http://twitpic.com/21igjc

ミニ写真展【第六章その後の源氏物語 20京都御苑付近】宗尊親王御所で実時は飛鳥井雅経の子息二条教定とも親交。教定の子飛鳥井雅有を娘婿にする。雅有は実時・親行らの源氏物語の薫育を受けて成長。後年、伏見宮廷では源氏の聖と呼ばれた。 http://twitpic.com/21ijnb

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2008年に八王子で開いた【写真でたどる源氏物語の歴史】から20枚を抜粋してご紹介させていただきました。けれど、2008年以降、またいろいろと新しい発見があり、源氏物語写本の歴史に関しても見解を更新することがあって、この後半は写真展での構成と別物になってしまいました。

入れ替えた新たな写真は、12白峯神宮、14勝長寿院、17鎌倉明王院、です。

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2010.6.30 ツイッターで【写真でたどる源氏物語の歴史】のミニ写真展をしています! 今日は前半をご紹介します・・・

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◆ 2008年に【写真でたどる源氏物語の歴史】と題した写真展をしました。京都から鎌倉までの「源氏物語東遷」の構成です。そこから抜粋して20枚連投でミニ写真展をアップさせていただきます。「河内本源氏物語」はこの時空の中で完成。 http://twitpic.com/1z9kq3

◆ミニ写真展【第一章源氏物語の世界 藤原道長の土御門殿跡】京都御苑。仙洞御所の北池と南池との境を成す狭い部分に架された石橋の辺が土御門殿の南限であり、・・・。(角田文衛「土御門殿と紫式部」より) http://twitpic.com/1z9nnm

◆ミニ写真展【第一章源氏物語の世界 孔雀(多摩動物園にて撮影)】長和4年、宋商人の周文裔から(中略)、孔雀が三条天皇に献上された際、道長はそれを下賜されて・・・(河添房江『光源氏が愛したブランド品』より) http://twitpic.com/1z9r48

◆ミニ写真展【第一章源氏物語の世界 石山寺】寛弘元年、紫式部は新しい物語を作るために石山寺に七日間の参籠をしていた。・・・八月十五日の夜、月が琵琶湖に映えて、それを眺めていた式部の脳裏に (奥田勲「紫式部と『源氏物語』」より) http://twitpic.com/1z9u1j

ミニ写真展【第一章源氏物語の世界 蘆山寺】紫式部の居宅は、蘆山寺の境内、すなわち京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町三九七番地にあったと判定されるのである。(角田文衛「紫式部の居宅」より) http://twitpic.com/1z9wgb

ミニ写真展【第二章平家文化の時代 白河院跡】清盛は、実は白河法皇の落し胤で、忠盛は育ての親だった。(高橋昌明『平清盛 福原の夢』より)・・・白河法皇は国宝「源氏物語絵巻」の制作者であり、清盛は源氏物語文化を身近に感じて育った。 http://twitpic.com/206tpc

ミニ写真展【第二章平家文化の時代 厳島神社】社殿の大規模化は、平家納経の奉納に前後して始まったと考えられ・・・(高橋昌明『平清盛 福原の夢』より)・・・平家納経をはじめ、清盛による平家文化は、源氏物語的王朝文化の再来となる。 http://twitpic.com/206vwo

ミニ写真展【第二章平家文化の時代 宇佐八幡宮】この経正、十七の歳、宇佐の勅使を承って下られけるに、その時青山(琵琶)を給わって、宇佐へ参り、御殿に向かい奉り、秘曲を弾き給いしかば・・・(『平家物語』より) http://twitpic.com/206xmo

ミニ写真展【第二章平家文化の時代 竹生島】経正は詩歌管弦に長じ給える人なれば、かかる乱れの中にも心を澄まし、湖の端に打ち出でて、遥かに沖なる島を見渡し、「あれをばいずくというぞ」と問われければ、「あれこそ聞こえ候竹生島にて候」 http://twitpic.com/206z8m

ミニ写真展【第三章鎌倉 鶴岡八幡宮】平家一門に親しんで育った源光行は平家の滅亡で運命を狂わされ鎌倉に下向。頼朝に仕える。その後も頼家・実朝に仕えながら『源氏物語』の校訂に着手。時々上洛しては俊成に不審を糺すなどして情熱を注ぐ。 http://twitpic.com/207bqh

ミニ写真展【第三章鎌倉 10永福寺跡】永福寺は頼朝建立の寺院。宇治平等院と同じ伽藍形式で大蔵幕府裏手にあった。中央が二階堂で左右に阿弥陀堂と薬師堂。光行は阿弥陀堂の担当奉行。『吾妻鏡』建仁3年12月14日条で実朝に供奉して参拝。 http://twitpic.com/207fyz

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ツイッターは140字しかコメントを書けませんから、写真展でのキャプションを要約して載せています。40枚展示したうちの半分の20枚で構成します。今日はその半分の10枚をご紹介させていただきました。ここまではだいたい写真展の通りですが、後半を今とりかかっていて、写真展のときには見えていなかった世界が、今ははっきり見えていて、それを載せています。だから、2008年の写真展とはちょっと違った展開になっています。

考えてみると、2008年の写真展のときまでは、平家文化がこんなに源光行に影響を及ぼしているなんて、思ってもいなかったんです。写真展のための写真を決めるのに、撮り溜めた写真を時系列で並べたとき、平家文化関連の写真の多さに圧倒されたのがそもそものはじまりでした。

それまで、光行も、藤原定家も、同時代に生きていたことを知っていても、関係があるかどうかも考えることなく過ぎていました。が、写真を並べて、それに囲まれたとき、同時代に生きていたら、この絢爛華麗な文化に影響されない芸術家なんかいない! と確信したのです。

それから、定家も、光行も、平家の人たちと密接に繋がっているはずとの観点をもって史料をあたるようになりました。そうしたら、なんと、光行は平家に仕える家系の出で、しかも叔父季貞は清盛の側近。定家は幼児期、平経盛邸の近所の育ちで、俊成と経盛は贈答歌を交わしている・・・、などなど驚くべき事実が続出。それをまとめたのが「『源氏物語』写本に秘めた慰藉―『平家物語』との関係をめぐって―」でした。

その後、『万葉集』について調べることになって、仙覚という人物を追っているなかで、親行が将軍頼経に『万葉集』の校訂を命じられたことを知り、仙覚はその親行の『万葉集』をもとに仙覚の『万葉集』を打ちたてたのです。

『万葉集』に関しては、写真展の頃にはまったく関与せずにいましたから、今回のツイッターでのミニ写真展には入れました。そんなこんななことで、後半は写真展当時から少し進歩した内容になっています。先程 17 まで終了しました。残り3枚ですが、どうまとめようかと逡巡中です。

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