2010.7.7 親行が七夕にこだわった意味がわかりました! 桐壺巻にその答えが・・・
源親行が「河内本源氏物語」の完成日を【建長7年7月7日】と、あえて七夕の日にこだわって奥書に記したことから、七夕の何がそれほどまでに親行の心を捉えたのか不思議で、ずっとその意味を探っていました。単純に織姫・彦星のロマン溢れる行事だからというのには、かなり物足りなく思っていたのです。まして親行は大人の男・・・、建礼門院右京大夫とは違います。きっと深い意味があるはず・・・と、そんな気がしてなりませんでした。
四苦八苦しながら何もつかめないまま、結局今日が七夕・・・。それで、仕方なく意味がわからないまま、それでも親行にかけて行事だけは祝っておきたいから、朝、ツイッターに、「今日は七夕。親行は七夕にこだわって奥書を書いた」内容のつぶやきを書き込みました。
すると、ある方からRT(リツィート)があって、「長恨歌の7月7日を思い出しますね」・・・と。
桐壺巻では、長恨歌の玄宗皇帝と楊貴妃が、桐壺帝と桐壺更衣に重ね合わせられています。「天にあっては願わくは比翼の鳥となり、地にあっては願わくは連理の枝となりましょう」の部分が引用されているのです。その前の詩句が、「それは七月七日の長生殿、誰もいない真夜中に親しく語り合った時の言葉だった」だったのです。
別れに際し、ていねいに重ねて言葉を寄せた。その中に、王と彼女の二人だけにわかる誓いの言葉があった。
それは七月七日の長生殿、誰もいない真夜中に親しく語り合った時の言葉だった。
天にあっては願わくは比翼の鳥となり、地にあっては願わくは連理の枝となりましょう、と。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%81%A8%E6%AD%8Cより)
光源氏は、桐壺帝と桐壺更衣の悲恋の結果として残された皇子です。その悲恋の象徴が長恨歌なのです。その長恨歌のさらに核となっている言葉が源氏物語に引用され、それが「比翼の鳥と連理の枝」。そして、それが玄宗皇帝によって楊貴妃にささやかれたのが七夕の日・・・。親行はここにこだわったのでした。おそらくそうです。ただの五節句としての七夕の儀式にこだわったのではないんです。おかしいおかしいと思っていた親行の七夕へのこだわり・・・。ツイッターのお陰で謎が解けました。
それにしても親行の思いの深さ。ツイッターでのRTを拝見してすぐに長恨歌を読み、ここに触れたとき、親行もまた、おざなりに学問としての権威・名誉の目的でなく、真に源氏物語を読み込んで、真に源氏物語の心に深まっての校訂だったことに打たれ、ほろっとしてしまいました。
親行は11歳のころ、光行の使いで俊成に源氏物語の不審の箇所を訊ねに行かされてます。光行が鎌倉在住のときで、ほんの一年かそれよりも短い期間、上洛したときのことでした。短いあいだの旅路で光行自身がでかける間も惜しんでのことだったのでしょう。それは「楊貴妃をば芙蓉と柳とに例え、更衣をば女郎花と撫子に例う。皆二句ずつにてよく聞こえ侍るを、御本(俊成の本)、未央柳を消たれたるは、如何なる子細の侍るやらむ」という内容の質問でした。
光行は俊成から借りた『源氏物語』に、ふつうなら対句にして残すはずの「大掖の芙蓉未央柳」の一句が、見せ消ちになっているのに疑問を覚え、親行を使いにして質問させたのでした。このときの親行の得た回答が満足のいくものでなかったので、その中途半端さに光行が怒り、読んでびっくりしたほど激しく親行を叱責します。
おそらく親行にはそのときの思い出が強く残っているのでしょう。後年、光行から校訂を引き継ぐほど大人になっても、桐壺巻の「楊貴妃」の語は格別だった・・・。格別の長恨歌だったのです。
奥書のたった「7月7日」の書き込みに込められた、『源氏物語』の根幹を成す玄宗と楊貴妃の悲恋をとおしての親行の思いを、ツイッターをしてなかったら読み取ることはできなかったでしょう。七夕の日にとても深い感動と余韻をいただきました。よかった・・・、奇しくも七夕の日に謎が解けて・・・、というか、これが星に願ったから叶えられたってこと?


