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2010.7.29 やっと全貌が見えてきました・・・「武士の都 鎌倉」について!!

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ずっと、「武士の都 鎌倉」ということについて考えていました。『尾州家河内本源氏物語』『西本願寺本万葉集』という貴重な二大古典の写本を残した鎌倉・・・、その文化と「武士の都」のイメージが合わないからです。

鎌倉には『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』という、素晴らしい写本を制作する文化がありました。それは、公家文化です。なのに、現在、鎌倉で謳われているのは「武士の都」・・・。

その整合性のつかなさに、ここのところずっと苦しんでいました。というのも、この二大写本の成立までの経緯をまとめようとしていますので。「河内本源氏物語」の校訂をした源光行と、『万葉集』の研究に生涯をささげた仙覚、この二人の伝記をメインにして、鎌倉の文化そのものの実態を明らかにする作業です。

それが、はじめたら、どうにもこの二大写本の成立と、「武士の都」の整合性がつかない・・・。原稿を書こうとして論が先へ進まず、ほんとうに苦しみました。

一昨日あたりから、もやもやとした霧が晴れて、隠れていた文化の実態が見えてきました。鎌倉を単純に「武士の都」と言い切ってはいけなかったのです。そこには三期に分かれる状況がありました。

何故、このようなことにというと、おそらくそれは、第一期の頼朝が武士で、第三期の執権北条氏が武士・・・だから、いっしょくたにして「武士の都」と考えることに誰も不自然を感じがなかった・・・、とそんなことだと思います。

でも、源家将軍の武士と、北条氏の武士とでは、時代も意味も違います。以降、これを三期に分けて説明させていただきます。

◆第一期 源家三代将軍の時代
頼朝が鎌倉に幕府を開いて武士の都を造ったといっても、武士の文化は御家人たちのことで、頼朝から実朝までの将軍家は、京都で育って以来の公家文化圏に属しており、いわばこの時代の鎌倉は武士文化と公家文化の折衷的状況。幕府を置いた御所自体が寝殿造りであったりして・・・

◆第二期 第四代将軍頼経から第六代将軍宗尊親王の時代
都からきた摂家将軍、親王将軍によって、鎌倉に真の公家文化が流入。宗尊親王の時代には鎌倉歌壇なるものもできて、公家文化が活況を帯びていた。この時代に『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』が制作される。

◆第三期 執権北条時頼以降の鎌倉
執権の地位を脅かす宗尊親王を更迭し帰洛させた北条氏が、鎌倉の公家文化を表舞台から消し去った。代わりに禅宗をとりいれた独自の文化を屹立する。これが現在の「武士の都」のイメージとなる。

と、如何でしょう。頼朝が武士だっただから、どうしても一貫して鎌倉は「武士の都」だったで納得してしまいがちですが、そんな単純なことではありませんでした。あいだには公家文化が対等に花開いていた時代もあったのに、それが抹殺されていたのです。禅宗が入って以降の北条氏の文化と、きっちり分けて考えると、何も不都合はなくなりました。

ほんとうに、ここ三週間くらい、この問題にかかって、この三期の違いにたどりつくまで苦しかったんです。霧が晴れて気分がすがすがしくなりました。

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