連日の猛暑でしたが、八月に入るとすぐ、ん?・・・、これは、と涼やかな気配。陽射しに変わりはないのにどことなく風が涼しいのです。まさに「秋きぬと目にはさやかに見えねども」の今日この頃です。
あまりの猛暑と多忙でしなければならない事すらも何をしていいのかわからないくらいに頭がぼうっとしているなか、そういうときって、案外、原初の自分をみなおしているんですよね。目の前にある多忙さのひとつひとつの輪郭がとろけている分、自分のなかでは何かしなければ・・・と必死になっているから。
それで、この頃思うことのひとつにカフカの「橋」という短編があります。これは以前、清水昶先生の現代詩塾で、「文章の練習にはカフカの短編を読むのがいい。特に「橋」を」と教えていただいて知りました。ほんとうに短い短編ですが、なんと、女性のように思える主人公がじつは橋なんです。橋の目線で文章がつづられているといったわけ。
小説の内容それ自体よりも、この書き方に凄いインパクトを受けました。清水先生のカフカご推薦の意味はそうでなく、カフカの短い文章には、数学でいえば1+1=2のような非常に正確な簡潔さがあるから・・・ということでしたが。
私の実質的文章修行は現代詩の荒川洋治先生からはじまります。たんに文学好きのカルチャー夫人的な、もうほんとのはじめての文学体験でしたから、荒川先生には大変ご苦労をおかけしました。荒川氏に学んだのは「意識の殻を破れ」ということでした。でも、そうはいわれてもそれがそんなに簡単にできるわけありませんよね。
それで悩んで次に行ったのが清水昶先生の詩塾でした。たぶん、そこではじめて「いい文章」の実質を教えていただいたと思います。例えば、太宰治の「満願」について。これも非常に短い掌編なのですが、夫が病気で夜の生活を禁止されていた若い奥さん。それが病気が癒えて、医師から、「今夜からいいですよ」と告げられいそいそと帰る道筋、嬉しくてさしていた日傘をくるくると回しながら行く・・・みたいな内容でした。「いいよねえ、これ・・・」って、清水先生はいつものお酒のはいったとろんとした口調でご推奨されました。
そういうなかで、先生は、太宰の文章は「ある文章の続きに、突然、まったくべつの関係のない文章が、段落も区切りもなく続けられる。読者はそれに驚きながら否応なく文章に引きずられてしまう」のようなことをおっしゃるのです。これは、当時の私に響きました。なぜなら、理路整然とした文章がいい文章とばかり思っていましたから・・・
その後、平岡頼篤先生の小説作法のカルチャーに通うようになり、ここで徹底的に荒川先生の「意識の殻を破る」と「いい文章の実質」を鍛錬させていただきました。平岡先生の講義も同じで、先生はヌーボー・ロマン研究の日本における旗手でいられながら、カルチャーでは『檸檬』とか『伊豆の踊子』のようなものを中心にとりあげてご講義なさるんです。そこでも、「ベンチにかけている主人公の足元にカラカラと風に舞った新聞紙が飛んでくる、その描写があることがこの小説を生かしている」のような、「いい文章とは・・・」を徹底的に教えていただきました。
その平岡先生の教室で『リエーブル』という同人誌を創刊、発行したのですが、そこに私は「相聞・・・」という短編を載せました。それは、雪に閉ざされた旅路で、ゆきずりの恋をしたまま名も明かさずに別れた父と娘ほども年齢の違う二人が、互いに相手を思い続けて男は学者に、女は歌人になる。学者は書物に女性の面影を残し、女性は歌に学者への思いを託しつづけ、そうして二人は世を去った。その後、学者の業績と女性の歌の出逢いがあって、それを叶えたのが女性の残した「歌」の思いだった。「歌」は自分にとって父と母である書物と書物の再会を果たして念願を叶え、最後にこう呟きます。「私は歌です」と。
これはもう完全にカフカの「橋」の踏襲です。生まれてはじめて書いた小説みたいな作品ですから、許してくださいね。でも、このとき、カフカの「橋」を意識したわけでないのに自然に湧いて出来上がったのがこの作品。清水先生の教えが如何にインパクトあったかですよね。
その後、早稲田文学新人賞をいただいて、第二作が書けなくて文学に挫折した私を救ってくださったのが、審査員でいらした福島泰樹先生です。作歌の予定はありませんでしたが、月光の会に参加させていただいていることで「歌」に親しみ、歌会の雰囲気を知ったり、塚本邦雄先生の『新古今和歌集』論を拝読したりして中世の歌壇事情に目覚め、今は「花の蹴鞠」を書くまでに至っています。
と、長々過去をつづってきましたが、こういうことのすべてがあって今があるのだなあという感慨がここのところ深いんです。というのが、鎌倉でできた『源氏物語』ということで、ここ数年、『尾州家河内本源氏物語』(「河内本源氏物語」)にこだわって調査しています。
今までは、何故、鎌倉の人は、自分たちにこんな素晴らしい文化遺産があるのに気付かず、誇りとしないのだろう・・・に怒って(ほんとうに怒ってます!)、それを広く知っていただくために、源光行の生涯を追って「鎌倉で『河内本源氏物語』ができるまで」を一冊にまとめる予定でした。このブログにも頻繁に書いていますが、『紫文幻想』というタイトルで。
が、どう力んでも、最後の最後のところにくるといつも躓いて、作品が完成しないんです。せっかくなら源氏物語千年紀の2008年に上梓しようと頑張ってもダメでした。光行の研究を引き継いだ子息の親行が建長七年に「河内本源氏物語」を完成させ、その三年後の正嘉二年に北条実時が書写したのが『尾州家河内本源氏物語』、と起承転結はもう歴史の経緯でついているからそれを書けばいいだけのはずなのに。
最近、やっとその意味がわかったのです。正しいと思っていた起承転結の「結」が正しくなかったのです。正確には、実時が書写した正嘉二年本はすでに失われていて、『尾州家河内本源氏物語』に残っていた「正嘉二年実時書写」の奥書は、『尾州家河内本源氏物語』の制作の際に「正嘉二年本」の奥書をそのまま書写したものということがわかったからです。
つまり、『尾州家河内本源氏物語』は北条実時の書写ではなく、時の将軍、宗尊親王の下命によるものだったんです。これは、『尾州家河内本源氏物語』と同じ装丁の『西本願寺本万葉集』を調べていってわかりました。宗尊親王はこの二つの写本を制作し、完成直前に将軍家の権力を恐れる北条氏によって更迭、帰洛させられました。残されたのが、『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』という二大写本です。
つまり、(と、しつこいようですが)、二つの写本は、摂家将軍第四代頼経・親王将軍第六代宗尊親王といった二人の将軍が、京都から公家文化を導入、鎌倉で華やかな公家文化を台頭させた時代の産物。そういう華麗な時代が鎌倉にあったことを証明する知的遺産だったということ。知的遺産は決して突然変異的に何も土壌がないところに出現しないんです。ということは、『尾州家河内本源氏物語』『西本願寺本万葉集』にも、そういう出現するべき土壌があり、機運が満ちていたということ。それが宗尊親王の文学サロンでした。つまり、(と、またまたしつこく)、背景が消されていたというのが歴史の事実だったんのです。
つい先週、これに気がついて、『尾州家河内本源氏物語』『西本願寺本万葉集』は「抹殺された公家文化の時代の遺産」だったのだ・・・と、歴史背景に愕然としつつ考えて、『紫文幻想』をやめて、新たに『忘れられた書物の歴史』と題して書きはじめようと思っています。
そんなことをずっと反芻するなかで、これって、また、カフカの「橋」の影響?という思いが甦りました。『尾州家河内本源氏物語』『西本願寺本万葉集』という二つの書物が、おのずと、みずからの出生の秘密を明かしてくれたんです。書物が語る歴史なんだなあという感慨に目下捉われていて、それでこのことを記しておきたくなりました。
それにしても、結局私は「書物」が好きなんですね・・・。「本」より何より「書物」・・・です!マラルメの「理想の書物」からはじまっているのですが、これを書き始めるとまた長くなるので終わりにします。