« July 2010 | Main | September 2010 »

2010.8.30 ツイッターに呟く・・・鎌倉の公家文化のこと/将軍御所の位置など!!

002

ツイッターへの呟きをまとめてみます。140字の断章・・・呟くと結構思念が広がります!!

**************************************

odayuriko    鎌倉の公家文化の活況は、第四代将軍頼経と第六代将軍宗尊親王の時代。頼経が仙覚に『万葉集』の校訂を命じ、宗尊親王が『尾州家河内本源氏物語』『西本願寺本万葉集』を制作。その背景の政治史として奥富敬之氏『時頼と時宗』を拝読中。将軍家側と執権側の抗争が凄まじい!!

odayuriko    2008年の源氏物語千年紀、京都では『源氏物語』ゆかりの地にたくさんの標識や説明板が建てられた。鎌倉でも随所に碑や案内があるが、ほとんどが武士の関係。公家文化は皆無の気がする。よく将軍御所はこのあたりかしら・・・と思いつつ歩くのだが、鎌倉でも公家文化の標識を建てて貰えないかしら。

odayuriko    以前、田中貴子先生からブログへ問合せメールを頂き、そのとき、鎌倉にはたくさんのお公家さんが下向されていたから、その方たちの住居を掬いだして公家マップを作りたいと言ったら、面白い、是非、と言っていただいた。京下りの文人も含めると、大江広元なんて雅な庭園をもつ邸宅を作ったし・・・

odayuriko    奥富敬之氏『鎌倉北条氏の興亡』によると、将軍頼経の御所は南門が正門で雪ノ下カトリック教会南の東西路に面し、北門は清川病院北の東西路に面し、西は若宮大路よりやや退き、東は妙隆寺山門あたりに比定。宗尊親王の御所はそれを建て替えてできていて、第二期若宮大路御所という。

odayuriko    『時頼と時宗』によると、宗尊親王の新御所はかなり豪華なものだったらしい。寝殿、広ノ御所、二棟ノ御所、中ノ御所、小御所、持仏堂、御厩、東西の両侍所、車宿、泉殿などのほか、東西南北の四門のうちには、池のある南庭や、蹴鞠用の鞠ノ坪もあった・・・。今の光景からは到底信じられない・・・

odayuriko    宗尊親王には、飛鳥井雅経息の二条教定が仕えていて蹴鞠をしていた。教定はこの鞠ノ坪で蹴鞠をしていたのだ・・・と感慨! 教定の息飛鳥井雅有も少年期から宗尊親王に仕え、北条実時の娘と結婚している。それは実時が小侍所別当で教定と親しかったから。教定は親王の下で源氏物語絵屏風を奉行。

odayuriko    と、書けばキリがないので止めますが、当時、鎌倉にはこんなふうに武士文化一辺倒でない光景が繰り広げられていました。そこに『源氏物語』や『万葉集』など文学面での文化も築かれたのでした。

**************************************

写真は白峯神宮で行われた蹴鞠です。

|

2010.8.28 こういうのがあるんですね! 驚きのパワーポイント攻略本『超解 パワポたん』・・・副題「社会人までに身につけたいプレゼン力を磨け!」

012

017

パワーポイントはプレゼンテーション用の企画書やスライド編集をするソフトです。鎌倉での『源氏物語』の講演用に使っています。2008年に購入したとき、解説書も一緒に二冊買って、目下のところそれをみながらスライドの編集をはじめていました。当時のそれはまだパワーポイントは企業戦士のためのもの・・・みたいな、一種別格のような扱いがあったような感じです。

先日、たまたま書店に寄ったので何気なく新しい解説書でもみつかるかなあと、コンピューター関係の棚へ行ったら・・・、ん?、まさか・・・と、この本に目が釘付け。「パワポ」とあるからにはパワーポイントの本・・・・

手にとって中をみて、もう、楽しくなりました。表紙の絵をご覧になっておわかりのとおりの中身です。下の写真はStage3の扉。オレンジの「キミの心をわしづかみ」とある横長の紙は帯です。

内容は「社会人までに身につけたい」とあるように、大学生向け。理学部の男子学生向きです。今どきの大学生は、ゼミの発表にパワーポイントを使うんですね・・・、驚き!!です。しかも、大学で実際に講師もされている著者のコメントでも、「よく頑張っているなあといつも感心している」ほどの腕前。

対象が理大生というだけあって、中は企業戦士向けのと変わりありません。そこへ心理学者のアドバイスが入っているから、若者的にかなり感覚的・・・、それがいいんです。すっかり気に入って購入し、持って歩いてパラパラと読むでもなく、何かヒントを頂けるかなあ・・・とのんびり眺めているのですが・・・

写真の扉の絵はまあ可愛いし、無難だから撮ったのですが、中には電車のなかで隣の人に「この人、何読んでるの?」と勘繰られかねないような絵も・・・(そんなにきわどいというわけではないのですが、やはり人前では躊躇するような・・・)

家では仙覚の原稿の校正にかかっていて厳粛に過ごしていますから(笑)、この本、理大生と幼馴染の女の子と、理大生の妹が登場するストーリー仕立てで楽しいのですが、外でページをめくるときにうっかり油断できない・・・。イラストの方のコメントに、「後半のめくるめくBL攻勢に最も苦労」とあって、意味不明でしたので娘に聴いたら、「ボーイズラブのことよ」ですって。 こういうのが教則本なら、男子学生も腕があがるでしょうね!! と、感嘆しきり。何より、プレゼンは感覚的に人の心をつかめるかが勝負ですから・・・

正確にこの本をご紹介させていただきます。≪電撃PCシリーズ 魅惑の心理テクでキミの心をわしづかみ≫『超解 パワポたん ―社会人までに身につけたいプレゼン力を磨け!―』。枚田香・著、ひづき夜宵・画、アスキー・メディアワークス発行。他に、Windows7たん、Excelたん、ITパスポートたん、ググるたん、があるようです。

|

2010.8.26 湘南邸園文化祭のお知らせ・・・私の講演【鎌倉で河内本源氏物語ができるまで】は鎌倉地域の11月27日(土)です!!

005

028

019_2

湘南邸園文化祭をお知らせさせていただきます。写真の上二枚は文化祭全体のガイドブックで、表紙と鎌倉のページです。

湘南は、明治初期から、多くの政財界人・文化人らが別荘を設け、交流をはかったことで独自の文化が生み出された地域です。それらの別荘は、日本の歴史的建造物として緑豊かで閑静な環境も含め、湘南文化発祥の象徴です。そうした邸宅・庭園(邸園)を保全し活用することを目的として毎年行われる「湘南邸園文化祭」。(『湘南世代』7月号より)

私が講演させていただくのは、「その一環として、『鎌倉邸園文化クリエイション』による『源氏物語』文化へのいざない『紅葉賀(もみじのが)』」というプログラム内です。文化祭は鎌倉市の他に、小田原市・大磯町・茅ヶ崎市・葉山町・二宮町・平塚市・藤沢市・逗子市、で行われます。ガイドブックにはそれぞれの地域のプログラムが掲載されていて、鎌倉市は7ページと8ページ。二枚目の写真はその8ページです。私の講演は11月27日ですので、一番下に載っています。以下、詳細をお知らせさせていただきます。

*************************************

◆紅葉賀・鎌倉の『源氏物語』文化へのいざない(事前申込制)

昭和初期の風雅なお屋敷が、最近鎌倉投信の本社に甦りました。ここの華麗な紅葉をめでながら、鎌倉時代、鎌倉で「河内本源氏物語」が完成されたお話、野の花の活花、創作和菓子とお茶、薩摩琵琶「葵の上」演奏などその雅趣をお楽しみください。

講演: 織田百合子
     「鎌倉で『河内本源氏物語』ができるまで
         ―写真でたどる『源氏物語』の歴史―」
ティータイム: 『源氏物語』のイメージ創作和菓子とお茶でおくつろぎください。
薩摩琵琶弾き語り: 坂(ばん)麗水さん 演目「葵の上」他
活花: 宮内信江さん

日時: 11月27日(土) 13:30~16:30(開場13:00)
場所: 鎌倉投信邸 鎌倉駅東口から徒歩15分
             バス停「岐れ道」下車徒歩3分
定員: 40名(申込先着順)
参加費: 3,500円
申込み: 往復ハガキに、申込者全員の住所・氏名、年齢、電話番号を明記で、
      〒248-0024 鎌倉市稲村ケ崎 5-4-14 稲田様
      問合せ: 電話&FAX 0467-32-1650

主催: 鎌倉邸園文化クリエイション
後援: 鎌倉市

*************************************

写真三枚目は、『湘南世代』7月号の、当日のアーティストさんをご紹介したページです。下の23日記事の写真と見開きになっています。「ガイドブック及び『湘南世代』7月号」をご希望の方は私宛にメールにてご連絡ください。メールアドレスはAbout欄にあります。参加ご希望でなくても、ご覧になりたい方はどうぞ・・・

|

2010.8.23 古都鎌倉の源氏物語―「河内本源氏物語」に秘めた恋―・・・「湘南世代」7月号より転載

8

 『源氏物語』は紫式部が書きました。けれど、紫式部自身に手になる原本は残っていません。現在私たちが読むことができるのは、昔の人が書き残してくれた写本があるからです。二〇〇八年の源氏物語千年紀には多くの写本が発見されてニュースになりました。が、それらは皆別本系統の写本でした。それとは別にかつて二大写本と呼ばれていた写本があります。西の「青表紙本」と東の「河内本」です。西の京都に対して東の……、そう、「河内本源氏物語」は鎌倉で成立しました。

 「河内本源氏物語」は、源平の争乱で運命を狂わされて鎌倉に移住した源光行と、その子息親行によって作られました。『平家物語』に源大夫判官季貞として登場する平清盛の側近を叔父にもつほど、光行は平家一門に非常に近い暮らしのなかで育ちました。父光季が建礼門院徳子の安産祈願のために田楽奉納の神主代を勤めたとき、光行は多惑な十六歳。雲の上の女人徳子に興味と憧れをもったとして不思議はありません。

 『平家物語』には徳子が建久二年(一一九一)に亡くなったとありますが、角田文衛氏は『平家後抄』で貞応二年(一二二三)まで生きて、大原の寂光院をでて白河の善勝寺に住み、その後現在高台寺となっている鷲尾の地で晩年を過ごしたとされています。ひっそりと余生を送る徳子に、光行は娘を女房美濃局として仕えさせました。

徳子こそ『源氏物語』を地で生きた女性です。「河内本源氏物語」のなかに、光行の徳子に対する秘めた思いを嗅ぎ取るのはひとり私だけでしょうか。若いときに手の届かなかった高みの女性を、光行は生涯をかけて守り通そうとしたのではないかと私は思っています。時には徳子に『源氏物語』の講義をするなどして慰めたこともあったのではないでしょうか。徳子は有名なあの国宝「源氏物語絵巻」を所持したこともある人物です。

 徳子が亡くなったのは三月。その四月に『海道記』の作者が京都を出発して鎌倉に向かっています。『海道記』の作者が誰かわかっていませんが、光行とする説が最有力です。とすると、光行は徳子の死を看取って何か思うことがあり、鎌倉へ出立したとも考えられます。真実はすべて歴史の闇に埋もれていますが、残された事象と時間と空間を追うと意外なところに人の思いが浮かびあがります。光行が鎌倉に移住したのは二十九歳頃です。動乱の世に翻弄された運命のなかで、同じく翻弄されて悲劇の人となった徳子を遠く思いながら、光行が懸命にあの大変な校訂作業をつづけたと思うと、だからこその『源氏物語』なのだという思いに駆られてやみません。

|

2010.8.20 仙覚と『西本願寺本万葉集』について書いた論文の初校が届きました!

013

昨日、久々に編集経過の情報が手に入ったと思ったら、今日、初校が届きました。『尾州家河内本源氏物語』と同じ装丁の『西本願寺本万葉集』の成立を追って書いたものです。でも、中は大部分、「仙覚とは誰か・・・」に費やされています。

『西本願寺本万葉集』の底本になっている「文永3年本万葉集」を成した仙覚。『西本願寺本万葉集』は現在活字化されている『万葉集』そのものです。それを成した人物というのに、じつは誰か明らかになっていません。註釈などの詞書から「東の道の果てに産まれた」とあるだけで、あとは換算して比企の乱の年の産まれということがわかっています。

『源氏物語』写本を追って書いていて『西本願寺本万葉集』に巡り合いました。『尾州家河内本源氏物語』が北条実時の書写なら、『西本願寺本万葉集』もまた実時の制作だろうと思ってはじめた論考です。

が、はじめるに際して、『万葉集』についてはまったくの無知ですから、まず『万葉集』がどのようなものかを知るために本を読んだのです。そうしたら、こんな凄い人物というのに仙覚がいったい誰なのかわかっていない・・・、俄然、興味がこちらに移ってしまいました。

仙覚が鎌倉は比企ケ谷の新釈迦堂で『万葉集』の校訂を成し、埼玉県比企郡小川町で『万葉集註釈』を成したことから、仙覚は比企氏に縁のある人物だろうといわれてきました。が、そこまでで、「東の道の果て」というからには常陸の人だろう・・・とか、その程度でした。比企氏のゆかりなら、埼玉県比企郡と考えたほうが自然なのに・・・

私は比企氏系図から該当と思われる人物を探っていったのですが、これが壮大なスケールの放浪で、仙覚一人をとっても大河ドラマができますね!! 『源氏物語』の源光行・親行親子も同じ時代に生きていますし、それこそ、京都では『新古今和歌集』編纂真っ盛りの時代・・・、仙覚も京都にのぼって順徳帝に接したりしています。

面白いので早くこの原稿を皆様に読んでいただきたいのですが、ようやく初校が届いて、これからです!! 校正の期限は今月いっぱい。これからふたたび仙覚の世界に没入できると思うと楽しみです!!

不思議ですね。北条氏と将軍家の拮抗を探ろうとして読書していても眠くなるだけなので、読むのはその章を書くときにすればいいと決め、『忘れられた書物の歴史』の執筆を開始しようと机周りを全部整理したところでした。で、最初の章の源光行を書こうとしてかつての『紫文幻想』など読み返したりしたのですが、なんとなく気が乗らない・・・、困ったなと思っていたときに初校が届いて、「これだ!」と飛びつきました。郵便で送られてくるあいだ中、仙覚さんが「私がもうすぐ行きますよ」とテレパシーを送ってくださっていたかのようです。

|

2010.8.19 中国で、藤原紀香さんが楊貴妃に・・・凄い綺麗!!

ニフティ・トップ画面のニュースにこういうのがありました!! コピーしてお知らせさせていただきます。凄い!!ですね。この番組、待たれます・・・

**************************************

リンク: <a title="藤原紀香、楊貴妃に扮した艶姿!―中国 - 速報:@niftyニュース" href="http://news.nifty.com/cs/entame/phdetail/rcdc-20100819027/1.htm">藤原紀香、楊貴妃に扮した艶姿!―中国 - 速報:@niftyニュース</a>.

|

2010・8・18 ツイッターに呟く・・・近況報告みたいな感慨みたいな

022

ツイッターへの呟きをまとめて転載させていただきます。140字の断章・・・これが結構いろいろ甦らせてくれて発展するんですよね。長く書けるブログだと、一つのことを書いたらそれについて深く長々こだわってしまうけれど、140字で切れると、次に別のことが浮かんでくる…不思議な装置。メモ代わりに使うといいと思う。さきほど、一時間くらいのあいだに連投したものです。

**************************************

odayuriko    仙覚と西本願寺本万葉集の原稿を載せていただく論文集の久々の情報。他の方のも揃って編集に入ったとか。仙覚の見方は新しいものですとコメントをいただく。『忘れられた書物の歴史』はこの原稿が下敷になっているのだけれど、未発表で論を進めている。刊行はどっちが先になるのかなあと、変な状況。

odayuriko    別冊文芸春秋(平成4年創刊200号記念号)の陳舜臣氏「書かれざる歴史」をコピーして頂く。≪歴史は文献と等身大ではない。文献よりも歴史のほうがはるかに巨大であり、歴史をさぐるには、書斎で本ばかり読んでもつかみ切れない。≫を今私は抹殺された鎌倉の文化史でまさに実感していると思う。

odayuriko    陳氏のご文章にもあるが、学問の世界には文献派とフィールドワーク派がある。歴史学は文献派で、考古学はフィールドワーク派。私は遺跡の発掘をしていたのでフィールドワーク派。でもその頃中世史は網野善彦先生や石井進先生が牽引されて情報交換し合う活気に満ちていた。とても素敵な場で、私の原点。

odayuriko    網野善彦先生のお名前をだしたら懐かしさがこみあげた。網野史学の難しいことは私にはわからないが網野先生はとても素敵な方だった。シンポジウムの夜の懇親会で席がお隣になりお話させていただいた時、後で上司や仲間から「中世史の天皇のような人」と平気で会話するなんてと顰蹙を買ったのも想い出。

odayuriko    源氏物語は好きだったけどまさか研究の対象にするとは思わなかった。中世の遺跡を掘ったことで中世史に嵌まり、中世史といえば鎌倉・・・みたいに鎌倉が中心になった。そこにあった源氏物語の写本。え?という驚きで俄然興味を惹かれたのが最初。金沢文庫のものなのに歴史学者に文学は無縁だったよう。

**************************************

目下、『忘れられた書物の歴史』の抹殺された文化の時代背景のために、その時代に関する本を読書中です。でも、通史的文章って、私は苦手でしょっちゅう眠くなって、どんどんエネルギーまで低下するよう。いさんで図書館に行って借りてきて、二日間読書しているのですが、なんだか人生までつまらなくなって、書く意欲なんか消滅・・・みたいになってしまいました。このままいったらやばいなあ、といった気分です。

それで、覇気を取り戻すためにツイッターに呟くことにしたんです。それが上記の連投。気軽な雑感ですが、読書のどんどん眠くなるつまらなさと反対に、どことなくキラッと精神が冴えてくる・・・

私はやはり、自分で書いている方が似合うみたい。読むのはそこの箇所を書くときに、適宜調べていけばいいのであって、やはり、もう、書く態勢に戻ります!!

|

2010.8.17 ツイッターから可愛いニュース!! お気に入りのぬいぐるみが図書館で一泊・・・

ツイッターからの情報です。こどもたちがお気に入りのぬいぐるみを持って図書館で過ごしたあと、ぬいぐるみだけを置いて帰宅。ぬいぐるみは夜の図書館で自由に本を読んだり遊んだりして過ごす。朝になってこどもたちが迎えにきて一緒に帰る・・・という企画。

夜のぬいぐるみの図書館での写真が可愛い!! お布団をかぶせてもらって寝ているぬいぐるみ・・・なんて。

なんて素敵な企画!!

http://current.ndl.go.jp/node/16663

|

2010.8.16 『忘れられた書物の歴史』の目次を追加・・・昨日の記事の「経時と将軍家」のことで!

わかりました!

昨日、「抹殺された公家文化の遺産」という考え方から派生して、どうにも気になりはじめた執権経時と将軍家との関わりについて、思いついたままに雑感を記しました。どうそれを処理していいかわからない・・・、けれど何かとても重要な気がする・・・、という状態で、それを忘れないためにブログをメモ代わりに書き留めたのです。

その解決をみつけました。これは、『忘れられた書物の歴史』に書き込まなければいけない歴史背景だったんです。こういう闇の歴史があって、将軍家は帰洛させられ、『尾州家河内本源氏物語』『西本願寺本万葉集』が制作されたと思うと、取り残される結果になったのですから。

で、目次を増やしました。新しい目次をまた忘れないように書いておきます。

*************************************

【忘れられた書物の歴史 ―華麗なる鎌倉・知の遺産―】

目次
●はじめに
第一章 源光行の『源氏物語』研究
第二章 仙覚の『万葉集』研究
第三章 第四代将軍頼経の執権北条氏との対立
第四章 第六代将軍宗尊親王による二大古典写本の制作

**************************************

となります。また、それからこれは書くことになるかどうかわかりませんが、頼経の周囲で、父道家・頼経・頼経息頼嗣の三代が相次いで亡くなっているのを、奥富敬之先生は不審と捉えていられるようです。奥富先生は大河ドラマ「義経」の監修をされた方で、ドラマでは道家は刺客に殺されたことになっていたとか・・・。(曖昧ですが)

これは私も仙覚を探求していたときに、どうしてこんなに近い年月で三代が次々と亡くなっているの?と疑問を思えたところです。探る必要を感じて、早速地元の図書館に行き、『鎌倉北条氏の興亡』を借りてきました。

という状況で、国文学の写本の問題を追っていたはずなのに、突然転換して、鎌倉の隠れた歴史を書くことになってしましました。気分は、鎌倉! 今、頭はこのことで満杯です!

|

2010.8.15 抹殺された鎌倉の公家文化のことから、執権経時と将軍家のこと・・・

201

206

207

198

忘れそうなので書いておきます。

以前、『寺院揺曳』というエッセイを書きました。鎌倉時代にあって、今は廃寺となって遺跡の場所すら曖昧な邸宅風の寺院「佐々目遺身院」をめぐる探索の文章です。(HPに全21回をまとめてあります。http://www.odayuriko.com/

それは、第四代執権経時が亡くなって葬られた私的なお堂が発展して寺院となったものでした。そこに仁和寺から益性法親王が下向して住まわれ、仁和寺御流の伝授をされたのです。いわば、とても雅な、京都そのもののような空間が、鎌倉にあったのでした。

このエッセイも歌誌『月光』に連載させていただいたものです。きっかけは金沢文庫に「佐々目遺身院」というおよそ寺院らしくない名前の寺院の指図を見たこと。興味をもって今は亡き廃寺となったその寺院を訪ねて歴史を探った内容です。

将軍実朝が暗殺されると、北条氏は京都から将軍を呼び、北条氏みずからは執権という地位を築いて権力を握ります。将軍はまったくの傀儡でした。初代執権が時政。それから義時→泰時→経時→時頼、と続きます。

泰時は「御成敗式目」を制定するなど心正しい人格者として知られています。明恵上人との親交は有名です。経時はその泰時の孫です。泰時息時氏が早逝したために孫の経時が執権を継ぎました。次の時頼は経時の弟です。経時がやはり早逝し、子息たちが幼かったために時頼に執権職を譲ったとされています。佐々目遺身院をめぐって書いているなかで、これらの経緯に親しみました。

そのとき、よく、「北条氏は将軍家の権力が強くなるのを恐れた」という話を耳にしました。そのころの将軍は頼経。実朝の暗殺で下向させられたとき3歳だった頼経が成長して権力をもちはじめていました。そう、仙覚に『万葉集』の校訂を命じたあの頼経です。夫人は第二代将軍頼家の娘の竹御所。

この竹御所をめぐっては仙覚と『万葉集』について書いた一連の記事のなかで、妙本寺に関連して書いています。仙覚は竹御所の菩提を弔う新釈迦堂跡に住んで『万葉集』を校訂しました。

この竹御所ですが、妊娠して、出産のために入った産所で亡くなっています。出産のためというのですが、産まれたこどもが将軍の子ということは、成長したら正式の源家の血筋を引く将軍という途方もない血統の子ですから、北条氏はそれを恐れて殺したのではないかと憶測されています。執権泰時の時代です。

経時の代になって、頼経との関係が悪化。頼経は将軍を廃され、頼経息の頼嗣が第五代将軍になります。経時はこの頼嗣に妹の檜皮姫を正室とします。これにより北条氏は竹御所が亡くなって以来失われていた将軍家の外戚の地位を取り戻したのでした。

が・・・

そう、が・・・、なのです。檜皮姫は結婚して二年後に病床に伏して、加持祈祷も空しく亡くなってしまいます。竹御所と同じ構図がここに見え隠れしています。さらに、その前には経時も亡くなっていて、弟の時頼が執権になっていました。経時の亡くなり方も不審で、毒殺の憶測すらあります。檜皮姫が亡くなったのは時頼の代です。私にはこの竹御所と同じ構図というのがとても気にかかっています。

写真は醍醐寺塔頭の理性院です。経時息の頼助が院主を務めた寺院です。頼助は時頼が執権についたために出家させられ、仁和寺に入寺させられました。それで佐々目遺身院が鎌倉の仁和寺御流の拠点寺院となったのです。

経時の早逝は、おそらく檜皮姫を将軍家に嫁して将軍家と親密になったためでしょう。そして、将軍家の血筋を産むことを恐れた北条氏によって檜皮姫も闇に葬られ、正統の執権継承者である頼助は出家させられて・・・

と、『寺院揺曳』執筆当時にはまだここまで見えてませんでしたが、仙覚の件で竹御所を知り、また今度は抹殺された公家文化でこのことが甦って、こういうことだったのだ・・・との思いに駆られています。

まだ年代の詳細な検討をしていませんが、頼経が仙覚に『万葉集』の校訂を命じ、仙覚が新釈迦堂でそれをしていたころ→宮騒動で頼経が京都に送り返される・・・のあたりにこういう背景があったのだ・・・という思いに捉われています。

私自身まだ思いついたばかりの背景で、ざっと年譜をたどって確認したばかり。これがどういうふうに私の書こうとしている原稿にかかわってくるかはまだ未知の世界です。雑然として整理つかないままで済みません。

追記:『寺院揺曳』も、最初は佐々目遺身院や頼助を追って書いていたのが、途中からテーマが変わって、冷泉為相が称名寺を訊ねた話になってしまっています。面白いから移行したわけですが、頼助をもっと追究したかった中途半端な気分が残っていました。結局、この北条氏と将軍家の対立問題が私にはまだわかっていなかったから書けなかったのですね。『寺院揺曳』も、後半を書きなおせば一冊として屹立するのでしょう。

|

2010.8.14 これから上梓する予定の『忘れられた書物の歴史―華麗なる鎌倉・知の遺産―』・・・その「目次」と「はじめに」を書きました!!

【忘れられた書物の歴史  ―華麗なる鎌倉・知の遺産―】

◆目次◆
●はじめに
第一章 源光行・親行親子の『源氏物語』研究
第二章 仙覚の『万葉集』研究
第三章 『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』の成立

●はじめに
書物というのは、それ自体光りかがやく知の遺産を有していながら、みずからの意志を放つ有機的原動力をもちあわせていないので、人が、誰かが、手にし、開いて、目を通し、価値を認めて、伝える、あるいは広める、そういう行為を経ないと、どんなに素晴らしい内容の存在であっても、忘れられ、時間に埋もれたまま、薄埃をかぶって、朽ちて、失われていってしまいます。

あまり知られていませんが、『源氏物語』は現在この世に紫式部が書いた原本は存在しません。それでも読むことができるのは、累々と書き継がれてきた写本があるからです。印刷技術のない時代、書物は書写する人々の手になる写本によって広まりました。鎌倉時代初頭にはもう紫式部の原文はわからなくなっていたらしく、そこからいわゆる注釈などの源氏物語研究や、書写・校訂が活発になり、多くの写本がつくられていきます。

ですからそこには当然書き落としや写し違いなどのミスが生じ、また、読み違いからくる文章の変化・変遷、さらには書写する人の意志や思惑まで入っての訂正・変革、省略や加筆までが加わって、幾通りもの本文ができてしまいました。

私自身容易に信じ難いことでしたが、それぞれの冊子で文章が違うというおかしな事実が、世界に誇る古典として親しみ、何の疑いもなく読みふけっていた、『源氏物語』というテキストの裏側にあったのです。同じひとつの作品でありながら、異なる文章の『源氏物語』がこの世のなかに存在していたのでした。

現在残されている『源氏物語』の写本には、大きく分けて三つの系統があるといいます。京都で成立した藤原定家校訂の「青表紙本」と、鎌倉で成立した源光行・親行親子校訂による「河内本」と、それ以外の別本とです。呼称の由来は、「青表紙本」は定家校訂の写本の表紙が青かったことから、「河内本」は光行・親行親子がともに河内守だったことからだそうです。

鎌倉時代から室町時代中期に至るまで、『源氏物語』は河内本系統が主流でした。室町中期以降、定家の歌人としての評価があがるとともに、青表紙本系統にその座をとって替わられ、以後、河内本系統の写本は影をひそめていきます。江戸時代には名のみで実態を知る人はいなかったようです。

「河内本源氏物語」の発見は、大正十年(一九二一)、山脇毅氏によって成されました。その後、河内本系統でもっとも由緒正しい写本とされる『尾州家河内本源氏物語』の所在が確認されたのが昭和五年(一九三〇)。これを山岸徳平氏が調査され、『尾州家河内本源氏物語開題』として刊行されたのが昭和十年(一九三五)です。そして、昭和二十年代に池田亀鑑氏の『源氏物語大成』が刊行され、河内本系統の本文についての詳細な研究も載せられました。

河内本系統の『源氏物語』が発見されたとき、国文学の世界では一時的に熱狂が湧き起こったそうです。というのも、河内本さえみつかれば、不明だった紫式部自身の手になる原文がわかるかもしれないという密かな望みがそこに託されていたからです。が、河内本も光行・親行親子による校訂の手が入っていることがわかると、急速にその熱は冷めていきました。

そして現代、活字化され印刷されて一般に流布しているのが青表紙本系統であるために、青表紙本系統の本文だけが爆発的に広がり、今ではすっかり河内本系統の本文に注意を払う人がいなくなってしまいました。国文学の世界でも研究の対象とする人がいないのが現実です。

おそらく、もう絶対に、河内本系統の本文がかつてのように青表紙本系統と並んで一世を風靡することはないでしょう。ですけれど、「河内本源氏物語」の校訂に光行はほぼその生涯をかけていますし、それでも終わらずに子息の親行が引き継いで、それからまた二十年の歳月を費やして五十四帖のすべてを完成させています。

何故、光行はそれほどまでにして『源氏物語』にこだわったのでしょう。何故、光行はそれほどまでの情熱を、『源氏物語』の校訂という大変な作業に降りそそぐことができたのでしょう。親行は父親の何を見てそれを継承したのでしょう。歳月の長さがたんに地位や栄誉を目指してのそれでなかったことを証明しています。

いったいに書物が忘れ去られるということは、その書物が抱える文化、その書物を内包する時代の真実が忘れ去られていくことにほかなりません。光行の「河内本源氏物語」の価値が見失われようとしている今、それに付随してどういうことが忘れ去られようとしているのでしょうか。そして、それは果たして、ほんとうに忘れ去ってしまっていいものなのでしょうか。書物を見失うことで現代の私たちがその時代のほんとうの姿を見失っているということはないでしょうか。見誤ったり、知らずに終わるということがないでしょうか。

かつて鎌倉には『尾州家河内本源氏物語』『西本願寺本万葉集』という、二大古典の素晴らしい写本を制作し、今に残した華麗な文化がありました。

数ある写本のなかでも、『尾州家河内本源氏物語』は、先に述べた源光行・親行親子校訂の「河内本源氏物語」本文を由緒正しく伝えている意味で重要、『西本願寺本万葉集』は「現存する万葉集古写本中、全巻を完備する最古の写本」であり、「万葉集全二十巻約四千五百首を完全に収め」ていることで重要、という大変貴重なものです。

が、これほどの文化財でありながら、じつは鎌倉で成立したことはほとんど知られていません。『尾州家河内本源氏物語』は現在名古屋市にある徳川美術館併設の蓬左文庫に所蔵され、『西本願寺本万葉集』はお茶の水図書館に所蔵されていますが、かつては西本願寺の所有でした。どこにも鎌倉の影がないので忘れられてしまったようですが、この二つの写本は、制作されたあと北条実時創建の金沢文庫に収められ、鎌倉の滅亡時に流出して足利将軍家にわたり、それから『尾州家河内本源氏物語』は徳川家に、『西本願寺本万葉集』は西本願寺にわたったのです。

よく鎌倉は武士の都といいますが、鎌倉に武士文化しかなかったのは、将軍実朝の時代までです。それでも実朝は必死に都の文化を摂取しようと努めましたが、御家人たちの理解を得られずその距離を埋めることができませんでした。

第四代将軍頼経の時代になると状況が一変します。幼い頼経の鎌倉下向に際して、父親である九条道家は、京の文化の精髄ともいった「慈光寺経」など数々の宝物をもたせて送りだしましたし、成長してからも物的のみならず、人的にも、援助を惜しみませんでした。公家や女房たちも多く下向し、頼経に仕えていますから、おそらく御所は小京都といった趣だったでしょう。その頼経により、最初は親行が、次に仙覚が『万葉集』の校訂を命じられ、結果としてそれが『西本願寺本万葉集』に結実します。

さらに第六代宗尊親王になると、後嵯峨天皇の皇子という親王将軍ですから、下向に際して持参された宝物の華々しさは頼経の比でなく、かの有名な国宝「源氏物語絵巻」もあった可能性さえ窺われます。みずからを虎と称するほど帝王学を修めた親王により、御所はさながら文学サロンの活況を呈し、鎌倉歌壇なるものも生まれました。そしてまた生い立ちからして自他ともにみずからを光源氏と自負する親王は、『源氏物語』をとりわけ愛し、御所に熱狂的環境をつくりだします。この宗尊親王によって『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』は制作されました。

つまり、『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』がつくりだされたということは、たんに立派な写本が制作されただけでなく、そこにそういう写本がつくりだされる文化があったということなのです。親行が「河内本源氏物語」を完成させたのはまさにこの宗尊親王の時代でしたし、仙覚が『西本願寺本万葉集』の底本となる「文永本万葉集」を完成させたのもしかりです。

これらのことは、国文学の世界でも、歴史学の世界でも、学問の世界では周知の事実です。なのに、何故、一般の人はそれを知らされてこなかったのでしょう。知られていたら、鎌倉の人が、もっと広げて東国の人が、「『源氏物語』は所詮京都の文化で、京都の人たちのもの」と、例えば二〇〇八年の源氏物語千年紀のときのように、『源氏物語』の完成を祝う京都の華やぎを、他人事のように遠くみているだけではいられなかったと思います。せめて、鎌倉の源氏物語をテーマにしたシンポジウムを開くなどして欲しかったと、私は今でも残念に思っています。

どうしてこのようなことがというと、それはまったく死角になっていたからとしかいいようがないのですが、国文学の世界において、鎌倉は東国だから、そんなところで生じた源氏物語文化を研究する必要がない……。歴史学の世界において、『源氏物語』や『万葉集』は政治とは無縁の文化の問題だから関心がない……。というわけで、まず学問の側からの発信が皆無だったことが原因のひとつにあります。

が、それとはべつに、ここにはもともと出自を隠して生きなければならなかった人の世の事情がありました。「河内本源氏物語」の光行、『万葉集』の仙覚。奇しくもこの二人は争乱によって運命を狂わされ、そのために出自を明らかにすることができなくなってしまったのです。それが漠然とした闇となって、後世の今になっても、私たちの真実をみる目を蔽い、光行が平家と繋がりがあったことも、仙覚とはいったい誰なのかも、曖昧にしているのです。

従来、『尾州家河内本源氏物語』は『源氏物語』専門の学者さんが、『西本願寺本万葉集』は『万葉集』専門の学者さんがそれぞれ携わられていて、両方が一緒に研究されることはありませんでした。が、この二写本は表紙が同じ藍色の料紙でほぼ同じサイズ、という同一の装丁で仕上げられています。自然に考えてこれは同じ制作者によるものとみていいでしょう。それが宗尊親王だったわけですが、このことについてもこれまで研究はなされてきませんでした。が、この度、『源氏物語』について光行を、『万葉集』について仙覚を考察したとき、思いがけずそこにひとつの共通点が浮かびあがりました。それが、出自の隠蔽でした。

『源氏物語』を校訂した源光行は、『平家物語』に「源判官大夫季貞」として度々登場する清盛の側近を叔父にもつほど、平家一門に密接して仕える家系の出身です。何故光行が鎌倉に下向したのかも問題にされることなくきていますが、そもそもそれは源平の争乱で平氏が敗れたために運命を狂わされたからなのです。

光行の『源氏物語』の校訂には、王朝文化の再来と謳われた平家一門の方々を追悼する意が込められています。ただ、平家の方々が朝敵となってしまったために、それを公言するのははばかられ、ひたすら黙々と作業に没頭するしかなかったのです。そのことの意味を間違えると、光行がただ学問のために、身分の低い役人が権威の箔をつけるためにだけしたような誤った解釈になってしまいます。

源平の争乱からはじまって承久の乱にも翻弄された光行の人生は、ひとつの壮大な絵巻です。それら動乱に、ときには命を危うくされながらも、光行は『源氏物語』の校訂を止めませんでした。それは、それをしていると、親しかった平家一門の人々と過ごした日々が甦るから。麗しい文化のなかでの美しい人間関係が甦って心満たされるから……。光行にとって、『源氏物語』の世界こそが過酷な現実にとって代わる真実でした。だからこそ、何があっても、つづけてきたのです。

仙覚は比企一族の人です。比企の乱の年の生まれで、母親の胎内にあった彼は母親が逃げ延びた埼玉県比企郡で生まれ、土地の真言宗寺院岩殿観音に入れられて育ちます。そこで学んだ悉曇の語学力が万葉集の解読に役立つという不思議な巡り合わせをします。

比企の乱は第二代将軍頼家の舅比企能員に、外戚としての地位を奪われるのを恐れた北条氏によって比企一族が滅ぼされた鎌倉の内乱です。一族のゆかりというだけで命を奪われる危険のなか、北条氏の世がつづくかぎり、仙覚はその出自を隠して生きるしかありませんでした。そういう境遇のなか、『万葉集』という膨大な作業に埋没しているあいだはそれらを忘れることもできるし、どんなにか楽しかったことでしょう。『万葉集』によって彼は救われたのです。

承久の乱は武士が朝廷を破って天下をとった乱ですが、皮肉なことに、その承久の乱が鎌倉に公家文化の隆盛をもたらしました。第三代将軍実朝が暗殺されたのを機に、後鳥羽院が起こしたのが承久の乱です。源家の血筋が絶えた鎌倉では、第四代将軍として九条家から道家息の頼経を迎えます。その頼経の下向にともなって京の文化が流入したのは先に述べました。そして、宗尊親王の時代になって最盛期を迎え、『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』が制作されます。

けれど、公家文化の盛況を将軍権力の台頭とみて危ぶむ北条氏によって、宗尊親王は突然更迭され、帰洛させられます。残された二つの写本はひっそりと金沢文庫に収められるのですが、このとき、写本と同時に鎌倉における公家文化も表舞台から姿を消しました。以後、鎌倉は、禅宗を取り入れた武士文化一色の都と化し、そのイメージが今日に引き継がれています。

鎌倉は単純な武士の都ではありませんでした。頼朝による武士の都と、北条時頼以降の武士の都のあいだには、摂家将軍・親王将軍による公家文化共存の時代がありました。
『尾州家河内本源氏物語』『西本願寺本万葉集』という二大古典の写本の存在を鎌倉に知り、何故これらに茫漠とした闇を感じるのか不可解が募り、探っていって、たどりついたのがこの本の世界です。

|

2010.8.14 ツイッターに呟く・・・「抹殺された公家文化の遺産―『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』のこと―」

014

@odayuriko  歌誌『月光』に「抹殺された公家文化の遺産―『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』のこと―」(8枚)を送る。これは今まで誰も書かなかった鎌倉の新しい歴史。私もつい先月末頃見えてきた世界。鎌倉には頼朝による武士の都と、時頼以降の武士の都のあいだに、公家文化台頭の時代があった。

@odayuriko  連投します。鎌倉の公家文化台頭は摂家将軍頼経・親王将軍宗尊親王による。頼経が鎌倉で仙覚に『万葉集』の校訂を命じ、宗尊親王が『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』を制作した。いわば二つの写本はそれら公家文化の遺産。今日まで語られてこなかったのは公家文化が抹殺されていたから。

@odayuriko  抹殺されたというのは、北条氏にとって将軍が権力をもつことは、執権の権力失墜を意味する。その為に、頼経も宗尊親王も、成長すると突然更迭され、帰洛させられた。そうして北条氏は執権の地位を守ったのが今日ある歴史。公家文化は闇に包まれ、その時代を証言する写本も成立経緯が忘れ去られていた。

@odayuriko  『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』が同じ藍色料紙の表紙でサイズも同じ特殊な大型という装丁でなかったら、この闇は晴れなかった。『源氏物語』と『万葉集』が一緒に研究されることはなかったから。同じ装丁だから、同じ制作者によると考えることができ、宗尊親王制作説にゆきついた。

@odayuriko  『尾州家河内本源氏物語』成立までの経緯は、建長7年源親行「河内本源氏物語」完成→正嘉2年北条実時がそれを書写→文永2年頃宗尊親王による制作・・・となる。従来奥書から実時の「正嘉2年本」=『尾州家河内本源氏物語』といわれてきたが、『西本願寺本万葉集』との照合で整合性つかなくなった。

@odayuriko  新しい視野が開けると、自分でも信じられない思いで最初に書く文章はおずおずと遠慮がちにしか書けない。それが書いていくなかで確信に変わり、文章にも自信がついてくる。『月光』誌原稿でそれを思った。それでもまだ誰にも認められていない産まれたばかりの新説。でも私の中では確信。そのギャップ。

***************************************

『尾州家河内本源氏物語』、「河内本源氏物語」を探っていて見えてきた鎌倉の公家文化の歴史を、ツイッターに呟きました。『源氏物語』を追っているとばかり思っていたので、この展開は自分でも意外です。でも、『源氏物語』の鎌倉での歴史を書いていて、どうしても最後の「結」のところの収集がつかない・・・、それで原稿が滞っていたのですが、こんなところに原因があったんです。

つまり、従来いわれてきたような『源氏物語』写本の歴史では、整合性がつかなかったということ。鎌倉の隠された闇の歴史に写本は成立していて、歴史自体が明らかにされないかぎり、鎌倉の『源氏物語』の歴史は決着をつけることができませんでした。

最初は半信半疑、こんなこと書いていいのだろうか・・・、という自分のなかでも不安な状況。でも、年譜をつくって、事象を照合して、さらに『吾妻鏡』からの歴史を挿入すると、絶対そうでしかないという当時のようすが浮かび上がる・・・。そんなことを書いて、今回〆切の歌誌『月光』に送りました。「花の蹴鞠」はパスして・・・

ツイッターは140字ですから、一回では到底収まりません。でも、そこがいいんですよね。ポイントポイントで簡潔にまとめられて。ブログとツイッターを両立する時間がありませんので、今回はツイッターを先にし、ブログに転載する形でご紹介させていただきます。@odayurikoが私のアカウントです。

友人からは、「随分物騒なタイトルにしたのね・・・」と。ある方からは「写本の問題が文学的想念を刺激する珍しい例」とコメントをいただきました。ありがとうございました。

写真は今年2月の早朝に雪が降った日の称名寺庭園。雪景色を撮りたかったのですが、着いたときにはもう融けてしまっていました。もちろん、称名寺は記事に書いた「正嘉2年本」書写の北条実時創建の寺院です。

|

2010.8.11 灼熱色の朝焼け・夕焼けや虹などの現象とM7規模地震の関係・・・

以下は、最近の、気象庁発表の世界で発生したM7規模の地震のすべてです。

8月10日14時24分頃 南太平洋 M7.5
8月5日7時2分頃 ニューギニア付近 M7.0
7月24日8時15分頃 フィリピン付近 M7.2
7月24日7時51分頃 フィリピン付近 M7.3
7月24日7時8分頃 フィリピン付近 M7.1

そして、これらの地震の数日くらい前には決まって灼熱色の朝焼けか夕焼けや、虹・光芒などを撮っています。以下、順に対応させていってみます。写真はすべて再掲になりますが、新しい順に昨日10日の南太平洋M7.5から・・・

●8月8日の朝焼けと虹 → 8月10日14時24分頃 南太平洋 M7.520100808_2

20100808a_2

7月29日の夕焼け → 8月5日7時2分頃 ニューギニア付近 M7.0
20100729mitaka_2

20100729mitakaa

●7月20日の夕焼け → 7月24日8時15分頃 フィリピン付近 M7.2・M7.3・M7.1
20100720a_2

20100720_2

20100720b

ご覧のように、強烈な空の観測されたあと、数日前後のスパンでM7規模の地震は発生します。ほぼこれは経験則ではずれたことは皆無といっていいと思います。8月8日の朝焼けは異常なくらいにまがまがしい強烈さでしたし、虹まで出ましたから、M7といってもM7.5くらいにはなるだろうと思っていました。そして、フィリピン付近の3連発ですが、私が撮ったのはこの日だけですが、投稿サイトでは連日同様の画像が載せられていました。今思うと3回分だったのでしょう。まさかこの規模が3回もつづくとは思いませんから、こんなに連日の焼けだと相当な規模になるのでは?と危惧していました。

M7規模の地震があるとわかっても、世界のどこかというのでは警戒のしようがなく、どうしたらいいのか実際には困っています。国内だったらそれ相応の前兆雲が観られているはずですので、それに関しては安心しつつ・・・。わたしのなかのイメージでは、「地球内部の岩盤破壊などで多量の電磁波が発生して世界を駆け巡る→朝焼け夕焼けや虹などの異常なあるいは強烈な空→数日前後で地震が発生」です。地球は単一で存在しているわけではありませんから、地球の呼吸のような電磁波が大気に及んでおのずと空に影響したとして不思議はないと思っています。

でも、これはあくまでも当地のような内陸でのことです。しょちゅう仕事で伊豆に行っている甥の話では夕焼けなんて頻繁で驚かないとのこと。また、ハワイでも同様ですし、虹の頻度も高いですよね。内陸ではない、大陸移動のまだ続いている地盤の地域だから・・・という違いでしょう。雲の観測も地域によってさまざまな性質があるような気がしています。

追記:8月14日朝
異常なことにその後も二件、M7規模の地震が起きました。上の記事を書いたあと、原稿に集中したためにまた夜型生活に戻り、朝の空を見ていません。が、周囲から連日「朝焼けしてた」の話を聞き、?・・・、と思っていました。まさかそんなに頻繁にM7規模が発生するはずありませんから、台風接近で空の撹乱?と思っていましたが・・・

8月14日06時20分頃 グアム付近 M7.2
8月12日20時54分頃 南米西部 M7.2

と、これがその二件です。それにしてもM7規模がこんなに多発するのは異常です。

|

2010.8.10 この頃思う事・・・カフカの「橋」から、『紫文幻想』改め『忘れられた書物の歴史』へ

063

連日の猛暑でしたが、八月に入るとすぐ、ん?・・・、これは、と涼やかな気配。陽射しに変わりはないのにどことなく風が涼しいのです。まさに「秋きぬと目にはさやかに見えねども」の今日この頃です。

あまりの猛暑と多忙でしなければならない事すらも何をしていいのかわからないくらいに頭がぼうっとしているなか、そういうときって、案外、原初の自分をみなおしているんですよね。目の前にある多忙さのひとつひとつの輪郭がとろけている分、自分のなかでは何かしなければ・・・と必死になっているから。

それで、この頃思うことのひとつにカフカの「橋」という短編があります。これは以前、清水昶先生の現代詩塾で、「文章の練習にはカフカの短編を読むのがいい。特に「橋」を」と教えていただいて知りました。ほんとうに短い短編ですが、なんと、女性のように思える主人公がじつは橋なんです。橋の目線で文章がつづられているといったわけ。

小説の内容それ自体よりも、この書き方に凄いインパクトを受けました。清水先生のカフカご推薦の意味はそうでなく、カフカの短い文章には、数学でいえば1+1=2のような非常に正確な簡潔さがあるから・・・ということでしたが。

私の実質的文章修行は現代詩の荒川洋治先生からはじまります。たんに文学好きのカルチャー夫人的な、もうほんとのはじめての文学体験でしたから、荒川先生には大変ご苦労をおかけしました。荒川氏に学んだのは「意識の殻を破れ」ということでした。でも、そうはいわれてもそれがそんなに簡単にできるわけありませんよね。

それで悩んで次に行ったのが清水昶先生の詩塾でした。たぶん、そこではじめて「いい文章」の実質を教えていただいたと思います。例えば、太宰治の「満願」について。これも非常に短い掌編なのですが、夫が病気で夜の生活を禁止されていた若い奥さん。それが病気が癒えて、医師から、「今夜からいいですよ」と告げられいそいそと帰る道筋、嬉しくてさしていた日傘をくるくると回しながら行く・・・みたいな内容でした。「いいよねえ、これ・・・」って、清水先生はいつものお酒のはいったとろんとした口調でご推奨されました。

そういうなかで、先生は、太宰の文章は「ある文章の続きに、突然、まったくべつの関係のない文章が、段落も区切りもなく続けられる。読者はそれに驚きながら否応なく文章に引きずられてしまう」のようなことをおっしゃるのです。これは、当時の私に響きました。なぜなら、理路整然とした文章がいい文章とばかり思っていましたから・・・

その後、平岡頼篤先生の小説作法のカルチャーに通うようになり、ここで徹底的に荒川先生の「意識の殻を破る」と「いい文章の実質」を鍛錬させていただきました。平岡先生の講義も同じで、先生はヌーボー・ロマン研究の日本における旗手でいられながら、カルチャーでは『檸檬』とか『伊豆の踊子』のようなものを中心にとりあげてご講義なさるんです。そこでも、「ベンチにかけている主人公の足元にカラカラと風に舞った新聞紙が飛んでくる、その描写があることがこの小説を生かしている」のような、「いい文章とは・・・」を徹底的に教えていただきました。

その平岡先生の教室で『リエーブル』という同人誌を創刊、発行したのですが、そこに私は「相聞・・・」という短編を載せました。それは、雪に閉ざされた旅路で、ゆきずりの恋をしたまま名も明かさずに別れた父と娘ほども年齢の違う二人が、互いに相手を思い続けて男は学者に、女は歌人になる。学者は書物に女性の面影を残し、女性は歌に学者への思いを託しつづけ、そうして二人は世を去った。その後、学者の業績と女性の歌の出逢いがあって、それを叶えたのが女性の残した「歌」の思いだった。「歌」は自分にとって父と母である書物と書物の再会を果たして念願を叶え、最後にこう呟きます。「私は歌です」と。

これはもう完全にカフカの「橋」の踏襲です。生まれてはじめて書いた小説みたいな作品ですから、許してくださいね。でも、このとき、カフカの「橋」を意識したわけでないのに自然に湧いて出来上がったのがこの作品。清水先生の教えが如何にインパクトあったかですよね。

その後、早稲田文学新人賞をいただいて、第二作が書けなくて文学に挫折した私を救ってくださったのが、審査員でいらした福島泰樹先生です。作歌の予定はありませんでしたが、月光の会に参加させていただいていることで「歌」に親しみ、歌会の雰囲気を知ったり、塚本邦雄先生の『新古今和歌集』論を拝読したりして中世の歌壇事情に目覚め、今は「花の蹴鞠」を書くまでに至っています。

と、長々過去をつづってきましたが、こういうことのすべてがあって今があるのだなあという感慨がここのところ深いんです。というのが、鎌倉でできた『源氏物語』ということで、ここ数年、『尾州家河内本源氏物語』(「河内本源氏物語」)にこだわって調査しています。

今までは、何故、鎌倉の人は、自分たちにこんな素晴らしい文化遺産があるのに気付かず、誇りとしないのだろう・・・に怒って(ほんとうに怒ってます!)、それを広く知っていただくために、源光行の生涯を追って「鎌倉で『河内本源氏物語』ができるまで」を一冊にまとめる予定でした。このブログにも頻繁に書いていますが、『紫文幻想』というタイトルで。

が、どう力んでも、最後の最後のところにくるといつも躓いて、作品が完成しないんです。せっかくなら源氏物語千年紀の2008年に上梓しようと頑張ってもダメでした。光行の研究を引き継いだ子息の親行が建長七年に「河内本源氏物語」を完成させ、その三年後の正嘉二年に北条実時が書写したのが『尾州家河内本源氏物語』、と起承転結はもう歴史の経緯でついているからそれを書けばいいだけのはずなのに。

最近、やっとその意味がわかったのです。正しいと思っていた起承転結の「結」が正しくなかったのです。正確には、実時が書写した正嘉二年本はすでに失われていて、『尾州家河内本源氏物語』に残っていた「正嘉二年実時書写」の奥書は、『尾州家河内本源氏物語』の制作の際に「正嘉二年本」の奥書をそのまま書写したものということがわかったからです。

つまり、『尾州家河内本源氏物語』は北条実時の書写ではなく、時の将軍、宗尊親王の下命によるものだったんです。これは、『尾州家河内本源氏物語』と同じ装丁の『西本願寺本万葉集』を調べていってわかりました。宗尊親王はこの二つの写本を制作し、完成直前に将軍家の権力を恐れる北条氏によって更迭、帰洛させられました。残されたのが、『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』という二大写本です。

つまり、(と、しつこいようですが)、二つの写本は、摂家将軍第四代頼経・親王将軍第六代宗尊親王といった二人の将軍が、京都から公家文化を導入、鎌倉で華やかな公家文化を台頭させた時代の産物。そういう華麗な時代が鎌倉にあったことを証明する知的遺産だったということ。知的遺産は決して突然変異的に何も土壌がないところに出現しないんです。ということは、『尾州家河内本源氏物語』『西本願寺本万葉集』にも、そういう出現するべき土壌があり、機運が満ちていたということ。それが宗尊親王の文学サロンでした。つまり、(と、またまたしつこく)、背景が消されていたというのが歴史の事実だったんのです。

つい先週、これに気がついて、『尾州家河内本源氏物語』『西本願寺本万葉集』は「抹殺された公家文化の時代の遺産」だったのだ・・・と、歴史背景に愕然としつつ考えて、『紫文幻想』をやめて、新たに『忘れられた書物の歴史』と題して書きはじめようと思っています。

そんなことをずっと反芻するなかで、これって、また、カフカの「橋」の影響?という思いが甦りました。『尾州家河内本源氏物語』『西本願寺本万葉集』という二つの書物が、おのずと、みずからの出生の秘密を明かしてくれたんです。書物が語る歴史なんだなあという感慨に目下捉われていて、それでこのことを記しておきたくなりました。

それにしても、結局私は「書物」が好きなんですね・・・。「本」より何より「書物」・・・です!マラルメの「理想の書物」からはじまっているのですが、これを書き始めるとまた長くなるので終わりにします。

|

2010.8.8 今朝は豪奢な黄金色の朝焼け!!・・・綺麗な虹まででていました

063

079

097

106_2

113

145

虹は最初、南西と北西の両側に株虹として出現していました。その後、南西の虹の外側に薄く副虹ができて二重に・・・。それからどんどん延びて北西の虹に届きそうになったのですが、あと少しというところで届かなくて完全なアーチにまでなりませんでした。でも、綺麗でした!!

虹は、出るかも・・・と思って見ていると割と高い確率ででます。朝焼けの空は東ですが、虹がでているかなあと思って西を注意して見ていたら、やはりありました。そうして見ていると、最初は小さな株虹だったのが延びてアーチになって・・・とか、最初は右側の方がくっきりしていたのに、左側も色が濃くなって・・・とか、繋がるのを待っているうちに反対側が消えはじめて・・・とか、いろいろ楽しめます。

|

2010.8.5 昨日、NASAが「オーロラが見える可能性」と発表して・・・日本ではダメでしたが、神秘的なラトビアのyoutubeを!!

昨日、ツイッターで話題になっていたのですが、NASAが「太陽風の南磁場が強く」なる影響で日本でもオーロラの見える可能性があると発表しました。なんでも太陽フレアの関係とか・・・。が、しばらくするとその太陽フレアが予想外に早く治まってしまったので、オーロラの可能性は取り消されました。継続していたら、私もここでお知らせするところだったのですが・・・

でも、念のために、夜、NASAが発表した「北の空」を眺めに見通しのいい場所へ行きました。結局オーロラは見られませんでしたが、代わりに大きく北斗七星が見えて、久々の星空を堪能しました。昨夜は雲がありませんでしたので。

でも、世界的にはやはりオーロラは観測されたようですね。「欧州のラトビア(北緯57度付近)で黄色いオーロラが発生」した映像をyoutubeで見られます。転載させていただきます。神秘的です!!

http://www.youtube.com/watch?v=eW9uEwtWUs0&feature=player_embedded

|

2010.8.3 ツイッターから・・・生田斗真さんが光源氏を演じる映画【源氏物語】の話題から、角川歴彦氏『クラウド時代と<クール革命>』へ・・・

219

朝からツイッターで、生田斗真さんが光源氏役の角川映画『源氏物語』(監督・鶴橋康夫、来年公開)の話題で盛り上がっています。昨日、制作発表されたとか・・・

生田斗真さんは春に公開された映画『人間失格』で主役をされてます。その撮影中から、角川歴彦会長が、「生田斗真で源氏物語をやりたい」と言い続けていられたそうです。う~ん、それほどの人を魅惑した生田斗真さん・・・、これは『人間失格』を観なくては!! って思ってしまいました。(で、上映されていないかネットで調べたのですが、大阪の1館のみ。とっくに終了してて、たしか今日明日あたりDVDが発売されるんですよね・・・)

角川歴彦氏は、源氏物語について、「語り尽くせない魅力はどこからくるのか。映画にかかわるようになってから私の興味はいつもそこにあった」といわれます。CGも駆使し、アクションとファンタジーロマンを融合させた超大作エンターテインメントを目指すそうです。

これほどの人・・・とあえて書かせていただいた角川歴彦会長に、じつは私は映画『源氏物語』の話題以上に関心をもったんです。というのも、春に『クラウド時代と<クール革命>』というご著書を拝読していて、内容を全部把握したとは到底いえない読者ですが、この方の姿勢・未来への透視力にすっかり感銘を受けてました。

「大衆と時代は何処へ向かうのか? iPad、キンドルで時代は激変する!」のキャッチコピーのこのご著書に強い関心をもって、発売と同時にアマゾンに予約したのですが入荷待ち。一ヶ月くらい待って入手して拝読させていただいた、非常に啓蒙的なご本です。

というのも、たぶん、当時の私と同じに、今、ここで、この「クラウド」とか「クール革命」とかいって、ピンとくる方はあまりいらっしゃらないと思います。iPad、キンドルは、最近発売されてやっと世間一般に認識されましたが・・・

その前に「クラウド革命の時代がくる」みたいなことをどこかでインプットされて、「何だろう、知りたい」と希求していたところへのこのご著書の発売。すわ、とばかりに飛びついたのですが、私と似たような方がたくさんいらしての予約待ちでした(笑) 私は地震予知目的で雲の写真を撮っていますから、家族からは、「また雲(クラウド)・・・」と笑われました。

が、そうはいっても、やはり「クラウド」は「雲」だったんです。ITの世界での・・・

現在、私たちがPCを使ってインターネットに接続するとき、一人一人がプロバイダーに契約して、そこのサーバーを利用させていただいて繋がっていますよね。「クラウド」というのは、その個々の小さなプロバイダーを一挙に全部まとめた巨大な雲のようなサーバーのこと。ゆくゆく、未来はそうなるのだそうです。(と、ここはご著書を拝読しただけの安易な解釈で正確ではありませんが、そんなようなことと受け止めてください。)

角川さんといえば列記とした大手の出版企業。そこの方が、何故、そんな革命に興味をもって本を出されたかというと、iPad、キンドル等の進出による電子書籍の普及で、紙の書籍の将来がどうなるのか見通したかったから、みずからその分野の調査に入られたというのです。ですから、ご著書の最初は、角川氏みずからの「クラウド時代への疑問から理解に至るまでの経緯」でした。

凄いなあと思いました。先見の明というのはこういうことなのだと。いわゆる老舗のような大手の企業さんとかお店は、かえって由緒あるがために時代を見損なって土台から失うってこと、よく耳にしますよね。同じ立場にいられながら、角川歴彦氏は正反対の行動を起こされたんです。私も、目からウロコ・・・の思いでした。

そういう角川歴彦氏をして「光源氏をやらせたい」といわしめた生田斗真さん。それもさることながら、やはりまた私は角川歴彦氏に関心が戻ってしまうのですが、氏は、なんと、「映画にかかわるようになってから私の興味はいつもそこ(源氏物語)にあった」といわれるのです。クラウドと源氏物語・・・この言い得て妙の対!! まさに紫式部こそ巨大なクラウド! の証明なんて!!  IT世界はあまりに若い世代に席巻されています。そして、若いばかりに成功が人生の実になっていない方が多いように見受けます。そういうなかでの氏のご存在は、私には凄い清涼感です!!

●『クラウド時代と<クール革命>』
http://www.kadokawa.co.jp/coolkakumei/
大衆と時代はどこに向かうのか?2014年にはコンテンツ大統合時代がやってくる。激動の時代を生き抜く策とは何か?現役経営者が予告する、情報産業の近未来。緊急出版!

|

2010.8.2 ツイッターから・・・【万葉古代学研究所 東京講座】と、【越後妻有 大地の祭り】のお知らせ

148

たった今、ツイッターのつぶやきに発見した記事です。

************************************

万葉古代学研究所 東京講座を開催します

万葉古代学研究所では、奈良まほろば館において、下記の講座を開催します。
たくさんのみなさんのご参加をお待ちしています。

------------------------------------------------------------------------
① 平成22年11月7日(日) 14:00~15:30
 「万葉集は歌の文化をどう変えたのか」   
   講師:寺川 眞知夫(万葉古代学研究所長・同志社女子大学教授)

② 平成22年11月14日(日)  14:00~15:30
 「万葉集にみる門前の恋」 
     講師:曹 咏梅 (万葉古代学研究所主任研究員)
                    

③ 平成22年12月18日(土) 14:00~15:30
 「万葉集をよみなおす-万葉古代学の-視点-」
     講師:竹本 晃(万葉古代学研究所主任研究員)

場所  奈良県まほろば館
    東京都中央区日本橋室町1-6-2 日本橋室町162ビル

    募集人数   50人(先着順)
    参加料  無 料

申込方法 希望講座日と、郵便番号・住所・氏名・電話番号を明記のうえ、下記までお申込みください。各回ごとに往復ハガキにより、受け付けます。

申込み・問い合わせ先
(財)奈良県万葉文化振興財団 万葉古代学研究所
〒634-0103 奈良県高市郡明日香村飛鳥10
Tel:0744-54-1850
Fax:0744-54-1852

************************************

それから、こちらはもうはじまっていますが・・・

芸術祭で有名な【越後妻有の「大地の祭り」】

芸術祭以外での年に開催される夏の「大地の祭り」では、常設作品が全て公開され、地域の人々によるあたたかなもてなしが旅人を迎えます。

詳細は下記でどうぞ!

http://www.echigo-tsumari.jp/

|

« July 2010 | Main | September 2010 »