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2010.9.29 昨夕から夜空、今日の空、と相当危ない状況でした・・・福島県中通りでM5.8を含む地震が続いています

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上二枚の青空に緻密な鱗雲の写真は今日の午後。下三枚の夜空は昨夜です。ほんとうは昨日の夕刻から雲が妖しく、大きな地震が控えているのを感じさせました。出先で撮ることができず、街中のビルとビルの隙間から雲の発生方位や状況をずっと気にして伺っていました。

下の夜空は帰宅して撮りに出たもの。夕刻の空と同じ雲かはわかりませんが、雲底が笹の葉を並べたような感じに白くレリーフ状に浮かびあがって、それが全天に広がっているので、相当危ぶまれました。滅多にありません、こんな空・・・

今日の昼ごろから、福島県中通りでM5.8を含む地震が連発しています。昨夕以降の騒然とした空は、この前兆だったと思います。雲自体の前兆としては、こういう規模の地震が24時間内の雲というわけがなく、掲示板のご報告では23日から24日頃に前兆雲があったようです。私も24日の空は危ないと思って撮っています。ただ、ここのところパワーポイントの編集に籠って過ごしていますから、観測自体が不十分で見逃した雲が多いと思います。

でも、それでも、昨夜から今日の雲は要注意でした。鱗雲は秋の空・・・かもしれませんが、地震前兆として要注意雲です。

最近、偶然ですが複数の方から「もう雲は撮らないの?」と聞かれたばかりです。「おかしな雲が出ないから撮らないだけです。それって大きな地震がないってことで、雲が出たら撮らないわけがありません」とお答えしたのを思い出しました。ほんとうに、撮ったら→地震。空が的確に教えてくれていることを改めて感じました。

■気象庁の発表から・・・

10月2日19時26分頃 福島県中通り M2.4
10月2日16時31分頃 福島県中通り M2.9
10月1日21時50分頃 福島県中通り M2.4
10月1日19時29分頃 福島県中通り M2.5
10月1日19時26分頃 福島県中通り M2.6
10月1日19時03分頃 福島県中通り M2.7
10月1日18時52分頃 福島県中通り M4.2
10月1日15時20分頃 福島県中通り M2.9
10月1日11時05分頃 福島県中通り M2.3
10月1日10時38分頃 福島県中通り M2.3
10月1日08時30分頃 福島県中通り M3.0
10月1日08時24分頃 福島県中通り M4.3 震度3
10月1日06時43分頃 福島県中通り M2.8 
10月1日05時30分頃 福島県中通り M2.7 
10月1日03時21分頃 福島県中通り M2.5 
10月1日03時20分頃 福島県中通り M2.8
9月30日20時05分頃 福島県中通り M3.8 震度3
9月30日10時18分頃 福島県中通り M3.1
9月30日07時43分頃 福島県中通り M2.6
9月30日06時53分頃 福島県中通り M3.3
9月30日03時39分頃 福島県中通り M3.0
9月30日02時18分頃 福島県中通り M2.8
9月30日01時23分頃 福島県中通り M4.5 震度3
9月30日00時43分頃 福島県中通り M3.0
9月29日23時46分頃 福島県中通り M2.7
9月29日22時48分頃 福島県中通り M2.4
9月29日20時27分頃 福島県中通り M2.7
9月29日19時40分頃 福島県中通り M2.7
9月29日19時30分頃 福島県中通り M2.7
9月29日19時18分頃 福島県中通り M2.9
9月29日19時16分頃 福島県中通り M2.7
9月29日19時12分頃 福島県中通り M2.3
9月29日19時04分頃 福島県中通り M3.1
9月29日18時44分頃 福島県中通り M3.0
9月29日18時22分頃 福島県中通り M3.3
9月29日17時51分頃 福島県中通り M3.7
9月29日17時47分頃 福島県中通り M2.3
9月29日17時37分頃 福島県中通り M2.8
9月29日17時25分頃 福島県中通り M3.2
9月29日17時16分頃 福島県中通り M3.2
9月29日17時12分頃 福島県中通り M3.3
9月29日17時09分頃 福島県中通り M3.3
9月29日17時06分頃 福島県中通り M3.7
9月29日17時00分頃 福島県中通り M5.8 震度4
9月29日12時02分頃 福島県中通り M4.9 震度3

追記:
最初にこの記事を書いた29日20時頃の時点では地震がとまっていたので収まったのかと安心していました。でも、発表を見ると、日付が変わった今もM4.5、震度3・・・。先程窓外を見て雲をたしかめてからPCのあるこの部屋に来たのですが、空はまだ不穏な状況でした。発光していて明らかに地震が活発な状況です。大きな地震がある(あった)ときの空は緑がかった茶褐色の空で、新潟の中越地震時にはじめて知ったのですが、現在の夜空がそうです。大気に磁気が蔓延するための変色と思っています。群発はエネルギーが分散されるのである意味では安心ですが、実際に今現地でこの夜を過ごしてらっしゃる福島の方々は不安でしょうね。早く収まりますように。

追記2(30日11:40):
群発地震がまだ続いています。深夜、【9月30日02時10分頃 ニューギニア付近 M7.0 】が発生しました。M7規模が世界のどこかにあると、前日から空が騒然とします。28日夕方からの空はこの地震の影響もあったでしょう。また【9月30日09時24分頃 硫黄島近海 M5.5】が発生していますが、この前兆も福島県の地震前兆と思われる24日に、同時刻にありました。同じ日の雲前兆の結果はたいてい同じ頃結果の地震として発生します。群発、ほんとうに早く収まって欲しいですね。

追記3(10月1日22:23記):
まだ群発地震が収まりません。

追記4(10月5日3:40):
とても異常な事態です。福島県中通りの群発地震と重なって新潟県上越地方に群発がはじまり、北海道、近場の茨城、さらに先程は沖縄の宮古島でのM6規模・・・と休まるところがありません。ただ当地では雲の前兆がまったく見えず、(見逃したかもしれないにしても、見逃せるような状況ではないはずなのに・・・)、それがふしぎです。それとは別に体感だけはあるようで、福島県の群発以降体力気力が充実しなくて、風邪をひいたかしらと心配になって風邪薬を飲んだほど。でも、茨城県の発震があった直後くらいからすうっと元気が回復して、さきほどまで猛烈な勢いで猛暑で溜まったひどい山積みの片付けものが一気にはかどってしまいました。それで、風邪ではなく体感だったのだ・・・と気づいたような状況です。以下、記録として載せておきます。

■気象庁発表から・・・

10月4日23時54分頃 新潟県上越地方 M2.0
10月3日13時46分頃 新潟県上越地方 M2.6
10月3日09時59分頃 新潟県上越地方 M2.7
10月3日09時26分頃 新潟県上越地方 M4.7 震度5弱
10月3日06時57分頃 新潟県上越地方 M3.3 震度3
10月3日06時52分頃 新潟県上越地方 M4.4 震度4
10月3日06時37分頃 新潟県上越地方 M4.5 震度4
10月2日12時35分頃 新潟県上越地方 M4.3 震度4

10月4日11時47分頃 釧路沖 M4.0 震度3
10月4日09時26分頃 北海道南西沖 M3.1
10月2日16時17分頃 北海道東方沖 M4.7
10月1日12時24分頃 日高地方東部 M3.6

10月4日23時17分頃 宮城県北部 M4.1
10月4日20時32分頃 茨城県沖 M4.4
10月3日08時15分頃 宮城県北部 M3.0
9月30日21時47分頃 福島県沖 M4.7 震度3

10月4日23時59分頃 宮古島近海 M4.4
10月4日22時28分頃 宮古島近海 M6.4 震度4

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2010.9.29 生田斗真さん主演の映画『源氏物語』の原作、高山由紀子さん『源氏物語 悲しみの皇子(みこ)』が届きました!

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生田斗真さんが光源氏という映画の制作発表がされて、配役や監督も発表になっていたのに、原作が紹介されなくて、???でした。それが少したったら、ツイッターで「原作発売 予約開始」のお知らせがあって、それが高山由紀子さんの『源氏物語 悲しみの皇子(みこ)』。早速アマゾンに予約しておいたのが、昨日、届きました。

それを手にしてびっくりしたのですが、そもそも脚本が高山由紀子先生だったのですね。原作は、その脚本を読み本にしたものと拝察しました。どうりで、制作発表に脚本家の名前も、原作も、原作者名も発表されなかったわけ・・・。この原作発売まで伏せておいたのでしょう・・・とは、私の推測。それにしても、原作が高山由紀子先生と知った時点で、脚本を書かれたんだ・・・と直感できなかった私がうかつでした。

このご本、相当破天荒な展開で楽しそう。正規の『源氏物語』を期待した方には顰蹙かも。その代わり、生田斗真さんファンの若い方々には楽しめるのでは? まだ拝読していませんが、ぱらぱらっと見た感じではそんな気がしました。以前、野村万齊さんがされた映画『陰陽師』に近くなるのかな? 『陰陽師』は大好きで何回か観ました!

でも、高山由紀子先生の脚本です。もっと妖艶、心理的な華麗さになるのでしょうね。どんなになるか、楽しみです。高山先生はずっと昔、私がはじめて文学修業のつもりで入ったシナリオセンターの大先輩です。私がまだ文学の初期の初期の心構えも何もできなかった当時、センター生のなかから彗星のように映画脚本デビューを果たされて、受講生の希望の星でした。だから、お名前は当時から聴いて知っていました。

シナリオセンターは、私はいきなり小説修行に入る勇気がなくて、少し枠が楽そうなシナリオという分野におずおず入ったのですが、そういう「楽」な感じがほんとうに楽で、みなさん、映画やドラマでのデビューを目指して頑張ってらっしゃるから、とても活気がありました。

私は、本来の目的が小説ですから、そういう前向きの方々とは一線を引いて、呑気な方が多い別のクラスに入って、誰ひとりデビューすることもないのに和気あいあいと文学を人生修業の場として、何年も過ごしました。その後、現代詩に移り、いよいよ本格的に小説に移るまで、10年前後はセンターにお世話になったでしょうか・・・。

移ったのは、小説に必要な構成力が身についた自覚ができたから。辞めるには相当の決断を要しました。なぜって、10年もの時間を一緒に過ごした先生や同士の方と離れることになるのですから・・・

シナリオはドラマや映画という時間の枠が明確ですから、起承転結の構成がしっかりできていないとなりません。それで、目先のデビューを望まない呑気な私たちに、そのクラスの先生は、黒沢明監督の『影武者』のシナリオを入手してくださって、それを土台に実際の起承転結を教えてくださったのです。凄い講座内容の連続でしたから、ほんとうにあのクラスは私の人生修業・文学修業の実際の場でした。

そんな過去が、高山由紀子先生が映画の原作と知ったとたん、とても懐かしく甦り、ちょっと興奮気味にわくわくどきどきしています。

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2010.9.27 鎌倉の源氏物語講演→《パワーポイント作成奮戦記》再開9・・・鎌倉での人脈もフローチャートで作ってみました。すると!?

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『源氏物語』のお話ではなく、『源氏物語』写本についてのお話となると、なんだか国文学の難しいお話みたいになってしまいそうなので、極力専門用語を避けて、やさしく、やさしく、を心がけてスライドを編集してきました。

で、歴史や『源氏物語』にあまり馴染みのない一般の方にも楽しく過ごしていただくためには、学問的な展開はせずに、ストーリー的に、見終わったあとドラマを見たような感じで終わらせようと・・・

しかも、せっかくの雅な集いですから、編集も一生懸命、雅に、優雅に、華麗に、を念頭に置いて写真を選び、色調を考え、それも楽しみながら進めていました。

それはそれでよかったのですが、「やさしく」ばかりを念頭に置いていたら、いつのまにか私の中で「深める作業は必要ない」ような考えに意識がすり替わっていたんですね。ここにきて、また、なんとなく意欲が減退。だって、サスペンスも深みもないではつまらないですものね。

というのは、光行は前半は京都で、それこそ藤原俊成に『源氏物語』を学んだり、後徳大寺実定らと接して平家文化のなかで華麗な日々を謳歌していたのですから、スライドの編集も華麗になっています。

が、鎌倉に下向してからは、華麗とはほど遠い打って変わって武士文化のなか。スライドも華麗にしようがなく、しかも内乱と動乱と、最後は鎌倉の滅亡・・・。

これが最後では、見終わっての感想を「綺麗だった」「優美だった」と余韻に浸っていただけるはずがありません。どうしよう・・・と立ち往生気分になってしまいました。でも、そんなことを言ってられませんから、解説を詰めていました。

そういうなかで下の記事でご紹介したフローチャートができました。そうしたら、ふっと、そうだ、鎌倉での人間関係も作ってみようという気になり、まず、光行からはじまって、「河内本源氏物語」ができるまでの、鎌倉の6人の将軍と、いつ、誰がその将軍に仕えていたかを並べました。

そうしたら、そこに浮上したのが飛鳥井雅経。

蹴鞠の祖、飛鳥井雅経は、光行が鎌倉に下向して頼朝に仕えたときには、すでに先に下向していて同じく頼朝に仕えていました。でも、それを入れると、短い講演時間のあいだに話が複雑になってしまいますから、入れないでおこうと決めていたんです。

が、フローチャートを作ってみたら、ここは入れなくちゃならないってわかったんです。何故なら、雅経の次男の二条教定が宗尊親王に仕えて『源氏物語』文化にとても貢献しているし、その子雅有(雅経にとっては孫)は、北条実時の娘婿にまでなっているのです。これは、雅経が初代将軍頼朝に仕えて鎌倉との人脈をもっていたからこそ。

そもそも、私がこの世界に足を踏み入れたのは、「何故、あの有名な新古今歌人雅経の孫が、東国の片隅の金沢文庫創設者実時の娘婿に?」の疑問をもったのがきっかけでした。その謎を解いていくなかで、雅経が鎌倉にいたことが明らかになり、そうしたなかで光行が浮上し、「河内本源氏物語」完成への経緯がわかってきたのです。

こんな根本問題を無視して、ただ「綺麗」なだけで話を進めてはいけない、と思ったら、俄然、また、モチベーションが復活しました! どうも、私は「やさしく、やさしく」を心がけると、気分が安易になって意欲まで落ちてしまうみたいです。フローチャートを作って流れが甦ったら、系図のなかのあのときこのときの一人一人の事件や人脈の歴史、経緯が逐一甦って、私のなかで動きだし、再び楽しくなりました。

そして、画像も、例えば後半のメインとなる頼経や宗尊親王の御所画像も、現在ではもう御所の面影もない街中の光景です。だからつまらないとばかりに気分ものらなかったのですが、「御所」の面影を生かしてイメージで進めよう・・・と思いたら、急に『源氏物語』ふうな雅な空間の現出となりました。

フローチャートを少し説明させていただきますね。中央の列が歴代将軍。右から左へ初代頼朝にはじまり、頼家、実朝、頼経、頼嗣、宗尊親王の6人です。光行は頼朝から実朝まで仕えて帰洛。雅経は頼朝だけに仕えて帰洛。親行は頼経から・・・となります。雅経の子息の教定が頼経将軍の代から仕え、宗尊親王の時代に、親行、教定、そして北条実時の揃い踏みとなったのです。このメンバーの相互の連帯関係で「河内本源氏物語」ができあがり、宗尊親王の制作で『尾州家河内本源氏物語』ができたのでした。

そんなことを、このフローチャートは表しています。これを見ただけで源家三代将軍と、頼経以降の摂家将軍・親王将軍の時代との文化の差が歴然としますでしょ。頼朝の時代はまだ頼朝とその時代のオーラで人心がついています。けれど、頼家・実朝の時代には文化的には鎌倉はまだ都からは遠い雛。はじめての摂家将軍の下向に伴って都から大勢の従者・都の文化人が流入し、鎌倉に文化的活況ができる・・・。懸命に都の文化を摂取しようとした実朝には気の毒ですが、これが現実でした。

それにしても、パワーポイントを「考えるツール」というそうですが、ほんとですね。飛鳥井雅経を入れようかはずそうか、何度も試みては迷っていたのが、フローチャートを作った瞬間、「入れる」と決まる・・・。絶対的な何かを引き出す力があるような・・・。

ふしぎなのですが、パワーポイントは、パソコンやネットといったバーチャルな世界でありながら、逆に作業する人の主体の奥に奥に入り込んできて、一番の本質をひょいと浮かび上がらせる、一瞬にしてつまみあげる、そんなパワーをもっている気がします。マウスを動かしキーボードを叩くという簡単安易かつ機械的・無機質な作業でありながら、原稿用紙に向かって200枚くらい籠って書いているのと同じ結果を引き出すような・・・

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2010.9.25 鎌倉の源氏物語講演→《パワーポイント作成奮戦記》再開8・・・ダメ出しをだされてフローチャートを作りなおしました

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朝アップしたフローチャートを娘に見せたら、即座に紙とペンを取り出して、「こう直しなさい」と。世界史が好きな娘は系図に慣れているらしく、私の最初の案ではダメだそうです。(私だって日本史の系図に慣れているはずですが・・・)

それでそのとおりに作りなおしたのがこの図です。確かにわかりやすくなりました\(^o^)/

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2010.9.25 鎌倉の源氏物語講演→《パワーポイント作成奮戦記》再開7・・・源光行の家系が祖父の代から平家に仕えていたフローチャートを作成しました!

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とっても簡易版ですが、この方が見やすいでしょう・・・

源光行の祖父季遠は忠盛に仕える青侍でした。叔父季貞は清盛の側近中の側近、『平家物語』にも「源大夫判官季貞」と度々登場して重要な役割を果たす人物。父光季はおそらく中宮職に勤務していたのでしょう、建春門院滋子や建礼門院徳子のためにはたらいています。

と、こうしてみると、光行の平家の人への思いは明らか。忠信を尽くす立場そのものです。しかも、建礼門院徳子に対する立場は、父を通して最も身近。徳子が光行の生涯を覆う存在の女性だったとしておかしくありません。

と、こんなふうなフローチャートを作ってみました(o^-^o) こういう系図に色の決まりとかあるのでしょうか。はじめての試作なので、とりあえず、親子の関係を青で記し、仕える関係を紫で、兄弟の関係を山吹色にしました。

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2010.9.25 鎌倉の源氏物語講演→《パワーポイント作成奮戦記》再開6・・・スライドを作り終わって解説の準備にはいりました!!

Kamakuragenji

昨夜、通しですべての写真スライドを作り終わりました。この段階で89枚。実際に練習してみて長かったら削除、足りなかったら追加・・・をします。足りないなんてことはないと思いますが(笑)

一つ作業が終わると、自然に次の作業が頭に浮かびます。で、今朝は、実際に解説して話しているような言葉が頭のなかに浮かんで→気持ちもそれに流れて、眠ってなんかいられなくなって起きてしまいました。

それは、白河院と国宝「源氏物語絵巻」のこと。

最近思うのですが、あの有名な国宝「源氏物語」を建礼門院徳子を所持していたのは、後白河院が徳子に贈ったからだったのだということ。

最初に徳子が所持していたと知ったときは、高倉院の中宮だから、皇室に収められていたのを所持して当然と思っていました。でも、それではなんだかインパクトがなく感じられて、ずっと徳子の入手経緯が気になっていました。

最近、はっと気付いたのです。「あれは、後白河院が徳子へプレゼントしたのだ!!」と。

後白河院の徳子への執心は一部の方には知られています。事実もあったような・・・。『平家物語』には出家して大原に籠る徳子を後白河院が訪ねる「大原御幸」という有名な段がありますが、あの不自然さをどなたもあまり語らないのが不思議です。かつての息子の嫁ですから、慰問に訪れて当然にしても・・・です。

そんなことを考えていて、「そうか、後白河院は亡くなった最愛の妻、建春門院滋子の形身に、姪の徳子を所望したのだ」と思いつきました。事実、高倉天皇が亡くなったあと、徳子が院に入内する話がありますし。

国宝「源氏物語絵巻」を制作し、『源氏物語』を地で生きた白河院と待賢門院璋子のあいだに成されたのが後白河院です。その後白河院があの絵巻を継承していたとして当然です。そして、後白河院がもまた『源氏物語』を地でいこうとしたのではないでしょうか。即ち、光源氏と紫の上の関係が白河院と待賢門院璋子に踏襲されたように、後白河院がもまた徳子を紫の上のように滋子のゆかりとして・・・

そう考えると、後白河院が愛する徳子に所持する絵巻を贈るのは必然です。そんなことを、スライドにキャプションとしてつけたい!! と夢のなかで思いついて、寝てもいられなくなって起きてしまったのでした。

八王子の写真展のときはまだこういうふうな人間と人間の心理で流れる歴史の必然が何ひとつわかっていませんでした。それで、写真展としてただ年代順に写真を並べただけ・・・

それが不満でずっと胸のなかがもやもやとくすぶっていたのですが、光行の平家との密接な関係からはじまって、さまざま人の心理が私にも同時に流れてくると、今回の講演用のスライドでは単なる写真の羅列ではいられなくなってきました。

それでも、スライドを作っているあいだは写真を並べる作業でしかなかったのが、突然の今朝の衝撃・・・!! 心が動くって、こういうことなんですね。心理の流れで事実をみようとすると、また、スライドの並べ順が変わってきますし、足りないスライドも見えてきます。入れたい系図も・・・。で、目下その系図の作成にかかっています。

追記:
現在の月齢は【16.57】です (09/25 08:30)/十六夜(いざよい)/既望(きぼう)

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2010.9.23 鎌倉の源氏物語講演→《パワーポイント作成奮戦記》再開5・・・とりあえずの満月の達成でも充足感!!

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22日の中秋の名月では皓皓とした月が観られましたが、今夜23日の満月はあいにくの雨。日中には凄まじい裂列の稲光と落雷・・・、でした。でも、「新月にはじめて満月に達成」のサイクルはきちんと守ってやりとおしました。 疲れましたが充実感があります。

20日頃までは一枚一枚のスライドを、キャプションまでつけて丁寧に作っていました。が、残り2,3日となってもまだ導入部しかできてなく、これでは満月までに間に合わないと、急遽方針を変えて、とりあえずキャプションだけのスライドで、最後までの通しを作ってみました。

それに写真を入れていく作業を昨日したのですが、プロットで仕立てたキャプションと、手元にある私の写真が合わない・・・。足りないというより、気分がそぐわないんです。なんだか面白くなくなって、翌日満願を果たすべき満月の日というのに、すっかりモチベーションがさがってしまいました。しかも、事実の羅列ですから無味乾燥。一覧で見ても華やかさがないし、面白くない・・・。匂いたつような香りもないのです。雅な『源氏物語』の話というのに、後半はまったくの殺伐とした単なる歴史・・・

それで、満月の今日はまた方針を変えて、保存してある手持ちの写真のなかから、使いたい写真を随時選んで嵌めていくという手法に・・・

そうしたら、自分が撮った写真ですから、撮りにいきたくなった、必要を感じた、そのときの切羽詰まった気持ちがそのままスライドの流れとなって勢いをつけ、やる気が復活したどころか、なんだか凄いことになっていくような、どきどき感まででてしまいました! やはり、撮りにいったときのエネルギーというのは凄いものですね。

掲載の写真は室町幕府跡。これは、プロットをたてたから必要が明白になったものです。鎌倉で成立した「河内本源氏物語」は、宗尊親王によって制作された『尾州家河内本源氏物語』となり、北条実時によって金沢文庫に収められます。それが鎌倉の滅亡とともに流出して、室町幕府の足利将軍家のものとなり、その後徳川家のものとなって、現在の蓬左文庫への所蔵となります。

プロットで、鎌倉滅亡→室町幕府→蓬左文庫とたてたとき、そうだ、室町幕府跡を撮っていたと思いだして入れました。これはプロットをたてたからの功名。

写真を選んで流れを決める作業に入ったら、そもそも私は金沢文庫というか、浄土式庭園の綺麗な称名寺に惹かれて鎌倉を撮りはじめたようなものですから、称名寺の写真がとにかくたくさんあります。プロットでは、金沢文庫→鎌倉滅亡→室町幕府→蓬左文庫と、それぞれ一枚載せればいいだけですが、撮り溜めた称名寺の写真をご紹介しなくてはもったいないとばかりに、称名寺ばかり何枚も抽出・・・、スライドとして嵌めこみました。それが勢いになって、はずみをつけてくれて、その後は順調に作業が進んでいます。

とりあえず、「プロローグ」→「起」の部分の紫式部編→「承」の部分の平家文化編→■→「結」の部分の鎌倉滅亡編→「エピローグ」の部分の蓬左文庫、と進みました。■の「承」の部分はまだですが、これが多種多彩で結構面倒。嵯峨の小倉山荘や承久の乱とか、鎌倉は妙本寺の竹御所関連など・・・。整理がまだついていませんので、とりあえずの「満月の達成」のご報告としてこの記事を記しています。

スライドは80枚近くになりました。私の持ち時間は70分ですから、一枚一分としても70枚。オーバーです。これにさらに■の部分を入れるのですから、ネ。でも、詰めの作業は満月以降にまわして、とにかく■の部分をこれからしていきます。

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2010.9.23 リニューアルされた月光の会のホームページ

http://gekkonokai.net/

福島泰樹主宰「月光の会」のリニューアルされたホームページです。月光ニュースがTOP画面。福島泰樹主宰のNHKカルチャー青山教室の《詩歌朗読入門 中原中也を読む》講座のお知らせの下に、私の鎌倉講演のお知らせも載せていただいています。事務局の皆様、ありがとうございます!!

会員の方々のHPもリンクされています。太田代志朗さんの【花月流伝】では高橋和己関係の貴重な資料が紹介されています。「高橋和己との日々 アルバムから」は凄いです。是非ご覧になってください!!

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2010.9.23 ツイッターから・・・『源氏物語』関連で、2冊の新刊をご案内

◆『紫式部・定家を動かした物語 ―謙徳公の書いた豊蔭物語―』 堤和博  新典社
 藤原伊尹(謙徳公)が自分を卑官の人物・倉橋豊蔭に仮託し、八人の女性たちとの恋愛遍歴を歌物語風につづった、豊蔭物語。
これまであまり着目されてこなかったが、古今集と源氏物語のちょうど中間頃成立したという時代背景、さらには作者が自らをモデルにした物語という特異性からして、文学史的にも重視されるべき作品である。
その内容については、源氏物語の柏木と女三の宮の恋物語を紫式部が着想する契機にもなったといわれ、物語中の冒頭和歌は小倉百人一首にも収載された。
紫式部と藤原定家とを二人ながらに動かした作品でありながら、知られざる古典であった豊蔭物語を読む。

http://www.shintensha.co.jp/stsec/html/books/detail.php?product_id=704

◆映画原作『源氏物語 悲しみの皇子』高山由紀子 角川書店
予約開始→ http://www.bk1.jp/product/03315079
公式→ http://www.kadokawa.co.jp/book/bk_detail.php?pcd=201006000158

◆源氏物語千年紀は2008年で、もう二年も前になりそうなのに、なんか、ここにきて『源氏物語』話題が増えています。私の鎌倉の講演も『源氏物語』・・・、千年紀に間に合わなかったなあ・・・との思いで、でも、仕方ない。せめて遅ればせながらでも・・・と思っていたのですが、私自身をとってみれば、時宜とか機運とかの問題で、時が満ちるのに時間が必要だったということ。それが社会一般にも適用されるということでしょうか。

以前、『新古今和歌集』関連で研究所を拝読していたとき、たしか、谷山茂先生だったと思いますが、「文化は数年遅れて開花する」みたいなことを書いていられました。その頃、中世の歴史界が活況でしたので、中世を書いた文学もこれから・・・と発奮したことを懐かしく思います。論評はリアルタイムですが、文学に昇華するには作家のなかでの醸造に時間がかかります。『源氏物語』ブームの再来のような最近の動向も同じようですね。

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2010.9.22 第46回 1617会・大阪例会 「池田氏と池田城・城下町の展開」の御案内

仁木 宏様からのメールを転載させていただきます。

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第46回 1617会・大阪例会 「池田氏と池田城・城下町の展開」の御案内
       
1617(いちろくいちなな)会は考古学・文献史学・建築史学・歴史地理学など、複数の分野の研究者が集い、16世紀以前(中世)と17世紀以降(近世)の特定の地域(都市的な場)を対象に、学際的に研究を深めることを目的とした研究会です。3ヶ月に1回程度のペースで開催しています。

今回は、摂津№1の国人であった戦国池田氏の池田城とその城下町を対象とします。

池田は、西国街道から分かれた能勢街道や有馬道と猪名川水運により発展した町でした。ここを本拠に成長した池田氏は、16世紀になると頭角をあらわし、細川氏・三好氏と連関しながらやがて摂津最大の地域権力となります。
池田城は、池田の町を見下ろす東側の丘上に築造され、年次を重ねるにつれ拡大していったことがわかっています。池田氏は、最末期、惣構を築いて池田の町を囲ったとされています。ただ、城域の展開についてはいまだ定説を見ませんし、惣構についてもその実態は不明なままです。
そこで、1617会では、発掘成果や史資料、絵図などを活用し、最新の研究成果をもとにして、池田城と城下町の構造・展開について議論してゆきたいと考えています。あわせて、伊丹城・城下町や、近畿地方の城郭・城下などとの比較も試みます。

●日時 2010年(平成22年)10月11日(月・休)
◎見学会  集合 阪急宝塚線池田駅改札口 9:30~12:00
  →惣構想定ラインを南から西へ→本町(能勢街道)→法園寺・崖面→街道屈曲→九頭竜神社(土塁残欠?)→池田城の城域内へ→虎口発掘調査地点→城跡公園

◎シンポジウム  13:00~
会場 池田市立(旧)城山勤労者センター(池田市城山町3-45)
  阪急電鉄池田駅より北へ徒歩15分。池田城跡公園東側
  http://www.ikeda-town.com/map/id003126/
報告 天野忠幸氏(日本学術振興会特別研究員)
       「文献から見た池田氏の展開」     
    田上雅則氏(池田市教育委員会) 「池田城跡の発掘調査の成果と課題」   
    藤本史子氏(武庫川女子大学(非)) 「伊丹(有岡)との比較からみる中世都市池田」
    中西裕樹氏(高槻市立しろあと歴史館)  「城郭論からみた池田城」  

★シンポ会場付近には昼食場所が全くありません。シンポ会場で食べられますので、弁当
類を持ってこられるようにお勧めします。
★参加費資料代は当日いただきます。

*今後の予定   2011年1月 相模;小田原
            2011年4月 近江;観音寺城・石寺城下町

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2010.9.20 ツイッターから・・・生田斗真さんが光源氏の映画『源氏物語』の他のキャスティング

映画『源氏物語』紫式部に中谷美紀、安倍晴明に窪塚洋介、藤原道長に東山紀之が決定!

とのことです・・・。以下、ご覧になってください。

http://www.excite.co.jp/News/cinema/20100920/CinemaToday_N0027038.html

窪塚洋介さんの阿部清明・・・、なんか凄そう(*^-^)

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2010.9.19 鎌倉の源氏物語講演→《パワーポイント作成奮戦記》再開4・・・

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パワーポイントによる講演用の編集も、紫式部の時代→白河院の時代とたどって、いよいよ平清盛によって築かれた平家文化の時代へと入ってきました。ここから「青表紙本源氏物語」を成した藤原定家、「河内本源氏物語」を成した源光行が登場します。

白河院と待賢門院璋子によって制作された国宝「源氏物語絵巻」。それを身近に感じて育った清盛の制作したのが国宝「平家納経」です。その国宝「平家納経」のできた年、藤原定家は3歳、源光行は2歳でした。清盛が太政大臣になるのも、建礼門院徳子が入内して安徳天皇を産むのも、これよりずっと後ですから、いわば光行たちは平家文化草創期に生を受けているのです。

ということは、『源氏物語』二大写本を成した二人は、生まれたときから平家文化に染まって成長したことになります。しかも、二人が成長し、思春期を迎え、青年になるころは、それこそ平家文化の絶頂期。花盛りの時代です。感性ゆたかで、文芸の教養ある二人が、平家の公達と交流のなかったわけがありません。

そんなことを綿密にお話するとすると、これだけで時間をとってしまいますから、スライドをほんの数枚で済ますしかありませんが、一応、順序立てて作ってみました。

ここまでくると、もう、まったく、2008年に開いた八王子での写真展の内容とはかけ離れてしまっています。先日、紫式部像を入れるなど有機的になったからでしょうか、気持ちもどんどん有機的になっていて、写真展のために写真を選定していたときと、気分がまったく違います。写真を並べるという、一種プツプツした感じの精神状態が、今は流れて広がっていっています。

でも、それもそのはずですよね。写真展のときに、光行と定家が平家文化に染まって育ったことはまだわかっていませんでした。どなたもこれに言及されてなくて、光行と平家の関係も「なんか、おかしい。関係ありそう・・・」程度でした。写真展を開いて、会場のその写真に囲まれたとき、平家文化の質・量とものその圧巻さに驚き、「感性ゆたかな二人がこの文化に影響されなかったわけがない」との直感を得たのでした。

そして、ちょうど論文を書かせていただく時期でしたので、一念発起して「『源氏物語』二大写本に秘めた慰藉―『平家物語』との関係をめぐって―」を書いたのでした。今は、光行の平家のなかに占める位置というのが明確になっていますから、写真展のときと違って当然、気持ちの上のみならず、内容自体が流暢になっているのでした。

そう考えると、写真で「光行が平家のなかにいたこと」「光行が後徳大寺実定や俊成に源氏物語を学んだこと」をまとめる作業ははじめてなのです。俊成に学んでいるところの光行の写真なんてあるはずがありませんから、これをどういう表現にもっていくか・・・の問題になります。さっき、ようやくそこまで進みました。

写真は、京都の「梅小路公園」です。写真左上方に京都駅前の京都タワーが見えていますから、なんとなく場所をおわかりいただけるでしょう。清盛の西八条第があった地域です。平家というと京都駅より東側の六波羅密寺のあたりと思いがちですが、妻の時子や建礼門院徳子は主に西側のこちらにいたようです。この界隈には平家の主だった方々の邸宅が並んでいました。ということは、光行や定家も、平家の方を訊ねて、この界隈を訪れていたんですね!!

スライドは30枚になりました。

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2010.9.18 9月16日、どしゃぶりの雨の中、中世の新田を歩いてきました!

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猛暑のあとの雨、それもどしゃぶりの16日、中世の新田の地を撮ってまわりました。去年からいつもいろいろと教えていただいている歴史の先生が、「太平記の里を歩く」というテーマで本を出されるので、それに挿入する写真を一緒に撮ってまわらせていただいています。

どしゃぶりの雨はでかけるのに億劫ですが、建物や風景ではかえって快晴より光と影の強いコントラストを避けられて条件としてはいいんです。ただ、それもほどほどによりますが(笑)・・・、16日はいい時もあり、どしゃぶり過ぎて困った時もあり・・・でした。

こういう撮影でラッキーなのは、まわりながら先生の丁寧な解説を拝聴できること。例えば、「あのポストのあるあたりからずうっとこのあたりまで、本来なら堀が延びていて、それが屋敷の敷地内になるのだけど、暗渠になっていて今は見えない。でも、一応、そういう意図でここを撮っておいて!」というふうな感じです。

すると、私は忠実にその構成でシャッターを切りながら、目から入って心に届くまでのあいだに、その光景が中世というフィルターがかかって記憶される・・・。素敵でしょ! 写真家は結構お得な職業です(o^-^o) なんて・・・、今、撮影した全ショットを確認して整理が終わった段階なので、失敗がなかった安堵の余裕の発言。ここにくるまでは、撮れてなかったらどうしよう・・・のはらはらで気が休まりません。

ご著書は「近刊予告」の広告がでたら詳細をお知らせさせていただきますね。とりあえず、ここでは差しさわりのないショットを載せてみました。だから、看板・・・。ごめんなさい。最後の一枚は、二枚目の江田館跡の堀です。手前の堤状になっているのが土橋です。看板にあるような館があった地・・・、それを実際の地面で確認しながら歩くんです。歴史散歩の醍醐味です!!

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2010.9.15 鎌倉の源氏物語講演→《パワーポイント作成奮戦記》再開3・・・フローチャート作りに挑戦!!

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スライド編集・・・、今日から白河院と源氏物語の関係編に入るので、まずは系図をと、フローチャート作りに挑戦してみました。パワーポイントでのフローチャート作成は簡単で、教則本にのっとって作っていけばいいのですが、最初に選ぶ図形に平安朝を思わせるのがなく、結局あきらめて、ふつうの図形のなかにあった巻物風のものにしました。それで作ったのがご紹介のこの系図です。

内容は、このブログで5月2日に書いた記事の事ですから、詳細をお知りになりたい方はお手数ですが、そちらをご覧になってください。カテゴリー「パワーポイント初体験記」から入れます。

学会やシンポジウムに慣れていると、ああいうのが欲しい、あれを作ればいい・・・と、アイデアは明確に湧きます。が、作るのはともかくはじめて・・・。で、教則本片手に、「ん、描画ツールの書式を選択して・・・、書式ってどこ?・・・」みたいにしどろもどろではじめて、なんとかここまで作りあげました。できてみれば簡単です。背景のグラデーションも、「グラデーション」というツールがあったので、試してみたら1クリックでポンとできて・・・

これは、一条天皇の中宮彰子がメインの系図です。そこに紫式部が仕えていて、彰子が成した後朱雀天皇の孫に白河天皇が位置するという説明です。つまり、白河天皇は彰子にとっては曾孫にあたるというわけです。

白河天皇が即位されたのは二十歳。遅い即位でした。なので、おそらく「天皇にはなれないかも・・・」という不安のなか、同じく天皇の子でありながら即位できなかった光源氏の物語に親近感をもって育ったことと思います。というのも、その頃まで、彰子が存命でしたから。

白河天皇は紫式部が生きた時代、紫式部が実際に『源氏物語』を書いた状況を、彰子からじかに耳にして育った可能性があるということなのです。それが、待賢門院璋子との異常な関係にも繋がる・・・、そしてそれが、国宝「源氏物語絵巻」の制作へと・・・

そんなことをお話する材料としてのフローチャートです。色はなんとか工夫してこんなふうに仕上げました。私の色の感覚は『源氏物語』の「襲の色目」が原点です。基礎を西洋美術から入っている娘にそれは異様に映るらしく、よく、「よくそんな配色ができるわね・・・」とあきれかえられています。時々見かねて指導してくるのですが、結局もとのもくあみで私好みに落ち着いて唖然とされることしきり・・・。で、このフローチャートを見せて、「どう?」と言ったら、「いいんじゃない」と。「妥協?」と聞き返すと、「ママにしては今度はまともにできてるって思っただけよ」・・・だそうです(o^-^o)

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2010.9.14 鎌倉の源氏物語講演→《パワーポイント作成奮戦記》再開2

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一枚目は石山寺の紫式部。二枚目は宇治川のほとりに建てられた紫式部像です。

パワーポイントの編集も、「新月にはじめて→満月に達成」のサイクルめざして、奮戦中です。順調に進んではいますが、終わってみないと間に合うかどうかはわかりません。ただ、満月の23日はもう来週ですから、のんびりしていたら間に合わなくなりそう・・・。予定は連日詰まっていて、もしこのサイクルの枷がなかったら、全部出向いて、「あ~あ、また出来なかった・・・」となるところ。

でも、満月達成は、自然のサイクルとしてこの上もなく正しいと感じているので、逃したくありません。となれば、どこかは欠席を決め込むしかありません。明日、何通か、お詫び状を書くしか・・・

と、浮世の話は別にして、八王子の写真展のときは、一応「写真展」ですから、一応「作品」らしく、無機質のものに統一しました。人物が入ることを極力避けたんです。が、今回はドラマ仕立て・・・、ということは有機的になって当然です。写真を選んでいて、八王子の写真展のときのままでは無機質過ぎて「面白くない・・・」。もう少しドラマを感じるものを・・・と探して、思いついたのがこの二枚の紫式部像を入れること。

私も変ったなあ・・・と思います。こういう写真を撮っていること自体珍しく、石山寺のはたった2ショット、宇治川といえばたったこの1ショットだけ。まさか使うときが来るなんて思いも寄らず、適当に撮った写真です。

昨日、プロローグの部分を終わって、いよいよ、「写真でたどる『源氏物語』の歴史」の本編の編集に入りました。いろいろ考えて、やはりTOPは、八王子の写真展のときと同じく、藤原道長の「土御門殿跡」に決めました。次に紫式部の邸宅跡の蘆山寺・・・、これはもうすでに写真展のときとは順序が違っています。

そして、それに続けて、京都御苑の地図を入れて、土御門殿と蘆山寺の位置を書き込みました。紫式部の邸宅は、今の京都御苑に接するような位置に、つまり、道長の土御門殿にとても近い場所にありました。ただ、これは偶然ですよね。道長に仕えるようになったから近くに移り住んだというわけではないようです。

と、こんなふうに進んでいます。通しで何枚必要かよりも、まず、どういうふうに並べていったら説得力があるかを優先に、一枚が終わったら次に何を? というふうに必然の流れで決めています。多かったら、満月のあとの整理の段階で削ればいいんですものね。

で、今日の段階ではスライドが18枚目まで進みました。昨日書き忘れましたが、キャプションのフォントはメイリオを、32ポイントで使っています。

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2010.9.12 鎌倉の源氏物語講演→《パワーポイント作成奮戦記》再開1

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8日にはじめたパワーポイントによる編集再開。7月のころはまだあまりに遠くて実感がなく、進みませんでした。8月は異常気象の猛暑でぐったり・・・。まだまだ時間はあると・・・

9月に入って、少し風が涼しくなって、秋を感じたら、もう残り3ケ月を切ったことがリアルに実感されて、突然焦る気持ちが湧いてしまいました(゚ー゚; でも、この焦る気持ちがパワーなんですよね。そう思ってここ数日真面目に取り組んでいます(o^-^o)

7月のころはまだ2008年に開いた八王子での源氏物語写真展をそのままパワーポイントで編集して上映することしか考えていませんでしたので、余裕でした。この余裕というのが曲者で、内心「つまらない」んです。高いところから見下ろして、やればできるとばかりに片づけ仕事で済ましてしまう気持ちが見え見え・・・、燃えるわけがありませんよね。

9月に入って再開したら、この「つまらなさ」をなんとか打開しなくては! と自分を鼓舞する気持ちが湧きました。そうしたら、突然、焦ってしまったというわけ。というのも、一つ思いつくと次から次へアイデアが湧いて、それをこなしていこうとすると、今度は俄然時間が足りない・・・~(°°;)))オロオロ(((;°°)~

というのも、八王子のときの写真をただ列挙するのは能がないから、フォトショップで画像加工して雰囲気ある写真を作り、そして、構成を説明的な年代順でなく、源光行の人生を追う「ドラマ仕立て」にしようと思いついたから。

ドラマ仕立てにするには、八王子のときの写真だけでは足りませんし、別の写真が必要になります。もう揃っているからと油断していたのが、ここにきて、最初からはじめてのように取り組まなければならなくなったということ。しかも、雰囲気のあるような写真に何枚も仕上げなければならないんです。

さあ、大変!! と緊張したら、やっと火が点きました。仕方なく・・・とはいえ、毎日真面目に、ということは順調に、パワーポイントと取り組んでいます。

サブタイトルに【鎌倉で「河内本源氏物語」ができるまで】とあるので、どうしても教養を語るような形式になりがちでしたが、ドラマ仕立てとなると、もうこれはまるで別世界です。シナリオの手法で、プロローグ→本編→エピローグ ともっていきます。プロットは、「源平の争乱で運命を狂わされて鎌倉に下向した光行」の話。その結果として鎌倉で「河内本源氏物語」ができる、という筋立て。

気持ちのなかでは「ミニ大河ドラマ」・・・、ほんとうに光行の人生も含めてのこの時代のこの文化は、大河ドラマに打ってつけです。で、その「ミニ」。大河のミニだから「小川」かな? 「支流」? とか考えていて、どうもピンとこないと思っていたら、ありました! ぴったりくる川の名称が・・・、「大河の源流ドラマ」・・・、なんて、如何でしょう・・・(*゚▽゚)ノ

そんなふうに、根底に焦りを秘めて、表向き気楽に、実際には写真を選んだり加工したりを楽しみながら、作業を進めています。プロローグがだいたい終わりました。といっても、数枚ですが・・・。冒頭の写真はその中の一枚。これに透過性をかけて(透明性ある薄い色にして)、そこに文字を重ねます。一行7文字前後の3列で・・・、(一行7文字は先日ご紹介したアニメ版パワーポイント攻略本『パワポたん』に書かれてあった数字です)。

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2010.9.11 深夜から今朝のツイッターへのつぶやき・・・

Momiji

odayuriko ジョー奥田さんに倣って新月にはじめた鎌倉講演用のパワーポイントの編集。8日は発表内容の列挙。9日はそれらを一枚一枚のスライドに振分け、10日の今日、実際に写真に嵌めてみた。TOPは当日の「紅葉賀」にちなんで真っ赤な紅葉の写真。

odayuriko 連投です・・・この紅葉の写真に【写真でたどる『源氏物語』の歴史―鎌倉で「河内本源氏物語」ができるまで―】とタイトルを入れる予定。「紅葉賀」は、会場を提供してくださる鎌倉投信様社屋の庭に見事な紅葉の木があり、その紅葉を愛でながら雅な一日を楽しみましょうとつけた当日の会の名称。

odayuriko 昨日京都の知人が講演に申込んで下さったと主催者さんから連絡があった。彼は『平家物語』の信奉者で、私の説に接するまで『源氏物語』が大嫌いだった。源光行が写本を成した背景に平家の人達との交流があったことを明かすと俄然興味を示して下さった。私の光行論は平家信奉者彼のフォローが大きい。

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2010.9.11 ツイッターから・・・かなりランダムですが!

★DJ_kyoto100    【大原の紫蘇畑/夏】平家物語のヒロイン、建礼門院徳子が大原の地に隠棲した折、これを慰めようと村人たちが献上したのが柴漬けのはじまり。夏の盛り、紫蘇の葉が色付き、皇室ゆかりの紫色に大原が染まる。おごれるものは久しからずや。平家の悲哀を映す大原の夏。 #kyoto

★moonAge_bot    現在の月齢は【2.73】です (09/11 12:30)/三日月(みかづき)

★benseysection1    少し前ですが、立松和平さんのウェブ情報が以下に移管されています。 http://wakkanokai.com/01wahei/wahei.html
10:51 AM Sep 10th webから

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2010.9.9 今日は重陽の節句! 旧暦では現在の10月ですが・・・

9月9日は重陽の節句。この日になると、後鳥羽院から歌を贈られた飛鳥井雅経を思いだします。それは、正治二年のこと・・・

  その頃は九月に侍りしに、九月御坪なる心もとなき菊をおらせ給いて、
  結びつけて少将雅経に賜わる。

   長月や今日の盛りに匂へどもまだ露なれず白菊の花

  御返事

   長月や今日をや露も待ちつらん置けばしをるる白菊の花

後鳥羽院といえば、白菊!ですよね。後鳥羽院には素晴らしい御歌がたくさんありますが、なかでも私は有名な、

  心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花

が好きです。あれだけの猛き男性でいられながらの、この繊細さ・・・。「おきまどわせる」なんて・・・、それだけで惑ってしまいます! 唸るしかありませんね。それで、私も白菊がとても好き・・・なんと、影響されやすい(*゚ー゚*)

露・・・とか、涼やかな重陽の節句とはほど遠い現在の9月9日ですが、思いを馳せるには旧暦の10月という訳にいかない・・・、やはり9月9日でないと・・・

重陽の節句については、以下のサイトに詳しいです!!

http://www.bukyu.com/seck/s9.html

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2010.9.9 今日午後4:00からジョー奥田さんがNHKラジオに生出演されます!!

以下、ジョー奥田さんのブログより・・・

9月9日(木)にNHKラジオに生出演します。
番組は、つながるラジオ『ラジオ井戸端会議』。
今回は1時間の生出演。先月のラジオ日本もそうだったのですが、
やっぱり生はやりなおしが聞かない分、緊張します。

お時間のある方は是非、聞いてみて下さい。

[ 詳細 ]

日時:9月9日(木)16:00〜16:55
放送局:NHKラジオ第1放送
番組:つながるラジオ「ラジオ井戸端会議」

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2010.9.8 ツイッターから/今日は新月! 何か目標をもったら、新月の日にはじめて満月の日に達成するよう心がけると、自然音楽家のジョー奥田さんが呟かれていました!!

ジョー奥田さんは、ネイチャーサウンドアーティストという肩書をもつ素晴らしい方です。≪自然と呼吸を合わせながら、自然と一体化≫して、自然界の音を録音されています。屋久島に滞在されて屋久杉の木立のなかの風の音を、とか、浜辺でただ静かに凪のような波の音をとか・・・

そのジョー奥田さんが、今朝、「今日は新月」とつぶやかれ、「新月→満月」のサイクルで仕事をするよう心がけていらっしゃると明かされました。う~ん、と唸ってしまいました。私も「月の力」については意識をもっていたつもりでしたが、やはり机上の人でしかなかったと痛感。自然と一体化してお仕事をされている方の素晴らしさに打たれた瞬間です。

以下、ジョー奥田さんの今朝のツイートをご紹介させていただきます。

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JoeOkuda    今日は新月。午後7時30分に完全な新月になるそうだ。さあ、新しいサイクルの始まり。23日の満月に向ってどんどん新しいことが始まりそうな予感。

JoeOkuda    僕、だいたいいつも新月と満月は意識して、仕事組むようにしています。そうすると、なんかうまくいきますよ。

JoeOkuda    高砂さんとか自然を相手に仕事している人は、結構同じこと言うんですが、やっぱり月の影響って、かなり大きいようですよ。

JoeOkuda    何か達成したいことや目標があったらそれを満月の日に達成出来るように考えます。新月をスタートとしてそこに向って進んで行きます。気持ちも自分のエネルギーレベルもだんだん盛り上がるように。満月がすぎたらそこで得たものを整理してかたずけに入ります。なんかそんな感じで出来るのが理想ですね。

JoeOkuda    自然の音がこれほど人に大きな感動を与えられるようになったことは、技術の進歩と無縁ではないと思う。近年のデジタルオーディオ技術の進歩は驚異的だ。もし同じ音をカセットで録っていたら、もしコンピュータでの編集技術が無かったら、、これほど強い感動を人に伝えることは難しかったと思う。

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以下のサイトで、実際にジョー奥田さんの世界に触れてみてください!

http://www.joeokuda.com/index_j.html

http://www.joeokuda.com/blog/

★イベントのお知らせ!!
ジョー奥田・NSO(無料・完全予約制) 9月11日
「ネイチャー・サウンド・オーケストラ」を高音質で楽しむ

http://audio-cable.co.jp/hpgen/HPB/entries/134.html

ツイッターは居ながらにしてこういう素晴らしい方から秘伝を拝聴できるんです。今、ジョー奥田さんは明治神宮の音の採録と写真に取り組んでいられます。音は日中の雑音が混じらないよう、深夜お仕事をされます。そうしたら、先日、朝になって明治神宮の森に広大な虹が・・・。こういう奇遇に巡り合わせられるのも、きっと、自然と一体化しているジョー奥田さんならではですよね。

ちょうど、私も、昨日片づけものを終わって、今日からパワーポイントによる『源氏物語』講演の編集に入ろうと思っていたところ。今日が新月なんて、ラッキーな巡り合わせに感謝して、第一段階の完了を23日の満月にもっていくよう、目標を定めます!

それから、今朝、私をフォローしてくださっているフォロワーさんが、100人になりました。少し前から99のカウントで、あとお一人で100・・・どういう方がそのキリ番になられるのかしらと楽しみにしていたら・・・

なんと、なんと、その「アカウント名」は、アルチュール・ランボー・・・

もちろん、本物のランボーさんが生きてフォローしてくださったわけではありません。このアカウントの方は、ランボーの詩句を適宜撰んで呟いてくださるんです。例えば・・・

ArthurRimbaudJP    夕方、シャルルロワの御馳走の焼肉と焼鶏との、換気窓から洩れてくる香りに、鼻をうごめかしながら夕食をした。それから月光の下でフュメエの板チョコを囓りに行く道すがら…… ――学友レオン・ビリュアールに宛てた書簡(断片)、(一八七〇年十月八日?)、祖川孝訳 アルチュール・ランボー

と、こんなふうに。ツイッターは、情報や交流だけでなく、こういうふうな使い方で発信されている方が結構いられます。源氏物語、新古今集、万葉集、梁塵秘抄、与謝野晶子・・・・、それから変わったところでは、月の月齢・・・

情報や時事問題だけだと読んでいるタイムラインが殺伐してしまうので、私はこういう方をみつけるとフォローします。すると、殺伐とした呟き、現代にどっぷり浸かり安らげない呟きのなかに、何の解説も意味もなく、ただ、ときどき、新古今の歌が入ったり、舞え舞えカタツムリなんて、梁塵秘抄の歌が入ったり・・・ふっと時空が飛んでくつろぐのです。

ランボーさんのアカウントもみつけてすぐフォローさせていただきました。そうしたら、フォロー返しをしてくださったというわけ。今はどっぷり日本の古典に浸っていますが、もともと私は中学時代に読んだ小林秀雄訳『地獄の季節』で文学に入ったようなもの。ランボーは私の原点です。「みつけたわ!」「何を?」「永遠を・・・」なんて・・・(*^-^)

なんだか、こう書いているだけでどきどきしてきてしまいました。まさかランボーに回帰するとは・・・。これも新月にはじまって、さあ、これからどうなるのでしょう・・・

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2010.9.7 『吾妻鏡』から頼経登場の条を抜粋したり・・・近況報告を兼ねて今日の雑感

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久しぶりに孔雀の写真を載せてみました!! 今年も、昨年も、とうとう孔雀の写真を撮りにでかけられなかったなあ・・・と、しみじみ思う今日この頃です。これは2008年5月撮影。多摩動物公園では放し飼いにされているので、こんなふうに茂みに入っていく自然な姿を見ることができました。

仙覚と『万葉集』の原稿の初校校正を終わってほっとしたのですが、まだ一昨年来の書けなかった苦しみや、挿入する『西本願寺本万葉集』の写真を所蔵先からお借りするときの大変だったこととかの思いを引きずっていて、嬉しさとは遠い気持ちでいました。

が、校正が終盤になったころ、突然、自分で撮った取材の写真を載せることを思いついて、「間に合うなら」と、校正原稿に写真データを添付して送ったのが一昨日夜。昨日午前、もうそれが京都の出版社さんに届いて、「写真は初校だから大丈夫です」とのお返事。よかった・・・と思い、ほっとしたのでした。でも、気持ちの高揚はそこまで・・・。あまりに多忙で厳しかったので感情が籠ってしまっていました。

が、今朝、玄関前の通りを掃いていたときに、ふっと、「なんだか、嬉しい」っていう気分が湧いてきました。ん? と、それに気づいて、「私、喜んでる?」って、自分で自分を確かめたんです。そして、「ああ、私、嬉しいんだ」って。それから、はじめて、しみじみ、ほんとうに「終わった・・・」という感慨に浸りました。自分で撮った写真が載ることになったのが、たぶん、やっと「自分の原稿」という着地感になったのでしょうね。やはり私の原点は写真なんだな・・・という感慨です。

今日は終日後片付け。「抹殺された公家文化の遺産」のために集めていた資料を片づけ、鎌倉の講演に向けての準備に切り替えるためです。ほぼ終日コピーを撮っていたような・・・。お借りしている今東光氏の『順徳天皇』や、『吾妻鏡』からの頼経の項の抜粋・・・。ずっと、根を詰めてしていたら、立ったとき、ふらっとしてしまいました。コピー機の余熱にあてられたみたいです。もう回り道をすることなく、明日から『源氏物語』専念状態に突入です!!

でも、後片付けって、いいですね。ほんとうに終わったんだあ・・・という実感の満足があります。で、のんびり、昔を思い出して(原点にかえって・・・)、孔雀の写真を載せてみたくなった次第です。来年こそは撮りに行きたいと思います。孔雀の撮影時期は5月。繁殖期が一番綺麗なのだそうです。

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2010.9.6 鎌倉の『万葉集』研究者仙覚のこと―「花の蹴鞠」外伝として― (歌誌『月光』より転載)

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鎌倉の妙本寺が建つ地は比企ケ谷といい、かつてここには比企一族が住んでいました。伊豆の流刑時代を支えてくれた恩に報い、頼朝が比企尼にこの地を与えたのがはじまりです。この境内奥に仙覚の万葉集研究を称える碑が建っています。それは寛元四年の校定本奥書に「寛元四年十二月廿二日於相州鎌倉比企谷新釈迦堂僧坊以治定本書写畢」とあることによります。

新釈迦堂は頼家の遺児竹御所が三十三歳で亡くなったあとに建てられたお堂です。竹御所の母は比企能員娘の若狭局。頼家とのあいだに一幡という男児があり、その一幡が将軍を継ぐことになるのを恐れた北条氏によって比企一族は滅ぼされました。それが比企の乱です。竹御所はこの乱の年の生まれです。仙覚もまたこの乱の年の生まれで奇しくも同い年の二人です。寛元四年、仙覚は四十四歳でした。

埼玉県比企郡小川町にも仙覚の万葉集研究の功績を称える碑が建っています。それは『万葉集注釈』第十巻の奥書に「文永六年孟夏二日於武蔵国比企郡北方麻師宇郷政所註之了」とあり、「麻師宇郷」がここ小川町の増尾あたりといわれていることから、昭和三年に佐々木信綱博士らによって建立されました。文永六年、仙覚は六十七歳で以後の消息は不明です。

この二つの奥書から仙覚が比企氏に関係ある人物だろうということが推測されますが、明らかなことはわかっていません。

以前私は「北条実時と『異本紫明抄』」という原稿で、金沢文庫創設者である北条実時の『源氏物語』との関わりを書きました。実時には現在重要文化財に指定されている『尾州家河内本源氏物語』の書写という功績があります。この『尾州家河内本源氏物語』とまったく同じ大きさ・装丁の『万葉集』があり、それが『西本願寺本万葉集』です。

この『西本願寺本万葉集』は『万葉集』二十巻約四千五百首の全部を完備する現存最古の写本で、仙覚の文永三年に成された校定本を原本としています。『尾州家河内本源氏物語』と同じ装丁ということから、これも実時書写ではないかといわれています。ではいったいほんとうにそうなのかに関心をもって今私は『万葉集』研究史の森に踏み込んでいます。

長く『源氏物語』ばかりに目がいっていた私には『万葉集』自体が異質の世界で、それでまず『万葉集』について知ろうと調べてすぐに仙覚に出会いました。そして「二十巻約四千五百首の全部を完備する現存最古の写本」がこの東国の鎌倉でできていたことに驚きました。

『源氏物語』二大写本の一つといわれる「河内本源氏物語」も鎌倉で成立しています。古典の世界はどうしても京都が優位で、鎌倉は武士文化一辺倒の武骨で野蛮な地という劣ったイメージが定着していますが、日本文化の二大基層(『古今和歌集』も入れて三大でしょうか……)を成す『源氏物語』と『万葉集』の二つもが現代に通用する写本を残しているのです。どうして鎌倉はこれを誇りとしないのか、業績を埋もれさせたままにしているのかが私には疑問です。もっとこれは知られてしかるべき事実です。

現在私はこの『月光』誌に「花の蹴鞠」という小説を連載させていただいています。これは『新古今和歌集』撰者の飛鳥井雅経の生涯を軸に源平の争乱から承久の乱までを描くものです。雅経が頼朝に仕えていたことから頼朝について書き始め、頼朝が比企尼を呼び寄せ、その娘の丹後局との関わりを書かなくてはならなくなって、しばらく比企氏について調べていました。

比企の乱なんて遠い昔に教科書の片隅にあったほんの小さな私的な内乱としか捉えられていなかったのですが、知ってみて驚きました。もし北条氏によって滅ぼされていなかったら比企氏が将軍の外戚になって権力者の地位につき、北条氏の世はなかったのです。そして比企氏は北条氏と違って京の文化を身につけていますから、武家文化一辺倒の鎌倉ではない世界ができていたのです。仙覚の万葉集研究という業績は比企氏のゆかりならではのという気が私にはします。

さて仙覚ですが、この人物がいったい誰なのか、それもわかっていません。ただ比企氏の歴史をほぼ把握し終わったときにこの『西本願寺本万葉集』について調べることになったものですから、私にはピンとくるものがありました。で、目下その裏付け調査にかかっています。佐々木信綱博士をはじめそうそうたる学者の方が研究されてなお解明されないものがそんなに簡単にわかるはずがないとは私自身思いますが、真実の解明は専門分野だけの視野では到底無理です。今までの方々の限界はここにあると思います。

例えば『平家物語』ですが、この編纂時期についても明らかになっていません。現代の歴史学者の方が文献から「承久の乱後」と書かれていることからそれが定説のようになっています。残っている史料から推すとそうなるのです。

ですが、果たして残っている乏しい文献だけが真実でしょうか。『源氏物語』研究史をずっと探ってきて、「河内本源氏物語」の校訂者源光行の生涯を追っている私には、『平家物語』編纂に関わったとされる光行の生涯のなかでそれが可能な時期はここしかないということが見えています。これも以前『月光』誌で「白拍子の風」という小説を連載させていただいて慈円を主人公にして書いたことからの知識によるコラボレーション的解明です。

慈円は『平家物語』編纂の主導者といわれ、その慈円と光行の接点を探ると、編纂は後鳥羽院のもとで『新古今和歌集』編集と同時期に並行して行われていたことになります。「花の蹴鞠」ではもうじき『新古今和歌集』の時代に突入しますから、これからそれを入れて書くつもりです。

こんなふうにして仙覚の比企一族のなかに占める位置というのもほぼ確実に見えてきています。それは意外にも京の九条家との関係から確信をもてる運びになりました。比企氏ゆかりの小川町の近くに、鎌倉時代当時関東最大の天台宗寺院だった慈光寺という寺院があります。

そこに比企氏ゆかりの子供が入寺させられたと読んで訪ねました。するとそこにあったのは『平家納経』と並んで日本三大装飾経と称される『慈光寺経』。その『慈光寺経』の制作者が九条家だったのです。『新古今和歌集』の仮名序を書いた九条兼実息の良経の急死を悼んでの制作です。

鎌倉で仙覚に『万葉集』の校定を命じたのは良経の孫の第四代将軍頼経です。冒頭に記した竹御所はその頼経室です。仙覚はその竹御所の死のあと比企ケ谷に住んで万葉集研究に勤しみました。このあたりで関係が見えてきませんか? 

混迷は深い森のようですが、時間と空間で捉えると案外明るく陽が差し込んで見えてくるものがあります。慈光寺を訪ねて、『慈光寺経』の存在をそこに見て、その光が射してきました。

時間と空間を照合すると見えてくるというのは、歴史が人間と人間の繋がりでできているからでしょう。但し文献がない限り確信しても証拠はありません。ここに小説という手法が生きてくるのです。小説は時間と空間を追う作業です。

「花の蹴鞠」はじきに比企の乱を書く段階にきています。この年に仙覚が産まれるのですが、「誰」だったかを明かして書くか書かないか、それはそのとき『西本願寺本万葉集』についての原稿が発表になっているかどうかによって決めようと思っています。

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2010.9.5 仙覚と万葉集の原稿「北条実時と『西本願寺本万葉集』」の初校校正を終わりました!!

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写真一枚目は、埼玉県東松山市の岩殿観音。二枚目は、鎌倉市妙本寺境内にある「万葉集研究遺蹟碑」。三枚目は、埼玉県比企郡小川町の「仙覚律師顕彰碑」です。

春に仕上げた論文の初校が届いていて、早急に送り返さなければならなかったのですが、事情で遅れてしまい、今日やっと仕上げて、夜の時間ぎりぎりにクロネコヤマト便営業所まで持ち込んで、明日京都の出版社に着くよう頑張りました。

きっと、余裕をもって初校が届いたときにかかっていたら、余裕をもって「高いところからの視線」で校正したでしょうから、ゆうゆうできて、写真を追加しようなんて思わなかったでしょう。

けれど、とにかく私的な事情で遅らせている上、いくら余裕をみはかろうとしても無理な状態でしたので、昨日から、「明日は何があっても仕上げて、夕方の便に乗せる」って決めていたんです。それで、朝からクーラーをつけていても汗ばむ外の外気からの熱にタオル片手に頑張って、なんとかとりかかっていました。

そうしたら、終盤になって、「あの写真を入れたいな」って、ふと思ったんです。初校ですから、もちろん編集の割り付けは終わっています。入稿当時、何枚か写真を入れたいとは思っていたのですが、そのときも期限ぎりぎりの送付でしたので、写真の準備をする余裕がなく、とにかく一枚、テーマである『西本願寺本万葉集』の写真を確保して載せる手はずをつけるのがやっとでした。

『西本願寺本万葉集』の表紙の写真は無事、一枚、綺麗に載せていただいていました。それでいいと思っていたのですが、ひととおりの校正をしたあと、ふたたび最初からやりなおしていたら、ふと、「ここにあの写真を入れたい」という思いが湧いたんです。それが一枚目の岩殿観音です。

岩殿観音は、仙覚が過ごしたゆかりの真言宗寺院です。ご覧のように、境内にのしかかる大きな岩盤。こんなふうな原風景を仙覚はもっていました。それは文章だけでは想像していただけません。やはりこれを挿入しよう、と思いました。そうしたら、間に合うならついでに、鎌倉と小川町にある二つの仙覚の碑を・・・と。まにあうかどうかわかりませんが、ともかく三枚のデータを添付して送らせていただきました。

そんなわけで、今日は終日仙覚さんの生涯を追って浸っていました。二校まで届いたら終わりです。今年いっぱいの刊行になるのでしょうか。ぎりぎりどうかなあ・・・というところですね。でも、この原稿が活字にならないと、仙覚さんが誰か・・・を打ち明けられないんですよ。私のなかでは、もうとっくに公然化している気分でいろいろな方とお話しているのですが・・・

鎌倉では・・・、ではなくて、湘南では、「湘南邸園文化祭のキックオフオフイベント」が催されたそうです。主催者の方からご連絡をいただきました。会場は、「侯爵黒田長成侯の別荘で小田原城が眼下、相模湾が一望のできる絶好の場所」だったとか。今はさびれて昔の光今いずこ・・・だそうですが、「大広間の襖の屋久杉の一枚板」に孔雀の絵が描かれていたと、写真を送っていただきました。「孔雀・・・で思いだして」と(o^-^o)

仙覚の原稿も一段落したし、あと一つ写真の仕事をこなしたら、いよいよ鎌倉の『源氏物語』イベントに集中です!! いよいよ秋本番・・・ですね。

追記:
今、京都の編集者さんから「校正が届いた」旨のメールをいただき、写真の掲載も初校なので問題なく載せていただけることになりました。間に合ってよかった!! もう、原稿は一年間苦しんだほど書けなかったし、やっと仕上げて送るときには、『西本願寺本万葉集』の写真を所蔵先からお借りできるか四苦八苦・・・、とても他の写真を載せようなど思う余裕は湧きませんでした。

それにしても、昨夜19:00受付終了のぎりぎりにヤマト便に持ち込んだ原稿・・・。それがもう京都の出版社さんに届いているなんて!! 助かりますが、凄い時代ですね。

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ツイッターから・・・蛍飛ぶ夜空や天の川が写る星空の写真/岡山に妹尾晶さんという写真家さんがいられます!!

まず、ご覧になってください。

http://paragus.blog91.fc2.com/

http://blog-imgs-43-origin.fc2.com/p/a/r/paragus/1DmkIII_100602_07894n.jpg

http://www4.ocn.ne.jp/~darkside/firefly/

説明はいりませんね。私はとても好きです。毎日のようにツイートして写真をアップしてくださるので、私も毎日星空を見ているような気分です。

でも、私は天の川というものを実際の夜空に見たことがないんです。遺跡発掘調査会で仕事をしているとき、函館出身の調査員にそう言ったら、「可哀想に」って言われてしまいました。なので、この方の写真の夜空にいつも煙のような白いものが空に立ちあがっているのが写っていて、何だろうとふしぎでした。これが天の川だ、って気づいたのはつい2,3日前。衝撃でした。天の川ってこんなにくっきり見えるんですね・・・。都会では星座の位置から、「ここは天の川のはずなんだけど、目を凝らしても見えない・・・」です。

以下はISS関連の写真です。ISSって、いわずと知れた国際宇宙ステーション。野口さんの滞在で私も興味をもったのですが、時間を調べれば見えるらしいですね。日没直後とかにはかなり光って通過するとか・・・

http://iss.jaxa.jp/iss/map/photo/2010/resize/20100826_5548.jpg(ISS通過の光跡と国分寺五重塔なんて・・・!!)

http://www.jupiter-jp.net/hyosi9/hyosiP-L/ISS-L.html(これは別の方の撮影ですが、妹尾さんが紹介されていました。凄い写真!! 月面にISSの影が写っているんです!!)

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2010.9.1 ツイッターから/梅原猛氏『葬られた王朝 ―古代出雲の謎を解く―』のこと・・・こういうのあり得るなあと興味津津

ツイッターで紹介されていました。梅原猛氏が『葬られた王朝 ―古代出雲の謎を解く―』というご著書を出され、それに対しての三浦佑之氏の書評です。どうして今まで考えが及ばなかったのだろうと、自分がふしぎになってしまいました。

それは、荒神谷遺跡から大量の銅剣がみつかり、翌年には銅鐸・銅矛がみつかり、さらに加茂岩倉遺跡から大量の銅鐸がみつかり、出雲大社の地下から巨大な柱が出土したというのに、出雲に実質的な政権・・・出雲王朝が存在しただろうことに思いが及ばなかったこと。

従来、出雲は神話の地だったそうで、ヤマト政権以前に出雲王朝があったなど誰も考えていなかった。が、これらの貴重な発見で、著者の三浦氏は「これは出雲に対する認識が変わるだろう」と思っていらしたそう。けれど、学界では何も変わらず???と思っていらしたところに、梅原氏がこのご著書をだされて喜んでいられるという。

梅原氏ご自身が、出雲王朝を認められるのは以前の自説を覆すようなことになるので大変なお立場。それをあえてせざるを得なくしてなさったことに敬意を表されてのことです。

私などはちょうど遺跡発掘の仕事に従事していたころの大発見の数々です。大きな政権があったとも思えない地にこれほど大量の銅鐸が?・・・と当時とても話題になり、かつ謎とされていました。王朝があったとするなら、実質的にあり得る話で、謎でもなんでもなくなります。どうして誰もそこに思いが至らなかったのでしょう。やはり、従来の説から思考をはずすのが大変なのは、どこにいても同じですね。

アドレスを載せさせていただきますので、直接ご覧になってください。

http://homepage1.nifty.com/miuras-tiger/20100604-dokushojin0001.pdf

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