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2010.11.30 鎌倉の源氏物語講演→《パワーポイント作成奮戦記》再開17・・・11月27日、湘南邸園文化祭の鎌倉投信邸における【紅葉賀】当日の朝、パワーポイントのプロジェクターに繋ぐ設営まで

11月27日の湘南邸園文化祭【紅葉賀】の朝です。会場の鎌倉投信邸に到着したときから、パワーポイントに編集したスライドをプロジェクターに繋ぎ、はじめて映写したときのもようです。この日は発表に備えて、まさかの容易にPCをモバイルとノートの両方を持っていったために、カメラは持ちませんでした。気持ちをPC関連だけに集中したかったからです。なので、これは携帯で撮ったもの。

設営段階の何もない会場・・・というのが私にはたまらない魅力で、撮らないと決めていたにもかかわらず、結局は携帯を出して撮ってしまいました。これは2008年に写真展を開いたときに知った醍醐味。はじまる前のひそかな興奮を内包する静かな空間・・・なのです。はじまってしまうとこれががらっと変わる。そんな直前の光景・・・。当日私が撮ったのはここまで。講演がはじまって以降の写真はありません。どなたかくださらないかな・・・

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1.鎌倉投信邸はこの路地を入った奥。玄関が見えています。古民家で、とても投信というような先端の企業の社屋には見えません。大御堂橋を渡ってすぐの道を曲がったところにあります。

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2.鎌倉投信邸玄関の前。真っ赤な紅葉の出現にビックリしました。宮内流いけばな家元の宮内信江様が、この日のために心血を注ぎいけられた見事な紅葉のアートです。緑があって映える赤。その赤にまた黄色が混じって、それはそれは豪奢なことこの上ない華やぎ。前に立ったとき一瞬息が止まるかと思われたほどの驚きでした。壺を乗せている青竹の台は、鎌倉投信邸の裏山の竹を切り、社員の方が作ってくださったものだそうです。

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3.到着したときにはすでに社員の石塚様が、私のPCを置く台に仮のPCを置いて、プロジェクターとともに準備完了してくださっていました。並べられた三人掛けの椅子は、鎌倉投信社長の鎌田様が建長寺様からお借りしてくださったもの。企画の段階では皆様にお座布団に座っていただいての観覧ということでしたが、それでは窮屈でしょうとの鎌田社長様のご配慮です。

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4.同じ光景を反対側から撮ったもの。窓からの陽射しが綺麗です。中央にある器械がプロジェクターです。

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5.プロジェクターに繋いで、無事スライドが投影されました! 映っているのは実際に部屋を暗くして講演をはじめるまで、明るいまま映しておく用のスライド。「ー紅葉賀ー 於鎌倉投信邸 11月27日 織田百合子」と記しました。仮のPCから変えて私のPCが写っています。このPCでほぼ半年、パワーポイントの作業をしました。懐かしい気のする木の雨戸を閉めて・・・

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6.「源氏物語文化へのいざない」は、書家の奥村由紀子様に書いていただきました。素敵でした。

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7.プロデューサー稲田様が持っていらした在原業平の掛軸。江戸時代の国文学者黒川真頼という方の次男黒川光隆氏の制作です。この日の為にあったような・・・と、稲田様がお家にあったのを思い出されて・・・。ここにも宮内様のいけられた紅葉が映えています! 宮内様はこの紅葉の枝を目測で寸分の狂いもない長さに切ってらしていけられたそう。イメージしてこられたとおりにピタッと嵌まって形が決まったそうです。掛軸と織りなす雅のなんという空間!! プログラムの最後、坂(ばん)様の琵琶はこの床の間を背に演奏されました。演目は「葵の上」。葵の上が主人公とばかり思っていたら、実際は六条御息所。それを坂様が最初に解説されたので、怨念の噴き出るような凄まじい迫力を覚える演奏でした。

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8.宮内信江様が庭にもいけられた紅葉・・・。晴れているとはいえ寒空の中、コートも召さず、お昼も召しあがらずに、ひたすらイベントの開始時刻までの時間を生け続けけられた宮内様。ニューヨークの国連、G7、各国大使館・・・と凄いご活躍をされている宮内様の気魄に圧倒され、固唾をのんで、完成されてゆくいけばなを見守らせていただきました。皆様が帰られたあと、暗くなったので紅葉のライトアップをしました。その時の見事だったこと! これを見ていただきたかったわね・・・と、みんなで惜しみました。

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9.鎌倉投信邸の真新しい青垣です。背後の庭から陽が射していました。清々しい光景・・・

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10.鎌倉投信邸の庭の紅葉の木。この木にちなんで【紅葉賀】と命名したのでした。

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2010.11.28 ツイッターの呟きを転載・・・昨日の湘南邸園文化祭「紅葉賀」における鎌倉の『源氏物語』講演のこと!

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昨日11月27日、鎌倉で湘南邸園文化祭の中のイベントとして、鎌倉投信邸で、鎌倉の『源氏物語』についての講演をさせていただきました。題して「紅葉賀」。それにふさわしい優雅な一日でまだ余韻から覚めません。記事として詳細にまとめたいのですけれど、時間がかかることですし、取り急ぎツイッター上でのツイートを転載させていただきます。

写真は講演に使ったスライドの一番最後、100枚目です。

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odayuriko 1.昨日の湘南邸園文化祭は盛会のうちに終わった。振り返って今回の経緯を記させて頂きます。『尾州家河内本源氏物語』の存在に出逢ったのはもう10年以上も前。鎌倉にこんな立派な源氏物語文化があったなんてと驚き、同時に何故それが一般に知られていないのかが不思議で理解できなかった。(続く)

odayuriko 2.2005年に論文を書く機会を頂いたので、『尾州家河内本源氏物語』の奥書にある北条実時と源氏物語の関わりを探って書いた。そして浮かびあがったのが第六代将軍宗尊親王御所における源氏物語ブーム。実時は幕府の代表として宗尊親王に仕えていた。源親行もいて「河内本源氏物語」を完成させる。

odayuriko 3.2008年の源氏物語千年紀に、私は鎌倉にも立派な源氏物語文化があったことを鎌倉で発信して祝って欲しいと思って訴えた。が、一市井人の声では届かず、急遽「写真でたどる源氏物語の歴史」という写真展を開いて再び訴えた。それを掬いとって下さったのが湘南邸園文化祭の稲田様だった。

odayuriko 4.稲田様は鎌倉でその写真展を開く機会を探して下さったが難航、一年が過ぎた。2009年の冬、稲田様が鎌倉の古い民家を社屋にされている鎌倉投信という会社と出逢う。湘南邸園文化祭は、湘南地方に息づく古民家文化の再生活動をしているプロジェクト。鎌倉投信邸はまさにそれを実践していた。

odayuriko 5.稲田様はすぐに訪ねて湘南邸園文化祭の主旨を伝えると、鎌田社長から会場提供OKの即答を頂いた。但しスペース的に写真展は無理なのでパワーポイントに編集して講演をと。稲田様からその連絡を頂き、はじめて鎌倉投信邸を訪ねたのは2010年になった今年の4月だった。そこで正式に決まった。

odayuriko 6.11月27日と決まったのは鎌倉投信邸の庭に大きな紅葉の木があったから。折角ならあの紅葉が真っ赤に色づく時期にという事で「紅葉賀」の名称も決まった。そして源氏物語文化らしい風雅な一日になるよう、宮内信江様のいけばな、御園井裕芙子様の創作和菓子にお抹茶のふるまい、坂様の琵琶と・・

odayuriko 7.私はパワーポイントの編集をしながら鎌倉の源氏物語文化の推移を詰めて宗尊親王御所での動向に確信を深め、11月23日の予行演習に向けてひとまず完成させ、さらにそれを詰めて当日に臨んだ。スライドは写真、フローチャートを含めて100枚になっていた。

odayuriko 8.予行演習を終えたあと、鎌田社長からダイレクトメッセージを頂いた。「織田さんの美しいプレゼン資料を見て大きいスクリーンに変えました」と。私も予行演習で使ったモバイルPCではなくパワーポイントの編集を実際に作業していたノートを使うことに変更。作業したPCでないと画面がゆがんだ為。

odayuriko 9.当日はまさかの時の用意にモバイルとノートの両方を持参。岡山に出張されていた鎌田社長はツイッターに「織田さんの講義は新しい発見だらけ」と予告して下さり、社員の石塚様に会場でのプロジェクター等の手配をして下さっていた。大きなスクリーンでの上映は見事に映えて皆様に堪能して頂いた。

odayuriko 10.当日の参加者は50名ほど。大半が鎌倉在住の方だった。そして皆様が「鎌倉にいながら今まで知らなかった」と、鎌倉の源氏物語文化を受け止めて下さった。鎌田社長から「何よりも織田さんの心に刻まれるイベントになり最高です」と再び温かいメッセージ。思わず涙が滲みそうになってしまいました。

odayuriko 11.思えば私はずっと戦ってきました。何と戦っていたかというと「従来」という厚い壁です。従来鎌倉は武士の都でした。武士の都鎌倉に源氏物語文化は不要なんです。世界遺産登録に邪魔と闇打ちされるぞと冗談に言われたことも。また国文学世界でも源氏物語研究に鎌倉の源氏物語は不要というのが現状。

odayuriko 12.でも文化は人が作るものです。『尾州家河内本源氏物語』のような立派な写本が突然変異的に鎌倉で成立するなどあり得ません。そこにはそれを成すだけの知性と情熱をもった人達がいたのです。『尾州家河内本源氏物語』はその存在でもってそれを私達に語りかけてきています。素敵なイベントでした。

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2010.11.26 鎌倉の源氏物語講演→《パワーポイント作成奮戦記》再開16・・・いよいよ明日に迫ってきました。凄い会になりそうです!! どきどき・・・

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鎌倉投信邸で講演させていただく「写真でたどる『源氏物語』の歴史―鎌倉で『尾州家河内本源氏物語』ができるまで―」の日も、いよいよ明日に迫ってきました。23日に予行演習をしたあと、私もパワーポイントの編集を見直したり、当日使用するPCをモバイルでなく、パワーポイントの作業を行っているこのPCにしようと決めたところですが、なんと、今朝、鎌倉投信社長の鎌田様が「織田さんの美しいプレゼン資料を見て、スクリーンを大きいのに変えました」と、ツイッターでご報告してくださったのです。朝一番の緊張とはこの事! とばかりに、一気に緊張してしまいました。

当日の演目は私の講演の他に、いけばなの宮内信江様、琵琶の坂様、陶芸の芹川明義様、そして、創作和菓子の御園井裕子様に早稲田の校友会の方々がお茶をたててくださり、というようにそれぞれご本領発揮で場を彩ってくださいます。こんな贅沢な空間、滅多にないでしょう・・・と思われるイベントになりました。

今日はすでに宮内様が鎌倉投信邸で明日に向けての作業を早くからされていられます。プロデューサーの稲田様は飾る紅葉の手配から何から何まで心を配って付き添われて・・・。宮内様は国連やユニセフ、それに伊勢神宮の式典など、それは凄い場でお花を生けてこられている方。先週もニューヨークにいらして国連での活動をされて帰られたばかり。お話を伺うと、明日の会のために、いつもより日程を縮めて帰国されたとか・・・。お花を生けるにはただ花器とお花を揃えて盛るだけでなく、10日とかそれ以上も前からいろいろな配慮の準備が必要なのだそうです。今日は、たぶん、お庭に置いて紅葉を飾る壺を洗ったりするだけでなく、夕刻あるお宅から切って頂戴してきた紅葉を、まず水で洗い、それから朽ちて傷んだ葉を丁寧にとって・・・そういう準備をされるはず。私も当の講演者でなければ駆けつけてお手伝いさせていただきたいところですが、ほんとうに頭がさがります。

でも、ニューヨークの国連で生けていられる方のお花を、明日いらした方はご覧になれるんですよ!! 素晴らしいでしょ。滅多に見られないでしょうものね。申込まれていない方も、そっといらしてお庭を覗いて見られたら! なんて思ってしまいます。

御園井様の創作和菓子も、それは素敵!! 『源氏物語』にちなんで作ってくださるそうです。題して「十二単衣」。どんなお菓子になるのでしょう。お茶は参加者50名にとなると大変なことになりそうですが、器は芹川様が作られたもの。なんなく50個は揃う場面に遭遇して絶句してしまいました。講演のあと、琵琶に繋ぐ合間の休憩に、お茶とお菓子を堪能していただきます。

坂(ばん)様の琵琶は薩摩琵琶です。私も今回坂様のお話を伺う機会が増えて、琵琶への知識がちょっとできました。まず、『源氏物語』にでてくる琵琶や正倉院の琵琶は雅楽の琵琶で、盲目の法師が奏でる平家琵琶とは別ということ。楽の琵琶は楽器を横に寝かして演奏するのだそうです。それに対して平家琵琶は立てて、聴衆に楽器の面を見せて演奏する・・・。盲目の琵琶法師には弦を見る必要がなかったから・・・とかだそうです。

平家琵琶にも流派というか、種類があって、坂様のは薩摩琵琶。他に筑前琵琶があります。上原まりさんは筑前琵琶。撥が小さめでどちらかというと繊細です。それに対して坂様は薩摩琵琶。薩摩藩の武士の琵琶で、いざとなると撥が武器にもなるというほど、撥が大きくできています。坂様は華やかな方でいられますが、風格もあって、薩摩琵琶がほんとうにお似合い。素敵です。坂様のお話は凄いですよ! なにしろ琵琶でもって『平家物語』を生きていられるのですから。稲田様から聞いた話ですが、坂様は「死んだ人は死んでいない!」とおっしゃられるとか。琵琶は鎮魂の楽器なのだそうです。

23日に鎌倉投信邸で予行演習をしたときに、坂様も見てくださっていて、中に仙覚の関係で妙本寺と比企氏に関するくだりがあったので、「貴女、比企氏の系図も作って、そこに島津忠久を入れて、それが薩摩琵琶になったことを入れてよ!!」って。それで昨日作ったのが上に載せたフローチャートです。当日、しっかり、「このあと坂様が琵琶を演奏してくださいますが、それはこの島津忠久が薩摩守になって・・・」とお話に盛り込もうと思っています。嬉しかったですね! 坂様にそう言っていただいて・・・。お陰で仙覚と竹御所のあたりのお話が充実できました。

パワーポイントは、編集するときに使っているPCでないと、プロジェクターにかけたときに画像が崩れるという事は知っていましたが、あえてモバイルを出して持っていって使ったら、案の定、写真のバランスが崩れてしまいました。ご覧になる方にさしつかえるほどではなくても、見る方が見たらわかります。大変でも、この大きなノートPCを持っていこうと決めました。せっかくですものね。そうしたら、鎌田社長様まで大きなスクリーンに変えて下さったとのこと。絶句して、「どうしよう。どんどん大変なことになって」と言ったら、主人が「いいじゃないか。小さなのに変えましたって言われるより・・・」ですって。大笑いしました!!

これから、このノートPCでプロジェクターの練習に入ります!!!!! それにしても、鎌田社長様のツイッター、「思う存分講演してください」には恐縮の至りとともに嬉しかったです・・・

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2010.11.25 彫刻家・勝野眞言氏個展「記憶の軌跡と出会うとき」が熊本市で開催されています!

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勝野眞言(まこと)氏は、私が鎌倉で講演させていただくイベントのプロデューサー稲田様の弟さんでいられます。「個展を見に熊本へ行ってくるわ・・・」とのご連絡があったあとの、23日の予行演習。そのときに、「帰る直前の飛行場に電話が入って、今朝の熊本日報に載ったから」とのことで、急いで売店で買われた新聞だそうです。

頂いて、素敵でしたので、「ブログに載せさせていただいていいですか?」とお願いしてご紹介させていただきます。勝野眞言氏は崇城大教授でいられます。

◆新聞から・・・

会期: 12月5日まで
会場: 熊本市津奈木町「つなぎ美術館」
        水曜休館 0966-61-2222

     土の優しさと豊かな叙情性を備えた、テラコッタの人体像が並ぶ・・・

     少女や女性の彫刻を中心に68点。大半は600~800度で焼いたテラコッタか、焼   く1200度の高温で焼き締めた陶の作品・・・

「(型どりして樹脂で完成させるのではなく)素材を見て探って、手で作った状態をそのままとどめたい」とお話されています。お写真で拝見した素朴な風合いはそれなんですね!

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2010.11.24 ツイッターから転載・・・昨日の鎌倉講演予行演習のようす!

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昨日、27日の講演に向けて、会場を提供していただく鎌倉投信邸で、予行演習をしました。そのようすを呟いたツイッターを転載させていただきます。

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odayuriko 昨日は鎌倉投信邸で27日の本番を控えての予行演習。琵琶の坂様、いけばなの宮内様方と過ごす。ご専門の含蓄深いお話を伺う有益な一日。鎌倉投信邸では新しい青竹の垣根が造られていて27日に完成を観るのが楽しみ。情趣ゆたかな凄い一日になりそう。歴史の深さがそれを可能にするのだと感慨。

odayuriko パワーポイントで編集したのをはじめてプロジェクターで投影。鎌倉投信社長の鎌田様も聴衆に加わって下さる中で駆け足でひととおりを話す。終わって鎌田社長に写真が綺麗ですねとおっしゃって頂く。『源氏物語』の催しにふさわしい華やかな画像をあえて選んだのが報われた思い。皆様からの反応は・・・

odayuriko 坂(ばん)様の琵琶は薩摩琵琶。そうでなくても琵琶といえば平家物語。坂様の最初の一言が「こんなに平家が関係してるとは思わなかった」。プロデューサーの稲田様は「なんだか平家物語の講演を聴いた気分」。河内本源氏物語編纂の源光行が平家に仕えていて王朝文化に染まった人物を強調した結果。

odayuriko 今まで定家や光行が青表紙本や河内本源氏物語を作ったといわれても背景が語られることはなかった。でも二人は二十歳過ぎまで平家の人と交わりたっぷり平家文化の恩恵を受けて育った。それが文学に反映しないわけがない。青表紙本と河内本源氏物語はその産物というのが私の主旨。それを理解して頂けた。

odayuriko 「―写真でたどる『源氏物語』の歴史―」という講演。厳島神社や宇佐八幡宮社殿の圧倒的な朱の画面。語らなくてもその時代に生きていたら染まるだろうことが納得できる。ビジュアルの効果。これを話すだけの講演でしたら難しい内容になってしまう。写真家ならではの方法をこれからも編み出したい!

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2010.11.22 昨夜のツイッターの呟きから・・・お茶の水図書館「竹柏園本万葉集」を拝観して

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昨夜、お茶の水図書館の展示【竹柏園本万葉集】を拝観して思ったことの呟きをツイッターから転載します。

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odayuriko 今日は快晴。今日から鎌倉の講演用のパワーポイント編集をプロジェクターを使っての練習に入る。スライド毎のコメントをつけていたのだけれど、それを止めてぶっつけ本番のように始めてみようと。使用するモバイルPCもしまいっ放しだったし、まずは機械のチェックから。ちょっと緊張・・・

odayuriko 昨日のお茶の水図書館「竹柏園本万葉集」展示を拝観してのこと。待望の『西本願寺本万葉集』は四冊展示されていた。一見して四冊とも筆跡が違った。先に完成していた『尾州家河内本源氏物語』54帖も複数の人物による筆跡。同じ筆跡があるか20巻と54帖を見比べてみたい。どうなるだろう・・・

odayuriko それよりも驚いたこと! 源親行の花押といわれる奥書をもつ『古葉略類聚鈔』。建長二年の書写。将軍は第四代頼経の時。頼経が親行と仙覚に『万葉集』の校訂を命じた。仙覚の万葉学者としての始まり。親行は『源氏物語』に戻って建長七年に「河内本」を完成させる。建長二年書写者は親行の可能性・・・

odayuriko 連投します・・・ならば、『古葉略類聚鈔』の筆跡が『尾州家河内本源氏物語』奥書の「正嘉二年実時書写」の筆跡と同一だったとしたら、との思いで帰宅して調べた。結果は、別人で気落ち。同一人物だったら『尾州家河内本源氏物語』奥書は親行が書いた?となったのにと。でも、両者の筆跡を並べて見たい

odayuriko 親行の筆跡かもしれない『古葉略類聚鈔』。その筆跡は凛として堂々として綺麗だった。まさに私が親行に対して抱いていたイメージ通り。「河内本源氏物語」は父光行の業績の声大だが、私は親行も光行に勝るとも劣らない文学者だったと感じている。この時代を小説にするなら主人公にしたいくらい・・・

odayuriko 今日は予定したほどには作業が進まなかった。が、レーザーポインター付きのプレゼンターを購入。ヨドバシカメラ吉祥寺店が近いのでいつでも買えると思っていたが、在庫が殆どない。訊くと「あまり売れないから」と(笑)。色やデザインを選ぶこともできずに頁送りとレーザー付きは一機種しかなかった。

odayuriko 先の呟きのプレゼンターの件で・・・、一機種しかなかったというのは予定していた形状で予算内ではのこと。条件を広げればたくさんありました。でも、購入した機種のレーザーポインターの光は緑。赤が一般的で、緑の方が見やすく高価なのだそう。緑・・・でよかった!

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追記:
『西本願寺本万葉集』20巻全部の書写者の筆跡に、『尾州家河内本源氏物語』の実時書写奥書と同じ筆跡があるかこそ、見てみたいと気がつきました・・・。奥書にある文字を含む歌を各巻から探して照合すればいいんですよね・・・。時間があったらするのだけれど・・・

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2010.11.20 【お茶の水図書館所蔵 竹柏園本万葉集展示会】を拝観してきました!

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今日はとてもいい日でした! 何故って、『西本願寺本万葉集』をはじめてこの目で見ることができたんです!!

『西本願寺本万葉集』は現在お茶の水図書館の所蔵になっています。来歴を記しますと、鎌倉で成立したあと、金沢文庫に収められ、鎌倉の滅亡時に流出して足利将軍家の所蔵となり、足利義満が皇室に献上。天文11年に後奈良天皇から西本願寺に下賜されたために、『西本願寺本万葉集』と呼ばれています。

『西本願寺本万葉集』は『尾州家河内本源氏物語』と同じ装丁をもつ万葉集です。足利将軍家の所蔵まで来歴は一緒です。その後、西本願寺に渡ったのと、徳川家康に渡ったのとで、現在の所蔵先が分かれているのと、現在一緒の誕生だったことが語られていないという実情になっています。

竹柏園本というのは、佐々木信綱博士が収蔵された古典籍です。博士の寄贈でお茶の水図書館の所蔵となっています(このところ、曖昧かもしれませんが、大筋のところと解釈してください。済みません)。

そのお茶の水図書館で、今日20日の一日のみ、貴重な『万葉集』関係の古典籍の展示をしてくださるというので行って参りました。お世話になっている金沢文庫の学芸員さんから教えていただいた情報です。(いつも有難うございます!!)

冒頭の写真は会場で頂いた展示リストです。パンフレットはなく、資料としてはこの一枚だけで、写真撮影も禁止・・・という状況でしたので、必死になって書き込んだものですから、汚くなっています。でも、写真が無理なら、せめて筆跡の感じだけでもと、一生懸命似せて写した花押もありますから、目を凝らしてご覧になってください!

展示は、最古の『万葉集』の断簡からはじまって江戸時代のものまで、すべて見応えある素晴らしいものでした。江戸時代のものには賀茂真淵や本居宣長の自筆のものまで展示されていて・・・。でも、こうして通観してみると、ほんとうに時代時代によって書写の雰囲気、筆跡・書体の違いがありますね。江戸時代になると、本居宣長のような大家の方のでさえ、ノートとかメモといった学術的書込み的ですが、古いものには大切なものを描き残そうとする畏怖・敬虔が感じられて目が吸い寄せられます。字も堂々として・・・

で、展示の『西本願寺本万葉集』ですが、巻8、巻10、巻14、二十帖の四巻を拝することができました。私が関心を寄せているのは、『尾州家河内本源氏物語』と同じ装丁ということで、表紙をじっくり観察させていただきたかったのですが、『万葉集』は歌の世界ですから、中を開いた歌のページばかりの展示・・・、閉じた形で表紙がよく見える展示ではありませんでした。それは仕方ないのですが、「二十帖」の背後に表紙が添えられていて面影を推察することができました。『尾州家河内本源氏物語』と全く同じかどうかは並べてみなければわかりませんが、似たような藍色の表紙に綴じ方をした大型本・・・ということで、『尾州家河内本源氏物語』と同じとみていいのでしょう。(これが今日訪ねた最大の目的です。)

4冊拝観したわけですが、全部別人の筆跡で、これだけでも4人の人がかかっている?・・・といった感触です。ということは・・・などと、私のなかでは宗尊親王更迭後の御所に残った人々の動向のなかでの書写状況を思ってしまいました。

今日、このブログに最も記しておきたいのは、展示の中に、源親行のものかもしれない冊子があったんです!! それは『古葉略類聚鈔』といって、建長二年に書写された奥書があります。「河内本源氏物語」が完成するのが建長七年。親行は最初、第四代将軍頼経に命じられて『万葉集』の校訂をしています。それをただ一人の校訂では誤りもあるだろうからと、頼経は二番目に仙覚に同じ作業を命じます。それが発端で仙覚は『万葉集』研究者になり、親行は『源氏物語』に戻って「河内本源氏物語」を完成させるのです。

建長二年はそういう状況の頃・・・。キャプションの「奥書の花押は親行」という一説があるというのを読む前から、私も「もしかして親行の書写本?」と思ってしまいました。で、展示室の方に鉛筆をお借りして必死になって写してきたキャプションをご紹介させていただきます。写真の右端に書き込んだそれです。

建長二年(1250)の書写。『万葉集』の歌を類聚編纂したもの。現存する五冊のうちの一冊。筆者は明記されていないが、巻末に「建長二年九月十二日書写之 花押」の奥書があり、この花押を一説では「親行」と読んでいる。原三渓旧蔵。箱書は富岡鉄斎筆

この奥書が親行のものとしたら、もしかして『尾州家河内本源氏物語』奥書の「正嘉二年実時書写」と同じ筆跡だったら・・・とのひそかな期待を抱いて帰宅。早速『尾州家河内本源氏物語』「夢浮橋」巻巻末の奥書を見たのですが、明らかに別人でした。『尾州家河内本源氏物語』奥書の方が弱々しい・・・。親行の筆跡かもしれない『古葉略類聚鈔』の筆跡は堂々として、とても綺麗な癖がある字で、書きなれてしかも自信のある人物・・・といった感じ。私が想像している親行の人物像ならそうだろうといった素敵な書体でした!

この展示を拝観するまで、じつは落ち着きませんでした。この目で『西本願寺本万葉集』を見たことがなかったからです。いくら高名な先生方の調査結果といえど、『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』が同じ装丁というのは、確かめてみなければほんとうにそうか自信ありませんよね。違ったらどうしよう・・・との思いがずっとあって、それで今日まで講演のためのパワーポイントの編集も一目散の集中にならなかったのは確かです。

今日、両者を並べてみて明らかにぴったりというのではありませんが、一応、「これなら同じなのだろうな」という感触を得ましたので、これから先へ進みたいと思います。講演はもう一週間後に迫っていますし、その前に一度プレをしますので、今日・明日にでも編集を終えたいところ・・・。もう脇目をふっている時間がありませんので、やっと拍車をかけて仕上げる覚悟が座りました。明日からプロジェクターを出して動かしてみます!

(それにしてもメモの文字の汚いこと! )

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2010.11.20 ツイッターの呟きから・・・源氏物語考古学、偉大なる先達がいられました!!

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源氏物語考古学宣言! として書いたあと、はっと気がつきました。既に先人がいらしたのです。しかも、それは相当に偉大な・・・。ツイッターの呟きを転載させていただきます。写真はずっと以前に撮った京都御所の紅葉・・・

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odayuriko 鎌倉に『源氏物語』文化が存在し、『尾州家河内本源氏物語』ができるまでの変遷をたどっているが、それはかつて就いていた考古学の手法で導き出したことに気がついたばかり。が、思いだした。角田文衛先生がすでにそれをなさっていた。紫式部の邸宅跡を特定されるなどわくわくするご論の先生・・・

odayuriko 疑いもなく国文学の先生と思い崇拝していた。が、考古学の仕事に従事していたときのこと。その年の考古学総会での基調講演が角田文衛先生の「ポンペイの発掘調査」についてだった。紫式部研究のあの先生?と、実際に講演を拝聴するまで信じられなかった。でも、プロフィールを見たら紛いようもなく、

odayuriko 角田文衛先生は最初考古学に従事されていて、ポンペイでは発掘調査事務所の所長をされていたほど。その後『源氏物語』に移られたのだ。先生のご著書を拝読すると、ご論の進められ方にとても馴染み深いものをよく覚えたのは、根底が考古学だったからだと、今にして思う。

odayuriko 山中裕先生も『源氏物語』準拠論の大家でいられるけれど、歴史学者で国文学に携わっていられる方。先生の準拠論もまた素晴らしく楽しかったけれど、それも視点が国文学の範疇を超えていられるから。先生には最初の論文「北条実時と『異本紫明抄』」をお送りさせて頂いた。

odayuriko 『尾州家河内本源氏物語』があった金沢文庫には他に『たまきはる』など国文学の資料もあるけれど、今までそれを研究されたのはほぼ山中裕先生ただおひとり。それで「北条実時と『異本紫明抄』」を喜ばれいきなりお電話を頂戴して恐縮した。もっとああいうのを書いて下さいとも言っていただいた。

odayuriko これから八木書店で刊行される『尾州家河内本源氏物語』の影印本の解説を書かれている岡嶌偉久子氏は五年もの月日をかけて本文を調査された。私の宗尊親王制作説は氏のご論を受けて展開させていただいた。研究は広いフィールド内にひとしなみにみんなあることに感謝・感動している。有難うございます。

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2010.11.19 今年はじめての綺麗な星空・・・しし座流星群は見えなかったけれど

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最近はほんとうに星が見えません。オリオン座だけは輝きがはっきりしているので見える…程度です。なのに、今夜は(19日2:30)、ふっと「しし座流星群が見えるかしら」とベランダに出て見あげたらびっくり!! オリオン座の周りにも星がいっぱい光っている・・・、もう嬉しくなってカメラを取り出して写してしまいました。でも、手抜きで、三脚なしのコンデジです。なのに、こんなに写ってくれました!

一枚目は、ちょうどオリオン座の中を飛行機が通過しています! こんな夜中に飛行機なんか、しかもこの航路で通ったかなあ・・・、羽田がオープンして24時間だから変ったのかなあ・・・などと、思ったのですが。

流星群はみませんでしたが(ピークは昨夜でした。なのにあいにくの雨空。それで今夜でも少しは見られるかと期待したのです。)、ほんと、綺麗な星空でした。プレアデス星団も、竪琴座も、カシオペアも・・・、わくわくして見てしまいました。プレアデス星団が見えたなんて、何年ぶりだろう・・・

クリックしてご覧になってください。少し大きくなります。

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2010.11.17 『源氏物語』考古学宣言! 私の論文の手法は国文学ではなく考古学だったとわかって納得・・・。今までのもやもやの霧が晴れました

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鎌倉の『源氏物語』を追っていろいろ書いたり発表していますが、『源氏物語』を主題にしているので、今まで私は国文学の領域に居させていただいているのだとばかり思っていました。でも、どうしても違和感があって居心地悪く、それを私は人文系の大学出身でないからだと卑下して遠慮しているからだと思っていました。論をたてる方法も、皆様と違うのは、正規の学問を修めていないからだと・・・

けれど、わかったのです! 昨日、突然、覚醒しました

もともと私は小説を書いていて、さる文学賞の新人賞もいただきました。が、そのときに第二作が書けなくてあえなく挫折。代わりにといったような感じで次席の方が華々しく活躍されるのを見ながら、ひとりどん底の穴倉生活を送りました。文学を忘れるために就いたのが遺跡発掘調査の仕事。そこで、汗と泥にまみれながら、掘って、掘って、掘って、掘り当てたのが鎌倉の『源氏物語』という鉱脈でした。

すっかり文学への未練がなくなり、休日にはカメラをもって鎌倉を撮って歩きました。そんな中で出会ったのが、金沢文庫の展示にあった『尾州家河内本源氏物語』です。『源氏物語』が大好きな私はすぐに惹かれ、どうしてこんな立派な写本が鎌倉に? こんな立派な『源氏物語』が鎌倉に(東国に)あるのに、どうしてそれが一般に知らされていないのだろう・・・という疑問をもちました。

遺跡発掘調査会の棚には、膨大な量の全国各地で発掘された遺跡の発掘調査報告書が並んでいました。文学に傷ついていた私は、無機質のそれら報告書を、端から端へほとんど網羅して読みふけりました。いつしか私は論理的な思考ができるようになり、論理的な文章が書けるようになっていました。ある寺院から出土した2500個の経石に書かれている経典の解明を担当し、報告書も書きました。

そのあいだずっと『尾州家河内本源氏物語』の存在は私のなかで気にかかっていて、論文を書く機会をいただいたときに、「北条実時と『異本紫明抄』」という、実時の『源氏物語』との関わりを探る内容で書きました。それを社会人入学の審査で認めて頂いて三年間通ったのが大学院の国文学の聴講。そこではじめて正式の「国文学」を学びました。

なにしろ、高校を出て写真の道に進み、卒業後もカメラマンとして活動して人文系の経験がなかった私には、厳めしい大学院ゼミはまったくの初心者。図書館で本を借りるにも、「こんな私でも貸していただけるのかしら」と、びくびく、おどおど。まず、図書館に入るにも緊張しました。三年間のうちには慣れましたが、当初はほんと、まったくのズブの素人でした。

そして、そのゼミで、再び論文を書く機会をいただいて書いたのが、「『源氏物語』二大写本に秘めた慰藉―『平家物語』との関係をめぐって―」です。顧問の先生に国文学世界での決まりをアドヴァイスしていただいて書きなおして・・・

そして、今、私は鎌倉の『源氏物語』文化の象徴としての『尾州家河内本源氏物語』をめぐって、制作者を宗尊親王とする説を打ち立てて、27日に鎌倉で講演させていただくことになっています。この結論の根拠となる論文を「北条実時と『西本願寺本万葉集』」と題してすでに書いているのですが、それを載せていただく論文集の刊行が来年に延びているので、結果を先に発表・・・という事態になってしまっています。

国文学の世界では、『源氏物語』は『源氏物語』研究者が。『万葉集』は『万葉集』の研究者がそれぞれ為さることになっていて、両者を一緒に研究する下地はできていません。ですが、『尾州家河内本源氏物語』には『西本願寺本万葉集』という、装丁をまったく同じくする写本があるのです。正規の授業を修めていない私はためらいもなく、それを一緒に検討して論文にまとめました。同じ装丁ということは、同じ制作者によるもの?という想定のもとで。

この12月に八木書店から『尾州家河内本源氏物語』のオールカラー版影印本が発売されるニュースを聞いて、パンフレットを読みました。そこには私が宗尊親王説の根拠とさせていただいた岡嶌偉久子氏のご論文が載っていました。けれど、本文研究を為さる氏のご論に『西本願寺本万葉集』は出てきません。とにかく膨大な時間と労力をかけてこの大変な影印本の刊行に貢献された方ですから、本文だけにすべてを費やされていて当然です。

が、『尾州家河内本源氏物語』には双子のような『西本願寺本万葉集』がある・・・その事の言及なくして、『尾州家河内本源氏物語』の全面的な解明につながるはずはありません。ここにはじめて私は国文学という領域の狭さ、限界を覚えました。そんなことから、ずっと気持がもやもやして考えていたのですが、昨夜、唐突にわかったのです。私は国文学の『源氏物語』を扱ってはいるけれど、論究の手法は考古学だったのだ! と。

考古学では、発掘されたすべての遺物を対象にして、それがどんなに異分野どうしでも、一緒に考察します。そして、制作年代、材質、地域、時代状況・・・そういったものすべてを加味して、グループ分けします。すると、そのグループ毎の年代や制作状況が浮かびあがるのです。そのグループ同士の相互関係を探り、見ていくと、それら遺物の置かれた当時の状況がおのずから浮かびあがります。

遺跡発掘調査の仕事でおのずと身に付いたその手法を、私は『源氏物語』写本の研究にも用いていたのでした。源光行・藤原定家・源親行・宗尊親王・青表紙本源氏物語・河内本源氏物語・『尾州家河内本源氏物語』・『西本願寺本万葉集』」・・・、それら全部を遺物の一つ一つとして。

人間は確固とした物体ですから、そこにいなかったら情況証拠ができるはずがありません。年代が別の人だったら、そこに事跡を残せるはずがありません。ですから、時間と空間、相互関係に齟齬がなく、すべて整合性ついたら、ほぼ確実に、そのときの状況が浮かびあがるのです。国文学の本文研究で袋小路に入っている難問も、他の分野、領域との相互関係次第では見えてくるものがあるのです。

そうしてできたのが私の論文です。正規の国文学授業を受けていないから、とか、写本を扱うのに本文研究をしていないから、といったような自分のなかでの卑下やびくびく、また外部からの指摘や避難は、まったく的外れだったんです。何故って、これはまったくの考古学の論文なんです。もしこれを否定するなら、考古学世界の論文全部を否定してください! と自信をもって大きな声でいっていいことなのです。

そんなことに気がついたのが深夜。それまでもやもやしていた私の中での国文学コンプレックスとか卑下・遠慮といったものが一挙に払拭されました。これをどうしよう・・・と考えて、そうだ、『源氏物語』考古学と名付けた一つの分野として旗揚げすればいいのだと決めました。当分、この分野では私一人ですが、考古学でも古典を扱って、もっともっと古典の世界が開放されるといいなあと思っています。そうしたら、あれほど立派な『尾州家河内本源氏物語』の存在が一般市民の知らないままであった、などという「人の知る権利を無視した」おかしな状況は起きなかったはずです。

『源氏物語』の次は何にしようかな。とりあえず、『とはずがたり』考古学?、いや『吾妻鏡』考古学?・・・など、考えたら楽しみは尽きませんね。

追記:
そうだ、大変なことを忘れていました。『平家物語』・・・、そう、『平家物語』考古学! をしなければならなかったんですよね。光行と慈円の関係で・・・

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2010.11.15 鎌倉の源氏物語講演→《パワーポイント作成奮戦記》再開15・・・配布資料・その2/フローチャートは一枚に

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毅然として書くといつも朝令暮改みたいにすぐ訂正するはめに陥ります。昨日は配布資料をもうこれで決め! と決然として載せたのに、あのあとすぐに後悔しました。昨日載せた二枚は同じようなことを言っているだけ。なので、一枚にします。で、どちらを残すかというと、【『尾州家河内本源氏物語』の変遷】。こちらの方が図解的でわかりやすいでしょうから・・・

そして、フローチャートを一枚配布資料に加えることにしました。鎌倉の将軍といっても歴史に馴染みのない方にはせいぜい知って実朝までですよね。だから、第六代将軍宗尊親王の位置を明確にする必要があると考えての結果です。

フローチャートの印刷は面白くて、まず、「印刷」をクリックしますよね。すると、「スライド」とか「配布資料」といった項目を選ぶんです。「配布資料」は一枚の用紙に二枚から六枚までの枚数で印刷されますから、そのレイアオウトを決めます。掲載のように、一枚だけを用紙いっぱいにというときは「スライド」です。色も、「カラー」「グレートーン」「単純白黒」とありますからそれを選びます。掲載画像は「単純白黒」です。

こうやって用途別や枚数別などさまざまこなしていくといい資料ができるのですね。

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2010.11.14 鎌倉の源氏物語講演→《パワーポイント作成奮戦記》再開14・・・配布資料が整いました。でも、パワーポイントで作ったフローチャートも加えるか考慮中

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講演当日ご来場の方への配布資料として【『尾州家河内本源氏物語』の変遷】と【鎌倉の『源氏物語』関連年表】を作成しました。下にご紹介したものの完成版です。資料としてはあと『尾州家河内本源氏物語』についての説明と、ご挨拶を加えます。これらはもうできていますので、準備OK。あとはパワーポイントでの実習です。どれくらい時間がかかるか、まだ一度も試していません

追記:
フローチャートは全部で六枚作りました。重要と思われるこの二枚だけでも添付しようかな?

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2010.11.13 鎌倉の源氏物語講演→《パワーポイント作成奮戦記》再開13・・スライドの編集の詰め→年代順を確かめて入れ替え作業

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下は、2008年に八王子で開いた写真展のときに作成した配布資料の「源光行関連年表」です。鎌倉の講演用に事跡に見合う写真を選んでスライドを作成してきましたが、頭に浮かぶ順にざっと仕上げているので、うろ覚えのものもあり、時代順が正確ではありませんでした。そろそろしっかりした枠組みを仕上げなければと思い、そうだ、八王子のときの年表を見ながらすれば簡単・・・と思いつき、取り出したのです。

それでスライドを見ていって、後先が逆になっていたのを入れ替えなどしたのですが、どうしても入れなくてはならない事跡なのに具体的な写真がない不都合が生じました。そういった例のために考えて、空や花の写真を使うことにし、探したら、花びらの水面を泳ぐ鴛鴦の写真が出てきました。上に載せた一枚は使う候補に入っていませんが、可愛いのでここに載せておきますね。空は、雲を撮っているからふんだんにあります。どれを使おうかな・・・、なんて(*^-^)、変なところに役立つものですね。

ところでこの「源光行関連年表」ですが、2008年作成のもので、最後の一行が間違ってます。実時が『尾州家河内本源氏物語』を書写したわけでないことは、このブログでもずっとその経緯を書いてきました。『尾州家河内本源氏物語』を完成させたのは宗尊親王。実時はそれを金沢文庫に収めた人です。これから訂正して新しく「鎌倉の『源氏物語』関連年表」として作りなおします!!

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2010.11.12 ツイッターに呟く・・・『源氏物語』講演のこと

odayuriko    写本って、綺麗な美術品と違って、難しい古文書のような墨文字だらけでしかない本だから、どうしても見るだけでも「難しそう」→「おお嫌だ、さっさと過ぎよう」みたいに敬遠されてしまう。それに加えて国文学では本文研究とかで、まるで修行の場のような厳めしさ。一般の人に好感もたれるはずがない。

odayuriko    でも『源氏物語』の写本が作られた歴史をみると、室町期以降のような、地方大名が好んで求めて売買された状況と違って、鎌倉期には写本にかける純粋な思いがあった。それは純粋に『源氏物語』への思いであったり、書写することへの情熱であったり、そして藤原定家・源光行のように追悼の意を込めたり。

odayuriko    写本を作るにはそれ相応の努力と時間と根気がいる。それを克服してまで頑張る背景を思うと、難しい古文書のようだった昔の本が、俄然、生きた生命体として、こちらに来歴を語りかけてくる。どうして自分がこの世に生まれたかを。生まれ出してくれた書写者の思いがどのようなものであったかを。

odayuriko    定家の青表紙本源氏物語、光行の河内本源氏物語には、二人が青春時代に恩恵を受けた平家一門への哀悼、王朝文化への郷愁が込められている。光行は源平の争乱後鎌倉に来て『源氏物語』に心を傾け慰められた。それで、河内本源氏物語は鎌倉でできた。こういう歴史を写本自身が語っている。

odayuriko    27日に鎌倉の鎌倉投信邸で「写真でたどる源氏物語の歴史―鎌倉で河内本源氏物語ができるまで―」という講演をする。どういう構成にしょうかずっと考えていてまとまらなかったのが、ここにきて決まった。写本自身の思いを語ろうと。写本にはそれを制作した人たちのこんな思いが込められているのだと。

odayuriko    八木書店で『尾州家河内本源氏物語』影印本が刊行されると知って思いが固まった。このタイミングでの発売。これは『尾州家河内本源氏物語』自身がみずからの出生を訴えて輝きはじめたのだと。タイトルも変更「写真でたどる源氏物語の歴史―鎌倉で『尾州家河内本源氏物語』ができるまで―」に。頑張る! 

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2010.11.10 岡嶌偉久子氏『源氏物語写本の書誌学的研究』を求めて都立中央図書館に行って来ました! 有栖川宮公園が色づきはじめていました

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都立中央図書館は港区立有栖川宮公園内にあります。回遊式の大名庭園ですから、とても雅な公園。品川区にあるやはり同様の戸越公園(旧細川家別邸)を遊び場に育った私には郷愁を誘われる光景です。文献を調べにどこの図書館へ行こうか考えるとき、立川の国文学資料館へ? 渋谷の駒澤大学図書館へ? といろいろ候補を挙げても結局はこの図書館に来てしまうのは、公園に惹かれているからなのです。

その公園に紅葉がはじまっていました。一枚目は食堂の窓から眺めて六本木ヒルズ。二枚目は苑池。この池をぐるりと巡って光景を楽しめるようになっています。今日は快晴だったので、池に映って青空が映えています。

八木書店から12月に『尾州家河内本源氏物語』のオールカラー影印本刊行開始のニュースに接し、そのキャッチフレーズ「親行稿本の可能性」「料紙準備の段階から河内本作成が企図されていたことが窺われ」の二点が気になって、解説をを書かれた岡嶌偉久子氏の『源氏物語写本の書誌学的研究』(おうふう)を探すのが目的でした。

必要な部分をコピーしてきて、帰ってからそれを拝読。今は11日の明け方5:30ですが、ついさっき読み終わって、私の『尾州家河内本源氏物語』宗尊親王制作説を変更する必要はないとの安心感を覚えたところです。

岡嶌偉久子氏のご論はあくまでも『源氏物語』写本のなかでの経緯で、書誌学的には素晴らしいのですが、「河内本源氏物語」を完成させた親行と、奥書の北条実時、それからさらに装丁が同じ『西本願寺本万葉集』やその底本を作った仙覚、など人間相互の関係、さらにそれらの人々の中心にいる宗尊親王や、その中心を成す場としての御所への言及がなく、そういった混沌とした人間関係のるつぼから生まれた写本という視点はみられません。書誌学的にはそれは無理ないどころか、当然ですよね。

ただ、写本は、あくまでも人間が作ったものです。そして、それだけの膨大な労力・費用・時間をかけるとなれば、やはり相応の情熱・動機、があったわけです。何もただ鹿つめらしく学問的に「河内本源氏物語」を成そう、などといった問題ではなかったはずです。写本の問題があまりに学問領域にばかり行っていて、一般の方に難しくてわからないと忌避されているのが現状。でも、今だって、例えば俳句、短歌などの結社。小説や現代詩のサークル・・・での文学的熱狂、交流がありますよね。同じだと思うんです。文学に関わる人間の熱狂、楽しみ、って。鎌倉期における写本制作には、そういった純粋な一面があったことを忘れたくないと思います。

ただ、岡嶌偉久子氏のご論ではっとしたのは、『尾州家河内本源氏物語』のもともとの原文を訂正して「河内本源氏物語」化したそのテキストが一本ではなかったらしいということ。それは実時が自身のもつ「正嘉二年本」でもって『尾州家河内本源氏物語』を校訂させて・・・という説を覆します。校訂した人は余程の『源氏物語』精通者のよう。実時が自身の本を与えて、「この通りに直せ!」と命じてできたような単純な話ではなくなりました。それをどう解釈するか、ここからが課題です。誰だろう、親行かな?・・・なんて、小説家的空想の飛躍ですぐ思ってしまうのですが・・・

そういえば、仙覚は「文永二年本万葉集」を宗尊親王に献上しました。同じく親王に仕えていた親行は、「河内本源氏物語」を献上したでしょうか・・・。それならば、『尾州家河内本源氏物語』のもともとの原文が単なる「青表紙本源氏物語」だけでなく「河内本源氏物語」らしいものもあるなどといったことも理解できるし・・・。『吾妻鏡』の資料の一つになったとされる二条教定の日記などが全巻発見されたら、或いはそんな記述もでてくるかも・・・、と、このあたりはあくまでも目下の閃きで、私個人のメモ用に書いていますから重視しないでください。

思ったこと、考えたことはたくさんありますが、それはこれから講演のためのパワーポイントの編集をしながら、おいおい熟考していきます。なにしろ、講演まで二週間とちょっとというカウントダウン期間に入ってきています!

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2010.11.9 ビッグニュース! 八木書店から『尾州家河内本源氏物語』のオールカラー版影印本が刊行されるそうです。しかも、第一巻発売はなんとこの12月・・・

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青森の知人からの情報で、八木書店から『尾州家河内本源氏物語』のオールカラー版影印本が刊行されることを知りました・・・(といっても、ほんとうは私の怠慢で、思い出してみると、解説を書かれた岡嶌偉久子氏のご論文を拝読したときに、たしか八木書店・・・の記載があったんですよね。所収されている論文集だけに留意して、しっかり忘れていました!!)。で、27日の講演が間近く迫った今頃になって、この重大なニュースに接したというわけです。

私の『尾州家河内本源氏物語』宗尊親王制作説の根拠とさせていただいたのが、岡嶌偉久子氏ともうおひと方のご論文でした。それは2008年刊行の【横井孝・久下裕利編『源氏物語の新研究―本文と表現を考える』(新典社) に収められていた、
●加藤洋介「河内本本文の成立―「舊尾州家蔵河内本源氏物語存疑」続貂―」
            『講座 平安文学論究』第十輯 風間書房、一九九四年、と、
●岡嶌偉久子「尾州家河内本源氏物語の書誌学的考察―鎌倉期本文の成立―」
でした。

それは、『尾州家河内本源氏物語』は奥書にある「正嘉二年 北条実時書写」から、実時の制作と考えられていたのが、実は違って、『尾州家河内本源氏物語』が「河内本」になっているのはもともと書かれていた文章に書込みを入れて、その書込みによっているというものでした。これは、凄いことなんです。何故って、従来の実時説を否定するものですから。

でも、私は金沢文庫信奉者ではありますが、もともと実時説になんとなく違和感を覚えていましたから、違うという証拠をつきつけられて、ふっと胸の支えが落ちたように得心したのです。というのも、実時には『異本紫明抄』という『源氏物語』の註釈書を編集した実績があるのですが、その註釈を見る限り、実時は『源氏物語』に関してはまだ素人の域をでないといっていいくらいにほんとうに初心者です。そういう彼が、あんな文化的に熟成した写本を作れるかなあ、というのが違和感の発端になっています。彼の財力をもってすればどんなにも美本ができるかもしれませんが、文化って、そんなたやすいものではないですよね。

で、加藤洋介・岡嶌偉久子両氏のご研究から、宗尊親王制作説にたどりついたのでした。それは、『尾州家河内本源氏物語』とほぼ同じサイズ、同じ料紙の表紙をもつ『西本願寺本万葉集』との関連でそうなったのでした。『西本願寺本万葉集』の成立は宗尊親王の周辺に間違いありませんから。

27日の講演で、鎌倉の二大古典写本という『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』の両方を語ろうか、それとも煩瑣になるのを避けて『尾州家河内本源氏物語』だけに絞ろうか、ずっと迷っていました。写真も、『西本願寺本万葉集』に関するものを入れて編集したり、『尾州家河内本源氏物語』だけの流れにしてみたり・・・。まだずっと迷い中・・・と思っていたところに、八木書店刊行のニュース。

これは、『西本願寺本万葉集』も入れなければ!とお陰で心が定まりました。何故、宗尊親王説にたどりついたかをご説明しなければならなくなったと思ったからです。で、先日完成までこぎつけたと思った年表も、『万葉集』関連に事項を入れて作りなおしました。『万葉集』からとなると、第四代将軍頼経も入れなければなりません。そうして、一応、今のところ完成と思っている年表が冒頭の写真です。

それにしても、八木書店の『尾州家河内本源氏物語』影印本のご刊行は凄い!のひと言です。それがどうして今まで耳に入らなかったかもふしぎですが、講演の準備もほぼ終わりかけた今の時期になっての突然の出現は、まるで、この時期を見計らって待っていてくれたかのようなタイミング。主催者の方と、「写本がまるで生命体のように自分を語り始めているのね」と、驚きつつ拝見させていただきました。以下のPDFでじっくりご覧になってください!!

http://www.books-yagi.co.jp/pub/content/c9784840693400.pdf

宗尊親王説というのは、時間と空間、人間心理、事件…など、状況証拠からの小説家的発想です。同じ『尾州家河内本源氏物語』新説から、岡嶌偉久子氏は、「料紙の段階から『河内本源氏物語』を考えていた」とのお説に至られたよう。それを載せていられる論文集を明日都立図書館に行って、どのようなご論か確認させていただき、それからまた私なりに熟考したいと考えています。

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2010.11.6 今日は新月、新たな挑戦のはじまりです・・・講演のときに配布する資料として年表を作りました!! そして、『源氏物語』の音読をはじめようかと、ジョー奥田さんのCDをBGMに!!

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鎌倉の講演当日お配りする資料に年表をつけます。当初は2008年に八王子で開催した写真展の時に作った年表をそのまま流用すればいいと思っていました。が、『尾州家河内本源氏物語』の制作が北条実時から宗尊親王に変わる結論になったために、作り直さなければならなくなりました。

で、2008年作成年譜に手を入れようと探したら、データがない!! そんなことは滅多にないのですが、HDをいろいろ使っているのでどこに入ってしまったか・・・なのです。探すより作った方が早い!とばかりに、昨夜、頑張って作ってみました。それが掲載の画像です。

作りなおしてよかったと思ったのは、2008年当時の主役は「写本」でした。なにしろ2008年といえば源氏物語千年紀。新しく数々の写本が発見されて、皆様の関心をさらっていましたから。でも、写本への熱も冷めた今、新発見資料に遠慮することなく、『尾州家河内本源氏物語』だけにポイントを絞って作ることができました!! 

そして、一応当日声が出なかったら困るのでちょっとした発生練習をこころがけているのですが、最近は忙しさにかまけてさぼりがち。で、新月の今日、『源氏物語』の音読をはじめました! 発声練習はつまらないけれど、これなら続くかな? 

というのも、紫式部の原文には音楽があるということを発見したこと。音楽は深奥ですものね。言霊の原点かもしれません。と、そんなことを考えたのもジョー奥田さんのCD「Nagi」で太古からの音に感性を目覚めさせていただいたからかもしれません。

新発見!!なのは、『源氏物語』の音読に、ジョー奥田さんのCD「NSO」がBGMに凄い合うんです・・・。これは原点どうし、ってこと?でしょうか。

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2010.11.5 鎌倉の源氏物語講演→《パワーポイント作成奮戦記》再開12・・・フローチャートを配布資料に印刷!!

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当日いらした方にお配りする資料を作っています。講演のなかで使ったフロチャートもお渡ししたら復習に便利かなって思って、パワーポイントからの印刷を試みています。

パワーポイントでは、印刷に「配布資料」という項目があって、それを選ぶと、今度は一枚の用紙に何枚のスライドを配置するかが選べるようになっています。もちろんスライドを一枚だけという全面印刷もできますが、ご参考にあげた写真は、「二枚」「六枚」です。作成したフローチャートは六枚なので、「六枚」ですればちょうどいいのですが、これだと文字が小さくて読みにくい・・・。でも「二枚」ですると全部で三枚になってしまうので、資料としてそれまでする必要があるかなあ・・・、と目下考慮中です。

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2010.11.3 鎌倉の源氏物語講演→《パワーポイント作成奮戦記》再開11・・・全体の流れを見ながらスライドにコメントをつけています!

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このフローチャートは再掲ですが、コメントをつけましたので載せておきます。パワーポイントにはスライドを作ると、その下にメモ欄があって、実際に講演するときにそのメモを見ながらお話することができるようになっています。自信がなかったら全文を書いてそれを読んでいけばいいのですが、キーワードを打ち込んでおいて、それを繋ぎ合わせて喋るようにすることもできます。緊張して頭が真っ白になって何も話せない・・・という心配はこれでまったくありません。もちろんメモ欄は上映するときには映りません。

ご紹介のフローチャートは、「河内本源氏物語」を作った源光行が平家一門に仕える家系だったことを説明するために作りました。で、さっきメモ欄に一応お伝えしたい内容を書き込みましたので、載せてみます。

源光行が「河内本源氏物語」の校訂を最初にはじめた人です。光行の家系は代々平家に仕えていて、祖父は平清盛の父忠盛の青侍でした。叔父は清盛の側近中の側近、『平家物語』にも「源大夫判官季貞」として度々登場するほどの人物。父はおそらく中宮職に勤めていて、建春門院滋子や建礼門院徳子に行事などではたらいた。幼時から平家文化真只中に育った光行には、その象徴的存在建礼門院徳子は理想の女性であっただろう。遠い雲の上の人と知っていながらも、初恋の女性のような存在ではなかったか。

と、これは第一案なので、これを全部このままお話するわけではありませんが、とりあえず、伝えたい内容をメモりました。全体を通して一枚のスライドに何分あてられるかを把握して、それからコメントの長さを調整していきます。

今日は文化の日。晴れの日の特異日というとおり、雲ひとつなく空が晴れわたっていて気持ちのいい朝。それでパワーポイントの編集にもふっと取りかかる気になったら、時間に追われて滞っていたのが先へ進みました! 神様に感謝!!です。

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2010.11.2 五島美術館開館50周年記念 国宝「源氏物語絵巻」展のお知らせ

今年で開館50周年記念を迎える五島美術館では、明日11月3日~28日まで、徳川美術館と五島美術館が所蔵する、国宝「源氏物語絵巻」を一堂に集めた壮大な展示が行われます。

五島美術館は改修工事のために、11月29日~2012年秋頃まで閉館となります。その直前の貴重な展覧会です。詳細は以下のサイトでご確認ください。

http://www.gotoh-museum.or.jp/exhibition/open.html

http://www.gotoh-museum.or.jp/exhibition/20100928-img.html

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2010.11.2 シンポジウム『最盛期敏満寺を復元する』&平安京・京都研究集会/山田邦和著『京都都市史の研究』を読む・・・のお知らせ

仁木 宏様からのメールを転載させていただきます。

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◆シンポジウム『最盛期敏満寺を復元する』
      日時 2010年11月6日(土)13時~
      会場 あけぼのパーク多賀 大会議室

【スケジュール】
  13:00~     開会 あいさつ
  13:05~13:35 講演1 大高康正氏「多賀社参詣曼荼羅にみる敏満寺」
  13:35~14:05 講演2 藤田裕嗣氏
           「歴史地理学の観点から見た敏満寺-地籍図による考察を中心に-」
  14:05~14:20 講演3 音田直記氏「発掘調査からわかった敏満寺」
  14:20~14:50 講演4 仁木 宏氏「戦国時代敏満寺の繁栄」
  14:50~15:00 休憩
  15:00~16:15 シンポジウム  コーディネーター:仁木 宏氏
  16:20       終了
  
●講演内容
・大高さん
 多賀大社境内古図をもとに、A本、B本、C本の3つの参詣曼荼羅に描かれている建物、事物などを比定。参詣曼荼羅の作成主体、多賀社の再建・造営と参詣曼荼羅の建物の関係、参詣曼荼羅に描かれた敏満寺の建物についての考察。
・藤田さん
 地籍図を用いて、敏満寺跡(丘の上)、東側の谷(高宮池がある)などについてどのような考証が可能か明らかにする。
・音田さん
 昭和34年以来の敏満寺ならびに周辺部の発掘調査成果をまとめて紹介。
・仁木
 発掘調査成果、現地に残る土塁跡などの遺構、聞き取り調査、地名、文献などから、最盛期敏満寺がどこまで復元できるのか、可能な限り具体的なイメージを提示する。

 ★パワーポイント使用
 ★初公開の「最盛期敏満寺推定復元イラスト」を配布予定

◎飛び入り参加可能です。直接、会場へお越しください。


◆平安京・京都研究集会 第20回 御案内
山田邦和著『京都都市史の研究』を読む―京都研究の方法と実践をめぐって―

  平安京・京都研究集会では、「検証 考古学が明らかにした古代・中世の京都像」の第2回目として、山田邦和著『京都都市史の研究』(吉川弘文館、2009年)をとりあげます。
  http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b35005.html
 同書で山田氏は、平安京成立期から戦国時代にいたる多彩な都市構造をとりあげ、巨視的に、また遺構論から京都の特性を解明しておられます。とりわけ「巨大都市複合体(コンプレックス)」の提案は多くの注目をあつめているところです。本集会では、考古学、文献史学の立場から本書を検証し、その成果と課題をうきぼりにしたいと考えています。単なる「書評」の枠を越え、山田氏が目指す学際的な京都都市研究の方法論について議論します。

  日時:2010年11月7日(日) 13:30~17:00

  会場:機関紙会館 5F大会議室
      京都市上京区新町通丸太町上ル東側。日本史研究会事務所の建物
               市バス「府庁前」バス停すぐ。
    地下鉄「丸太町」駅下車、2番出口より西へ、2筋目を北へ。徒歩6分
    http://homepage2.nifty.com/kikanshi-keiji/kaizyou.html

    報告(評者);
山本雅和氏((財)京都市埋蔵文化財研究所、日本考古学)
   「『京都都市史の研究』と京都の遺跡」
仁木 宏氏(大阪市立大学、日本中世史)
   「京都都市史研究のなかの山田邦和氏 ―学際的研究のめざすもの―」
  コメント;高橋昌明氏 (神戸大学(名誉教授)、日本中世史)

  コーディネート;仁木 宏氏
   *著者・山田邦和氏(同志社女子大学)も参加されます。
    *山田さんの著書をお読みいただいてから参加いただくのが望ましいですが、お読みでない方にも十分理解いただけるように配慮します。
   *事前の申込不要。一般来聴歓迎。
   *当日、資料代をいただきます。

  主催  平安京・京都研究集会
電子メールにて今後の開催案内が必要な方は、事務局(山田、
FZK06736@nifty.ne.jp)までその旨、お聞かせください。
集会案内のHP http://ucrc.lit.osaka-cu.ac.jp/niki/kenkyu/staff.html

  問合先  平安京・京都研究集会事務局(山田方) 090-9697-8052

*以前の御案内では、第2回として堀内明博著『日本古代都市史研究』をとりあげるとしていましたが、諸般の都合で変更しました。御寛恕ください。

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2010.11.2 『ヒストリア』222号 特集「伏見城研究の成果と課題」一般販売の御案内

仁木 宏様からのメールを転載させていただきます。

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『ヒストリア』222号 特集「伏見城研究の成果と課題」一般販売の御案内

伏見城・城下町研究の最新成果を特集した『ヒストリア』222号について御案内します。本誌は、仁木が編集を担当しました。宮内庁管轄地を「立ち入り」踏査された中井さんの城郭論、伏見城の構築物についての文献記事をあつめた福島さんの労作などを掲載しています。「特集にあたって」「まとめと展望」は仁木が執筆しています。印刷部数は通常号と同じですの、近日中に品切れのおそれがあります。

購入方法は以下のとおり。
(1)大阪歴史学会のHPを開いてください。  
http://wwwsoc.nii.ac.jp/historia/

(2)トップページの左寄り中程にある、※問い合わせ・「会員の声」等は【こちら】の【こちら】をクリック → 【受付窓口】のページで必要事項を記入。「詳しい内容(必須)」の所定欄に、「『ヒストリア』222号購入希望」と明記し、送付先住所を書く →「送信」する。→後日、大阪歴史学会事務局から『ヒストリア』222号と郵便振込用紙が届きますので、誌代(800円、送料無料)を入金ください。よろしくお願いします。

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