2010.12.31 最後に国宝「久能寺経」がきて・・・思いがけず三大装飾経の通底する美しい一年になりました!
一昨日、たまたま立ち寄った書店で良知文苑さんの『国宝久能寺経の歳月 駿州秘抄』をみつけ、思わず購入してしまいました。それからずっと、暮れの忙しいさなかにもかかわらず、時間をみてはこのご本を開いて堪能しています。
「久能寺経」は「平家納経」「慈光寺経」と並ぶ日本三大装飾経のひとつで、三つのなかでは制作年代が一番古いものです。制作年代順にいいますと、「久能寺経」→「平家納経」→「慈光寺経」となります。
「久能寺経」については、ずいぶん昔に博物館の展示で観たくらいで、由来をあまり知りませんでした。ただあまりの美しさに目が釘づけになったことしか覚えていないような。その後「平家納経」を知るなど装飾経に関心をもつようになり、今回、このご本を書店で見た最初の印象が「『平家納経』になんだか似てる・・・」。
それもそのはず、このご本に書かれているように待賢門院璋子の制作なんですね。待賢門院璋子は白河院寵愛の妃。『源氏物語』の光源氏を白河院とすると、美しい幼女のころから引き取られて寵愛を受けた紫の上に匹敵する女性です。
この待賢門院璋子が平清盛と関係があるんです。それは同じく白河院寵愛の祇園女御をはさんでのこと。祇園女御は璋子を養子にしてそこに院が通っていたのです。清盛の母は祇園女御の妹とされ、清盛は白河院のご落胤説があるほどですから、院やこれらの女性と親しい関係で成長しています。ですから、おそらく清盛は、院や璋子が国宝「源氏物語絵巻」や「久能寺経」を制作した事件は身内のような皮膚感覚で受け止めて育ったことでしょう。「久能寺経」が「平家納経」に似ていて当然だったのです。
「慈光寺経」は時代が少し離れて後鳥羽院も参加しての九条家の制作です。ですから作風が平安の名残りと鎌倉の新風が融合しているといわれます。この「慈光寺経」に出逢ったのが今年の正月四日。仙覚の足跡を求めて埼玉県比企郡に行き、慈光寺を訪ねて、あの「慈光寺経」がここの慈光寺だったのだと知り、驚いたのでした。
ですので、前半はまず「慈光寺経」ではじまったのです。その「慈光寺経」が九条家から収められた由来に仙覚がかかわってくるのですが、それは置いて、次に三月に鎌倉で講演させていただくお話を頂戴し、十一月に向けて内容を詰めていくなかで「源氏物語絵巻」とのかかわりで「平家納経」をたどっていました。なので、中程の夏は「平家納経」が中心の生活でした。
そして、年の瀬を迎えた最後にこの「久能寺経」の出現。びっくりですね。一年を通底して私のなかにとうとうと三大装飾経が流れていたってことになるんです。ふしぎな川の流れです。文化はなにがきっかけになって人々の思いが解明されるかわかりません。これがどのように広がってゆくのか楽しみです。
今年は鎌倉の『源氏物語』文化の解明に終始しましたが、ひとまず収穫あったこととして、来年はもう少し、今度は『万葉集』の側からの接近を試みようと思っています。とりあえずは仙覚の足跡を追って撮りに出たいですね。佐渡・・・とか・・・
やはり同じく一昨日、大会で鎌倉の『源氏物語』文化について発表させていただきたく思っている学会の入会手続きの用紙が届きました。来春早々のいい日を選んで申込ませていただこうと思っています。鎌倉で講演をさせていただいたり、ツイッターでたくさんの世界を広げていただいたり、ほんとうに実り多い一年でした。さまざまな方に心からありがとうございましたとお礼申し上げて来春に繋げます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。