« 2011.1.6 ツイッターから・・・【宇宙から見たオーロラ2011 地球をおおう神秘の光】展のお知らせ | Main | 2011.1.10 『みそひと文字の抒情詩』から『源氏物語』の文章に関しての補足を! »

2011.1.9 小松英雄氏『みそひと文字の抒情詩』について・・・物凄い情熱的な書で夢中になって拝読中!! じっくり読んでいるので終わりません

058 

おそろしいことを読みました。『古今和歌集』は最初平仮名だけで書かれていたので勝手に任意に漢字を当て嵌めてしまってはいけないんです!!

私も、書く文章の都合上、歌を引用するときに勝手に漢字に変えていましたから、まず最初にこの『みそひと文字の抒情詩』の小松英雄氏のご論を拝見したとき、ドキッとしました。

小松氏によると、「平安初期に成立した仮名は、今日の平仮名と違って、清音と濁音とを書き分けない音節文字の体系であった。和歌は、そのその特徴を積極的に生かして作られている」のだそうです。だから、意味を固定してしまうような勝手な漢字への変換など言語道断ということなのです。

もう全文引用させていただきたいくらいのご本ですが、序論に書かれた主旨がわかりやすくその後のすべてを言い尽くしていられますので、ここではそれをお借りさせていただきますね。

『古今和歌集』と『新古今和歌集』とは歌風が異なるとされているが、前者から後者に至る期間に和歌表現は大きく変貌しており、その変貌は平安後期までにほぼ完成している。それは、後述するように、複線構造による多重表現から、言いさし形式による余情表現への移行であり、視覚レヴェルの表現から聴覚レヴェルの表現への回帰でもあった。

しかし、和歌の外形が≪五七五七七≫のままであったために、和歌表現が質的に変化していることを、したがって、彼ら自身が『古今和歌集』とは異なる表現類型の和歌を作っていることを、平安後期以後の歌人たちは明確に認識していなかった。

『古今和歌集』の和歌は、韻文として極限まで量的に制約された<みそひと文字>の詩形のなかに、さまざまの独創を凝らして豊富な内容を織り込み、表現を完結させている。

『新古今和歌集』の和歌は、連帯形や名詞を末尾に据えた言いさし形式を多用し、表現の完結を読者のイマジネーションに委ねている。余情を重んじる表現であるために、表現構造そのものは単線的になり、したがって、仮名連鎖のそれぞれが単一の意味しか担わない・・・

と、こういうことなんです! 今まで私は『古今和歌集』をちっとも面白いと思ったことがありませんでした。それは言われているような「古今集は観念的だから」という風潮に左右されてのことでなく、口語訳を読んでもふ~んと思うだけで少しも感銘を受けなかったからです。それがどうしたの・・・、といった感じで。それが、上記に書いたように、勝手に漢字を当て嵌めて意味を単一に固定してしまったための結果だったのですね。

「古今集は観念的」という正岡子規の言についても、小松氏は書かれています。

歴代の歌学者たちは複線構造による多重表現に気づかなかったし、『古今和歌集』を批判した明治期以後の人たちもまた、その事実を見過ごしてしまったのでこの歌集の和歌は、観念的なことばの操作として低い地位を与えられたまま、今日に至っている。

驚いたことに、平安初期の『古今和歌集』の時代には暗黙の了解で『古今和歌集』の歌を複線構造で読めたその表現が、平安後期の『新古今和歌集』のころには難解になって初期のようには読めなくなっていたそうです。しかも、江戸時代の賀茂真淵・本居宣長に至るまで・・・。藤原定家でほぼ確立した歌学がずっと江戸時代にも通用され、明治の子規になるわけで、その路線上に現代の註釈書のほぼすべてがあるそうです。

註釈書を読んでも『古今和歌集』の魅力がさっぱり伝わらなかった訳です!!

複線構造という用例を一つあげさせていただきますね。それは「また」という語。みそひと文字のなかで「また」とあるときには、「また」とも「まだ」ともとれるので、読む人は「また」の印象と「まだ」の印象とが一緒に広がります。けれど、それを勝手に「又」だろうと解釈して「又」の漢字を当て嵌めてしまっては、読む人には「又」という感慨しか湧きおこらないということ。

私も、以前、歌を作っていて、「すむ」という語を使ったとき、これは流れからして「澄む」なのだけれど、「棲む」の意もあるのになあと悩み、結局「すむ」と表記した経験があります。それでこのご本の複線構造に得心したのですが、なんだか私も『古今和歌集』をやってたんだ! なんて嬉しかったです(*^-^) やっとこれから私も『古今和歌集』が楽しくなりそう・・・

このご著書の魅力や深い内容を書いていたらきりがないのですが、長くなりましたので、このご本の存在を知ることになった『リポート笠間』冒頭対談「古筆切研究の現在」の最後の池田和臣先生の発言が面白いので、ご紹介させていただいてこの記事を締めさせていただきます。

私は源氏物語の表現論、文体論をやっていたので、源氏の独特な文体の由来が気になります。歌と地の文が融け合うような源氏の文体は、連綿体で流麗に書かれた消息から来ているように思われます。消息のような仮名の書きざまから生まれた文体。仮名の書と源氏の文体はつながっていると思います。そうなると、平安時代の源氏物語がどういう仮名の姿でどういうふうに書かれていたのか、一行でいいからやはり見てみたいですね。

|

« 2011.1.6 ツイッターから・・・【宇宙から見たオーロラ2011 地球をおおう神秘の光】展のお知らせ | Main | 2011.1.10 『みそひと文字の抒情詩』から『源氏物語』の文章に関しての補足を! »