2011.1.10 『みそひと文字の抒情詩』から『源氏物語』の文章に関しての補足を!
『みそひと文字の抒情詩』の下の記事で、最後を『源氏物語』の文体に言及された池田和臣先生のご発言で締めくくってから、『みそひと文字の抒情詩』のなかで『源氏物語』について書かれた部分があったことが気になって仕方なくなり、改めて追記して、記憶しておこうと思います。
拝読していてハタと膝を打ったような気持ちになった箇所なのですが、そのときの気持ちを今書こうとしても書けなさそうなので、引用させていただくにとどめるしかないのが悔しいのですが・・・
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『古今和歌集』や『源氏物語』などの仮名文学作品にみえる語彙や語法は、確かに平安時代の日本語に相違ないが、それは、当時の日本語の、たいへん偏ったひとつの断面である。(中略)最上層社会の人たちが、極度に洗練された用語や表現で叙述した文学作品が、当時における基幹的な日本語であったはずはない。勅撰集の和歌ともなればなおさらである。
実用的な片仮名文や漢字文と違い、仮名文は実用を離れた書記文体であった。和歌も和文も、事柄の一義的伝達を目的とする文体ではなかったから、ことばの自然なリズムを基本にして、先行する部分と付かず離れずの関係で、思いつくままに、句節がつぎつぎと継ぎ足される連接構文で叙述され、叙述し終わったところが終わりになる。それは、とりもなおさず、口語言語による伝達に共通する汎時的特徴にほかならない。付け加えておくなら、『源氏物語』が連接構文で書かれているのは、思いついたことをつぎつぎと書き足してできあがったからではなく、そういう構文として推敲された結果である。
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と、ここまで引用して思いだしました! 赤くした部分の一行に私はハタと膝を打つ思いをしたんです。意識は流動的です。小説を書く、文章を書く、というのは意識を文字にとどめることです。古今集では和歌がそうです。
でも、現代の「小説の書き方」といわれるものの、なんと息苦しいことでしょう。ずっと、私はそれを感じていました。そして、『源氏物語』に戻ると、解放されるのです。
今までそれを私は『源氏物語』が心理を深く描写しているからだとばかり思っていました。現代においてあれほどまでの描写はありませんよね。現代は理解の早さを競っています。事象の表面のスピードが大事とされます。『源氏物語』はそうではありませんものね。
でも、心理を描写しているからなどという表面的な問題ではなかったのです。文体そのものが「断定」を拒否していたなんて・・・
嬉しかったんです、私。ずっと、小説が「断定」をしなくてはならないような呪縛にとらわれていましたから。
大袈裟にいえば、この「和歌も和文も、事柄の一義的伝達を目的とする文体ではなかったから」の一文で、私はもう20年以上も前になるかしら、それほど長く縛られていた呪縛から解き放たれる思いをしたのでした。文章が「伝達」をしなくてもいいなんて・・・
『源氏物語』の文体がどうしてこんなに深いかがわかりました。それは深い描写をしているからではなく、文体そのものが意識の深いところから生じているからなんです。そんなことを思い、感動した『みそひと文字の抒情詩』でした!!
■写真は去年の冬に庭の柿の木にきたメジロです。番で来て寒さに身体を寄せ合ってとても仲良くて微笑ましい光景でした。今年もそろそろ来る季節。楽しみにしています。古今集に合う写真をと探したのですが、みつからなくて、これにしました。『源氏物語』にふさわしい写真を撮るのも難しいのですが、『古今和歌集』となるとまた『源氏物語』とも違います。古典に合う写真を撮れるようになるのが私の夢なのですが・・・