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2011.3.31 峰岸純夫先生のご著書 吉川弘文館≪歴史の旅≫『太平記の里 新田・足利を歩く』が刊行になりました・・・現地の写真を撮らせていただいています。

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吉川弘文館の≪歴史の旅シリーズ第四弾!≫  『太平記の里 新田・足利を歩く』が完成し、この度刊行になりました。ご著者は峰岸純夫先生。鎌倉の歴史を書いているので日頃からいろいろご教示いただいたり、励ましていただいています。

先生から撮影のお話があったのが一昨年。実際に撮りにいった最初がその年の11月でした。一回目を新田、翌週に足利を撮って回りました。車は先生の妹さんの真塩南枝さんが出して下さって、現地集合でした。紅葉が綺麗な季節で、表紙の鑁阿寺・足利学校の写真がそうです。

その時に、樺崎寺の浄土式庭園に一本の桜の木があって、先生が「あれが咲いていたらいいのに」とおっしゃったのが心に残って、翌年(昨年)の四月、桜の満開の時期に一人で訪れて撮り、その五月、先生が関係されている歴史の会で足利を回るツアーがあったので私も参加してまた撮って、そしてそれでも足りない分を九月に二回、また新田と足利に行って終了しました。そのときは私たちだけでは間に合わなくて編集者の大岩様も分担して回ってくださいました。

樺崎寺の桜は、そのときは発掘が終了していて誰もいず、怖いくらいの静寂のなか、満開の桜を一人占めして幸せでした。表紙に使っていただいたのがその時の樺崎八幡宮本殿です。見開きページの写真は二枚共その樺崎寺です。二枚目の一番最後の写真・・・、左ページの左下が、法界寺。あのオークションで話題になって真如苑に落札された運慶作の大日如来座像はここのご本尊様でした。今は跡形もありませんが、区画がロープを張って示されています。

新田は群馬県、新田義貞の地です。足利は隣接していますが栃木県で、足利尊氏の地です。鎌倉時代を追っていると、鎌倉から見て北関東は奥地の気がしますが、行ってはじめて知ったのですが、鎌倉時代まで東山道が主流でしたから、奈良・京都の文化はまず北関東の埼玉・群馬・栃木に入るんです。そこから鎌倉へ南下してくる・・・。だから、寺院だけを見ると、鎌倉よりも奈良や京都に近い雰囲気がその地には色濃く残っています。驚きました。

それで謎が解けたのですが、私が鎌倉に関心を深めていった最初が称名寺でした。その初代長老の審海が下野薬師寺から迎えられているんです。その頃の知識からいえば、「何故、鎌倉の寺院に、わざわざ関東の奥地から呼ぶの?」でした。でも、東山道経由の文化の伝播から見れば当然の経緯だったんですよね。こういう言い方をしたら不謹慎かもしれませんが、鎌倉にはない薬師寺が下野にはあったんです・・・

それと、万葉集研究の仙覚の足跡を追って埼玉県の比企を訊ねたときの慈光寺。そこも何故関東の奥地にこんな立派な天台宗寺院が? となるところですが、これも当然の経緯。当時における関東第一の天台宗寺院なのです。鎌倉の寺院が第一ではないんです。ここを踏まえておかないとこの時代の正しい知識はないと思いました。

こういう歴史上の現代とのまったくの相違は、訪ねてみなければ実感できません。新田・足利を歩きながら、これからもっとたくさんの方がこの地を訪ねられるといいのに、と思ったのでした。

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2011.3.30 井の頭公園の桜・・・今年最初の一枚(まだ寒々しいですが咲き始めました!)

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井の頭公園の桜が開花したとの情報を得て撮ってきました。一本だけ、遠目には満開に見える枝がありました。それがこの二枚の写真。でも、アップにするとまだ蕾がいっぱいでした。ほかの木はまだまだです。

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たぶんコブシだと思うのですが、こちらはどの木も満開でした。

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これはサンシュユだそうです。黄色が鮮やかで目についたのですが、花はもう散った状態なのかもしれません。

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今年もお会いできました! 井の頭線の線路下の土手に生える土筆です。土筆を見ると“春”って感じですよね(*^-^)

今年も公園の桜開花状況をお知らせさせていただきます。井の頭公園では震災復興の支援で準備した仮設トイレが東北に行ったため、夜桜見物の宴会は自粛になりました。でも、桜は咲いてくれますし、三月中の工事でトイレがとても綺麗に新しくなりました。レンガ敷の舗道も増えました。昼の散策に是非いらしてください。せめて心を華やかにして東北の方々への支援の活力を得たいと思います。

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】(4) 第一章.2 国宝「源氏物語絵巻」を継承した天皇

【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】
第一部 「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」の成立の蔭に
第一章 『源氏物語』から国宝「源氏物語絵巻」まで

2.国宝「源氏物語絵巻」を継承した天皇

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 国宝「源氏物語絵巻」は、のちに平清盛の娘で高倉天皇の中宮となった建礼門院徳子の所有するところとなります。ここにも光源氏をみずからに投影させた天皇の影が見え隠れします。後白河天皇です。

 整理するために皇統を記しますと、白河天皇―堀河天皇―鳥羽天皇―崇徳天皇―近衛天皇―後白河天皇、となります。

 後白河院は鳥羽天皇の皇子で、崇徳天皇の弟、近衛天皇の兄です。崇徳天皇のあと近衛天皇になったとき、これでもう後白河院が天皇になることはないと誰しもが思いました。それが近衛天皇の急逝で即位したのです。高倉天皇は後白河院の皇子ですから、徳子は後白河院にとっては息子の嫁にあたります。

 後白河院が即位したのは異例に遅く、二十九歳でした。白河院と同じく長く帝位につけない皇子だったのです。母は待賢門院璋子。ということは、後白河院は、国宝「源氏物語絵巻」を制作した女性の子、鳥羽天皇妃となったあとも白河院と密通を続けたような妖艶な女性の子なのです。後白河院もまた生まれながらにして『源氏物語』の環境と密接にあり、しかも心情的に光源氏に我が身を投影して生きる条件を備えた天皇でした。

 後白河院には建春門院滋子という寵愛する妃がいました。高倉天皇の生母でいられます。この方の姉が平清盛の妻時子。ここに後白河院における光源氏と同じ構図が浮かびあがります。つまり、光源氏と藤壺の関係が後白河院と滋子とすると、藤壺の姪の紫の上が、滋子の姪の徳子となるのです。

 滋子は聡明な女性でした。藤原定家の姉の健御前が女房として仕えていて、その日記『たまきはる』には、滋子の御所の秩序保たれた美しい日常が書かれています。そういう滋子がいることで、後白河院と清盛との関係は上手く保たれていました。が、滋子の逝去で関係が悪化、平家の衰運へと繋がり、源平の争乱にまでなっていくのです。

 後白河院は相当徳子に執着していたようです。兆しは高倉天皇崩御より以前からありました。安徳天皇の御産に際し、不自然なほど熱心に後白河院みずから祈祷しているのです。古い女房達をして批判めいたささやきを交わさせるほどに。さらに、高倉院崩御のあと、徳子は後白河院と平家のあいだを結ぶ手立てとして入内させられそうになっていますが、これは院の心を見透かしての平家の深慮遠望でしょう。

 そして、清盛が没したあとの養和元年十二月十三日の夜、後白河院の法住寺御所に徳子が渡った記録があり、これを水原一氏は『延慶本平家物語論考』で、「おそらく一時にせよ建礼門院はいわば平家の失地回復の生贄として後白河院の法住寺御所に据えられたのであったろう」と書かれます。

 『平家物語』では、壇ノ浦で生捕されたあと、落飾して籠もっている大原寂光院の徳子を院が訪ねる「大原御幸」という段があります。これは単に息子の嫁だった徳子を慰めるための訪問とみるには、院の立場を考えると少しく異常です。院は大原を訪ねたく思っていたのですが、二月、三月のあいだは風が激しく寒さも未だ尽きず、峰の雪は消えず、谷のつららも融けないから、春は見送り、四月の葵祭が過ぎたころ、夜を込めてようやくお忍びで行くことができたというのです。このご執心……

 院の一行が寂光院に着いたとき、徳子は山へ花を摘みに行って不在でした。院は、「人やある、人やある」と召されるのですが、誰も答えません。そこに老いた尼が一人来たので、「女院はいずくへ御幸なりぬるぞ」と問うと、「この上の山へ、花積みに入らせ給ひて候」と答えます。院は、「さようのことに、仕え奉るべき人もなきにや。さこそ、世を捨つる御身といいながら、御いたわしうこそ」と仰せられます。

 さらに、濃い墨染めの衣を着た尼二人が、「岩の崖路を伝いつつ、下り煩い給」うのをご覧になり、それが徳子と女房の二人と知ると、「世に哀れげに思し召して、御涙せきあえさせ給わず」という状況。

 徳子は、「さこそ、世を捨つる御身といいながら、今、かかる御有様を、見え参らせんずらん恥ずかしさよ。消えも失せばや」と思うのですが、どうしようもありません。ここに情を通じた者どうしの心の通いがあると感じてしまうのは、私の深読みのし過ぎでしょうか。徳子は顔を赤らめて恥じらうのです。

 院は、徳子がまだ都にいるときにすでに徳子を訪ねたく思っていたのですが、頼朝を憚って我慢していました。それで大原御幸となるのですが、「そもそも当初法皇が大原御幸を思い立ったのは、建礼門院に同宿せんとしてであった」そうです。

 この徳子が国宝「源氏物語絵巻」を一時期所持していました。そして、絵巻は突然、ずっと後年、鎌倉の第六代将軍宗尊親王の所持となって歴史上に再び現れるのですが、徳子は西海に逃れるときに絵巻を都に残していったのでしょう。

 「白河院か後白河院の周辺で作成された源氏絵巻が、建礼門院の所有となり、やがて平家滅亡後に将軍家へ伝来したものと考えられる」と、伊井春樹氏は『源氏物語註釈史の研究』に書かれています。

 おそらく国宝「源氏物語絵巻」は、待賢門院璋子から後白河院に譲られ、後白河院から建礼門院徳子に贈られたという経緯なのでしょう。

《参考文献》
水原一『延慶本平家物語論考』加藤中道館 一九七九年
伊井春樹『源氏物語註釈史の研究』桜楓社 一九八〇年

◆冒頭のフローチャートはパワーポイントで編集したスライドです。

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】(3) 第一章.1 国宝「源氏物語絵巻」を作った天皇

【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】
第一部 「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」の成立の蔭に
第一章 『源氏物語』から国宝「源氏物語絵巻」まで

1.国宝「源氏物語絵巻」を作った天皇

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 『源氏物語』とはいったいどのような文学なのでしょう。これほど長く後世の人々をして引きつけて止まないのには、それ相応の理由、魅力があるはずです。それに対する答えは人によってまちまちでしょうけれど、私は『源氏物語』は喪失の文学と思っています。

 喪失は人を深くします。特に本人の知らない幼いうちに受けた喪失は、止まない憧憬という傷を残します。人はその傷を癒そうとしてあがき格闘することを終生義務づけられます。求めて求め得ないものを求め続ける人生を運命づけられるのです。それは生の根幹として熱情の原動力となり、その人の行動を決定します。『源氏物語』はそうした喪失からはじまる物語です。

 主人公光源氏は、母桐壺更衣と三歳のときに死別します。それは父桐壺帝のあまりの愛の深さゆえの死でした。それを聞いて育った光源氏は亡き母を思慕しながら、同時に美しい女性への憧憬を募らせざるを得ない運命に置かれます。とりわけ桐壺更衣に似ていると父帝までもが認めて入内させられた女性、継母藤壺への恋慕は尋常ならざるを得なくなります。何故なら、それは生の根源から尽きあげてくるものだから。

 そしてその姪、紫の上。叶わない恋の相手藤壺の代理として紫の上は登場します。光源氏はおのれの手で母桐壺更衣、高みの恋人藤壺を、この世に再現させ、我が身の傍に置きたい一心で、少女だった紫の上を誘拐同然に引きとって養育します。そして、理想の女性に育てあげるべく、手習や音楽など、貴族の女性に必要なあらゆる嗜みを、みずから手塩にかけて教え込みます。

 紫式部もまた幼いときに母を失っています。どんなにか彼女は母を求めて過ごしたことでしょう。恋して止まない母に二度と相逢うことのない絶望を、彼女自身が抱えているのです。そうした作者の手になる作品が、成就という大団円で終わるはずがありません。紫の上は愛を失い、光源氏は紫の上を失い、薫は浮舟を失って、物語は終わります。

 『源氏物語』に人々が魅かれるのは、原点が喪失だからです。喪失は心に大きな空洞を穿ちます。例えそれが読書という疑似体験であっても、人はそのブラックホールのような空洞に身体ごともっていかれてしまうのです。

 たいていの読者はこれは架空の物語なのだからと、危うく現実の淵に踏みとどまる理性をもち合わせていますが、何をしても許される立場の天皇となると、『源氏物語』に触発された欲望を現実のものとすることに何の障害もありません。院政をはじめて敷いた白河院がそうでした。

 白河院は、紫式部が仕えた中宮彰子の子の後一条天皇の子の、後朱雀天皇の子の、後三条天皇の子であり、二十歳で即位したころ、彰子はまだ存命でした。そのすぐあとに彰子は崩御するのですが、成長する段階で、白河院が彰子から、紫式部が『源氏物語』を書いていた当時の話、『源氏物語』そのものの話を聞いて育っただろうことは当然考えていいでしょう。

 しかも、二十歳までのあいだ、白河院はもしかしたら帝位につけないかもしれない皇子でした。これは、帝の子でありながら臣下に下って源氏姓を名乗らなければならなかった光源氏そのものの状況です。打ちひしがれる思いのなかで、白河院が自身を光源氏になぞらえて物語に浸っただろうことは容易に想像つきます。

 皇位継承だけでなく、白河院には女性問題でも光源氏を踏襲して生きたのではと思われる節があります。光源氏における紫の上、それが待賢門院璋子です。紫の上は幼いころから引きとられて光源氏に養育されます。璋子もまたそうでした。璋子は藤原公実の娘で、母は白河院の子の堀河天皇と孫の鳥羽天皇の乳母です。

 白河院には祇園女御という寵愛する女性がいて、幼い璋子はその祇園女御の養女となって引きとられ、そこに四十八歳も年が離れた院が通って孫娘のように溺愛したとあります。この異常ともいえる行動の裏には刷り込まれた光源氏の存在があって、それが白河院の理性を凌駕しての結果なのでしょう。

 『今鏡』には「幼くては、白河の院の御懐に御足さし入れて、昼も御殿籠りたれば」とあり、大人になってからはさらに特別な関係となっていきます。それがゆくゆく『古事談』の「待賢門院は、白川院御猶子之儀にて入内せしめ給ふ。其間法皇密通せしめ給ふ。人皆これを知るか」という状況になるのです。

 白河院は寵愛する璋子をみずからの猶子として孫の鳥羽天皇に入内させ、なのにその後も関係を続けたのです。鳥羽天皇の中宮となった璋子は、崇徳天皇と後白河天皇を生みますが、崇徳天皇はじつは白河院の子という、『源氏物語』を彷彿とする深刻な人間関係がそこに生じたのでした。

 徳川美術館と五島美術館に所蔵されている国宝「源氏物語絵巻」は、この白河院と璋子の二人の企画で制作されたというのが今のところの有力な説です。あたかも崇徳天皇が生まれた時期で、この時期的符合は妖し過ぎます。

 「白河院と待賢門院は光源氏と藤壺の関係を模倣しているのであり、そのことの居直りにも似た宣言がこの源氏物語絵の制作だったと考えられる。光源氏と藤壺の密通の息子が冷泉帝という天皇になったように、白河院と待賢門院の密通の子は、わずか四歳で天皇の位に即けられることになった」と、『源氏物語絵巻の謎を読み解く』で三田村雅子氏は書いていられます。

 国宝「源氏物語絵巻」の詞書は、今に残る『源氏物語』の原文中最古で、紫式部自身の本文にもっとも近いとされています。おそらく白河院所持の『源氏物語』は彰子から譲られたもので、紫式部直伝に近いものだったのではないでしょうか。

《参考文献》
角田文衛『椒庭秘抄 ―待賢門院璋子の生涯』朝日新聞社、一九七五年
美川圭『白河法皇 中世をひらいた帝王』日本放送出版協会、二〇〇三年、
三谷邦明・三田村雅子『源氏物語絵巻の謎を読み解く』角川書店、一九九八年

◇冒頭の写真はパワーポイントで編集した講演用のスライドです。

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】(2)・・・はじめに

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◆はじめに

 書物というのは、それ自体光りかがやく知の遺産を有していながら、みずからの意志を放つ有機的原動力をもちあわせていないので、人が、誰かが、手にし、開いて、目を通し、価値を認めて、伝える、あるいは広める、そういう行為を経ないと、どんなに素晴らしい内容の存在であっても、忘れられ、時間に埋もれたまま、薄埃をかぶって、朽ちて、失われていってしまいます。

 あまり知られていませんが、『源氏物語』は現在この世に紫式部が書いた原本は存在しません。それでも読むことができるのは、累々と書き継がれてきた写本があるからです。印刷技術のない時代、書物は書写する人々の手になる写本によって広まりました。鎌倉時代初頭にはもう紫式部の原文はわからなくなっていたらしく、そこからいわゆる注釈などの源氏物語研究や、書写・校訂が活発になり、多くの写本がつくられていきます。

 ですからそこには当然書き落としや写し違いなどのミスが生じ、また、読み違いからくる文章の変化・変遷、さらには書写する人の意志や思惑まで入っての訂正・変革、省略や加筆までが加わって、幾通りもの本文ができてしまいました。

 私自身容易に信じ難いことでしたが、それぞれの冊子で文章が違うというおかしな事実が、世界に誇る古典として親しみ、何の疑いもなく読み耽っていた『源氏物語』というテキストの裏側にあったのです。同じひとつの作品でありながら、異なる文章の『源氏物語』がこの世のなかに存在していたのでした。

 現在残されている『源氏物語』の写本には、大きく分けて三つの系統があるとされます。京都で成立した藤原定家校訂の「青表紙本」と、鎌倉で成立した源光行・親行親子校訂による「河内本」と、それ以外の別本とです。呼称の由来は「青表紙本」は定家校訂の写本の表紙が青かったことから、「河内本」は光行・親行親子がともに河内守だったことからだそうです。

 鎌倉時代から室町時代中期に至るまで『源氏物語』河内本系統が主流でした。室町中期以降、定家の歌人としての評価があがるとともに、青表紙本系統にその座をとって替わられ、以後、河内本系統の写本は影をひそめていきます。江戸時代には名のみで実態を知る人はいなかったようです。

 「河内本源氏物語」の発見は、大正十年(1921)、山脇毅氏によって成されました。その後、河内本系統でもっとも由緒正しい写本とされる『尾州家河内本源氏物語』の所在が確認されたのが昭和五年(1930)。これを山岸徳平氏が調査され、『尾州家河内本源氏物語開題』として刊行されたのが昭和十年(1935)です。そして、昭和二十年代に池田亀鑑氏の『源氏物語大成』が刊行され、河内本系統の本文についての詳細な研究も載せられました。

 河内本系統の『源氏物語』が発見されたとき、国文学の世界では一時的に熱狂が湧き起こったそうです。というのも、河内本さえみつかれば、不明だった紫式部自身の手になる原文がわかるかもしれないという密かな望みがそこに託されていたからです。が、河内本も光行・親行親子による校訂の手が入っていることがわかると、急速にその熱は冷めていきました。

 そして現代、活字化され印刷されて一般に流布しているのが青表紙本系統であるために、青表紙本系統の本文だけが爆発的に広がり、今ではすっかり河内本系統の本文に注意を払う人がいなくなってしまいました。国文学の世界でも研究の対象とする人がいないのが現実です。

 さらに、二〇〇八年の源氏物語千年紀に多くの別本が発見されたことから、現在の研究の主流はそれら別本に移っています。

 おそらく、もう絶対に、河内本系統の本文がかつてのように青表紙本系統と並んで一世を風靡することはないでしょう。ですけれど「河内本源氏物語」の校訂に光行はほぼその生涯をかけていますし、それでも終わらずに子息の親行が引き継いで、それからまた二十年の歳月を費やして五十四帖のすべてを完成させています。

 何故、光行はそれほどまでにして『源氏物語』にこだわったのでしょう。何故、光行はそれほどまでの情熱を『源氏物語』の校訂という大変な作業に降りそそぐことができたのでしょう。親行は父親の何を見てそれを継承したのでしょう。歳月の長さが単に地位や栄誉を目指してのそれでなかったことを証明しています。

 いったいに書物が忘れ去られるということは、その書物が抱える文化、その書物を内包する時代の真実が忘れ去られていくことにほかなりません。光行の「河内本源氏物語」の価値が見失われようとしている今、それに付随してどういうことが忘れ去られようとしているのでしょうか。そして、それは果たして、ほんとうに忘れ去ってしまっていいものなのでしょうか。書物を見失うことで現代の私たちがその時代のほんとうの姿を見失っているということはないでしょうか。見誤ったり、知らずに終わるということがないでしょうか。

 写本には写した人の思いが込められています。その人の生きた時代、関わった人たち、それらを解くことでそれは見えてきます。この本の世界はそうして見えてきました。

《参考文献》
池田亀鑑『校異源氏物語』中央公論社、一九四二年
阿部秋生『源氏物語の本文』岩波書店、一九八六年
山岸徳平『尾州家河内本源氏物語開題』尾張徳川黎明会、一九三五年
池田利夫『河内本源氏物語成立年譜攷』日本古典文学会、一九七七年
三田村雅子『記憶の中の源氏物語』新潮社、二〇〇八年

◇冒頭の写真はパワーポイントで編集した講演用のスライドです。

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】(1)・・・タイトルと目次

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】

◆目次

はじめに

第一部 「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」の成立の蔭に
    第一章 『源氏物語』から国宝「源氏物語絵巻」まで
    第二章 平家の王朝文化 ―藤原定家と源光行の青春時代
    第三章 源光行の鎌倉下向と「河内本源氏物語」の着手
    第四章 藤原定家の「青表紙本源氏物語」完成
    第五章 源親行の「河内本源氏物語」完成

第二部 『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』の成立
    第一章 第四代将軍頼経の時代
    第二章 仙覚の生涯と『万葉集』研究
    第三章 第六代将軍宗尊親王の時代
    第四章 『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』の成立

◇冒頭の写真はパワーポイントで編集した講演用のスライドです。

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震災で知った藤原定家・源光行らの思い ―「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」の成立の蔭に―

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震災で知った藤原定家・源光行らの思い
   ―「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」の成立の蔭に―
 
 
 東北地方太平洋沖地震で犠牲になられた方のご冥福を、被害に遭われた方の一日も早いご復興を心よりお祈り申し上げます。

 二〇一一年三月十一日、三陸沖を震源とするM9.0の巨大地震が起き、津波が発生して大変な被害をもたらし、多くの方々が犠牲になられました。惨状が次々と映し出されるテレビの画面を前に、私は「光行たちはこの思いを体験していたのだ」と、そのことが重なって思われてなりませんでした。何かをして助けられるものなら助けたい、だが、事実はその範疇をはるかに超えている。愛する人が凄惨な壮絶な目に遭っているのに、何もしてあげられない……

 人は、そういうとき、どのような思いなのでしょう。

 想像を絶する現実が、今目の前に起きているとき、人はどのような思いでそれを見、どのようにして耐えるのでしょう。

 「青表紙本源氏物語」を作った藤原定家、「河内本源氏物語」を作った源光行……、二人が直面した時代とはまさにこういう現実だったのです。
 それは、源平の争乱……

  寿永元暦などのころの世の騒ぎは、夢ともまぼろしとも、あはれとも何とも、
  すべてすべて言ふべき際(きわ)にもなかりしかば、よろづいかなりしとだに
  思ひ分かれず、なかなか思ひも出でじとのみぞ今までも覚ゆる。
  見し人々の都別ると聞きし秋ざまのこと、とかく言ひても思ひても、
  心も言葉も及ばれず。まことの際は、我も人も、かねていつとも知る人なかりしかば、
  ただ言はむ方なき夢とのみぞ、近くも遠くも、見聞く人みな迷はれし。


 これは『建礼門院右京大夫集』の一節です。愛する人、朝夕慣れ親しんだ平家一門の人たちが西海に都落ちしたとき、都に残ってひたすら酷い現実を受け入れなければならなかった女性の、血を吐くような心の吐露です。

 建礼門院右京大夫は細やかに思いをこうして日記に残しました。でも、残さなくても、一門の人たちと親しく接していた人は誰も皆同じだったでしょう。とかく言ひても思ひても、心も言葉も及ばれず……、そのなかに定家と光行もいました。

 定家が三歳だったころ、近所には平経盛邸があって、俊成と歌を交わす仲でした。俊成の娘の子で定家には姪にあたる女性は平維盛の妻……

 光行の家系は祖父の代から平家に仕えており、叔父は源判官大夫季貞という『平家物語』にも度々登場する平清盛の側近中の側近、父は建礼門院徳子の安産祈願の奉幣使を務めるなどしています。

 建礼門院徳子の入内の年、定家は十歳、光行は九歳。安徳天皇誕生の年、定家は十七歳、光行は十六歳でした。つまり、定家と光行は幼少期から思春期にかけて平家一門の人たちと交わり、平家の王朝文化に染まって成長したのです。この二人が作った「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」。ここに他の写本にない特別な意味があって当然です。それは、源平の争乱を間近に見て生きた人の『源氏物語』という……

 三月十五日に私は鎌倉で「鎌倉で『河内本源氏物語』ができるまで」という講演をすることになっていました。講演といっても写真をパワーポイントでスライド編集し、上映しながらお話をするという形式です。スライドはタイトルも含めて百十枚になりました。準備は万端整えて、後は当日を待つだけになっていました。そこに地震が起きたのです。そして私は冒頭に書いた「これこそが光行たちが味わった現実」の思いに駆られたのでした。

 すぐに私は黒地に白の文字で、
① 二〇一一年三月十一日/東北地方太平洋沖地震M9.0発生
② 人がいくら心を痛めてもどうしようもないことがある/天変地異も動乱も容赦なく人を呑み込む/中世にあって源平の争乱がそうだった
③ 「河内本源氏物語」は/源平の争乱で運命を狂わされて鎌倉に下向した源光行によって作られた/光行は争乱で亡くなった人達への哀悼を込め/それによってみずからも救われた
というスライドを三枚作ってタイトルの次に挿入しました。そして、この思いが届けられるよう講演が中止にならないことを願いました。けれど、計画停電に至っては中止も止むを得ず決定しました。

 節電で街の灯りが消え、暗い夜空の下で息をひそめている東京の光景をテレビの画面に見ながら、だんだん私にわかってくるものがありました。今この都会で原発の恐怖におののき、被災者の方々を思って途方にくれている私たちは、そのまま、中世の都にあってひたすら戦禍の及ばないことを祈り、都落ちした平家の方々への痛恨の思いに耐えていた定家や光行です。

 現代はあまりに恵まれ過ぎて私たちはこの暗闇の心を失っていたと思います。暗闇のなかでこそ魂は安らぐのですよとは、私が文学に挫折して自信喪失に陥っていたときにある方に言っていただいた言葉です。以来、私の心には暗闇が棲みつき、その心でもって文学を、古典をみるようになっています。

 今まで私は文化の観点から鎌倉の源氏物語文化を訴えてきました。けれど、心の観点から訴えることが必要だったのです。講演に来ていただいた方からは「思いが伝わってきました」との感想をいただいています。でも、講演にいらしていただく前に、「何が『源氏物語』だ」と拒否されることが多かったのです。何故だろうとふしぎでなりませんでした。

 私たちは現代の世があまりに明るく前ばかりを向き過ぎて、『源氏物語』の暗闇と真摯に向き合う姿勢を失っていたのではないでしょうか。『源氏物語』は華やかな宮廷が舞台です。そこに繰り広げられる光源氏の恋愛遍歴の物語です。忙しい今の時代、この概要だけで『源氏物語』をみて軽視している風潮がなきにしもあらずではなかったでしょうか。

 『源氏物語』の註釈史は平安時代からありますが、定家も光行も、それから本居宣長も、研究はずっと真摯な真面目なものでした。現代においても、作品論にはじまって、作者論、文体論、準拠論等々。『源氏物語』にはそれだけの深さがあります。

 ここ数年、私は光行の生涯に託して「鎌倉の『源氏物語』」をまとめようと原稿に取り組んでいました。でも、何故か、いつも最終章にくると挫折して完成させられませんでした。けれど、こういうときにこそ文学なのです。定家や光行はそれをしたのでした。この震災は改めて私にそれを教えてくれました。

 今こそ書くべきの思いがふつふつと湧いてきています。(三月二十日記)

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 所属している短歌結社の同人誌『月光』に載せていただく原稿です。次号掲載の予定ですが、緊急時ですので刊行を待たずにアップさせていただきます。これを、今だからこその執筆宣言として、以降、中断していた『紫文幻想 ―源氏物語の写本に生きた人々―』を書き進めつつ、逐次HPとこのブログにアップしていきたいと思います。

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ツイッターから得た情報・・・小川靖彦氏ブログ【万葉集と古代の巻物】より「佐佐木信綱の震災の短歌」

関東大震災によって、信綱は足掛け12年をかけてようやく完成目前にまで漕ぎ着けていた『校本万葉集』を火災によって失いました。印刷所で、表紙に金版(かなばん)を押すだけになっていた本体500部はもちろん、校合を行った調査結果や印刷用原稿、さらには『校本万葉集』の基礎資料となった貴重な写本・刊本の多くも焼失しました。信綱自身も茫然自失し、軽い脳貧血をおこして倒れました。

2年後の1925年(大正14)、信綱は多くの人々の力に支えられながら、献身的な努力によって『校本万葉集』(全25冊)の再興を成し遂げます。人の持つ力を信じたく思います。

http://manyomakimono.blog118.fc2.com/blog-entry-98.html

万葉集を研究されている小川靖彦氏のブログにこう書かれていました。私は源光行がはじめて子息親行によって鎌倉で完成した「河内本源氏物語」について探究していますが、鎌倉の『源氏物語』文化の象徴的存在の『尾州家河内本源氏物語』が、『西本願寺本万葉集』と同じ装丁ということを、この小川氏のブログによって認識させていただきました。

以後、『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』を一緒に考察することで、鎌倉における文化の昂揚期、宗尊親王御所の文化サロンに突き当たりました。

このことは論文に書いて、目下それを載せていただいている論文集の刊行を待つだけになっていますが、その前に講演や所属させていただいている短歌結社の同人誌『月光』に載せて世間の方々へ発信させていただいています。論文集はもう間もなく、四月には発刊される予定です。

そして、今回の震災で覚えた感慨・・・、「この震災で恐怖に怯え、被災者の方々への惨状に胸潰れる思いをしているのは、そのまま、中世にあって源平の争乱で戦禍の及ぶことを怖れ、親しかった平家の方々の戦死されていく報にじっと耐えていた光行なのだ」、という思いで、光行が何故あんなにも生涯をかけてまで『源氏物語』に打ち込んだかの思いを、今こそ一冊の本にまとめて世の中の方に知っていただきたい思いに駆られています。

余震が続き、関東での地震警戒の高まるなか、私にはこの本の上梓が間に合うかが緊急課題になっています。半年くらいには完結するという見通しですが、その間に関東大震災のような地震がこないことを祈るしか今は術がない心境です。

そこに佐々木信綱博士のこの記事・・・・。茫然として拝読しました。ここまで出来ていた『校本万葉集』までが壊滅することもあるなんて・・・

私が危惧していたのは、かつて与謝野晶子も『源氏物語』を現代語訳していたものを火災で喪失している事実があるからでした。佐々木信綱博士の『万葉集』までがそういう運命を受けていたなんて・・・

私のような一個人の本が天命を受けて守られる奇跡・・・なんていうことはないんです。だから、私は何としても、中世の光行たちの真摯な活動を現代に甦らすべく、必死で、とにかく上梓まではもっていきたいと、今、一人で奮起しています。

先の戦争では谷崎潤一郎は『源氏物語』に、三島由紀夫は『新古今和歌集』に没頭して、戦禍の恐怖の日常から逃れ、精神の正常を保って、平和な世に戻ったときに復活して世の人を和ます文学を提示してくれました。文学とはそういうものと思います。中世にあって光行も藤原定家もそれをしたのでした。今、私も、それをしようと思っています。

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ツイッターから・・・義援金のことや、自衛隊の活動の写真、中古のランドセルを捨てないで! などの件

http://gamba-staff.seesaa.net/article/191712151.html

http://www.japanquakemap.com/

http://twitpic.com/4bu15u

http://twitpic.com/4btuob

http://www.youtube.com/watch?v=hGZ91yywnZ0

http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103210361.html

http://atmc.jp/ame/

usuitakashi1967    全国の伊達直人さん、出番ですよっ!!RT @pack_th これは個人でもかなりの量対応できる事ですね。RT @makirincolon @samidal 家も何もかも流された子どもたちのために、中古でいいからランドセルが欲しい。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110322-OYT1T00077.htm

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ふくら雀ならぬ、ふっくらヒヨドリが可愛い!!・・・そして、ツイッターから二件

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ヒヨドリもあまりの寒さに膨らむんですね!! はじめて見ました。

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☆ツイッターより
福島原発から遠くに退避したいときの考え方  藤林徹(元東芝原子炉設計部長)】http://t.co/tiF6JCq

【放射能の影響をどうとらえたらよいのか?◎被ばく量、普段と同じ/報道・発表、科学的に正確 東北大加齢医学研究所 川島隆太教授】
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/03/20110321t73060.htm

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涙がでました、東浩紀氏の記事「珍しく日本人であることを誇りに思う」・・・ブログ【木蓮の陰から】より

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ツイッターでこの記事を知りました。東浩紀氏がニューヨーク・タイムズ紙に寄稿された震災後の日本人の反応についての記事です。

http://blog.livedoor.jp/magnolia1977/

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震災後、思うことあってここのところずっとブログ更新を止めていました。今、この記事を載せるために久々に開いてアクセス数を見たら、普段の数倍の方が訪ねてきてくださっていました。皆様、私の地震関連の記事をご覧になってくださっています。

この地震の発生後、私は「雲はどうだったのだろう」と頭を巡らせました。たまたま私は三月十五日に鎌倉で『源氏物語』の講演をさせていただくことになっていて、その準備のために二月から雲の観測を止めていたのです。それでいくら考えても頭のなかは空白。どんな雲が出ていたのか、空がいったいどのような状況だったのか、まるで思い出せません。

ずっと空の観測を続けてきてたまたま休んだそのときに・・・、の思いを引きずっています。これだけの規模の地震なら、空いっぱいに影響して、いくら外に出ずに籠っていたとしても、窓の外から見える空に前兆がなかったか・・・と、とめどもなく思考は続くのですが、今更に悔やんでもどうしようもない思いだけが続いています。

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「全世界がうらやむ国に」=復興信じるとオノ・ヨーコさん

「全世界がうらやむ国に」=復興信じるとオノ・ヨーコさん

時事通信 3月15日(火)12時1分配信

 【ワシントン時事】ビートルズの故ジョン・レノンの夫人でアーティストのオノ・ヨーコさんは14日、東日本大震災に関し、第2次世界大戦後に急速な発展を遂げた日本が再び復興を果たすのを信じていると語り、「日本は初めて全世界がうらやむ国になる」と述べた。
 オノさんはCNNテレビの番組で、終戦後に空襲で焼け野原になった東京を見た時の思い出を振り返り、「(今回の状況が)非常に似ている」と指摘。その上で「われわれは信じられない形で復興を遂げた」と話した。
 さらに、「われわれの気持ちは一つ。日本人が持つエネルギーと回復力、知恵を振り絞らなくてはならない」と述べ、復興に力を合わせるよう呼び掛けた。

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2011.3.11 2時46分、三陸沖M8.8の地震が発生、東北宮城を中心に信じられない光景の被害を及ぼしています。言葉もないのですが、今はとにかく情報が必要と思い、ツイッターからの目についた情報をランダムに転載させていただきます。

11日午後2時46分、三陸沖を震源とする地震が起き、宮城県北部で震度7を観測した。気象庁によると、マグニチュード(M)は国内観測史上最大の8.8(暫定値)を記録。同3時15分にもM7.3の余震があり、茨城県南部などで震度6弱を観測した。(Niftyニュース)

ツイッターからの転載(新しい投稿順)
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★sasano61(俳優の笹野高史さんです!!)韓国人の友達からさっききたメール。(日本語訳後) 「世界唯一の核被爆国。大戦にも負けた。毎年台風がくる。地震だってくる。津波もくる……小さい島国だけど、それでも立ち上がってきたのが日本なんじゃないの。頑張れ超頑張れ。」 ちなみに僕いま泣いてる。

★米国人の親友からまた連絡あり。暴動はないか、商店強奪はないか?くれぐれも身の安全を、という事を言われた。暴動も、商店強奪もなく、皆粛々と家路についている、と説明したら日本人の高潔さ、法の順守姿勢はすごい、と驚いていた。これは我々日本人が世界に誇れるものだと思う。

★ガスが止まってしまった方へ。東京ガスは震度4で自動停止機能が働く。復帰は簡単。メーターの左上にある黒いキャップを外して中のボタンを奥まで押しこむ。メーター上部の赤ランプが3分点滅するので、その後復活

★ことばが見つからず、ひたすらRTをしてしまいました。これ以上の被害・犠牲者が出ないことをお祈りいたします。どうか、ご無事で。

★コンビニ店員から一言:今働いているバイト生のほとんどはお客様の対応に追われるばかりで外部の情報が入りません。利用されるお客様の会話からの情報が頼りになります。軽くでもいいので声をかけてあげてください。私はそれでとても安心しました。

★夜になります。女性の方はなるべく一人にならないでください。災害時に、「お風呂を貸す」「トイレを貸す」そういった言葉で女性を騙し、乱暴する犯罪が過去発生しています。避難や徒歩での移動など、出来る限り独りにならないで、どうか、どうか気をつけてください。

★TVなどでは報道されていないようなので安否含め、何かの役に立てば。向陽町は見る限りでは倒壊などはなく至るところでブロック塀が倒れて散乱してるところはある。蛇田は所々が水没、中里も水没で通行止めになっているようです。

★東京都立高校は全て解放されました!!!!

★警報は解除されておりません。大津波警報が出されている地域では、高いところで10メートルを超える高さの津波が到達すると予測されております。また津波は繰り返し発生することがあります。これより満潮を迎える地域もあります。高台に避難をして、沿岸や河口には絶対に近づかないでください。

★新浦安に着いて、歩いてマンションまで戻って、ようやく家に着きました。しかし、新浦安の状況はほんとひどい状態です。液状化、地盤沈下がいたるところで起きてます。マンションが一番安全ぽい。近くのセブンイレブンも完全に傾いて、3分の1くらいが埋まってる状態。ほんと怖い。

★pref_iwate(岩手)県庁のサーバーがダウンしたため、県公式ホームページはしばらくご覧いただけません。当面は、Twitter、Facebookによる情報提供となります。

★医療従事者向けのページですが、「予備知識」「災害救急リンク集」など、一般の方々に役に立つ情報もあります。 → 「広域災害救急医療情報システム」

★阪神大震災経験者として。。。お風呂ためて入ったら、捨てずにおいとく。もし、水が出なくなったときのためにトイレに流すようなどに使えます。ラップやアルミホイルを使えば、お皿を汚さずに使えます。牛乳パックゴミは捨てずに、細く渦巻状に切れば簡易のキャンドルになります。

★国交省によると、宮城県を走るJR仙石線の車両が、野蒜駅から東名駅の間で脱線。4両編成の列車が線路と離れてL字型に折れ曲がっているのがヘリから確認できたということで、津波に流されたとみられている。乗客が何人いたのかなどの詳細はわかっていない。

★岩手県広聴広報課 @pref_iwate 青森県庁 @AomoriPref どちらも県庁のサイトが見られない状態のため、ツイッターでの情報提供を行うそうです!

★3/12 1:03 KDDIの海底ケーブルが断絶の模様。東北以北と関東以西のKDDI同士の通話が不通 

★BBCめっちゃ誉めてる。地球最悪の地震が世界で一番準備され訓練された国を襲った。その力や政府が試される。犠牲は出たが他の国ではこんなに正しい行動はとれないだろう。日本人は文化的に感情を抑制する力がある。広島の原爆でも、日本人は丁寧な言葉遣いで助けを求めたと言う話がある。とか。

★utadahikaru(宇多田ヒカルさんです!!) 被害がこれ以上拡大しませんように、不安な夜を過ごしている人たちのために、祈ってます。 I'm praying. It's all I can do.

★過呼吸発作の方、今、これをほんと伝えたい(涙)!!! RT @aishigemi @CHIBAREI_DURGA 頓服を飲む、掌をグーパーと開いて閉じてを繰り返す、腹式呼吸をする!過呼吸発作を起こしている場合は、掌を口に当て、横になる!誰か手を握ってあげて下さい。

★女性が安心して泊まれる場所:渋谷近辺の方、女性限定でアジア女性資料センターへどうぞ、とのことです。〒150-0031 東京都渋谷区桜丘町14-10 渋谷コープ211TEL:03-3780-5245

★築地本願寺では狭いですが横になれる女性用のスペースや赤ちゃん用の和室があります。また、女性の職員も常駐しておりますので、ご利用ください。

★建物に閉じ込められてる方,スマートフォンを持ってる方はGPSをオンにしてください!携帯でGPS機能が付いてる方も!助かる確率が上がります.希望を持って!!”

★iPhoneの電池を少しでも長持ちさせる方法。 1.wifiを切る 2.位置情報サービスを切る 3.通知サービスを切る 4.Bluetoothを切る 5.画面の明るさを一番暗くする 6.余計なアプリを切る

★被災地から離れている地域の、お暇な方、よろしければ献血行ってください。おそらく沢山の献血ルームが閉鎖されて、これから輸血用血液や製剤が足りなくなり…

★小田急線の運転再開について。3月12日(土)0時00分、藤沢~片瀬江ノ島間を除く全線で運転を再開いたしました。なお、お客さまのご利用状況により、終電時刻以降も運転を継続いたします。

★市内避難所では、合計約5000人の方がいらっしゃいます。ご不便をお掛けいたします。(鎌倉)

★揺れが強かった地域では今後も余震のおそれがあるため、寒さ対策や明かりを確保するために火を使うのは危険です。屋内に避難している人も火の気には注意が必要です。出来るだけ懐中電灯などを使用してください。

★政府が発表した帰宅一時困難者の利用可能施設 【文科省】霞が関の文科省の講堂、東工大大岡山キャンパス・すずかけ台キャンパス、東京芸大上野キャンパス 【農水省】霞が関の農水省七階共用第六会議室 【外務省】六本木JICA地球広場、市ヶ谷JICA研究所、幡ヶ谷JICAセンター

★政府が発表した帰宅一時困難者の利用可能施設 【国交省】新宿地方合同庁舎 【厚労省】合同庁舎五号館講堂 【厚労省】九段下の「昭和館」 【気象庁】大手町気象庁の講堂 【海上保安庁】海洋情報部一階会議室(築地5-3-1) 海上保安試験センター(立川市いずみ町1156)

★東京メトロ、本日未明まで終電時間の繰り下げを行うとの事です。

★電力会社の者です!節電に協力して下さい!!あなたの節約した電気が、病院に使われ、傷付いた一人の命を救います!!完全復旧送電には最低一週間はかかります。せめて一週間、節電をなんとか、心より、どうか宜しくお願いします!!!m(_ _)m

★電車待ちの皆さん、寒いけど頑張って!

★枝野「救援活動は、夜を徹しておこないます。夜明けとともにペースを上げます」

★ツイッターで救助要請見たら、まず、119に電話してください。そこで、所轄先を教えてくれます。【仙台消防局】022-234-1111はここ。その際、何処か場所を伝えます。リツイートでなく電話してください。

★枝野「11日1446の地震と同じ程度の地震がおこる可能性がある」 ほんとにそうだろうか。M8.8がもう一回起こることはないんじゃないか。これは、政治家としての発言だと理解すべきか。 HayakawaYukio

★枝野官房長官「高速道路は、緊急車両に限り通す。」

★避難されている方は寒さへの注意が必要です。十分な防寒具が無い場合には洋服と下着の間に新聞紙やタオルを挟むことで防寒効果が得られます。

★都交通局、地下鉄とバス運行を可能な限り延長

★23:52頃の地震、震源地は神奈川県西部です! http://ow.ly/4cutc

★鎌倉市防災情報。現在発表中の大津波警報について、横浜地方気象台防災担当官によると、地震発生後24時間程度までは県内沿岸に津波が到達する恐れがあるとの事です。津波警報が解除されるまで外出を控えるなど、引き続き十分注意をするようお願いします。

★帰宅難民に開放されてる学校:立教大/青山学院大青山キャンパス/上智大/明治大駿河台キャンパス/東大駒場キャンパス/工学院大新宿キャンパス/東京理科大/成蹊大/聖心女子大/東工大大岡山キャンパス講堂/都立新宿高校/芸大上野キャンパス大浦食堂/法政大

★電話が大変混み合っており繋がりにくくなっています。安否確認には以下をご利用下さい。iモード災害用伝言板 http://j.mp/fzqH7M 災害用ブロードバンド伝言板 http://j.mp/hGBaTh 災害用伝言ダイヤル http://j.mp/hR6iyW

★グーグルが安否情報確認サイト http://t.asahi.com/1kl4 「安否情報を登録すると、それを検索できる。人名のほか、メッセージや場所などが登録できる。」 こちら→ http://japan.person-finder.appspot.com/?lang=ja

★地震発生から6時間。電話、インターネット、テレビ、メールなど、ずーと見てますが、普段とおりに機能しているのはTwitterだけです。何処が、ロバストなんでしょうか?今後、しっかりと検証して欲しいところです。

★徒歩帰宅中。東新橋を過ぎ、大門交差点です。すごい人、人、人。なんの祭り⁈と思ってしまうくらい。車も大渋滞

★ガス復帰方法■ ガス器具を一旦ぜんぶ止めたら、メーターの復帰ボタンを押して3分待ってください。それでも復帰しなければガスやさんに電話してください!

★無料公衆電話のかけ方です→緑色のアナログ公衆電話は、緊急ボタンを押すか、または10円玉を入れれば、通話できます。通話が終わると、10円玉は戻ります。 デジタル公衆電話は、テレホンカードや10円玉を使わず、受話器を取るだけで、通話できるようになります。

★自宅へ帰れなくなってしまったみなさん、最寄駅の名前で、Twitterで「○○駅 解放」で検索したら比較的すぐに解放されてる場所の施設やお店がみつかります。

★【簡易トイレの作り方】便器の中にビニール袋を二重に入れ、口の部分の一部を管などに括る。ビニール袋の中に新聞紙を入れ、消毒液を入れるか、スプレーする。必要に応じて、ビニール袋を替える!水がなくても大丈夫!阪神淡路大震災の時、自衛隊員から伝授されました。”

★千葉市近辺に在住の方! コスモ石油の爆発により有害物質が雲などに付着し、雨などといっしょに降るので外出の際は傘かカッパなどを持ち歩き、身体が雨に接触しないようにして下さい!!! コピペとかして皆さんに知らせてください!!

★東電HPで確認しました。東京電力によると、電力設備が損壊したため、電力供給が不足し、東京も今夜停電になる可能性があるそうです。いらない電源は切ってください!!!!!

★【都内の方!】ビックカメラで充電器を無料開放してるそうです!電池無くなりそうな方は是非!!

★日経新聞電子版がすべての記事を無料開放しています。地震関連速報も流していますので、ご活用ください。
http://www.nikkei.com/

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2011.3.10 鎌倉の『源氏物語』:パワーポイント再度奮戦記(3)

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『源氏物語』桐壺巻の、「長恨歌」からの引用部分をスライドにしました。京都御所に行った日、あまりに空が綺麗でしたので、この写真を撮っていました。まさか、こんな具合に使うときがくるとは!

「長恨歌」のスライドも作ってありますが、それは自分の写真でなく、漢詩の本からの借用・・・。なので、全面写真には使わずに小さな挿絵になっています。杭州は是非とも行って撮りたい中国です!!

今日、講演を主催してくださる鎌倉の人権・男女共同参画課の方からお電話をいただいてお話したのですが、私は当日行けばいいだけで、準備は淡々とひとり、こんな具合にしてPCに向かっているだけで、普段と変わりない生活をしています。

が、会場を準備される現場の方は大変。当日も、私は一時間前に着けばいいつもりでいたのですが(一時到着予定)、テレビの方が十二時にいらして設置をはじめられるそう。私もその時間に行くことになりました。

行くまで、ほんとうにふだんのとおりの一般的な日常。なのに、行ったら広い会場で、皆様が私に向かって意識を向けて下さり、テレビカメラにずっと撮られてる、ってどんな状況なのでしょう・・・。何か、とんでもないことになっているという気持ちが湧いてしまいました。

今日の編集で一応、七夕関連のスライドは終了。光行の流れをチェックしましたが、これも終わりでいいかな? 明日は比企氏と仙覚関連のスライドを充実させてます。前回は仙覚を軽く通過しましたが、今回は少し写真を増やして、埼玉県比企郡での仙覚・・・小川町の万葉顕彰碑、岩殿観音、などを載せようと思っています。根を詰めると目が充血するので、早めに済ませておかにと・・・

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2011.3.10 鎌倉の『源氏物語』:パワーポイント再度奮戦記(2)

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今回の講演では、鎌倉の『源氏物語』である「河内本源氏物語」が、七月七日の七夕の日に完成したということを軸にお話させていただこうと考えています。

これは、「河内本源氏物語」を完成させた源親行が、奥書に、「嘉禎二年(1236)二月三日始校書。建長七年(1255)七月七日果其篇 朝儀大夫源親行」(東山御文庫本)と記したことによります。親行は七夕の日の完成にこだわったのでした。

そのことを説かれた稲賀敬二先生のご文章を引用させていただきます。私が『源氏物語』享受史にこだわりはじめて最初に拝読したころに出逢ったもので、非常に印象的で、七夕にかけた親行の思いというものがこれによってしっかりと私のなかにインプットされてしまったのでした。

建長六年十二月十八日、鎌倉将軍宗尊親王の御前で源氏を講じた親行は、そのまま鎌倉に滞在し、河内本校訂の最終整理を続けた。建長七年七月七日、親行は長い努力のあとをふりかえって長文の奥書を加えた。

第一巻桐壺は綾小路三品行能に清書を依頼したが、終巻夢浮橋は行能に匹敵する能書家を見いだせず、やむなく親行自身筆を染めて、後日「至洛陽欲清書」と奥書に記した。

間もなく清範朝臣息女に夢浮橋の清書を依頼して念願を果たした時、親行はかつての建長七年七月七日の奥書は改めず、夢浮橋清書の部分のみの辞句を改めて奥書を転記した。

建長七年七月七日「牛女結交之夜」云々の名文と感慨を改めるにしのびなかったのである。
(『源氏物語註釈史と享受史の世界』より)

何故こうまでして親行が七夕にこだわったかについては、私なりの見解があります。それはもうすでにこのブログに何回も書いてきていますが、『源氏物語』第一巻「桐壺」巻に、光源氏の両親である桐壺帝と桐壺更衣が、白居易「長恨歌」の玄宗皇帝と楊貴妃の愛に例えられているからです。すなわち、「比翼鳥 連理枝」と。玄宗皇帝が楊貴妃にそれをささやいたのが七月七日なのでした。

親行は11歳のころ、父光行の遣いで藤原俊成のところに『源氏物語』の不審の箇所を訊ねに行かされています。得てきた解答が十分でなかったので、光行に激しく叱咤され、その後数年ほどかかって自力でそれを解決したというエピソードがあります。親行の学者としての原点ともとれるエピソードで、『原中最秘抄』のなかにあります。

親行にとっての七夕の思いはこのように深いのでした。なので、奥書で「七月七日」にこだわったのでしょう。鎌倉の『源氏物語』である「河内本源氏物語」は七夕の日に完成したのでした!! その親行の思いをこの世に復活させてさしあげるべく、私は今回のお話の軸を七夕の日にと決めたのでした。

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2011.3.8 鎌倉に行きました。ちらほらと桜が咲いていました。鶴岡八幡宮・段葛に!!

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用があって鎌倉に行ったのですが、目に入ったのはちらほらと咲き始めている桜・・・。驚きました。

鶴岡八幡宮は社殿を塗り替えされて新しいのか、とても綺麗。桜とマッチして見えました。

その後、再び鶴岡八幡宮に戻り、闇に包まれ始めた境内をゆっくり巡りました。細い細い三日月が見えて撮ったのですが、ブレてるかなあ・・・。最後の社殿の一枚ははっきりブレてます(笑) でも、素敵でした。

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2011.3.6 鎌倉の『源氏物語』:パワーポイント再度奮戦記(1)

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3月15日・・・もう来週に迫りましたが、鎌倉でまた「写真でたどる『源氏物語』の歴史―鎌倉で「河内本源氏物語」ができるまで―」の講演をさせていただきます。昨日5日が新月でしたので、新しい何かをはじめる日とばかりに、講演のためのパワーポイントの編集にかかりました。

昨年秋に鎌倉で一回、その後同じ講演を日野市と府中市でさせていただいています。その都度少しずつ気がついたところを手直ししていっていますので、大分構成が整ってきました。ですから同じものをするならそのままでいいのですが、ふっと急に、そうだ、もっと大胆に変えよう! って思いついたんです。でも、じつはそれが昨夜・・・

大幅な変更を考えたのは構成もありますが、写真の入れ替えもしたくなったのです。それで、最初にまず一点、タイトル部分の新しいものを作ってみました。旧バージョンでは牛車の写真でした。気に入っていたのですが、これも新しく・・・の思いでしてみたら、結構、いいかも・・・

書きたいことはいろいろありますが、目的は編集の一件落着! 道草で手間取っていて本番に間に合わなかったら大変です。昨夜はいろいろあって就寝が明け方。なので眠くてたまりません。取り急ぎ今夜はこの写真のアップで終わりにします。これからまたパワーポイントの編集を、新しく全とっかえみたいな覚悟でします!! 楽しみです(o^-^o)

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2011.3.4 花の窟神社【お綱掛け神事】の花供養のお写真を頂きました・・・毎年献花をなさっている宮内信江様から頂戴したお写真、青い空に揺れるお綱、その下のご祭神前に飾られた献花、とても綺麗です!!

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●以上、花の窟(いわや)神社です。

●これからは、産田(うぶた)神社です。

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花の窟神社は日本最古の神社とか。御祭神はイザナミノミコト。一緒にそのお子さんのカグツチノミコトも祀られています。七枚目と八枚目がそうです。三重県熊野市有馬町にあり、世界遺産に登録されています。
http://www.mikumano.net/setsuwa/izanami.html

花の窟神社には社殿がなく、聳える大きな岩が社殿。その南にある別の岩がカグツチノミコトを祀る社殿です。お綱掛け神事というのは、毎年春と秋の二回行われていて、お綱を編んで幡の形に作り、それに摘んできたお花をさして岩の上から下げるもの。お綱は地元の方々の手で編まれ、神事のあとはえんえんとやはり地元の方々の手で海へと引かれていきます。
http://www.mikumano.net/meguri/otuna.html

宮内流活花のお家元宮内信江様はもう十数年もこの神社に献花の奉納をなさっています。今年も行かれて、奉納されてらっしゃいました。熊野には前々から入って、近辺を巡ってお花を摘んで水揚げなどの準備をされ、それを活けて奉納されます。

お花は青竹を花器にして数種類もの苔を敷き詰め、そこにツクシやスミレなどで下草の光景を作り、そして松や椿を活けられたもの。写真では下草の光景を想像するしかないのが如何にも残念ですが、宮内様のお花の根底がこうした自然との直結なのです。作り物ではない本物・・・。青竹は花器として神様にお供えする最高の花器なのだそう。宮内様のお話では神様がほんとうに喜んで下さっているのがわかるそうです。虹がでたり、鶯が啼いたり・・・、ご神殿がほのかにくつろいで地元の方が感じられたり、と。

宮内様のお話は微に入り細に入りで、何度も何度もいろいろな場でのエピソードを伺っているので、私はまるでそこに居合わせたような感覚になっていますが、実際に行ったらどんなに素晴らしいでしょう。写真家としては伺っているお話から、行けばもっともっと詳細な写真を撮れるのにともどかしい思いが湧いているのも事実です。

宮内様とは昨年秋の鎌倉でのイベント湘南邸苑文化祭における【紅葉賀】でご一緒させていただきました。私が「写真でたどる『源氏物語』の歴史―鎌倉で「河内本源氏物語」ができるまで―」の講演をしたとき、【紅葉賀】にちなんで、会場を燃えるような紅葉で彩ってくださったのです。

そのときのはらはらするといった形容が誇張でないくらいの献身的な働きっぷり(!)に感嘆・敬服したのですが、その宮内様と以来お話する機会をいただいて、花の窟神社でのお写真まで頂戴してしまいました!! 

花の窟神社について私が関心をもつに至った経緯については、このブログの≪2010.12.28の記事≫に記してありますので繰り返しませんが、お写真と一緒にお送りいただいた神社のご由緒を添付させていただきますね。画像をクリックすると大きくなります。

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本居宣長の歌がいいですね。
  紀の国や 花窟にひく綱の 長き世絶えぬ 里の神わざ

写真、最後の二枚は産田神社です。同じ有馬町にあります。宮内様は花の窟神社だけではなく、近くの産田神社にも献花してこられました。

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でも、熊野って、ほんとうに聖地ですね。熊野の地形は太古の昔に火山の噴火によってできたそうです。巨大なカルデラなのだそう。イザナミノミコトの産んだ火の神カグツチノミコトはこうした地質の歴史と関係あるのでしょうか・・・
http://www.mikumano.net/keyword/caldera.html

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2011.3.3 【うたの森に、ようこそ。】 笠間書院さんから「コレクション日本歌人選 全60冊」の豪華なパンフレットが届きました!!

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笠間書院さんの豪華なパンフレット!! 昨日届きました。取り急ぎ、ご紹介させていただきます。

第Ⅰ期が2011年3月刊行開始、20冊。第Ⅱ期が11月開始、20冊。第Ⅲ期は2012年7月開始、20冊です。

私としては、第Ⅱ期の『飛鳥井雅経と藤原秀能』『二条為氏と為世』、第Ⅲ期の『俊成卿女と宮内卿』『藤原為家』が気になるところ。今までこういうアンソロジーの仕方あったかなあと・・・。なんとなくとても笠間書院さんっぽい!!

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2011.3.3 シンポジウム【大阪上町台地から都市を考える2 寺社と中世都市―京都・博多・大坂―】のお知らせ

仁木 宏様からのメールを転載させていただきます。

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シンポジウム 大阪上町台地から都市を考える2 
     寺社と中世都市―京都・博多・大坂―                                   
        
◎趣旨
大阪では上町台地上にあった古代の難波宮が姿を消すと、中世には台地を覆う都市は成立せず複数の都市的空間が並存する状況となった。四天王寺門前町、大坂本願寺寺内町や渡辺津がその主なものであり、それらを小規模な集落や港が取り巻いた。

そのなかで四天王寺門前町は古代以来の寺院が民衆に開かれていく過程で都市的展開をとげ、大坂本願寺寺内町は16世紀に勢力を飛躍的に拡大させた本願寺の膝下都市として発展し、大阪周辺や他地域の寺内町へも大きな影響力をもった。これらは寺院のもつ求心力により周囲に町場が付属する「宗教都市空間」を形成させたのである。

一方、中世都市には一定の都市域をもち、そのなかに複数の個性豊かな「宗教都市空間」を包含するタイプのものも広くみられたが、こうした中世都市の「宗教都市空間」の多くは時代が近世へ移行していくなかで都市の構成要素として再編されていく点で共通している。

本シンポでは京都、博多、大坂という三大歴史都市をとりあげ、それぞれに都市域のなかの寺社の存在形態、寺社が形成した「宗教都市空間」の実態、さらには近世都市への移行について検討するとともに相互比較し、中世都市の特質を寺社の存在という観点からさぐっていく。

本シンポは平成22年度(独)日本学術振興会科学研究費補助金『大阪上町台地の総合的研究―東アジア史における都市の誕生・成長・再生の一類型―』基盤研究(A)(研究代表者:脇田修 課題番号21242031)による補助事業として行う。

◎日時:平成23年3月21日(月・祝) 10時~16時45分
◎主催:(財)大阪市博物館協会大阪文化財研究所、大阪歴史博物館
◎会場:大阪歴史博物館 4階講堂

◎次第:
  10:00~10:05  挨拶  脇田 修(研究代表者、大阪市博物館協会)
  10:05~10:15  趣旨説明 松尾信裕(大阪城天守閣) 
  10:15~11:05   報告① 市川 創(大阪文化財研究所) 
                  「考古学からみた中世四天王寺とその周辺」
  11:05~11:55  報告② 大澤研一(大阪歴史博物館)
                  「大坂本願寺の構造と周辺地域」
 (昼食)
  13:00~14:00  報告③ 河内将芳氏(奈良大学)
                  「戦国時代の京都と法華宗」
  14:00~15:00  報告④ 水野哲雄氏(福岡市教育委員会)
                  「中世博多における「宗教都市空間」をめぐって」
  15:00~15:15   (休憩)
  15:15~16:45  パネルディスカッション
                司会:松尾信裕・豆谷浩之(大阪歴史博物館)

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2011.3.3 第49回 中世史サマーセミナー【2011年8月・近江】のご案内

仁木 宏様からのメールを転載させていただきます。

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第49回 中世史サマーセミナー【2011年8月・近江】の御案内

(日本)中世史サマーセミナーは、大学や、普段活動している学会・研究会の枠を越えて、全国の若手を中心とする研究者が集まる催しです。参加者一人ひとりが、研究交流や懇談をつうじて中世史研究をより魅力あるものとして体感できることを目標としています。

2011年は、私たちが幹事をつとめます。近江国の中世史研究の最先端を、シンポジウム・研究会、ならびに見学会を通して理解していただき、今後の中世史研究全体の発展に寄与することができればと存じます。

サマーセミナーの具体的内容は検討途上ですが、多くのみなさんに開催を知っていただき、日程の確保をお願いするために早めに宣伝させていただきます。以下の概要はまだ予定です。今後は、電子メール、ホームページその他の方法で、開催案内、参加申込方法などを広報する予定です。よろしくお願いします。

 日程:2011年8月29日(月)~31日(水)
 宿舎:近江希望ヶ丘ユースホステル
      滋賀県野洲市北桜978 県立希望が丘公園内
      JR東海道本線「野洲」駅下車
            http://www.jyh.gr.jp/oumi/index.html

第1日 8月29日(月)
 午後:シンポジウム
       会場:近江希望ヶ丘ユースホステル
     大河内勇介氏(京都大学)
     高木叙子氏(安土城考古博物館)
     鍛代敏雄氏(國學院栃木短期大学)
     新谷和之氏(元大阪市立大学) *所属はいずれも2011年2月現在

第2日 8月30日(火)
 午前:研究会
       会場:安土城考古博物館

 午後:中世古文書見学会
              会場:安土城考古博物館
     見学会……安土城下町、西の湖、長命寺
       *西の湖は小型船による湖上ツアーで遊覧します

第3日 8月31日(水)
 見学会……「山の寺」百済寺or金剛輪寺など
      京極氏上平寺館・城下町跡(米原市)
      土豪居館跡、中世のイメージを残す集落など

◆定員80名  宿泊者定員60名
◆申込受付開始 2011年5月21日(土) ※歴史学研究会大会第1日

◆中世史サマーセミナー2011ホームページ  
http://www.yakitori.lit.osaka-cu.ac.jp/cgi-bin/j_his/index.php?ma-
summerseminar2011
   ※最新の情報はこちらのホームページで確認ください。

 連絡先・問合先
  〒558-8585 大阪市住吉区杉本3-3-138 大阪市立大学大学院文学研究科
               日本史研究室(仁木宏)気付
      中世史サマーセミナー2011 実行委員会 (委員長:新谷和之)
    問合先 メールアドレス summerseminar2011★yahoo.co.jp
        (★マークは、@マークに改めてください)

    *問い合わせは、電子メールか、郵便でお願いします。
     文学研究科(事務室)にお電話いただいても対応できません。

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2011.3.1 ツイッターへの呟きを転載・・・3月15日の講演「鎌倉で『源氏物語』ができるまで」に関する近況報告です! ケーブルテレビの取材にまで話が発展しています

Rose0297

今朝のツイッターへの呟きです・・・

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odayuriko 3月15日の講演「鎌倉で『河内本源氏物語』ができるまで」の準備をしています。「広報かまくら」でも募集が開始されました。昨日配布資料を仕上げて投函。これからパワーポイントの編集に。『尾州家河内本源氏物語』の影印本を刊行された八木書店様にも当日見本を持ってきて頂くことになりました。

odayuriko 八木書店様のパンフは凄い豪華!さすが『源氏物語』、さすが『尾州家河内本源氏物語』という存在の強さを感じます。鎌倉で「河内本源氏物語」ができたということは、単にそういう愛好者がいたという歴史の一端でなく、鎌倉の文化そのものの話、当時生きていた人が呼吸していた時代の空気なのです。

odayuriko  講演をケーブルテレビで取材して下さるとのこと。さっき主催の方からご連絡。一時間番組に編集とのこと。私はカマラマンだったからカメラの目がわかります。それを自分に向けられるなんてとんでもないとは思いつつ、鎌倉の『源氏物語』のためにぐっと我慢して承諾。因果はめぐる、自業自得の境地です。

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八木書店様で刊行開始の『尾州家河内本源氏物語』影印本第一巻、12月に出ているはずなのですが、私はまだ見ていません。図書館に行くたびにきょろきょろするのですが、地元の図書館になどあるはずないし・・・で、当日八木書店様の方が持ってきてくださるのを拝見するのがほんとうに楽しみです。

パンフレットを再掲しますね。

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惜しむらくは分売不可なのです(泣)

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