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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】(4) 第一章.2 国宝「源氏物語絵巻」を継承した天皇

【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】
第一部 「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」の成立の蔭に
第一章 『源氏物語』から国宝「源氏物語絵巻」まで

2.国宝「源氏物語絵巻」を継承した天皇

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 国宝「源氏物語絵巻」は、のちに平清盛の娘で高倉天皇の中宮となった建礼門院徳子の所有するところとなります。ここにも光源氏をみずからに投影させた天皇の影が見え隠れします。後白河天皇です。

 整理するために皇統を記しますと、白河天皇―堀河天皇―鳥羽天皇―崇徳天皇―近衛天皇―後白河天皇、となります。

 後白河院は鳥羽天皇の皇子で、崇徳天皇の弟、近衛天皇の兄です。崇徳天皇のあと近衛天皇になったとき、これでもう後白河院が天皇になることはないと誰しもが思いました。それが近衛天皇の急逝で即位したのです。高倉天皇は後白河院の皇子ですから、徳子は後白河院にとっては息子の嫁にあたります。

 後白河院が即位したのは異例に遅く、二十九歳でした。白河院と同じく長く帝位につけない皇子だったのです。母は待賢門院璋子。ということは、後白河院は、国宝「源氏物語絵巻」を制作した女性の子、鳥羽天皇妃となったあとも白河院と密通を続けたような妖艶な女性の子なのです。後白河院もまた生まれながらにして『源氏物語』の環境と密接にあり、しかも心情的に光源氏に我が身を投影して生きる条件を備えた天皇でした。

 後白河院には建春門院滋子という寵愛する妃がいました。高倉天皇の生母でいられます。この方の姉が平清盛の妻時子。ここに後白河院における光源氏と同じ構図が浮かびあがります。つまり、光源氏と藤壺の関係が後白河院と滋子とすると、藤壺の姪の紫の上が、滋子の姪の徳子となるのです。

 滋子は聡明な女性でした。藤原定家の姉の健御前が女房として仕えていて、その日記『たまきはる』には、滋子の御所の秩序保たれた美しい日常が書かれています。そういう滋子がいることで、後白河院と清盛との関係は上手く保たれていました。が、滋子の逝去で関係が悪化、平家の衰運へと繋がり、源平の争乱にまでなっていくのです。

 後白河院は相当徳子に執着していたようです。兆しは高倉天皇崩御より以前からありました。安徳天皇の御産に際し、不自然なほど熱心に後白河院みずから祈祷しているのです。古い女房達をして批判めいたささやきを交わさせるほどに。さらに、高倉院崩御のあと、徳子は後白河院と平家のあいだを結ぶ手立てとして入内させられそうになっていますが、これは院の心を見透かしての平家の深慮遠望でしょう。

 そして、清盛が没したあとの養和元年十二月十三日の夜、後白河院の法住寺御所に徳子が渡った記録があり、これを水原一氏は『延慶本平家物語論考』で、「おそらく一時にせよ建礼門院はいわば平家の失地回復の生贄として後白河院の法住寺御所に据えられたのであったろう」と書かれます。

 『平家物語』では、壇ノ浦で生捕されたあと、落飾して籠もっている大原寂光院の徳子を院が訪ねる「大原御幸」という段があります。これは単に息子の嫁だった徳子を慰めるための訪問とみるには、院の立場を考えると少しく異常です。院は大原を訪ねたく思っていたのですが、二月、三月のあいだは風が激しく寒さも未だ尽きず、峰の雪は消えず、谷のつららも融けないから、春は見送り、四月の葵祭が過ぎたころ、夜を込めてようやくお忍びで行くことができたというのです。このご執心……

 院の一行が寂光院に着いたとき、徳子は山へ花を摘みに行って不在でした。院は、「人やある、人やある」と召されるのですが、誰も答えません。そこに老いた尼が一人来たので、「女院はいずくへ御幸なりぬるぞ」と問うと、「この上の山へ、花積みに入らせ給ひて候」と答えます。院は、「さようのことに、仕え奉るべき人もなきにや。さこそ、世を捨つる御身といいながら、御いたわしうこそ」と仰せられます。

 さらに、濃い墨染めの衣を着た尼二人が、「岩の崖路を伝いつつ、下り煩い給」うのをご覧になり、それが徳子と女房の二人と知ると、「世に哀れげに思し召して、御涙せきあえさせ給わず」という状況。

 徳子は、「さこそ、世を捨つる御身といいながら、今、かかる御有様を、見え参らせんずらん恥ずかしさよ。消えも失せばや」と思うのですが、どうしようもありません。ここに情を通じた者どうしの心の通いがあると感じてしまうのは、私の深読みのし過ぎでしょうか。徳子は顔を赤らめて恥じらうのです。

 院は、徳子がまだ都にいるときにすでに徳子を訪ねたく思っていたのですが、頼朝を憚って我慢していました。それで大原御幸となるのですが、「そもそも当初法皇が大原御幸を思い立ったのは、建礼門院に同宿せんとしてであった」そうです。

 この徳子が国宝「源氏物語絵巻」を一時期所持していました。そして、絵巻は突然、ずっと後年、鎌倉の第六代将軍宗尊親王の所持となって歴史上に再び現れるのですが、徳子は西海に逃れるときに絵巻を都に残していったのでしょう。

 「白河院か後白河院の周辺で作成された源氏絵巻が、建礼門院の所有となり、やがて平家滅亡後に将軍家へ伝来したものと考えられる」と、伊井春樹氏は『源氏物語註釈史の研究』に書かれています。

 おそらく国宝「源氏物語絵巻」は、待賢門院璋子から後白河院に譲られ、後白河院から建礼門院徳子に贈られたという経緯なのでしょう。

《参考文献》
水原一『延慶本平家物語論考』加藤中道館 一九七九年
伊井春樹『源氏物語註釈史の研究』桜楓社 一九八〇年

◆冒頭のフローチャートはパワーポイントで編集したスライドです。

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