2011.3.31 峰岸純夫先生のご著書 吉川弘文館≪歴史の旅≫『太平記の里 新田・足利を歩く』が刊行になりました・・・現地の写真を撮らせていただいています。
吉川弘文館の≪歴史の旅シリーズ第四弾!≫ 『太平記の里 新田・足利を歩く』が完成し、この度刊行になりました。ご著者は峰岸純夫先生。鎌倉の歴史を書いているので日頃からいろいろご教示いただいたり、励ましていただいています。
先生から撮影のお話があったのが一昨年。実際に撮りにいった最初がその年の11月でした。一回目を新田、翌週に足利を撮って回りました。車は先生の妹さんの真塩南枝さんが出して下さって、現地集合でした。紅葉が綺麗な季節で、表紙の鑁阿寺・足利学校の写真がそうです。
その時に、樺崎寺の浄土式庭園に一本の桜の木があって、先生が「あれが咲いていたらいいのに」とおっしゃったのが心に残って、翌年(昨年)の四月、桜の満開の時期に一人で訪れて撮り、その五月、先生が関係されている歴史の会で足利を回るツアーがあったので私も参加してまた撮って、そしてそれでも足りない分を九月に二回、また新田と足利に行って終了しました。そのときは私たちだけでは間に合わなくて編集者の大岩様も分担して回ってくださいました。
樺崎寺の桜は、そのときは発掘が終了していて誰もいず、怖いくらいの静寂のなか、満開の桜を一人占めして幸せでした。表紙に使っていただいたのがその時の樺崎八幡宮本殿です。見開きページの写真は二枚共その樺崎寺です。二枚目の一番最後の写真・・・、左ページの左下が、法界寺。あのオークションで話題になって真如苑に落札された運慶作の大日如来座像はここのご本尊様でした。今は跡形もありませんが、区画がロープを張って示されています。
新田は群馬県、新田義貞の地です。足利は隣接していますが栃木県で、足利尊氏の地です。鎌倉時代を追っていると、鎌倉から見て北関東は奥地の気がしますが、行ってはじめて知ったのですが、鎌倉時代まで東山道が主流でしたから、奈良・京都の文化はまず北関東の埼玉・群馬・栃木に入るんです。そこから鎌倉へ南下してくる・・・。だから、寺院だけを見ると、鎌倉よりも奈良や京都に近い雰囲気がその地には色濃く残っています。驚きました。
それで謎が解けたのですが、私が鎌倉に関心を深めていった最初が称名寺でした。その初代長老の審海が下野薬師寺から迎えられているんです。その頃の知識からいえば、「何故、鎌倉の寺院に、わざわざ関東の奥地から呼ぶの?」でした。でも、東山道経由の文化の伝播から見れば当然の経緯だったんですよね。こういう言い方をしたら不謹慎かもしれませんが、鎌倉にはない薬師寺が下野にはあったんです・・・
それと、万葉集研究の仙覚の足跡を追って埼玉県の比企を訊ねたときの慈光寺。そこも何故関東の奥地にこんな立派な天台宗寺院が? となるところですが、これも当然の経緯。当時における関東第一の天台宗寺院なのです。鎌倉の寺院が第一ではないんです。ここを踏まえておかないとこの時代の正しい知識はないと思いました。
こういう歴史上の現代とのまったくの相違は、訪ねてみなければ実感できません。新田・足利を歩きながら、これからもっとたくさんの方がこの地を訪ねられるといいのに、と思ったのでした。