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2011.4.27 「関西比較中世都市研究会」の御案内

仁木宏様からのメールを転載させていただきます。

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「関西比較中世都市研究会」の御案内
(關西比較中世城市研究会
 Kansai Research Group for Comparative Studies on Medieval Cities)

第4回 2011年5月13日(金) 19:00~21:30

会場: 大阪市立大学文化交流センター 小セミナー室 (大阪駅前第2ビル6階)
       http://www.osaka-cu.ac.jp/faculties/bunko/access.html
       http://www.osaka-cu.com/article.php?story=bunko

     報告;山口智哉氏(東洋史・(台湾)国立中興大学)「宋代坊巷空間考」

 唐代後半期より宋元代にかけての中国都市は,政府による都市規制の緩和と都市内部や郊外における商業活動の活発化,および人口増加と商工ギルドの台頭などによって新しい都市空間が形成されるようになる。
 このような新たな都市空間を分かつ指標となったのが「○○坊」や「○○巷」などと表現された,いわゆる両側町の区割りであり,都市民はこの区割りに沿って基層のコミュニティを形成していたと言われている。
 本稿の目的は,宋代以降の都市空間内に形成された区割り―これを坊巷空間とよぶ―に着目し,都市民や地方官が当該空間をどのように認識していたのかについて考察する。
 報告時には,温州市や天台県といった,中国東南地方の都市で行った現地調査の成果を紹介しつつ,参会者と日本や西洋の都市との比較について,議論を行いたい。

     コメント:仁木 宏氏(日本中世史・大阪市立大学)

第5回 2011年7月29日(金)19:00~21:30 
     

     報告;佐藤公美氏(西洋史・ミラノ大学)
         「中世後期アルト・アディジェ(南ティロル)の山間都市網と政治社会」
     
     コメント:米家泰作氏(歴史地理学・京都大学)

第6回   2011年10月14日(金)19:00~21:30
   
     報告;天野忠幸氏(日本史・大阪市立大学)
     
     コメント:向 正樹氏(東洋史・大阪大学)

趣旨
 日本、東洋、西洋における中世都市の実態や研究方法を学び、自らの都市研究に活用する方途をさぐる。異なる地域の都市研究者の間で、比較研究の方法論を真摯に模索する。

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Facebookから頂いた情報・・・被災地に息吹届け、鹽竈桜咲く 下京の梅小路公園→塩釜神社の写真

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20110420000028

たまたま下の記事で梅小路公園の写真を載せたばかりですので・・・

以前、塩釜神社を訪ねました。そのときに見た塩釜湾・・・。津波がどこまで襲ったのか気になっていました。

塩釜市 崩壊はあまりなし。
【津波被害】

  塩釜神社の登り口まで水がきた
  床上浸水 高いところではほとんど被害がない

とのことで、ひとまずほっとしました。訪ねたときの写真を載せさせていただきますね。

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一枚目が社殿に行く途中で撮った塩釜湾の光景。ご覧のように神社はかなりの高台にあります。津波はこの写真に写っている一帯を通って、神社の石段の下まで来たんです・・・。やはりと、絶句しました。あのときは呑気に、「源融もここからあの海を眺めたのかしら」など、感慨にふけっていたのですが・・・

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】(7) 第二章.1 源光行の青春―平家文化のなかで

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】
第一部 「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」の成立の蔭に
第二章  平家の王朝文化 ―藤原定家と源光行の青春時代

一. 源光行の青春 平家文化のなかで……

 源光行が「河内本源氏物語」の校訂を最初に手がけた人物ですが、きっかけが何だったか、いつはじめたのかについてはわかっていません。

 十歳のころより漢籍に親しみ、その教養を基に『蒙求和歌』『百詠和歌』『新楽府和歌』三部作を成すなど、学問の分野で功績大の光行なのに、日記や心情を推し量ることのできる歌集が残されていないために、その解明については未だ研究が成されていないのです。そこで事跡をたどり、周辺の事情からせばめていって、動機と時期の見当をつけてみたいと思います。

 光行については、池田利夫氏作成の『河内本源氏物語成立年譜攷』という詳細なご研究があります。以下、多くをそれにより、時に別の資料を交えながら足跡をたどることにいたします。

 まず、光行の生年は長寛元年(一一六三)です。これは奇しくも「青表紙本源氏物語」を成した藤原定家の生年の翌年にあたります。没年は寛元二年(一二四四)で、定家の没年から三年後。享年は定家が八十歳。光行は八十二歳でした。ですから、「青表紙本源氏物語」「河内本源氏物語」と並び称される二大写本の校訂者が、ほぼ同じ時代を生きて呼吸していたことになります。しかも、平家文化という同じひとつの狭い文化圏で……。

 二人が平家一門の方々と密接に交流する仲だったことはあまり語られてきていません。けれど、平家が都落ちした寿永二年(一一八三)、定家は二十二歳、光行は二十一歳です。ということは、二人は感受性ゆたかな十代の思春期を、平家の王朝文化真っ盛りの時代に過ごしているのです。「平家にあらずんば人にあらず」とまで豪語された時代、二人がその時代を染める文化と無縁だったと考える方が不自然でしょう。

 光行の祖父季遠は平忠盛に仕える青侍でした。つまり、光行の家系は武士としてはじめて昇殿を許された忠盛の代から平家に仕えているのです。

 叔父は『平家物語』に度々重要な役割を担って登場する源大夫判官季貞という、平清盛の側近中の側近です。例えば、延慶本『平家物語』には、治承元年(一一七七)の鹿ケ谷謀議の発覚の際、季貞が藤原成親らを捕縛に赴いたと記されていますし、平重盛が死去する前兆として書かれた熊野詣の条で、維盛・資盛ら子息の浄衣が重服に変わったのを見咎めたのも季貞でした。

 季貞は歌人で、『月詣和歌集』や『千載和歌集』に入集しています。『月詣和歌集』の成立は寿永元年(一一八二)で、この前年に清盛が亡くなっており、季貞の哀傷歌が載せられています。
    六波羅入道太政大臣かくれ給て後のわさの夜雨の
    ふり侍りけれはよめる             源季貞
  春雨もおつる涙もひまなくてとにもかくにもぬるるゝ袖かな
『月詣和歌集』における清盛への哀傷歌は季貞のこの二首だけです。如何に季貞が清盛に近い存在とみなされていたかが窺われます。

 この年、光行は二十歳でした。光行もまた『月詣和歌集』に四首入集しています。若くして歌人と認められていた証でしょう。季貞とは歌人どうし意気の合う叔父・甥だったでしょうか。

 季貞は最後まで平家に忠誠を尽くし、都落ちしたときには宗盛に従ってみずからも都落ち、ともに生捕になって帰って市中引き回しにあっています。光行の気持ちは如何ばかりだったでしょう。

 光行の父光季は季貞ほど目立ちませんが、それは季貞が季遠の実子だったのに対し、光季は養子だったことに由来するのかもしれません。建春門院滋子の侍に補せられたり、建礼門院徳子の出産を二日後に控えて安産祈願のための田楽奉納が行われたときに神主代を務めるなどしていますから、中宮職に近い任務にあったのではないでしょうか。

 のちに光季が平家加担の罪で捕われたとき、同じ中宮職にあった三善康信が光行を伴って鎌倉に下り、頼朝に直訴して光季の命乞いをしています。平家が都落ちした翌年で、光行が二十二歳のときのことです。

 康信は母が頼朝の乳母だった関係で、頼朝にとっては乳母子、頼める兄貴のような存在です。源平の争乱にあっては京中の情報を逐一頼朝に報告し、勝利に貢献しました。その康信の頼みとあって光季は助かります。二人はおそらく中宮職の同僚として、康信がその子息を伴い嘆願に走るほど親しい間柄だったのでしょう。光季が滋子・徳子ら後白河院ゆかりの女性に仕えているのに対し、康信が仕えたのは二条天皇の中宮育子です。

 光行はこのときはすぐに帰洛しますが、これが最初の鎌倉下向となりました。康信はこれを機に鎌倉に移住。初代問注所執事となります。

 いずれにしても、光行の父光季は平家加担の罪で捕われるほど平家に近い人物であり、光行の生い立ちの原点はそうした平家文化のなかにありました。

 徳子が入内した承安元年(一一七一)、光行は九歳でした。光季が徳子の安産祈願に神主代を務めた治承二年(一一七八)は十六歳です。仕事を終えた夕餉の席などで、父親が語る雲の上の女人徳子の存在が、芽生えはじめた異性への興味と相俟って甘美な想像を引き起こし、光行の心に強い憧憬の念を引き起こしたとしておかしくありません。おそらくこうした環境にあって、徳子は光行にとっての永遠の女性像となったのではないでしょうか。

 これはおいおい書いていきますが、光行には生涯を通して徳子を守り通そうとした節が見受けられます。徳子はおそらく光源氏にとっての藤壺です。光行の『源氏物語』への執着は、この手の届かない高みの女性への叶わない恋の問題が本質として存在すると私は思っています。

《参考文献》
池田利夫『河内本源氏物語成立年譜攷』日本古典文学会 一九七七年
三島義教『初代問注所執事 三善康信―鎌倉幕府の組織者―』新風書房、二〇〇〇年

◇冒頭の写真はパワーポイントで編集した講演用のスライドです。

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2011.4.18 ツイッターに呟く・・・過去の歴史上の災害から学ぶこと!!

ツイッターに呟きました・・・

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峰岸純夫先生から、『中世災害と戦乱の社会史』が再刊することになり、災害ニュースに心を痛めながら新解説原稿に力がこもりました、とのメールを頂く。貞観地震津波の歴史を配慮しないで建てた原発に怯える昨今、歴史は単にロマンで追うのでなく学んで生かすべきとつくづく思う。

odayuriko
また他の方から、北条実時が正嘉元年の鎌倉大地震にもめげず、正嘉二年に「河内本源氏物語」を書写した行為に感動し、その意味を考えたとメール頂いた。その地震では「鎌倉の社寺堂宇一切なし」の惨状だった。幕府の重鎮実時はその復興にあたっていたはず。その彼が心を傾けたのが『源氏物語』だった。

odayuriko 
私も今、東北の方々の厳しく苦しい状況に心を痛めながら、今私の成すべきことは?を考えて、一心に、大変な動乱の世の鎌倉時代に生きて『源氏物語』に心を傾けた人たちの歴史を書いている。いつか、実時の行為が今の私を励ますように、私の残したものが後世の誰かの心の糧となることを祈りつつ・・・

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『紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―』の原稿は、第一部第一章を終わって、第二章「平家の王朝文化 ―藤原定家と源光行の青春時代」に入りました。

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わずか1日で開催を決断 震災に負けず、63本全てを開催する!・・・リード エグジビション ジャパン株式会社の英断!!! → そして、≪リードが震災後、ついに大規模展を開催 (11/04/14) この光景が、業界を驚かせ、安心させた≫

リード エグジビション ジャパン株式会社といってもピンとこない方が多いと思いますが、「国際宝飾展」とか「東京国際ブックフェア」などの見本市を開催される会社といったらわかっていただけると思います。
http://www.reedexpo.co.jp/

現在、リード エグジビション ジャパン様が運営される見本市は全部で63本とか。その63本すべてを、この震災直後、わずか一日で開催することを決定されたそう・・・。いつも頂いているメールでそれを知って胸が熱くなりました!!

私は残念ながら(笑)宝飾展とは無縁ですが、東京国際ブックフェアの大ファン、常連さんです。一度は出展も考えて、出展者用の説明会に伺ったこともあるほど・・・。自費出版を考えていましたので、折角ならブックフェアの会場に小さなブースを設けてアピールしようかな? って考えたのでした。

説明会は大々的なもので、それはそれはもう一流企業の大手出版社の方が大勢詰めかけ、ものものしい雰囲気でした。ふつうなら、そんなところにひょこひょこ迷い込んだ私のような小さな存在は無視されるどころか邪魔者扱いされて仕方ないのですが、リード エグジビション ジャパン様の応対は、どんな入場者に対しても公平で暖かく、心くつろげたのです。
(自費出版のその後ですが、いろいろあってまだ原稿も仕上がっていず、出展希望も自然消滅しています。)

石積忠夫社長の講演も覇気に満ちてすがすがしく、すっかり心酔した私は講演後にロビーで販売されていた『正直者はバカをみない ―日本一の見本市ビジネスをつくった男の成功哲学―』というご著書を買って帰って、拝読して、さらに感動したのでした・・・

『正直者はバカをみない ―日本一の見本市ビジネスをつくった男の成功哲学―』は、タイトルからしてビジネス関係の方にしか手にとっていただけなそうな感じですが、これは、ほんと、例えば高校生とかの若い方に読んでいただきたい人生の実践的方法論、実践向け哲学書です!!

例えば、「正直者」ですが、この一例に見本市の入場者数があります。通常、何かイベントが行われるとだいたい水増し的な数字が発表されますよね。が、こちらの会社では水増し一切禁止! それをすると社員の覇気にゆるみが生じ、真剣でなくなるから、と。リード エグジビション ジャパン様の入場者数は、受付で一々名刺を渡して、それを引き換えに首からさげる入場券をいただき、期間中、それがあれば何回でも出入りができる・・・、つまり、一人一回の受付が守られるのです。

そういうリード エグジビション ジャパン様の今回の震災後のこの対応! この英断こそ今の時勢に何より欲しいものと思ったのでした!

■ わずか1日で開催を決断。今明かす、その理由 ■
           (カラー写真付き記事全文)
               ↓   ↓   ↓

http://cc.reedexpo.co.jp/?e=8npzH73VmxIRD1rwwbZ

3月11日(金)。突如、大地震が東日本を襲った。出張中だった社長の石積は土曜日にようやく東京に辿り着き、「今後、震災はどうなるのか?」「1ヶ月後に開催が予定されている我が社の展示会はどうなるのか?」「さらにその後7月末までの34本の展示会にどのような影響がでるのか?」を考え続けていた。

翌月曜日、石積は緊急ミーティングを召集し、リードの年間63本の展示会を今後、開催するべきかどうか判断するため、徹底した調査を指示した。翌朝、報告を聞いた石積は、意を決し「我々は、63本全てを開催すべきだ」と述べた。

その決断に至った事実・理由とは?被災地からの出展社の声もあわせて紹介する。

そして・・・

■ 初日の模様を、一挙公開! 本展の無料招待券も進呈 ■
           (カラー写真付き記事全文)
               ↓   ↓   ↓
http://www.reedexpo.co.jp/release/pdf/110414_newsrelease.pdf

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2011.4.15 紙吹雪か蛍・・・花びらの散る速度って速いんですね/失敗例で恥ずかしいのですがご参考までに

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13日の野川の桜、見ていたら突然蝶の乱舞のように花びらが舞い散り、それは息を呑む光景でした。急いでシャッターを切ったのですが、途中で気がついて、「そうだ、シャッタースピードを速くしなければ」と、一応速くはしたのです。

でも、ご覧のとおり、花びらの輪郭をとらえきれませんでした。情ないなあと思いつつ、今後のご参考までに載せさせていただきます! でも、綺麗でした・・・。なんか信じられない光景でした。

井の頭公園近辺の染井吉野はもうほとんど散って、残ったガクで木々が赤く見えます。池には花びらの絨毯ができてたゆたっている頃と思いながら、行く時間がとれないうちに、もう鮮度がかすんでいるでしょう。今年は鴛鴦を撮る機会を逸しました。

満開の桜をアップする前に散る花びらの写真になってしましました。これからゆっくり写真を選んで、10日の分からまとめてご紹介させていただきますね。なんだか、遅れてアップすると、「わあ、綺麗」というリアルタイム感がなく、私自身すでに「今年ももう桜は終わりだわ」とノスタルジーの方に入ってしまいそう・・・

でも、そんなことはない! 染井吉野は終わりでも、これから八重の季節です!! まだまだ撮ります!!

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2011.4.15 【勝持寺旧境内石垣見学会の御案内】のお知らせ

仁木 宏様からのメールを転載させていただきます。

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勝持寺旧境内石垣見学会の御案内

 京都市西京区大原野南春日町の勝持寺旧境内の子院跡の発掘調査において、現在、室町時代に構築された石垣が検出されています。京都市埋蔵文化財研究所の御好意により、特別に見学会を催させていただくことになりましたので御案内いたします。

 石垣の主要部は15世紀後半に構築されたもので、石の大きさ、石積みなど、まだ「稚拙」ではありますが、16世紀に寺院や城郭で本格的に発達する石垣技術の初期のありようを如実に示すものといえるでしょう。また、石垣の高さや、石垣の背後に詰められた礫層の分厚さは驚くべきものです。15世紀後半といえば、銀閣寺の石垣などが有名ですが、それとは異なる技術系統に生じたものではないでしょうか。

 この巨大な石垣とは別に、累々とつづく「石築地」状の区画装置(院坊と院坊の間を分ける)、14世紀にさかのぼる門跡なども確認されています。この場所は、鎌倉時代も寺院の敷地として利用されていたようで、時代によって院坊の平坦面造成の方法が異なることがわかる点も興味深いです。

 この調査は、京都第二外環状線(高速道路)新設にともなうものです。京都市ならびに国土交通省の間で、保存のための最大限の努力がなされたようですが、トンネル入口部にあたることもあり、石垣・「石築地」の大半は破壊されてしまう予定です。そういう次第で、専門家の方々に現物を見学いただき、今後の研究にいかしていただきたいというのが調査担当の方々の願いでもあります。

 石垣の全容がみられるのは4月いっぱいの予定です。見学会のころには「石築地」の一部はもう埋められているかもしれませんが、どうかひとりでも多くのみなさんに見学会に参加いただければ幸いです。

 なお、当日は、この石垣が発見された伝「阿弥陀坊」のみならず、周辺の院坊跡や参道も少し御案内いただけるものと思います。

  集合: 2011年4月30日(土)13:40  大原野神社 参道南入口 鳥居前


■阪急バス  JR向日町駅前13:05発、阪急東向日駅前13:12発
         →「南春日町」バス停 13:30着
     http://bus.hankyu.co.jp/rosen/img/2133.pdf
   http://bus.hankyu.co.jp/rosen12/mukou.html
   「南春日町」バス停から徒歩10分で大原野神社(鳥居前)です。

■タクシーでおいでの方は、JR桂川駅、阪急洛西口駅からが近いですが、タクシーの台数が多いのは、JR向日町駅、阪急東向日駅の方です。

■自家用車でおいでの方は、集合場所の鳥居の西、80メートルにある、大原野神社駐車場(有料、公衆トイレ有り)を利用ください。但し、観光シーズンですので満車の可能性もあります。

★参加自由。資料代を徴収するかもしれません。

★参加を希望される方は、可能な限り事前に、以下のアドレスまで、お名前・
人数を知らせてください。資料を用意する部数の参考にしたいと存じます。
   yamanotera_mail@yahoo.co.jp

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2011.4.14 金沢文庫で【もうひとつの鎌倉文化 ―金沢龍華寺の聖教と秘宝―】展が開催されています!!

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会期: 3月10日(木)~5月29日(日) 9:00~16:30
                         土・日・祝日は5:00まで開館
休館日: 毎週月曜日(5月2日は開館)・5月6日

龍華寺は、金沢文庫がある称名寺の赤い山門前の通りをまっすぐ歩いていったところにあります。駅としては金沢八景駅になるのでしょうけれど、称名寺との位置関係でいうとそうなります。

平成10年に脱活乾漆造菩薩坐像(パンフレット左上の写真)が発見されたとき、ちょうど私は金沢文庫に通い詰めていましたので、その発見の推移を興味深く見守らせていただきました。

なんでも、お寺の蔵とかに、新聞紙にくるまれてあって、それがゴミにしか見えずに、あわや廃棄するところを、念のためにと寺院から金沢文庫に通報があって、捨てるのを一時ストップ。学芸員の方が急遽向かって調べたら、関東では珍しい脱活乾漆造の菩薩様だとわかった・・・というような経緯だったと思います。(うろ覚えで間違っていたら済みません)。

脱活乾漆造というのは、「麻布を漆で張り重ねたり、漆と木粉を練り合わせたものを盛り上げて像を形作る方法」で、興福寺の阿修羅像が有名です。これで推測できるように、とても繊細なほとけさまです。高価で高度な技術が必要なため、平安時代以降は造られなくなったそうです。そして、関東での発見も珍しく、たしかこの発見が北限になったのではないでしょうか。当時、新聞を賑わせていました。

修復なって、写真のような立派な菩薩様として甦って戻られたときに、金沢文庫で特別展示が成され、対面させていただきました。そのときに文庫の主催で龍華寺を訪ねる講座がもたれ、私も参加して、講座のあと、学芸員さんの引率で称名寺を出発して歩いて龍華寺に行ったので、冒頭のような記述になりました。

このほとけさまの存在でも目を引くように、龍華寺の文化は相当華麗なものでした。龍華寺縁起によると、「明応八年(1499)に融辨が中興開祖となり、六浦浄願寺と金沢光徳寺の両寺を併合して、新たに寺地を点じて再興したもの」だそうです。

浄願寺・・・、懐かしいですね。六浦にある上行寺東遺跡に関連して出てきた名前の寺院。由来はあるものの、今は資料的にも所在も明らかでない寺院です。忍性が関わっていたりするのですが、煩瑣になるのでこちらは省略します・・・

龍華寺に話を進めますと、こちらは「仁和寺を本山とする真言宗御室派の準別格本山として、この地域の御室派寺院の中核」となっています。ということは・・・、です。仁和寺の聖教の伝わる寺院・・・

かつて私は「寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―」という歴史探訪のエッセイを連載したことがあります。(http://www.odayuriko.com/の下の方にいくとクリックして出てきます。)

それは第四代執権経時の菩提を弔うために造られた私的な寺院が発展したもので、その後、亀山天皇の皇子の益性法親王が住持されたために、寝殿造りという優美な形式になった寺院の歴史を追ったものです。益性法親王が仁和寺出身の方なのでした。

佐々目遺身院には、経時の子息の頼助がいて、仁和寺で僧としての学問を身につけ、鎌倉に戻って佐々目遺身院に住持しながら、従兄の時宗を助けて蒙古襲来の折に異国調伏の祈祷をしたりしています。

従兄・・・、そう、経時が早世しなければ、弟の時頼が執権にならずに、頼助が第五代執権になったはずの人です。たぶん、頼助がいては邪魔なので、時頼によって仁和寺に入寺させられたのでしょうね。でも、柔和な素敵な方に成長されました!

その頼助の弟子となる人が元瑜です。そして、この元瑜が龍華寺の聖教に大きく関わってくるのです。図録には「元瑜は西院流の宏教の血脈を継ぎ、新たに≪元瑜方≫の祖として位置づけられた」とあります。展覧会ではこれらの資料が展示されています。

たまたま私は『西本願寺本万葉集』の関係から源親行・仙覚が仕えた第四代将軍頼経について調べていて、その頼経に関係のあった宏教という高僧を知ったばかり。これは調べなけらばと思っていたところに、この展覧会がはじまって興味をもったら、宏教と元瑜の関係が目について、「寺院揺曳」のころを懐かしく思い出した次第です。

話が錯綜してしまいましたが、「寺院揺曳」で鎌倉の密教について深く探ったその時代に、文学の『万葉集』や『源氏物語』で、親行や仙覚が活動していた・・・ということに思い当たり、当たり前といえば当たり前のことなのですが、別々に調べていて別々の世界の人としか認識がなかったのに、まったく同じ地域に同じ時代を生きて呼吸していたと知って、驚いています。

まだ私のなかで、仏教関係の人脈と、国文学関係の人脈が融合していないのでバラバラですが、将軍頼経は、たしかに執権経時と関わっているし、時頼が対抗して幕府対将軍家の熾烈な争いをしているのです。その影に宏教・頼助・元瑜といった僧侶や、仙覚・親行といった文学者がいて、狭い鎌倉の地を行き交っていたのですから、当然、彼らは顔見知りだったでしょう。

図録にある「元瑜は少なくとも建長七年には鎌倉に移り」とある、その建長七年は、親行が「河内本源氏物語」を完成させた年です!!

これから『紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―』を仕上げるにあたって、親行や仙覚の『万葉集』の段に行ったら、このあたりを真剣に照合し直さなければと思っていました。そこにこのタイムリーともいうべき展覧会。図録を拝読しつつ楽しんでいます。 

ほんとうに話が錯綜してしまいましたが、私自身のなかでまだ収拾がつかないくらい混沌としているということで、ほんの入口の話としてご容赦ください。

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逆光の枝垂れ桜の一枚・・・深大寺公園で

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満開の桜からずっと撮っているのですが、時間がなくてアップできずに溜まっています。人の世の事情に関係なく花は咲いて散っていくのですものね。流されて人事優先にしたらおしまい・・・後悔のないよう、時間を縫って撮り溜めています。

これは今日の一枚! 私用で朝からでかけたときに車窓で見た桜が「今だ!」っていうふうに輝いて見えたので、帰宅してまたカメラを持って出直しました! 満開だけれどまだ散るほどでなく、花がしっかり枝について咲き誇って。そこにこんな日は滅多にないというほど雲一つない青空・・・。今日を撮り逃がしたら撮っている意味がない! とばかりに出た甲斐がありました!

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昨日朝の井の頭公園・・・朝日に匂う山桜花ならぬ、染井吉野!

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昨日、たまたま早朝外に出る機会がありましたので、そうだ、早朝の桜を撮っておこうと思い、公園まで足をのばしました。

前日の強風と雷雨で、満開だった花びらが散り、池の端にはもう二枚目のような花びらの絨毯ができていました。花筵というそうです。地元ならではの毎年目にすることのできる素敵な光景! そうですね、地元の光景として一番好きかも・・・

本居宣長は「朝日に匂う山桜花」と歌いましたが、桜は朝日にかがやくとほんとうに綺麗です。もう少し早いと朝日が届かなくて池の両岸を埋め尽くす桜もしずんでいますが、ほら、射してくると一際華やかに際立ちますでしょ!

この光景、ほんとうに神々しく、今年も見れてよかった、って思います。

あ、それから、花びらの絨毯が池いっぱいに広がった頃、去年と一昨年と、二年続けてそこを鴛鴦が泳ぐのを目撃しました。ふだんはどこにいるかわからない鴛鴦が、花びらの絨毯になると出てくるんです。今年も? って期待しているのですが、昨日の強風で散るのが早まってしまったから、油断していると見損なうかも・・・。

花びらの絨毯に浮かぶ鴛鴦なんて、こんなふつうの生活をしていて見ることができるのは信じられない光景です。是非ご覧になってください! 運がよければ遭遇できます!!!!!

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】(6) 第一章.4 藤原俊成の『源氏物語』礼賛 

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】
第一部 「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」の成立の蔭に
第一章 『源氏物語』から国宝「源氏物語絵巻」まで

四.藤原俊成の『源氏物語』礼讃

 藤原俊成が最初に認められたのは崇徳院の歌壇でした。三十代のころです。崇徳院は俊成より五歳年少ですから、退位された二十三歳のとき、俊成は二十八歳でした。なので俊成の崇徳院歌壇での活動はそれ以降、そして、保元元年(一一五六)の保元の乱で崇徳院が讃岐に流されるまでとなります。乱の年、崇徳院は三十八歳、俊成は四十三歳です。

 崇徳院歌壇には平忠盛がいて活躍していました。忠盛は晩年で五十代です。乱の年にはすでに故人になっていました。白河院、鳥羽院と仕え、内の昇殿を許されたのが鳥羽院のときです。

 が、鳥羽院には歌の嗜好がなく、崇徳院が歌壇を率いて、そこに俊成や忠盛らが集ったのでした。院には、
  瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ
の百人一首の歌があります。

 貴族の嗜みとされる歌を、武士である平氏で最初に読みはじめたのは忠盛です。白河院の院宣による『金葉和歌集』に撰ばれ、勅撰歌人になっています。崇徳院の信頼も篤く、若い俊成にとって忠盛は仰ぎみる存在だったことでしょう。

 忠盛の歌には、従来の歌人のような「さらりときれいに流し」て歌うことができず、「何か堪えがたく切ないものを主体的に抒情し、強く訴えようとしている」ものがあると『平家の歌人たち』で谷山茂氏は書かれます。

 三代集以降、理を追求したり形を整えることを優先する作風のなかにあって、心情を吐露し抒情性ゆたかな忠盛の歌は異質でした。
  外面なる楢の枯葉に霰降り寝覚めかなしき冬の山里
が忠盛の歌で、これを「さらりときれいに流し」て作ると、「楢の枯葉に霰降るなり」となるそうです。「かなしき」が心情語です。

 その抒情性を復活させた勅撰集が『千載和歌集』で、後白河院の院宣で俊成の撰です。俊成は崇徳院歌壇で忠盛をみていますから、そこで吸収するものが多かったのでしょう。

 『千載和歌集』を編んだとき、俊成は忠盛の歌のほかに、忠度、経盛、経正ら、朝敵となった平家歌人の方々の歌を「読人しらず」として入集させています。

 忠度、経盛は忠盛の子で、経正は経盛の子。経盛は平家一門で最大の歌人です。忠度が都落ちに際して自選歌を収めた巻物を俊成に託し、俊成がそこから、
  さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな
を入集させた話は有名ですが、俊成の平家一門との繋がりは歌人としての出発の時点でできていました。

 俊成の抒情性の先に『源氏物語』礼讃があります。

 建久四年(一一九三)か、あるいは五年にずれ込んで、後京極良経の主催で『六百番歌合』が催されました。十二人の歌人から百首歌を募り、集まった千二百首を六百番ずつ左右に番えて勝負を競うといった、大変な規模の歌合でした。

 この歌合には、俊成率いる御子左家と、顕昭率いる六条藤家の、歌の家としての名誉をかけた熾烈な争いが背後にありました。判者は俊成。俊成は良経の歌の師です。

 その良経が、
  見し秋を何に残さむ草の原ひとえに変わる野辺の景色に
と読んだことに対し、六条藤家の歌人から、「草の原、聞きよからず」と難癖をつけられます。

 それに対して俊成は、「草の原は『源氏物語』の中の歌に用いられている語で、聞きよからずどころか、艶そのものである。その歌は花宴巻にあり、この巻は五十四帖中でも特に優艶な巻である。『源氏物語』を読まない歌人は遺恨である」と返したのでした。

 「草の原」は『源氏物語』の「花宴」巻で朧月夜が歌った歌にある語なのです。それは、
  憂き身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問わじとや思う
というもので、思いがけず光源氏と情を交わした朧月夜が、動揺しながらも相手を光源氏と察しているのに対し、光源氏は朧月夜が誰かわからない。それで問い詰めるのですが、入内することが決まっている朧月夜にはうかつに身分を明かすなどできない。それでなおも問い詰められたときに答えたのがこの歌でした。

 光源氏と朧月夜のこの情事は、ゆくゆく光源氏の須磨流謫へとなっていきます。良経の歌の背景には、これだけのシチュエーション、人間の心理・葛藤、人生の何があるかわからない危うさがあるのであり、「草の原」の一語を聞いてそれが思い浮かぶのでなければこの歌の良さはわからない、と俊成はいい放ったのでした。

 これでみると、当時、少なくとも六条藤家歌壇では『源氏物語』を今ほど読んでいなかったようです。俊成のこの判詞以降、『源氏物語』に精通していることが歌人としての必須のようになり、今日まで引き継がれています。

 この両派の決着がつくのは、後鳥羽院が定家を重用して『新古今和歌集』を成す過程のなかでですが、それまで六条藤家歌壇が主流を成し、俊成の苦戦が続きます。
 ほんとうに、『源氏物語』は読んでみなければその美しさ、切実さ、文学の極みは理解できません。

 思いの複雑さ、錯綜した心理劇、それが『源氏物語』です。そして、それがただ人間と人間のあいだの葛藤として描かれるのでなく、人間存在そのものが美しい自然のなかに置かれて、季節の移ろいのなかで推移します。華やかで危険な情事「花宴」が春の桜や藤の花に彩られて進行したように。

 『源氏物語』が書かれた時代は、現代のように文学がリアリズムの人間主体ではありませんから、悩みも、苦しみも、もろもろの不条理、複雑怪奇な人間世界のありようも、一切が客観的な距離を置いて、一歩引いた形で、自然という大きな世界のなかの一存在として描かれています。

 自然に包まれて、自然の移ろいの一つとしてあることのそこはかとなさ、それを感じることができなければ、『源氏物語』をほんとうに理解したことにならないのではないでしょうか。『源氏物語』が美しいのは、単に十二単や、華やかな宮廷行事が描かれているからではありません。ときめく恋愛小説だからではありません。感性で感じる世界だから美しいのです。俊成の『源氏物語』礼讃の本質はそこにあると私は思います。

《参考文献》
谷山茂『谷山茂著作集 六 平家の歌人たち』角川書店 一九八四年

◇冒頭の写真はパワーポイントで編集した講演用のスライドです。

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【東日本大震災 追善供養 復興祈願祭】 東日本大震災から1ヶ月の今日、鎌倉では宗派を超えて、神道・仏教・キリスト教等の方々が鶴岡八幡宮に集結して祈りを捧げられます

震災から一ヶ月の今日四月十一日(月)午後、鎌倉の宗教者が神道・仏教・キリスト教等、宗旨・宗派を超え、鶴岡八幡宮に集結して祈りを捧げる「東日本大震災 追善供養 復興祈願祭」が行われます。合い言葉はPray from 鎌倉

http://www.praykamakura.com/

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東日本大震災 追善供養 復興祈願祭

「趣意書」

鶴岡八幡宮        宮司  吉田 茂穂
鎌倉市仏教会会長   覚園寺 仲田 昌弘
キリスト教諸教会     司祭  山口 道孝


3月11日の東日本大震災は、我が国にとって正に未曾有の大災害となりました。多くの尊い命が失われた上、大津波、加えて原子力発電所の事故により避難を余儀なくされた被災者の方々は、現在数十万人にも及んでおり、日本は大変な国難に直面しています。

かつて、鎌倉に幕府がおかれていた時代、国難に際して社寺がまとまり、乗り越えるための御祈願が執り行われておりました。いま、歴史を経てふたたび、神道、仏教、キリスト教の宗旨・宗派を超えて合同祈願を執り行うことに致しました。

この大地震のちょうど一年前、鶴岡八幡宮の御神木、樹齢1000年の大銀杏が突然倒伏しました。大変悲しい出来事でしたが、日本全国からの励ましの声と共に、今は残された根元から多くの新芽が未来に向かって力強く成長を続けています。

犠牲者を哀悼し、日常生活を奪われている被災者の皆様に思いを寄せ、鎌倉中の宗教者たちが心を一つに祈りを捧げ、被災地のみならず、日本中に「復興の芽」が力強く育つことを切に願っております。お時間の許す限りご参列下されば幸いです。

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14:30〜 USTREAM中継を予定しております。時間になりましたら、クリックしてご覧下さい。

http://www.ustream.tv/channel/praykamakura

iPhoneを使った中継につき、途中電波が途切れる等、お見苦しい点がありましたらお許しください。

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[日時] 2011年4月11日(月)  14:30~15:40頃

[会場] 鎌倉鶴岡八幡宮舞殿 http://www.hachimangu.or.jp/

[アクセス] JR鎌倉駅東口より徒歩約15分 江ノ電鎌倉駅より徒歩約15分

[地図]    >>> Google map

[内容] ■各宗派の僧侶、神職、司祭、牧師が鶴岡八幡宮に集結し祈祷を行う
      ■舞殿での祭事終了後、由比ケ浜まで托鉢しながら移動
      ■16:45頃から由比ケ浜海岸にて海に向かっての祭事

[対象] どなたでもご参加いただけます

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南相馬市への・・・臨時快速・レスキューひたち83号のお知らせ/南相馬市は屋内待避地区に指定されて、約20000人近い方々が孤立状態にあるそうです

大阪胎児心臓病研究会【臨時快速・レスキューひたち83号】

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臨時快速・レスキューひたち83号(相馬→南相馬)のピストン運行中です。

南相馬市は現在屋内待避地区に指定されて、物流・金融・インフラ整備がほとんどできない状態になっており約1万3000人~2万人が孤立状態にあります。

やや、改善傾向にありますが、充分ではありません。

現地で産婦人科医なさっている原町中央産婦人科医院の高橋亨平先生とも連絡が取れて連携しています。

遠ぐ行けね…医療崩壊、72歳医師ら食い止め「政府が無責任な避難勧告」
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110405/fks11040514400009-n1.htm

平成23年4月7日(木曜日)余震のなか無事に分娩があったとの連絡を受けました。

電話による取材・質問・激励は診療の妨げになります
(FAX番号) 0244-24-6910
で、お願い申し上げます。

支援物資(下記記載)はヤマト運輸の宅急便でヤマト運輸の相馬センター留置にして下されば「レスキューひたち83号」でピストン輸送します。

臨時快速・レスキューひたち83号は今回はピストン輸送体制にしてありますので締切は物資が満杯になるまでお受けできます。

送付先は下記の通りですが、ヤマト運輸の相馬センター留置扱いなど、特別な取り扱いをいたしますので送る前に必ずご一読下さい。

医療支援は高橋亨平先生と相談して進めています。皆様のご協力をお願いします。なお、高橋亨平先生の診療に差し支えますので報道関係者も含めてお電話による問い合わせは極力お控え下さい。

特にボールペンとガムテープとビニール袋が枯渇していて困っているとのことです。中古や使い差しでも結構ですので送っていただけると助かります。

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南相馬市社会福祉協議会からの依頼書(PDF)

なお、南相馬市社会福祉協議会への連絡は電話回線確保のためFAXをご利用下さい。
FAX 0244-24-1271

(送付先・ヤマト運輸←厳守)
975-0011
福島県南相馬市原町区小川町322-1
南相馬市社会福祉協議会
(相馬センター留置) 様
(電話)0244-24-1271

伝票記載例
http://www.kuronekoyamato.co.jp/services/tomeoki.html

募集する救援物資・一日ボランティア
(募集する救援物資)
平成23年4月10日(日曜日)08時00分最終更新

食料品:調味料など、味噌、醤油、マヨネーズ、ドレッシング、みりん、缶詰(肉、魚、果物)

日用品:ハンガー、ハンガーラック、紙コップ、紙皿、衣類(未使用のものに限ります)

(一日ボランティア)
日帰りお風呂ツアーのお手伝い
日帰り荷役作業のお手伝い

日程が決まり次第、掲載します。
rapid-express@@@nifty.com
@は一つにして送信して下さい。

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2011.4.10 井の頭公園の桜・・・満開に近いです!!

今、撮ってきました。晴れてきて、桜がかがやいています! 公園はもうたくさんの人出でいっぱい。ブルーシートを敷いたお花見グループも、もう地面に空きがありません。

写真は後程アップさせていただきますね。今は、「今日は見頃ですよ!」のお知らせを取り急ぎですがさせていただきました。

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ツイッターからの情報です・・・1300年前の縁…東大寺が1億円寄付 銀行借り入れ「宮城の文化財修復に」

東大寺が銀行から一億円を借り入れて、義援金として寄付されるそうです。これは、天平時代に大仏様を造営するのに宮城県涌谷町から砂金を献上されたことへの御恩返しとか・・・。以下、ご覧になってください。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110408/art11040808310002-n1.htm

橋本麻里さんのブログから「中尊寺―黄金花咲く東北」です。
http://shinonome-do.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-cf16.html

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こんなことがあっていいのでしょうか・・・避難した福島県民の方々への差別/福島県の方から悲痛な叫びのメールをいただきました。

昨夜、福島県にお住まいの男性からメールをいただきました。

そこには、驚くべきことが書かれていました。

東京に避難した福島県民の方々が、
まるで触ると放射能にあたるかのような目線の差別にあって苦しんでいられるというのです。
福島県民の方々が、原発問題での加害者のように扱われているというのです。

まさか・・・と目を疑いました。

福島県民の方こそ被害者なのに・・・

でも、地元のメディアで取り上げられているそうで、
その方も心を痛められての私へのメールなのでした。

私は一度もその方にお目にかかったことがありません。
たまたまこの震災の直後にある件でコンタクトすることがあり、
それで、「福島県への風評で苦しんでいる」内容のお返事がありましたので、
ツイッターで呟かれることをお勧めしたのでした。
それで、昨夜の私への【拡散希望】のメールになったのです。

以下、昨夜のメールの全文を転載させていただきます。

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私の地元の新聞やタウン情報誌等に書かれていた記事、
読者投稿についてのお願いです。

原発事故によって福島県の人達が県外に避難しましたが、
首都圏にも大勢の避難された方たちがいるかと思います。 
その方たちの現実の体験が幾つか書かれていました。
それは福島県民に対する差別です。

福島県民は名札を付けて歩けとの嫌がらせや
避難した福島県民の子供が地元の子供に近寄るなと石を投げつけられる。
またニュースでも取り上げられましたが、宿泊施設からの拒否、
タクシーの乗車拒否など東京首都圏の避難先でのことが書かれていました。

まるでばい菌のような汚いもの扱いです。
もちろん、放射能汚染を勘違いしている、心無いごく一部の人達によるものでしょう。 
福島県民は何も悪くないのです。 
被災者でありながらなぜ更に辛い思いをしなければならないのでしょうか? 
東電原発の人災が全てです。

織田様は東京在住でありながら、
情報を広げる力をかなりお持ちだと私は思っております。
福島県民=被爆者
この誤解を少しでも解決できますよう、お力を貸していただけないでしょうか?

正直、私も福島県民として将来が不安で
全てを捨てての県外移住も選択肢に入れています。
原発災害が長引けば、福島県民への差別も続くでしょう。 
ほんの僅かでも構いませんので東京からツイッターでメッセージを
拡散していただけないでしょうか?

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この方は、会社の損傷が激しく、廃業に追い込まれるしかない状態でいられます。
小さなお子様がいられるようなのに、「将来に希望が持てない」現状。
せめてツイッターで呟くことで、現地の生の声を発信する役割をなさって下さいと、
私はお願いしたのでした。

追記:
この男性がツイッターをはじめられました。フォローしてさしあげていただけますよう・・・
アカウントは @naokiohira/大平直樹 福島県郡山市

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2011.4.8 井の頭公園の桜 今年の開花状況・・・多分、満開に近いのですが、今年はまだ花がちぢこまって感じられます/暮れなずむ公園の桜

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今日はずっと曇天で風も強く撮りに出る気はなかったのですが、夕方、突然、強烈な夕照にかがやく桜が窓から見えて、急いでカメラを手にして飛び出しました。夕照の時間は短く数分を争います。

でも、案の定間に合わなくて、公園に着いたときにはどこにも夕陽の射す桜は見られませんでした(泣)。わずか、下から二枚目に写っていますでしょ。桜は夕陽にかがやくとサーモンピンクに染まります。一本の木に薄いさくら色とサーモンピンクの二つの色の花が咲いて見えるのは、夕陽に当たっている花と影になった花の違いです。なので最後の写真は日蔭のなか・・・

代わりに、暮れなずむ桜の公園を撮ってきました。これも、まあ、日本画のようにいいかな、って。明日は雨の予報。せっかく満開に近くなったのにと残念です。日曜日、晴れたらお花見日和です!!

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2011.4.7 YouTube 初挑戦の顛末・・・四苦八苦しました!

YouTube に動画をアップしてみようと、昨日挑戦してみました。Facebook にもアップする機能があって、それで載せていたのですが、それだとFacebook からの投稿になることがわかって、直接 YouTube からしてみたかったのです。

一応、投稿する前に読んでおこうと解説本を買っていましたが、桜の動画を撮ったら、すぐにしたくなったんです。それで、エイッとばかりに YouTube の投稿画面に行って、手順どおりにやってみたのですが・・・

それが昨日の日中のこと。無事に処理されました、とのお知らせが来たものの載ったはずの動画が確認できない・・・

アップされているはずなのに、どこに行ってしまったのだろう・・・と思いつつ、そういうことはネットをやっているとよくあるので(私だけかもしれませんが)、あきらめていました。

そうしたら、深夜、ツイッターに、私の呟きとして下記のようなツイートが載りました。ん?、私が英語で呟いている!!! と目を白黒。動画の投稿には見られるようになるまでタイムラグがあるようです(o^-^o)

でも、YouTube の私のページに行ってみたら、「貴女が投稿された動画はまだありません」のような状態・・・。じゃあ、あれはどこに載っているの? もともとアップするときにコメントをつけたのですが、それもどこか行ってるし・・・。しっかり本を読まないとダメですね。

でも、動画、面白そう・・・。アップした動画を見ていたら、これって、文字を入れたら綺麗なメッセージができるじゃない! って。『源氏物語』の講演のパワーポイント版を動画版にも・・・、なんて。可能性を探ります!!

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@odayuriko  I uploaded a YouTube video -- DSC 1175 http://youtu.be/FC-wwFXQ-v0?a

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2011.4.7 ツイッターからの情報です・・・【賀茂街道から2——折々のよもやま話——】『源氏物語大成』の背景と資料(1)

http://genjiito.blog.eonet.jp/default/2011/04/post-d404.html

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2011.4.6 井の頭公園の桜 今年の開花状況・・・まだ蕾が硬そうですが、咲いた桜が青空に映えていました!

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いつもより画像を大きくしています。クリックしてご覧になってくださいね!

追記:
都心の桜が満開宣言とのこと。こちらは週末でしょうか・・・

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2011.4.4 【動画】 両岸の桜が咲き始めた井の頭公園・・・まだほんの初期ですが綺麗です

http://www.facebook.com/video/video.php?v=121617491249450

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2011.4.4 井の頭公園の桜 今年の開花状況・・・少し華やぎはじめました、といってもまだまだですが/今年の野川の桜のライトアップは中止になりました

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青空が見えたので撮りにでました。前回よりは大分咲いていました。でも、まだまだちぢこまった感じです。震災で復興に向けて日本中が頑張っているとはいうものの、現地からの報道をみれば心悼むことばかり。桜は敏感にそれを察知しているのかもしれません。

でも、隠しても隠しきれないのが桜の華やぎ。咲いているだけで、あ、咲いてる! わぁ、綺麗! と、通る人毎に思わず声が洩れてしまうのが聞こえます。

一枚目は井の頭公園駅側からの眺望。池の水はここで終わって、水門をくぐると神田川に入っていきます。

最後の写真は吉祥寺駅側にある七井橋から井の頭公園駅方向を眺めた光景。そう、井の頭公園の池は駅と駅の区間に沿って細長いんです。満開になると両岸の桜が咲き誇ってそれは見事な景色、こんなのんびり撮れないほど橋も人で埋まります。

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今は柳が芽吹いて綺麗です!

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■毎年感動をいただいていた野川の桜のライトアップ、震災で今年は中止になりました。準備ももうされていたはず、残念ですが仕方ないですね。でも、桜は変わらず咲きますから、ライトアップに関係なく撮りに行ってご紹介させていただきますね。アーク・システムの皆様、ほんとうにありがとうございます!!
http://www.arc-system.co.jp/topics/topics20110316.html

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】(5) 第一章.3 国宝「源氏物語絵巻」から国宝「平家納経」へ

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【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】
第一部 「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」の成立の蔭に
第一章 『源氏物語』から国宝「源氏物語絵巻」まで

三.国宝「源氏物語絵巻」から国宝「平家納経」へ

 平清盛には白河院のご落胤説があります。事実のほどはわかりませんが、清盛はたしかにそういわれておかしくない生い立ちをしています。

 清盛の父は、平氏ではじめて内の昇殿を許された平忠盛ですが、母は祇園女御の妹と推測されています。彼女が白河院に仕える女房だったために、院のご落胤説が生じます。この女性が早世したので、清盛は祇園女御に養育されたようです。

 祇園女御は白河院の寵妃でした。女御の宣旨は受けていませんが院の寵愛を独占していて、「天下美麗過差」と人々を驚かす寺院を建立するなど、相当な権勢家です。院が掌中の珠と慈しんで止まない待賢門院璋子を養女にしており、院が通ったことは先の章で記しました。

 永久五年(1117)、璋子は入内して鳥羽天皇妃となります。十七歳でした。白河院は六十五歳。鳥羽天皇はその白河院の孫です。院は孫の后としたあともなお璋子への愛執を断たず関係を続けます。

 清盛が産まれたのは元永元年(1118)。璋子入内の翌年です。この年、璋子は中宮になっています。翌元永二年(1119)、崇徳天皇が誕生。白河院の子といわれます。この皇子誕生と重ね合わせるようにして、白河院と璋子のもとで、不義密通が根幹にある物語の、国宝「源氏物語絵巻」の制作という妖しいプロジェクトが進行しました。

 清盛が母を亡くしたのは三歳のころのようです。ですから、祇園女御に引き取られたとき、彼女は中宮の母という地位になっていました。

 祇園女御を介して、璋子は清盛にとって姉のような存在になります。幼い清盛の最も身近だった女性は、中宮と中宮の母なのです。つまり、清盛の生い立ちには、のちに平家が王朝文化を築いて当然の環境があったのです。清盛の出世の蔭にはこの二人の女性の力があったといわれます。

 保安四年(1123)、鳥羽天皇が退位させられ、五歳の崇徳天皇が即位。白河院の院政は続きます。

 大治二年(1127)、後白河天皇誕生。清盛は十歳です。残されている法皇姿の肖像画から、どうしても後白河院は清盛より風格ある年配の人物に思ってしまいますが、実は清盛からみると九歳も年下なのです。

 それだけでも清盛の叔父と甥の関係のような精神的優位は想像つきますが、後白河院は二十九歳まで皇位につく可能性のない皇子でした。それが、運命のいたずらで即位して天皇に。清盛にとっても青天の霹靂だったと思います。後年の清盛の後白河院を侮ったような横暴は、そうした心理的遠因があるのではないでしょうか。そうでなくて、ただの臣下が突然法皇を幽閉したりするでしょうか。

 大治四年(1129)、白河院崩御。璋子は二十九歳です。崇徳天皇は後ろ盾を失って孤立。ここから鳥羽院の院政がはじまります。清盛は十二歳でした。

 璋子もまた後ろ盾を失い、鳥羽院の寵愛が美福門院得子に移って失脚。永治元年(1141)には崇徳天皇が退位し、得子の子の近衛天皇が即位。失意の璋子は康治元年(1142)、みずから建立の法金剛院において落飾します。四十二歳でした。このとき、清盛は二十五歳です。その三年後の久安元年(1145)、璋子は生涯を閉じました。

 久寿二年(1155)、後白河天皇が即位した年、建礼門院徳子が産まれています。祇園女御や璋子といった最高の女性をみて成長した清盛。その清盛が育てた徳子が二人のような女性になっただろうことは容易に想像がつきます。

 徳子を考えるとき、武家の娘が入内という立脚点から離れないと真実は蔽われます。徳子は入内する前から天皇家にふさわしい高貴さを身につけた女性だったのです。それを知っているからこその後白河院の執着だったのではないでしょうか。

 日本三大装飾経の一つに国宝「久能寺経」があります。「久能寺経」「平家納経」「慈光寺経」とあるなかで年代的に一番古いものです。国宝「平家納経」は清盛の制作。国宝「慈光寺経」は鎌倉時代のもので九条家が制作しました。

 国宝「久能寺経」は璋子の落飾を悼んだ西行が勧進して作られたそうです。法華経の各品を一品ずつ分担した結縁者のなかに璋子も入っており、「譬喩品」を担当しています。西行の璋子に対する永遠の思慕を最初に指摘したのは白洲正子さんでした。瀬戸内寂聴さんの『白道』は西行の足跡を追うかたちでそれを描いています。

  なにとなく芹と聞くこそあはれなれ摘みけん人の心知られて(『山家集』)
の歌に西行の秘めた恋が読み取れるのだそうです。「芹を摘む」には故事からくる「高貴な女性に叶わぬ恋をする」意があるそうです。

 西行にとっての高貴な女性は璋子でした。西行は出家してからも法金剛院を度々訪れていますし、璋子に仕える女房とは歌を遣り交わす仲でした。保元の乱で璋子の子の崇徳院が讃岐に流され、そのままそこで崩御すると西行は訪ねて菩提を弔っています。如何に深く西行が璋子の周辺と関わっていたかの証でしょう。

  しらざりき雲井のよそにみし月のかげをたもとにやどすべしとは……

 装飾経というのは美麗な装飾を施した料紙に経文を書いたもので、国宝「源氏物語絵巻」と同じ仕様の華麗な巻物です。おそらく国宝「久能寺経」は、西行の勧進でありながらも、国宝「源氏物語絵巻」の制作に携わった璋子の経験が生かされているのでしょう。

 国宝「平家納経」は長寛二年(1164)に清盛によって作られ、厳島神社に奉納されました。三代装飾経のなかでもっとも華麗なもので、平家の王朝文化の精髄といっていいでしょう。清盛四十七歳のときの制作です。これは、国宝「源氏物語絵巻」国宝「久能寺経」を間近にみてきた清盛故の自然な着想だったと思います。

《参考文献》
五味文彦『平清盛』吉川弘文館 一九九九年
高橋昌明『平清盛 福原の夢』講談社 二〇〇七年
瀬戸内寂聴『白道』講談社 一九九五年
良知文苑『国宝 久能寺経の歳月 駿州秘抄』和泉書院 二〇〇八年
小松茂美『平家納経 平清盛とその成立』中央公論美術出版 二〇〇五年

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