会期: 3月10日(木)~5月29日(日) 9:00~16:30
土・日・祝日は5:00まで開館
休館日: 毎週月曜日(5月2日は開館)・5月6日
龍華寺は、金沢文庫がある称名寺の赤い山門前の通りをまっすぐ歩いていったところにあります。駅としては金沢八景駅になるのでしょうけれど、称名寺との位置関係でいうとそうなります。
平成10年に脱活乾漆造菩薩坐像(パンフレット左上の写真)が発見されたとき、ちょうど私は金沢文庫に通い詰めていましたので、その発見の推移を興味深く見守らせていただきました。
なんでも、お寺の蔵とかに、新聞紙にくるまれてあって、それがゴミにしか見えずに、あわや廃棄するところを、念のためにと寺院から金沢文庫に通報があって、捨てるのを一時ストップ。学芸員の方が急遽向かって調べたら、関東では珍しい脱活乾漆造の菩薩様だとわかった・・・というような経緯だったと思います。(うろ覚えで間違っていたら済みません)。
脱活乾漆造というのは、「麻布を漆で張り重ねたり、漆と木粉を練り合わせたものを盛り上げて像を形作る方法」で、興福寺の阿修羅像が有名です。これで推測できるように、とても繊細なほとけさまです。高価で高度な技術が必要なため、平安時代以降は造られなくなったそうです。そして、関東での発見も珍しく、たしかこの発見が北限になったのではないでしょうか。当時、新聞を賑わせていました。
修復なって、写真のような立派な菩薩様として甦って戻られたときに、金沢文庫で特別展示が成され、対面させていただきました。そのときに文庫の主催で龍華寺を訪ねる講座がもたれ、私も参加して、講座のあと、学芸員さんの引率で称名寺を出発して歩いて龍華寺に行ったので、冒頭のような記述になりました。
このほとけさまの存在でも目を引くように、龍華寺の文化は相当華麗なものでした。龍華寺縁起によると、「明応八年(1499)に融辨が中興開祖となり、六浦浄願寺と金沢光徳寺の両寺を併合して、新たに寺地を点じて再興したもの」だそうです。
浄願寺・・・、懐かしいですね。六浦にある上行寺東遺跡に関連して出てきた名前の寺院。由来はあるものの、今は資料的にも所在も明らかでない寺院です。忍性が関わっていたりするのですが、煩瑣になるのでこちらは省略します・・・
龍華寺に話を進めますと、こちらは「仁和寺を本山とする真言宗御室派の準別格本山として、この地域の御室派寺院の中核」となっています。ということは・・・、です。仁和寺の聖教の伝わる寺院・・・
かつて私は「寺院揺曳 ―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―」という歴史探訪のエッセイを連載したことがあります。(http://www.odayuriko.com/の下の方にいくとクリックして出てきます。)
それは第四代執権経時の菩提を弔うために造られた私的な寺院が発展したもので、その後、亀山天皇の皇子の益性法親王が住持されたために、寝殿造りという優美な形式になった寺院の歴史を追ったものです。益性法親王が仁和寺出身の方なのでした。
佐々目遺身院には、経時の子息の頼助がいて、仁和寺で僧としての学問を身につけ、鎌倉に戻って佐々目遺身院に住持しながら、従兄の時宗を助けて蒙古襲来の折に異国調伏の祈祷をしたりしています。
従兄・・・、そう、経時が早世しなければ、弟の時頼が執権にならずに、頼助が第五代執権になったはずの人です。たぶん、頼助がいては邪魔なので、時頼によって仁和寺に入寺させられたのでしょうね。でも、柔和な素敵な方に成長されました!
その頼助の弟子となる人が元瑜です。そして、この元瑜が龍華寺の聖教に大きく関わってくるのです。図録には「元瑜は西院流の宏教の血脈を継ぎ、新たに≪元瑜方≫の祖として位置づけられた」とあります。展覧会ではこれらの資料が展示されています。
たまたま私は『西本願寺本万葉集』の関係から源親行・仙覚が仕えた第四代将軍頼経について調べていて、その頼経に関係のあった宏教という高僧を知ったばかり。これは調べなけらばと思っていたところに、この展覧会がはじまって興味をもったら、宏教と元瑜の関係が目について、「寺院揺曳」のころを懐かしく思い出した次第です。
話が錯綜してしまいましたが、「寺院揺曳」で鎌倉の密教について深く探ったその時代に、文学の『万葉集』や『源氏物語』で、親行や仙覚が活動していた・・・ということに思い当たり、当たり前といえば当たり前のことなのですが、別々に調べていて別々の世界の人としか認識がなかったのに、まったく同じ地域に同じ時代を生きて呼吸していたと知って、驚いています。
まだ私のなかで、仏教関係の人脈と、国文学関係の人脈が融合していないのでバラバラですが、将軍頼経は、たしかに執権経時と関わっているし、時頼が対抗して幕府対将軍家の熾烈な争いをしているのです。その影に宏教・頼助・元瑜といった僧侶や、仙覚・親行といった文学者がいて、狭い鎌倉の地を行き交っていたのですから、当然、彼らは顔見知りだったでしょう。
図録にある「元瑜は少なくとも建長七年には鎌倉に移り」とある、その建長七年は、親行が「河内本源氏物語」を完成させた年です!!
これから『紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―』を仕上げるにあたって、親行や仙覚の『万葉集』の段に行ったら、このあたりを真剣に照合し直さなければと思っていました。そこにこのタイムリーともいうべき展覧会。図録を拝読しつつ楽しんでいます。
ほんとうに話が錯綜してしまいましたが、私自身のなかでまだ収拾がつかないくらい混沌としているということで、ほんの入口の話としてご容赦ください。