« 2011.5.11 東日本大震災・・・空と雲からみる地震前兆の検証(6) 2011年1月~3月・・・3月11日の震災の日をはさんでの空の状況/直前よりもその後の空の方が凄まじく、これは新潟県中越地震でもそうでした | Main | 2011.2.17 神戸に行ってきました!福原京を撮りに・・・リアルタイムに呟いたツイッターのまとめ »

【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】(8) 第二章.2 『平家物語』のなかの『源氏物語』…後徳大寺実定

013

【紫文幻想 ―『源氏物語』の写本に生きた人々―】
第一部 「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」の成立の蔭に
第二章  平家の王朝文化 ―藤原定家と源光行の青春時代

二.『平家物語』のなかの『源氏物語』……後徳大寺実定

 源光行には『水原抄』という、『源氏物語』の註釈書で非常な大著があります。これはすでに失われてしまっているのですが、子息や孫の親行・聖覚らによって編纂された『原中最秘抄』によって原形を窺い知ることができます。『原中最秘抄』とは、「水原抄のなかの最も重要な秘説」の意味です。

 それによると、光行は『水原抄』を成すにあたり、生涯で四人の協力者を得ました。その四人とは、後徳大寺実定、藤原俊成、後京極良経、久我通光、です。四人は年代がまちまちですので、光行の長い人生、長い研究生活のあいだのどこかで、それぞれ個々に交わったのでしょう。

 その最初が後徳大寺実定でした。光行は、平清盛が福原に新都を造営したとき、その采配にあたった源通親や後徳大寺実定の下ではたらいたのです。それを記す『源平盛衰記』を引用します。

  治承四年六月九日、福原の新都の事始めあり。上卿は後徳大寺左大将実定、宰相には土御門右中将通親、奉行には頭右中弁経房、蔵人左少弁行隆なり。河内守光行、丈尺をとって、輪田の松原、西の野に、宮城の地を定めけるに、一条より五条まであって、五条以下は、その所なし。如何あるべきと、評定ありけるに、通親考えて、「三条の大路を広げて、十二の通門を立つ。大国にもかくこそしけれ。我が朝に五条まであらば、何の不足かあるべき」と申されけれども、事、行かずして、行事の人々帰りにけり。

 治承四年(一一八〇)、安徳天皇が即位すると、清盛は新たな都を造ろうと決意します。それが福原京でした。その造営に際して光行は、後徳大寺実定、源通親、吉田経房といったそうそうたる人物の下で「丈尺をとって、宮城の地を定め」るべくはたらきました。ここでは河内守光行となっていますが、河内守になったのはあとのことですので、正しくは民部大夫光行です。光行は数理の才に長けていたので抜擢されたのでしょう。

 ここに登場する土御門通親は、『高倉院厳島御幸記』を著した、あの源通親。頭右中弁経房は、このあと、第二部でとりあげる『民部卿藤原経房家歌合』の主催者、吉田経房。かの平維盛亡きあと、未亡人となった北の方を娶った人物です。そして、後徳大寺左大将実定が、これから考察する、『月詣和歌集』にかかわってくる人物です。治承四年のこの時点で光行はすでにこれらの人々とこんなふうに身近に接していました。

 この年、実定は四十二歳。通親、三十二歳。経房、三十八歳。光行は、十八歳でした。働き盛りの権力者たちに混じって、若い光行のなんと初々しく見えることでしょう。

 これらの人物との関わりが、ゆくゆく光行の人生に彩りを添えてゆくことになりますが、ここにすでに『源氏物語』の研究に協力した四人のうちの二人の存在がみえています。一人は後徳大寺実定。二人目は久我通光です。通光は通親の子息で、成長して久我家の祖となります。このときはまだ産まれていませんが、光行はずっと通親に引き立てられて生きていますから、当然の繋がりでしょう。年代からして四人のうち最後となる協力者です。

 都から離れた福原の地で、新都造営に携わる高揚のなか、一日の労働を終えたあとの酒席で、光行が実定や通親らから源氏物語についての薫陶を受けただろうことは想像に難くありません。感性がたしかで、幼少時から漢籍を学んで真面目な若者光行に対する彼らの評価は高かったでしょうから、惜しみなくそうした話を分け与えたのではないでしょうか。光行の源氏物語への造詣の深さはこのあたりに端を発したものと思われます。

 実定の妹の多子は、『平家物語』で「二代后」として描かれた女性です。十一歳で近衛天皇に入内しますが、天皇に早逝され宮中をでてひっそりと暮らしていました。が、あまりに美貌だったために今度は二条天皇に望まれてふたたび入内します。多子自身はそんな恥ずかしいことをと固辞したのですが、天皇の強引な要請には拒みきれませんでした。多子はただ美しいばかりでなく、趣味のゆたかな素晴らしい女性です。

 実定も文人としての誉れ高い貴公子で、光源氏を彷彿とする人物だったようです。福原に遷都成ったとき、人々は浮かれて新都での月見を楽しもうと、源氏物語ゆかりの須磨や明石など名所を訪ね歩きます。そうしたなかで実定は、古都となってしまった京の月が恋しくて、福原を後にし、ひとり帰ります。荒れ果てた都には多子が残っていました。

 その多子を訪ねて実定は二人で昔を偲びつつ月を見ながら夜を過ごします。さながら宇治十帖における薫と八の宮の姫君の場面のような情景を、『平家物語』は「秋の名残を惜しみ、琵琶を調べて、夜もすがら、心を澄まし給いしに、有明の月出けるを、なお、耐えずや思しけん、撥にて招き給いけんも、今こそ思い知られけれ」と記しています。

 建礼門院徳子が西海での入水に失敗し、囚われて帰還したあと入った寂光院を、実定は後白河法皇のお供で通親とともに訪れます。実定はかつての面影もなくやつれてしまった徳子に心を痛め、「いにしえは月に例えし君なれどその光なき深山辺の里」の歌を庵の柱に書きつけました。

 雲の上の女人として思慕を寄せている徳子のそのようすを実定から聞かされて、光行の心は如何ばかりだったでしょう。光行は『平家物語』の編纂に携わったとされています。叔父季貞についての記録は当然として、実定のこのあたりの動向は光行の筆、もしくは素材の提供になるのかもしれません。実定が亡くなったとき光行は二十九歳で、おそらくそれと前後して鎌倉に移住しました。

 福原における若き光行を彷彿とする恋の歌が残っています。それは、

  雨の降りけるに都なる人のもとへ遣わしける
 君恋ふる涙の雨のひまなくて心晴れせぬ旅の空かな

というもので、実定らのもとで新都造営にいそしんでいた頃のものでしょう。旅の空、すなわち自分は福原にいて、京にいる恋人を思って歌を詠み贈ったのでした。

《参考文献》
池田利夫『河内本源氏物語成立年譜攷』日本古典文学会、一九七七年
田坂憲二「『原中最秘抄』の基礎的考察 」他

|

« 2011.5.11 東日本大震災・・・空と雲からみる地震前兆の検証(6) 2011年1月~3月・・・3月11日の震災の日をはさんでの空の状況/直前よりもその後の空の方が凄まじく、これは新潟県中越地震でもそうでした | Main | 2011.2.17 神戸に行ってきました!福原京を撮りに・・・リアルタイムに呟いたツイッターのまとめ »