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2011.6.29 「花の蹴鞠」第10回を編集部に送りました・・・震災以来の久々の文学的執筆、やはりこれを完結させなければと思う・・・鎌倉成就院の紫陽花の写真を添えて

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三月の震災で被災地の方を思う辛さと、地震の心配、原発への不安、等々・・・で、しっとりした文学的感性で文章に取り組むことができずにいました。書いてはいてもエッセイとか報告とか感慨とか、とにかく創作とは程遠い境地でした。

が、編集部から締切をいただいて、今度こそ番外編でなく正編を書かなくてはという気持ちになり、取り組みました。

実はこれ、三月の震災直前にもあった締切で、そのときに書こうとしていたものなんです。「花の蹴鞠」第10回・・・比企の乱編・・・

最初の一行は書きだしていて、取り組んだらその先を続ければいいというふうに、ほぼ構成もできていました。そこにあの震災・・・。急遽創作をとりやめて、震災に対する思いを文章にしました。

あれから3ケ月、また締切をいただいて、では、その書き出していた最初の一行を続ければいいかというと、そうはいかない・・・。気持ちが変わっているのです。では、何を書こうか苦しんで、吾妻鏡を読んで、そうしたら見えてきたのが仙覚の父時員は頼家の近習だったこと・・・

「北条実時と『西本願寺本万葉集』」が刊行になって、仙覚を書いていた当時が強く甦っていたからその事実が衝撃的に飛び込んできたのでしょう。

時員を書かなくては!の思いではじめ、相関図を作ったら、今度は頼家世界と表裏一体にして実朝世界があることが見えてきて、筆は一気に、思いもかけず、最初の一行から書き直して、実朝を書いてしまいました!!

光行が実朝の家庭教師的立場だったことは薄々感じていて、人にも伝えたりしていたのですが、相関図+年齢関係から見えてきたことは、もっと深い繋がり・・・

実朝の『金槐和歌集』の万葉調が光行仕込みだという事も私の直感ですが、なんと、実朝の京文化への志向も光行の影響ということになってしまいました。

12歳の実朝と、40代になった光行のコンビ・・・優雅で高度な文化に憧れる少年実朝にとって、平家文化の只中で生きた光行の話はどんなに輝いて聞こえたでしょう・・・、とそんなことを「花の蹴鞠」第10回では書いてしまいました! 新しい実朝論!です(笑)

と、冗談めかした話はともかく、これは「花の蹴鞠」の新展開です。雅経―頼家路線で進んできた物語が、突然光行―実朝路線になります。光行が生きてきて、これから実朝を棄てて上洛し、慈円と共同で『平家物語』の編纂に携わるという、いわば歴史の闇に埋もれた世界を書くのに、その背後に鎌倉に残された実朝の悲しみがある・・・、光行にしても苦しんだのです。実朝をとるか、歴史的編纂物をとるか・・・、実朝もその価値がわかるからあきらめて送りだしたと思いたいです!

私はやはりこれを完成させなければ! 完成させたい!! と強く思った次第です。

■写真は紫陽花で有名な鎌倉の成就院。紫陽花越しに由比ヶ浜の海を遠望できる素敵なスポットです。2006年撮影で大分古いですが、紫陽花の写真をと思って探し出しました。

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2011.6.29 第49回 1617会・奈良例会【今井寺内町の歴史的展開と都市構造】の御案内

仁木 宏様からのメールを転載させていただきます。

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第49回 1617会・奈良例会 「今井寺内町の歴史的展開と都市構造」
                                   
1617(いちろくいちなな)会は考古学・文献史学・建築史学・歴史地理学など、複数の分野の研究者が集い、16世紀以前(中世)と17世紀以降(近世)の特定の地域(都市的な場)を対象に、学際的に研究を深めることを目的とした研究会です。3ヶ月に1回程度のペースで開催しています。

今回は、奈良県橿原市の今井寺内町を対象とします。興福寺一乗院領今井庄にはじまった今井集落は16世紀前半、称念寺を中心とする寺内町に変貌をとげ、地域の流通拠点、また奈良盆地ではめずらしい浄土真宗の中心地となってゆきます。その間、集落は盛土整地をともないながら西から東へ徐々に拡張し、周囲には環濠も掘られました。

本例会では、文献史料、発掘調査成果、近世絵図、現存する町並みなどにもとづき、今井の都市発展の様相を明らかにしてゆきます。また、中街道(下ツ道)と初瀬街道(横大路)が交差する当該地域には、先行して八木庄に八木市・矢木座が発達していました。こうした隣接する都市、あるいは近郊の環濠集落との相互関係から、今井寺内町の位置づけを試みます。

●日時 2011(平成23)年7月23日(土)

◎見学会 「今井寺内町」 9:30~11:30
   集合  9:30 近鉄橿原線「八木西口」駅 改札口 →出て西側
          ★御注意! 「大和八木」駅とは異なる駅です。
                  「大和八木駅」からひとつ南の駅です。
          ★JR桜井線「畝傍」駅から徒歩5分

  コース(予定) 駅 → 背割り下水確認 → 称念寺 → 寺内町南西部環濠復元地点     → 南口門跡 → 華甍
  *この他、時間を見はからって、重要文化財河合家、重要文化財旧米谷家、今井まちや館なども見学予定です。

  *昼食情報  今井寺内町内や「華甍」周辺に軽食堂が全くないわけではありません。食
堂は「大和八木」駅付近にたくさんあります。「華甍」建物内は飲食禁止ですが、天気が良ければ、周辺に屋外で食べるところはあります。

◎シンポジウム 「今井寺内町の歴史的展開と都市構造」 13:00~17:00
会場 今井まちなみ交流センター「華甍」 
http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_imai/kankou/spot/imai_hanairaka.html

報告   森本修平氏(元大谷大学)
               「今井寺内町の展開と真宗」
      米村博昭氏(NPO法人今井まちなみ再生ネットワーク)
               「今井の町並みと都市構造」
      平岩欣太氏(橿原市教育委員会)
               「今井寺内町の発掘成果」

         司会  松尾信裕(大阪城天守閣)、仁木 宏(大阪市立大学)

★事前申込不要。参加自由。

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2011.6.29 平安京・京都研究集会 第22回 御案内

仁木 宏様からのメールを転載させていただきます。

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平安京・京都研究集会 第22回 御案内
信長と京都 ―河内将芳著『信長が見た戦国京都』をめぐって―

  平安京・京都研究集会では、今回、織田信長と京都について考える研究集会を催します。企画にあたっては、河内将芳さんの『信長が見た戦国京都-城塞に囲まれた異貌の都-』(洋泉社歴史新書、2010年)をひとつの素材とします。
 信長時代の京都の変貌、信長と京都のかかわりについて、従来とは異なる新しいイメージを提起できればと考えています。よろしく御参加ください。 
   
後援)日本史研究会

  日時:2011年7月31日(日) 13:00--17:00
  会場:機関紙会館 5F大会議室
    京都市上京区新町通丸太町上ル東側。
    日本史研究会事務所の建物。市バス「府庁前」バス停すぐ。
    地下鉄「丸太町」駅下車、2番出口より西へ、3筋目を北へ。徒歩6分
       http://homepage2.nifty.com/kikanshi-keiji/kaizyou.html

    報告;本多博之氏(広島大学、日本中世史)
          「信長が見た戦国京都の貨幣事情」
       仁木 宏氏(大阪市立大学、中近世都市史)
        「信長の『京都改造』―都市論からみる織田政権―」
      浜中邦宏氏(同志社大学、考古学)
        「16世紀京都の考古学―寺院の発掘事例を中心に―」

  コメント;高橋康夫氏(花園大学) 尾下成敏氏(京都大学)
  討論参加;河内将芳氏(奈良大学)
  コーディネーター;山田邦和氏(同志社女子大学)

*河内さんの御著書をお読みいただいてから参加いただくのが望ましいですが、お読みでない方にも十分理解いただけるように配慮します。

*事前の申込不要。一般来聴歓迎。    
*当日、資料代をいただきます。

主催  平安京・京都研究集会         
集会案内のHP http://ucrc.lit.osaka-cu.ac.jp/niki/kenkyu/staff.html
世話人;上杉和央、中村武生、仁木 宏、浜中邦宏、福島克彦、
     桃崎有一郎、山田邦和、山本雅和

問合先  平安京・京都研究集会事務局(山田方) 090-9697-8052

◆平安京・京都研究集会 今後の予定
  ・2011年12月? 「足利義満と北山殿・金閣」

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2011.6.27 「花の蹴鞠」第10回は比企の乱の頼家を書く予定が、思いがけず弟の実朝に話が飛んで・・・、文化人実朝の誕生には側近として光行がいて、京都の定家・雅経らと密に連絡をとりあっての連係プレーがあったから!

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昨日書いたように、「花の蹴鞠」第10回は建仁3年(1203)の比企の乱がテーマでした。これは比企氏に将軍の外戚の座を奪われるのを恐れた北条氏が、頼家ともども比企氏を滅ぼして、第三代将軍に実朝を就任させた事件です。

今まで飛鳥井雅経が頼家に蹴鞠を指導したことから、雅経―頼家の路線で、当然今回も頼家が主役のはずでした。若狭局や嫡子一幡とのことなど、比企氏を書くと思っていたのです。

が、昨夜、相関図を作ったら、頼家―比企氏と全く別個のグループとして、実朝―光行のグループが浮かんだという訳。

それから、どういうふうに最初の一行をもっていこうか、家事をしながらずっと考えていて、書きだしたら、実朝と光行の麗しい師弟関係・・・!!からになってしまいました。というのも、この時期、京都では『新古今和歌集』の撰集が進んでいます。実朝はそれを京都から取り寄せるのですが、それがいつだったかなあと考えていたら見えてきた世界。

ふつう、実朝が『新古今和歌集』に興味をもって取り寄せたというと、如何にも実朝の文化人的教養の深さが思われますが、それは実朝がまだ14歳のとき。実朝にその資質があるとはいえ、みずからの立案というより、これはもう、光行が傍にいて、京都の定家や雅経らとの連携プレーがあってのことと思うべきです。たぶん、実朝の京都志向は光行仕込みです!!

比企の乱の年、実朝は12歳。大人の世界の喧騒に巻き込まれて将軍になりはするものの、まだ純真な少年なんです。そんなことに気づいて書き始めたら、景盛まででてきて・・・、景盛は私にとってスタブローギン!! 眼差しの深い真摯な人間・・・、ひそかに後半の主人公と目論んでいる人物です。なかなか登場させる機会がなくて、後半までお預けと思っていたら、なんと、突然、登場してしまいました。

頼家22歳、景盛20歳、実朝12歳、という・・・腹違いの3兄弟がここで揃ったのです!! 面白くなって書き進めていたら、だんだん比企の乱について詳しく書く紙数がなくなってしまいそう・・・。このままだと、比企の乱は最後の方で、「こんなことがありました」の説明で片づけてしまうしかなくなりそうです(泣)

でも、この展開・・・、最初の予定では比企の乱だけで第10回がもちそうだったんですよ! 三月の震災がなくて、予定通りの締切で書いていたら、そうなってました。震災で急遽予定を変更して、追悼の意味を込めた「震災で知った藤原定家・源光行の思い」を書いたから、一回分遅くなっての今・・・、そうしたらこんなになってしまうなんて・・・

実朝については小林秀雄の実朝論があまりに凄くて、信奉者というか、心酔する人が多くて、私も小林秀雄には心酔していましたが、実朝に対する夢見る少年的な心酔者の叔父様方についていけなくて、自然、実朝にも距離を置いて見る習慣ができていて、この「花の蹴鞠」でも実朝については書く気持ちがまったくなかったのです。

でも、書きだしてみたら面白い!! 今までの実朝論は年齢をまったく無視してますね。年齢を加味し、景盛や光行と絡ませたから、世の心酔していられる世の方々の実朝世界とまったく違う感じで、ドラマが進みます!!!!!(と、こと執筆に関するかぎり私は結構天邪鬼です!!)

写真は、実朝・光行・景盛が懇親していたはずの大蔵幕府跡。現在、鎌倉は鶴岡八幡宮に隣接した清泉小学校の敷地になっています。写真はバザーが行われて一般の人に開放されていたため中に入れたもの。御所当時からあったのか、それとも後世のものかわかりませんが、ふつうの小学校の校庭の脇に古びた日本庭園があって、そこに景石が点在して、やはりふつうと違う趣でした。

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2011.6.26 昨夜のツイッターへの呟きを転載・・・「花の蹴鞠」第10回を書き始めるにあたって/比企の乱を巡って書くことにしていたのですが、仙覚との関係で面白い展開に!

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連載中の「花の蹴鞠」はある方に言わせると「論文のような不思議な小説」とか。次回分の締切が迫っているので昨夜からとりかかっているのだけれど、比企の乱を書く。それで吾妻鏡を読んでいて気がついた。予定では「論文のように」比企の乱を歴史的説明で上手く処理すればいいと思っていたのに。

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比企の乱の主役頼家は比企氏の女性たちを乳母にし、比企義員の娘の若狭局を側室にしている。二人の間にできた男子一幡が第三代将軍になるはずだったところ、それを阻止したい北条氏により、頼家も比企氏も一幡も滅ぼされる。と、こう書けば「論文」的に簡単。でも、吾妻鏡を読んでいて気づいたのは…

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頼家は蹴鞠を愛した。しょっちゅう行っている。そこに加わるメンバーに比企能員(先のtwの義員は間違い)息時員がいた。近習という立場だけれど、若狭局の兄だし兄弟のように育った仲のはず。時員は比企の乱で父能員とともに殺される。その時、側室は身ごもっていて埼玉県の比企郡に逃れた。

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側室はその地で男子を出産。比企氏の残党と知れると殺されるので真言宗の仏教寺院岩殿観音に預けられる。そこでその子は悉曇を学習して育つ。その言語感覚がのちに役だってその子は万葉学者「仙覚」となり、西本願寺本万葉集の底本となる校訂本を作った。つまり、仙覚の父時員は頼家と蹴鞠の仲だった…

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これは『密教美術と歴史文化』(法蔵館2011.5)所収の「北条実時と『西本願寺本万葉集』」で説いた仙覚の素性。比企氏系図から生年・生誕地・悉曇の教養に符合する人物を割り出しました。「花の蹴鞠」に活かすつもりはなかったけれど、父時員がこれだけ吾妻鏡に登場するなら、ドラマができそう!

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ほんとうは、空想が物凄く膨らんで、側室の女性をある人物にしたいところ・・・。でも、そこまで特定してしまったら、歴史上の重要な人物と関わってきてしまうし、誤った説が世に流布しても困る・・・と、ここは「論文的小説」の域を逸脱しないよう、今回はぐっとこらえて書くことにします!

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と、以上が昨夜のツイッターへの呟き。その後、ノートに登場人物の年齢を書きだして相関図を作ってみたら、さらに面白いことが浮上!

当時、鎌倉には源光行がいて、家庭教師的に頼家・実朝兄弟の相手をしていたはずだけれど・・・と考えてみたら、頼家の周辺には光行は浮かばない。それは、頼家が比企氏の家に入り浸りか、或は蹴鞠にばかり夢中かで、光行世界をなじまなかったせいと思われる。

逆に、頼家が将軍のあいだ、実朝は吾妻鏡に登場しないけれど、実朝が将軍になった途端、光行が供奉する記事があらわれる・・・、ということは、頼家周辺より、光行は早くから実朝に親近していたのだろう。

それで、頼家のいる比企氏館グループと別に、実朝のいる御所グループに分けてみたら、きっちり、二つのグループができあがった。こんなに明瞭に勢力分野・・・というよりもまだ勢力争いになっていないから趣味の違いということで、蹴鞠グループと知的グループに分けられるんだあ・・・と感嘆しました。

そして、御所グループを想像してみたら、そこには笑顔の政子が登場し、実朝に誠意を尽くして使える覚悟の景盛がいて、そこに光行がいる・・・そんな光景が浮かび上がりました!

それから、相関図を作って見えてきたことは、時員は若狭局の兄ではなく、弟だったということ。仙覚の母になる女性をてっきり側室と思っていたけれど、正妻でもいいのだということです。比企氏系図にはそこまで書かれていなかったので、てっきりの思い込みで「兄・側室」を使ってました。

■冒頭の写真は、建礼門院徳子が落飾した長楽寺の庭園です。本当は正面から撮りたかったのですが、若い男性がずっと静かにそこで瞑想してらして、そばでカシャカシャ、シャッターの音をたてるわけにいきませんから、側面の廊下に行って音の響かない遠くから撮ったもの。庭園観賞に正面とか側面とか、見るのに決まりってあるのでしょうか。どこから見ても完璧、っていうふうに作られているのかな?

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2011.6.24 今日の夕焼け・・・一瞬でしたが、綺麗でした!!

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↑下にある小さな雲が金色に輝いて綺麗でしたので撮っていました。その時はまだ上空は焼けていなかったのです。東北東(茨城県方向)から薄い膜状の雲が寄せてきているなあと思ってはいたのですが、まさかこんなに焼けるなんて、思っていませんでした。

それで、下の小さな雲に焦点を合わせて撮っていて、ふと顔をあげると、上空の雲が見事に黄金色になっているではありませんか! 一瞬のうちの変化でした。撮っているあいだにみるみる変化して、すっかり宵闇に包まれてしまうまで、そんなに時間はかかりませんでした。

↓ それから、同じ時間帯、北西(浅間山方向)にごつごつした質感の黒い雲が湧いていました。それが夕焼け時には赤いレリーフ焼けして、広範囲の雲だったらぎょっとするところです。でも、小さな規模の雲だったのでほっとしました。

帰りがけ、この雲の先端が北へ引っ張られて、長く延びていました。

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2011.6.23 石器の矢じりのように先端の尖った雲について・・・今朝の【岩手県沖 M6.7】の前兆の空だったかもしれない6月20日の写真をUP!!

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↑ 6月20日19時頃、南西に発生した雲の塊がありました(一枚目)。その雲の西の部分が北へ引っ張られて長く延び、先端が石器の矢じりの先のように尖っていました。一つの塊の雲なのに、西のその一本だけが長く延びて目を引きました。

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↑ その45分後の北の空です。おそらく一枚目の南西発生の塊雲が広がったのだと思うのですが、その東側の部分が北へ長く延びて、やはり石器の矢じりの先端のように尖っていました。「さっきの雲も先端が尖っていたなあ」と思ったのが、「矢じりのような先端」に気を留めたきっかけです。

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↑ 二枚目の写真の45分後のようすです。まだ長く一本が北へ引っ張られて延びています。「これはどういうことかしら」と思いつつ、「こういう珍しい空を撮ったあとはきっとそれなりの結果がでる」と思ったのでした。だいたいに解明は結果から解きほぐされます。

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↑ 下の記事にも載せましたが、北から北東(福島県方向)一帯低空に、ごつごつした感じの雲が壁のようになって立ちはだかっていました。これは北の部分のズーム。下の写真が岩手県沖あたりから福島県沖にわたる広大な壁状の雲(断層状雲)です。家並みで遮られて雲の上層部しか見えませんが、気づいたときはぎょっとしました。

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■下の記事に気象庁の発表を引用していますが、昨日から今日一日中にかけてのこの一帯で規模が大きめの地震が頻発しています。この前兆が20日夕刻の空だったとして考えると、「石器の矢じりの先のように先端が尖った雲」は、強い震源のある方向へ引っ張られていっている為に生じる現象と考えていいという気がしています。

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2011.6.23 今朝、青森県等で震度5弱を記録する【23日6:51 岩手県沖 M6.7】の地震がありました

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写真は20日の19時過ぎのものです。三月の震災以来、余震も含めてあまりに現象が大きいせいか、宏観が空全体に広がって、それらが複雑に影響し合って、単独の前兆を見極められない状況でした。

けれど、ここ何日か、空がもとに戻った気がしていました。撮りにでようと思う雲が出現するのです。昨日も撮りにでながら、「久しぶりだなあ、こういう単体の雲・・・。雲の写真を撮り始めた頃に似ている・・・」などと考えたりしていたのです。新しいサイクルがはじまったのかな?と、思っていました。

今朝、【6時51分頃 岩手県沖 M6.7 震度5弱】があったそうですね。私は寝ていて気がつかなかったのですが、当地三鷹市は震度1だったそうです。

6月23日10時06分頃 岩手県沖 M3.6 震度1
6月23日09時32分頃 岩手県沖 M3.7 震度1
6月23日08時47分頃 福島県沖 M3.9 震度2
6月23日08時34分頃 茨城県沖 M3.8 震度1
6月23日06時51分頃 岩手県沖 M6.7 震度5弱

東北に大きな地震がありそうと思ったのは、20日夕刻に見た空です。三陸沖から福島県沖にかけての低空一帯にずうっと広がって、「ごつごつした質感」の雲が壁のように立ちはだかっていました。一枚目の写真がそうです。これは北の部分ですが、これが長く福島県方向まで続いていました。「ごつごつした質感」はかなり強い震源を示す要注意雲です。

二枚目はその40分後で、東北一帯の上空に長く延びる石器の矢じりのような尖った先端の雲。これは南側発生の雲の先端ですが、東北方向に引きつけられて延びているわけです。かなり強い吸引力があるという気がしました。尖った先端の雲もかなりの要注意雲で、この日は一枚目の写真を撮ったときにも尖った先端が顕れていました。(時間があったら後程upします)

20日の後、福島県一帯でかなりの頻度で地震が起きています。どういうことだろうと思っていたら、今朝の地震。でも、まだこれで終わりではないと思います。どうかもう被害級だけは来ませんように・・・

23日03時19分頃 茨城県北部 M4.0 震度3
22日23時29分頃 岩手県沖 M5.4 震度3
22日22時51分頃 宮城県沖 M3.4 震度1
22日19時16分頃 宮城県沖 M4.0 震度2
22日13時53分頃 福島県沖 M3.4 震度1
22日13時28分頃 福島県沖 M3.6 震度1
22日12時49分頃 宮城県沖 M3.4 震度1
22日12時17分頃 福島県沖 M4.2 震度2
22日10時39分頃 岩手県沖 M4.2 震度2
22日09時57分頃 福島県沖 M3.9 震度1
22日06時56分頃 福島県浜通り M3.8 震度1
22日06時52分頃 宮城県沖 M3.8 震度2
22日06時28分頃 茨城県沖 M3.5 震度1
22日06時16分頃 茨城県沖 M5.0 震度2
22日05時27分頃 福島県沖 M3.4 震度2
22日04時04分頃 岩手県沖 M4.2 震度1
21日22時59分頃 福島県沖 M3.9 震度1
21日22時58分頃 福島県浜通り M2.8 震度1
21日22時10分頃 福島県沖 M3.7 震度1
21日21時19分頃 宮城県沖 M3.2 震度1
21日19時53分頃 宮城県沖 M3.5 震度1
21日17時49分頃 茨城県沖 M5.6 震度3
21日17時47分頃 宮城県中部 M2.0 震度1
21日17時37分頃 福島県会津 M2.8 震度2
21日14時21分頃 宮城県沖 M3.8 震度1
21日14時17分頃 宮城県沖 M4.4 震度2
21日13時40分頃 宮城県沖 M4.6 震度3
21日13時00分頃 岩手県沖 M2.9 震度1 
21日11時08分頃 茨城県北部 M3.0 震度1
21日08時10分頃 岩手県沖 M4.3 震度1
21日07時26分頃 福島県沖 M3.9 震度2
21日06時28分頃 茨城県北部 M3.0 震度1
21日05時34分頃 福島県沖 M3.3 震度1
21日05時26分頃 宮城県沖 M3.7 震度1
21日01時39分頃 茨城県沖 M3.4 震度1
20日16時55分頃 茨城県北部 M3.3 震度1
20日13時07分頃 福島県沖 M3.7 震度1
20日12時13分頃 福島県会津 M2.8 震度2
20日11時35分頃 福島県沖 M4.1 震度1
20日11時03分頃 茨城県北部 M3.3 震度1
20日09時51分頃 岩手県沖 M4.0 震度1
20日09時41分頃 宮城県沖 M4.1 震度1
20日09時15分頃 茨城県沖 M3.9 震度1
20日08時05分頃 茨城県沖 M3.4 震度1
20日07時26分頃 福島県浜通り M2.6 震度1
20日07時25分頃 福島県浜通り M2.9 震度2
20日06時55分頃 福島県浜通り M3.6 震度3
20日06時40分頃 宮城県中部 M2.1 震度1
20日06時17分頃 福島県浜通り M3.7 震度3
20日05時24分頃 岩手県沖 M3.8 震度1
20日04時51分頃 福島県中通り M3.9 震度2
20日03時58分頃 福島県沖 M4.5 震度3
20日03時13分頃 茨城県沖 M4.7 震度2
20日02時00分頃 福島県沖 M3.9 震度1
20日01時55分頃 宮城県沖 M3.3 震度1
20日01時31分頃 福島県沖 M3.6 震度1
20日00時49分頃 宮城県沖 M4.3 震度2

追記:その後、岩手県沖の地震が頻発しています。
6月23日17時22分頃 岩手県沖 M4.1 震度2
6月23日12時11分頃 岩手県沖 M3.8 震度1
6月23日10時06分頃 岩手県沖 M3.6 震度1
6月23日09時32分頃 岩手県沖 M3.7 震度1
6月23日06時51分頃 岩手県沖 M6.7 震度5弱

追記:その後(2)、宮城県沖M5.3が発生ました。
6月23日20時14分頃 岩手県沖 M4.0 震度1
6月23日19時35分頃 宮城県沖 M5.3 震度4
6月23日19時16分頃 岩手県沖 M4.1 震度2

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2011.6.22 【隠岐・海士町は、『古事記』成立1300年を記念して「隠岐後鳥羽院和歌大賞」を創設】のお知らせ

和歌文学会・新着情報 

平成24年、日本の神話を今に伝える『古事記』が編纂されて1300年目を迎えます。

この歴史的節目を記念して、神々の国しまね(島根県)と歌聖・後鳥羽院の面影を今に伝える隠岐・海士町は、『古事記』成立1300年を記念して「隠岐後鳥羽院和歌大賞」を創設、次の要領で開催することになりました。

選者は藤原俊成、定家親子を祖とする和歌の伝統を今に受け継ぐ、冷泉家第二十五代夫人の冷泉貴実子さん。入賞歌は後鳥羽院を祀る隠岐神社本殿において、冷泉家時雨亭文庫一門により、平安貴族の和歌の遊びを古式ゆかしく再現する披講の座=写真=で披露されます。

本事業は、日頃鑑賞することの出来ない平安絵巻さながらの和歌の世界を紹介しながら、日本の歴史のなかで先人たちが受け継いできた古典や伝統文化の知の深さを垣間見、未来への遺産として継承することの大切さを提唱する催しです。

趣旨ご理解いただき、ぜひこの機会に、全国の古典と和歌を愛する皆様方の〝志〟を投稿歌としてご奉納くださいますよう願いいたします。

◇隠岐・海士町と後鳥羽院
隠岐と言えば、『古事記』の神話「因幡の白兎」の舞台とともに、承久の乱に敗れた歌の神様・後鳥羽院が思い出される日本海の離島です。院は配流から二十年近い歳月を隠岐(現、海士町)で過ごし、悲劇の生涯を閉じました。島民たちは院の没後も歌を中心に牛突きなど、院に因んだ遺産を現代まで大切に受け継いでいます。     
なお、院を祀る隠岐神社は、昭和14年4月4日の崩御700年の記念事業として創建されたもので、まさに海士町島民の崇敬の結晶そのものです。

◇冷泉流和歌の創り方、歌題「海辺月(うみべのつき)」について
和歌は五・七・五・七・七の三十一文字からなる和、すなわち日本語の詩です。
だから漢語や外来語を使わずに披講(歌う)できる短歌を詠(作る)んで下さい。
「月」は、いつもの秋の月を意味します。
「海辺月」では海上、あるいは浜辺・岩辺など、海の景色の中の月を詠みます。
「海辺月」という漢語は題の中だけで、歌の中に「海辺月」の三文字をそのまま使ってはいけません。
波・浜・島・松原・舟・海士の苫屋などを思い浮かべて下さい。

「隠岐後鳥羽院和歌大賞」募集要項

  ◇作 品  未発表の作品
  ◇歌 題  「海辺月(うみべのつき)」
  ◇投稿料  三首まで2000円、三首をこえるごとに一首500円
      応募者全員に作品集・入賞、入選者には優秀作品集を贈呈
  ◇締 切  平成23年6月末日(当日消印有効)
  ◇賞   『古事記』1300年記念大賞、隠岐後鳥羽院和歌大賞、
      冷泉家時雨亭文庫賞、選者賞(冷泉貴実子選)、海士町長賞ほか
  ◇選 者  冷泉貴実子氏(冷泉家第二十五代夫人)
  ◇主 催  島根県隠岐郡海士町
  ◇共 催  産経新聞社
  ◇協 力  隠岐神社
  ◇特別協力 財団法人 冷泉家時雨亭文庫 

  ◇作品と投稿料の送付方法
【作品】所定の投稿用紙、あるいは原稿用紙に作品(楷書)、住所、氏名、
    年齢(年代)、連絡先(電話番号、ファックス番号、eメール)を明記し、
    〒684‐0403島根県隠岐郡海士町大字福井1365‐5
    海士町観光協会『古事記』1300年記念「隠岐後鳥羽院和歌大賞」
    電 話(08514)2‐0101 FAX(08514)2‐0102
【投稿料】(三首まで2000円、三首を超えるごとに一首につき500円)
    現金または小為替にて。
    ◆現金の場合=(現金書留封筒にて)作品と所定の金額を一緒ご郵送下さい。
    ◆郵便小為替の場合=(小為替には何も記入しないで下さい)
    作品と所定の金額分の小為替と一緒に、ご郵送ください。

「隠岐後鳥羽院和歌大賞 特別公開 冷泉家 披講の座」
◇と き  平成23年9月25日(日)
◇会 場  特別公開 披講の座(冷泉家時雨亭文庫)
隠岐神社本殿にて十一時から約一時間(見学無料)
〈表彰式〉14時頃 マリンポートホテル海士にて
〈交流会〉18時頃 マリンポートホテル海士にて
〈島前観光〉2泊3日(9月24日~26日)の行程内に観光も含まれます。
※詳しい事は海士町観光協会(08514‐2‐0101)までお問合せ下さい。

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2011.6.21 平清盛ゆかりの神戸を訪ねて(1)・・・平家一門の邸宅があった一帯/荒田八幡宮・平野交差点・祇園神社・北野天満宮を!!

神戸が福原京といっても、平清盛ゆかりの神戸は3つのグループに分けられます。まず、清盛はじめ、平家一門の方々の邸宅があった北の一帯。正式にはここが福原京址になるのでしょうか・・・

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↑ 上四枚は荒田八幡神社。福原遷都八百年記念碑と、安徳天皇行在所跡の碑があります。四枚目は神社からこれから向かう祇園神社の方向を見た光景。山が見えるこの空気感は平家の方々がこの一帯に住んだときと変わらないでしょうと思って。

幼帝安徳天皇がいらしたことがあるこの地、ということは建礼門院徳子も、ですね!!

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↑ 平野交差点のあたりが邸宅群のあった中心地だったようです。清盛の邸宅、宗盛・重盛らの邸宅、それぞれの季節に合わせた雪の御所のような別邸など、史跡はありますが、一日で撮ってまわらなければならない時間の関係で、それらを訪ねるのはあきらめ、一帯を見下ろせる祇園神社境内へ向かいました。祇園神社は交差点をずっと行った六甲山の中腹にあります。地図を大きくしました。クリックしてご覧ください。

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↑ 祇園神社境内。この境内から平野交差点一帯が見下ろせます。清盛の邸宅はこの景色のどこかにありました。もちろん、我らが源光行も訪ねているはずです!!

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↑ 北野神社からの福原京から輪田湊一帯の眺望。北野神社は清盛の勧進です。奇しくもここは観光地異人館の一帯。中でも有名な風見鶏館と北野神社は隣合わせです。歴史が如何に重層しているかの思いに駆られました。そして、そこに阪神淡路大震災の歴史も含まれるのです・・・

私のはうろ覚えの部分もありますので、正式な史跡のご紹介は以下でご覧下さい!!http://www.city.kobe.lg.jp/ward/kuyakusho/hyogo/shoukai/kiyomori.html

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2011.6.19 須磨浦山上遊園展望台からの明石・神戸の海の眺望・・・光源氏が通った航跡!!

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5月16日、平家ゆかりの地【福原京】を訪ねたくて神戸に行きました。まず最初に向かったのが須磨浦山上遊園の展望台で、そこから神戸の海の眺望を撮ったことは前の記事でご紹介しました。

そうしたら、この日の写真をきちんとご紹介していなかったことに気がついたんです。当日、生中継みたいに、携帯で撮った写真をツイッターでリアルタイム報告して、帰宅してからはそのツイッターをまとめてこのブログ記事にし・・・、それから時に応じて少し写真をご紹介してはいたのですが・・・

で、一気にまとめてご紹介させていただきます。が、その前に、須磨浦山上遊園展望台からの眺望が素晴らしかったので、もう少しここで撮ったものをアップしておきます。次の記事で神戸の史跡に移りますね。

上二枚は明石方面を撮ったもの。明石大橋があるのですぐわかりました。『源氏物語』でいえば風流な「須磨・明石」なのですが、現代は明石大橋の明石・・・、になってしまうのですね。

『源氏物語』では須磨に流された光源氏は、明石入道の導きで明石に移ります。それから都に帰るのに大阪湾を通り、そこに住吉大社があるんですよね。

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写真をクリックして大きくご覧いただけるといいと思います。この眺望には光源氏のそんな航跡が含まれているんです。凄い!!でしょ・・・

今度は明石大橋と反対側、神戸の側をアップします。まずは須磨浦山上遊園の足元、須磨の海からはじめます。

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神戸が六甲山の麓に広がり、市街に緑の尾根が流れ込んでいるようすがわかります。砂浜が広がる海はまだ須磨で、清盛が活躍した福原京・輪田の湊(兵庫津)はずっと奥。たぶんあそこだろうと思う方向をズームで撮ったのが最後の一枚です。その向こうに大阪湾が広がり、住吉大社があるのです。住吉大社・・・まだ行ってないので行かなくては!と思っています。

http://www.sumaura-yuen.jp/(須磨浦山上遊園)

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2011.6.18 神戸の海遠望・・・神戸の海で来年の大河「平清盛」の撮影が行われているらしい???・・・そう検索して来られた方がいらして!!

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5月16日に撮りました!! 清盛が宋との交易を行った湊を撮りたくて、それも航空写真的に撮りたくて、須磨まで行き、須磨浦公園の展望台に登って、望遠で撮ったものです。いいところにそういうスポットがあってラッキーでした!!

来年の大河ドラマ「平清盛」・・・、もう撮影が進んでいるのでしょうね。検索で「神戸の海で撮影が行われた」というキーワードでこのブログに来られた方がいらして、事実かどうかわかりませんが、やっぱり・・・と、思ったとおりのロケ地と頷いたのでした。

砂浜のある海は須磨、神戸の海はその奥に小さく見える湾です。そこに松山ケンイチさんの清盛が・・・、当時の光景が復元されてドラマが進行しているのでしょうね。見たいなあ・・・、

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2011.6.16 初夏の鎌倉段葛の写真

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6月15日に鶴岡八幡宮でとり行われた東大寺との東日本大震災合同慰霊祭へ行ったときの段葛です。緑に包まれた感じでした。桜かぼんぼりに飾られた華やかな段葛しか知らなかったので、一瞬、あ、珍しい!という気分になったのでした。

下は、その脇にとまっていた人力車。真っ赤な一台が目を引きました。「これからですと蛍がみられますよ!」という客引きの声が耳に届いて、「蛍? 見たい!!」と思ってしまいました。

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2011.6.14 薔薇園でカメラと遊ぶ・・・一眼レフでは構えてしまう超望遠もコンデジだとこんなに簡単に

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6月7日、神代植物園にある薔薇園に行きました。もう花も終わりとわかっていましたが、最盛期にどうにも行かれなくてこんな時期になってしまいました。で、やはり、咲いている花はまばら、咲いていても盛りの生気がない、散りかけていて花びらの縁が茶色・・・と。

でも、頑張って撮ってみました。コンデジを新しくしたので試し撮りの意味もあって・・・

私は報道写真を仕事にしていたせいか、一瞬を捉える! 何が何でも一瞬を捉えて逃がさない、の習慣が身について、仕事を離れた今でもじっくり構えて撮る、美しく狙って撮る、ことができません。

その結果、どうして私の写真は美しくないんだろう・・・と、しばらく悩みこんでいました(笑)

姿勢が違うのだと気づいて、それからはじっくり構えて「美しく撮る」を心がけているのですが、仕事で身に着いた習性というのはもう身体の一部になっているので、なかなか治りませんね。四苦八苦しています。まるで、写大の一年生に戻ったみたい・・・

で、冒頭の薔薇の写真ですが、実はこれ、花壇の奥の方に咲いている花を、ずっと離れた歩道に立って撮っているんです。超望遠ということ・・・

一眼レフだったらレンズ交換しなければならないところ、コンデジ(コンパクトデジカメの略です)だと、立ったその場でいくらでも広角から望遠まで自由自在。このカメラではデジタルズームをきかせると、月のクレーターまでばっちり写るすぐれものです。

画質の性能を考えたら一眼レフの気持ち良さから離れがたいのですが、外に出るにはもうこの手軽さは秀逸ですね。下の記事の鶴岡八幡宮での撮影もこのカメラで撮りました。夜なので露出もオートにしてカメラ任せ。それであれだけ撮れるんです。一眼レフにこだわりたい私としては「もう、イヤッ」という気持ちです。どちらのカメラでもきちんと撮れるよう、目下写大一年生以下のことをしています(泣)

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2011.6.13 鶴岡八幡宮における東大寺との東日本大震災合同慰霊祭の写真・・・四人の巫女さんによる神楽「浦安の舞」が素敵でした!

昨夜、鶴岡八幡宮において、神道の鶴岡八幡宮と、仏教の東大寺との、東日本大震災のための合同慰霊祭がとり行われました。

これは、源頼朝が南都焼討にあった東大寺の復興に寄進したことによるご縁です。以前も、何かの折に鶴岡八幡宮で東大寺のお水取りが修されたことがあります。そのときも行って見守らせていただきました。

ずっと以前、国分僧尼寺の会というのがあって、私も会員にならせていただいていました。東大寺の前の長老様が発起人でいらっしゃいましたので、会も東大寺でもたれ、参加させていただいて、大仏様の蓮のうてなの上にのぼらせていただいたなどしました。それで、まったくの数ならぬ身ではありますけれど、私には東大寺に格別の思い入れがあるんです。

昨夜も東大寺から僧侶の方々がお見えになって合同慰霊祭をなさるというので、行って、最後まで参列させていただきました。

慰霊祭は舞殿で行われ、最初に鶴岡八幡宮側の神職の方々による儀式があって、次に東大寺側の僧侶の方々の読経と続きます。

では、まず、そこまでの写真を一挙に載せさせていただきます。場所の関係で東大寺の僧侶の方々のお姿は隙間から垣間見える程度にしか撮れませんでした。下から二枚目の写真は大般若経転読なのですが、これもやっとこの程度。以前から私はこの大読経をきちんと撮りたく思っているのですが、なかなか機会に恵まれません(泣)

大般若経転読というのは、気も遠くなるような膨大な量の経典である大般若経を、僧侶の方が大音響で出だしだけ唱えられながら、一冊一冊の屏風のように折りたたんだ経典を、ぱらぱらぱらっと滝のように流れ落として、それで一冊を読んだことにし、全部の経典を、何人もの僧侶の方が一斉にパラパラパラッ、パラパラパラッとなさる物凄い迫力の読経です。写真では白い経典がハレーションを起こして折りたたみ目がよくわかりませんが、屏風のように折りたたんだ経典と思ってご覧ください。

最後の一枚、鶴岡八幡宮の社殿は、昼間の五味文彦先生のご講演で、鎌倉の世界遺産登録の内容に「緑なす自然の要塞」が加わったと拝聴したからこそ撮れたショットです。

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ここから、鶴岡八幡宮の巫女さん四人による神楽「浦安の舞」です。海を鎮める意味のこめられた舞・・・、東北の震災が津波だったから選ばれた演目・・・、深い思いに浸りました。

それとは別に、巫女さん方の神楽の素敵だったこと! 浦安の語を彷彿とする装束の美しさ・・・、動画で撮りたかったのですが、実は新しいカメラを持ってきていてほぼ初撮り。動画の設定がよくわからずにあきらめました(泣)

それで、動画風に順次並べますので、そのつもりでご覧になってくださいね。夜なので手ブレ、ピンボケもありますが、悪しからず!!

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2011.6.12 ツイッターへの呟き・・・鎌倉・鶴岡八幡宮でとり行われた東大寺と合同の東日本大震災慰霊祭

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鎌倉から逐次呟いていたことを転載させていただきますね。

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久々の鎌倉。世界遺産登録に向けての五味文彦先生の講演拝聴。同じく登録に先駆けた平泉が、浄土教文化の景観として訴えている為に柳御所は外すしかなくなったとか。鎌倉も武士の都というのに頼朝の大倉幕府は外した。考古学的に重要でも海外の審査基準には見あわない。うーんと微妙。でも確かかも。

odayuriko 
代わりに進展している案が、鎌倉は周りを緑の山に囲まれた、いわば自然要塞の都。その景観の中に鎌倉はあったと。これは新鮮な発見。今まで鎌倉の世界遺産登録に無理がある気がしていたけれども、視野が変わって広がった。なんか、いけそうな気がしてきた。私がいうのも変だけど(笑)

odayuriko 
講演会場で買い求めた鎌倉散華。綺麗です。 http://yfrog.com/kj91hfj

odayuriko 
緑なす自然要塞に囲まれた武士の都鎌倉。五味先生のお話には一言も出てこなかったが河内本源氏物語はそこで生まれた。親王御所は考古学遺跡だから駄目でも、尾州家河内本という重要文化財指定の立派な遺産がある。世界に名だたる源氏物語。申請の文言に入れたらきっと外国の審査員の方の目を引くのに。

odayuriko 
鶴岡八幡宮で行われた東大寺との東日本大震災の合同慰霊祭を参拝していました。今帰途についています。 http://yfrog.com/h890482546j

odayuriko 
なんか、やっと気がついたのだけれど、源氏物語が世界に通用する第一級の世界遺産だという事を認識している男性諸氏、学者さんがあまりに少ないのだなあ、と。

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途中、雨が降ってきたりして、慰霊祭終了後にホタルの放生会があったのだけれど、それはあきらめて帰途につきました。鎌倉駅に着いたのが21:00少し前。見ると、なんと、21:04発の湘南ラインがあるではないですか! こんな遅い時間まで湘南ラインが動くようになったのですね。ラッキーとばかりに乗りました。空いていて、四人かけのボックス席を最後まで一人で独占。渋谷まで乗り換えなしの一直線です!

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2011.6.10 俊成本の見せ消ち問題で源光行がこだわった「未央柳」・・・今までどんな花か知らなかったのですが、なんと公園でよく見る花でした!

ツイッターで詩人の鈴木志郎康さんが、「未央柳が咲いた」と呟かれたのを拝見して、そうだ、史実を追うことばかりに手間取っていて、未央柳がどんな花かを調べてなかったと気がつきました。

それで、検索して写真を見たら、なんと、公園でよく見る馴染みの花・・・。びっくりしました。芙蓉と並んで楊貴妃に譬えられるほどの花なら牡丹のような大輪でゴージャスな花とばかり思っていましたので・・・

私自身は撮ったことがありませんでしたので、写真がありません。それで、写真の載っているサイトをご紹介させていただくことにしますね!

http://plumkiw948.at.webry.info/200806/article_3.html

http://banpaku.blog.ocn.ne.jp/top/cat5544945/

ネ、皆様もきっとご存知のお花でしょう・・・。でも、これを最高位に位置して愛でるなど、さすが水墨画の中国! 感性が繊細ですね!!

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2011.6.9 ツイッターで【HKB(平家武士)48総選挙】が行われて・・・

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夜にテレビでAKB48の総選挙があって、その話題に便乗してツイッターで、【HKB(平家武士)48総選挙】が行われ、結果がでました!!

1位 宗盛、2位 知盛、と続いて、敦盛、維盛、重盛・重衡、教経、知章、忠度・資盛、忠盛・清盛・・・の順です。たった数時間の、ほんの思いつきの乗りでなさった選挙ですが、楽しかったです!! 私は資盛に一票を投じました。

で、それで触発されて呟いた私のツィートを転載させていただきます。

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HKB(平家武士)48総選挙で資盛の得票は2票。寿永2年2月、資盛は千載和歌集の院宣を俊成に届けた。栄えあるこの大役。光源氏の再来と謳われたが歌が苦手の兄維盛と違い、資盛は歌会を催すなど文学青年だった。けれどその6月に平家一門は都落ち。たった4カ月の間の人生のこの急変。

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資盛の歌会には定家も参加している。たしか、俊成も。だから定家は資盛と建礼門院右京大夫との恋も見ていた。後年、定家が勅撰集を編む事になった時、右京大夫に作者名を何とするか訊ね、彼女は「建礼門院右京大夫にして」と答える。すでに後鳥羽院宮廷に仕えるなどしていたにも関わらず昔の名を。

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定家自身、朝敵となった平家一門の方々の歌を勅撰集に入れる訳にいかなかったが、心の中では誰よりも入れたかった。なので右京大夫への打診は彼女にそう答えて欲しかった定家の痛切な思い。語らずとも二人は資盛を哀悼する思いを共有していた。これだけの文学者二人の心に生きる資盛に惹かれています。

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平家一門が都落ちする時、平忠度が俊成に私撰集を託し、そこから俊成が「さざなみや」の一首を読人しらずとして千載和歌集に入れた話は有名。定家も行盛だったと思うが託されていて自ら編んだ勅撰集に入れた。資盛の歌会仲間だったのだろうと思っています。

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『新勅撰和歌集』撰集に際し、定家「いづれの名をとか思ふ」 右京大夫「言の葉のもし世に散らば偲ばしき昔の名こそとめまほしけれ その世のままに」 定家「同じくは心とめけるいにしへのその名をさらに世々に残さむ」・・・『建礼門院右京大夫集』にあるエピソード

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写真は神戸市にある祇園神社。平清盛や宗盛、重盛ら一門の邸宅は、この神社がみおろす麓一帯にあったそうです。



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2011.6.7 ツィッターからの情報・・・生田斗真さん主演の映画『源氏物語 千年の謎』公式サイトのご紹介!! いよいよです。

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生田斗真さん主演の映画『源氏物語 千年の謎』の公開がいよいよ決まりました。12月10日(土)だそうです。もうそろそろなんて期待していましたので、まだ遠い!って思ってしまいました(泣)

この映画の制作でときめいていたら、来年の大河ドラマが「平清盛」で、やはり平安装束・・・今年の暮れから来年は、王朝ムード満載に浸れそう・・・

http://genji-nazo.jp/ (『源氏物語 千年の謎』公式サイト・・・綺麗です!!!!!)
≪特報≫をクリックすると、動画をご覧になれます!! 

写真は今年の葵祭から・・・

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2011.6.7 第49回 1617会・奈良例会「今井寺内町の歴史的展開と都市構造」の御案内

仁木 宏様からのメールを転載させていただきます。

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第49回 1617会・奈良例会「今井寺内町の歴史的展開と都市構造」の御案内

1617(いちろくいちなな)会は考古学・文献史学・建築史学・歴史地理学など、複数の分野の研究者が集い、16世紀以前(中世)と17世紀以降(近世)の特定の地域(都市的な場)を対象に、学際的に研究を深めることを目的とした研究会です。3ヶ月に1回程度のペースで開催しています。

今回は、奈良県橿原市の今井寺内町を対象とします。

興福寺一乗院領今井庄にはじまった今井集落は16世紀前半、称念寺を中心とする寺内町に変貌をとげ、大和平野ではめずらしい浄土真宗の拠点となってゆきます。その間、集落は盛土整地をともないながら西から東へ徐々に拡張し、周囲には環濠も掘られました。

本例会では、文献史料、発掘調査成果、近世絵図、現存する町並みなどにもとづき、今井の都市発展の様相を明らかにしてゆきます。また、中街道(下ツ道)と初瀬街道(横大路)が交差する当該地域には、先行して八木庄に八木市・矢木座が発達していました。こうした隣接する都市、あるいは近郊の環濠集落との相互関係から、今井寺内町の位置づけを試みます。

●日時 2011(平成23)年7月23日(土)

◎見学会 午前)「今井寺内町」(内容検討中)

◎シンポジウム 午後)「今井寺内町の歴史的展開と都市構造」
会場 今井まちなみ交流センター「華甍」 
http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_imai/kankou/spot/imai_hanairaka.html

報告      *タイトルはすべて仮題です
 森本修平氏(元大谷大学)「寺内町今井の展開と真宗」
 米村博昭氏(橿原市)「今井の町並みと都市構造」
 平岩欣太氏(橿原市)「今井寺内町の発掘成果」

★事前申込不要。参加自由。

*今後の予定   2011年10月22日(土) 摂津;四天王寺とその門前

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2011.6.7 平安京・京都研究集会 第22回 【信長と京都―河内将芳著『信長が見た戦国京都』をめぐって―】のお知らせ

仁木 宏様からのメールを転載させていただきます。

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平安京・京都研究集会 第22回 御案内

信長と京都
―河内将芳著『信長が見た戦国京都』をめぐって―

平安京・京都研究集会では、今回、織田信長と京都のかかわりについて考える研究集会を企画しました。
企画にあたっては、河内将芳さんの『信長が見た戦国京都-城塞に囲まれた異貌の都-』(洋泉社歴史新書、2010年)をひとつの素材とします。(後援)日本史研究会(予定)

  日時:2011年7月31日(日) 13:00--17:00
  会場:機関紙会館 5F大会議室
       京都市上京区新町通丸太町上ル東側。日本史研究会事務所の建物 
              市バス「府庁前」バス停すぐ。
      地下鉄「丸太町」駅下車、2番出口より西へ、3筋目を北へ。徒歩6分
    
    報告;本多博之氏(広島大学、日本中世史)
      仁木 宏氏(大阪市立大学、中近世都市史)
      浜中邦宏氏(同志社大学、考古学)
  討論参加;河内将芳氏(奈良大学)

*河内さんの御著書をお読みいただいてから参加いただくのが望ましいですが、お読みでない方にも十分理解いただけるように配慮します。

*事前の申込不要。一般来聴歓迎。
*当日、資料代をいただきます。

主催  平安京・京都研究集会

集会案内のHP http://ucrc.lit.osaka-cu.ac.jp/niki/kenkyu/staff.html

世話人;上杉和央、中村武生、仁木 宏、浜中邦宏、福島克彦、
      桃崎有一郎、山田邦和、山本雅和

問合先  平安京・京都研究集会事務局(山田方) 090-9697-8052

◆平安京・京都研究集会 今後の予定
  ・2011年12月? 「足利義満と北山殿・金閣」

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2011.6.2 新潟県中越地方の気になる地震の群発について・・・その前兆の雲だったのでしょうか

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6月2日午前に震度5強を観測した発震から、日付が変わって未明の今まで、新潟県中越地方に下記のような地震の群発が起きています。

後出しになるので非常に気がひけるのですが、写真下の二枚はその前兆だったかも・・・の空です。5月31日17:50頃の撮影です。窓の外の景色にふと違和感を覚えて目をこらすと、写真のような角状の雲の並列。これは・・・、と危惧しました。北西からの発生です。

この写真はどこにも投稿していません。今、下の記事を書くためにデジカメからPCに画像を取り込んだら出てきて、そういえばこの雲を撮っていたのだ・・・と思いだしたのです。

雲の観測を生活の中心に置いていたときなら、すぐに投稿もしたでしょうし、群発が起きたら即座にピンときたでしょう。でも、目下私は『源氏物語』写本の書誌学的考察に身を入れていて、そのことにほぼ全ての精力を注ぎ込んでいます。なので、撮っていても失念してしまうことが確実の状態・・・。忸怩たる思いが重なるので、今はとにかく10月の講演を無事勤めあげるまで仕方ないとあきらめているのですが・・・。こういう雲が出ていたことは、やはり記録にとどめておきたいので、アップします。

5月31日の空は大変な日でした。一枚目は11過ぎの撮影ですが、急激に北西から磁気を含んだ洗濯板状の模様を成す雲が発生していて、これは・・・と注意でした。ちょうど外に出たときに気づいて、携帯で撮ったりしたのですが、このように畳重なる波のような雲にとても危険を感じました。

その後、ちょうど下の記事にあるように、私は飯田橋の印刷所に向かったのですが、その車内で、携帯でツイッターを読んでいたところ、鎌倉や埼玉、栃木、岐阜にまで、強烈な環水平アークが観測されていました。あの雲が広がってと、一枚目の空のその後だとわかりました。

下の二枚はその同じ日の夕刻です。環水平アークをもたらした雲が北西。そして角状の雲も北西・・・、その時点で新潟への注意を感じるべきでした。でも、今の私にはもう一人分身がいない限り、二兎を追えません(泣)

■気象庁の発表より
6月3日03時25分頃 新潟県中越地方 M1.9 震度
6月3日03時13分頃 新潟県中越地方 M2.2 震度1
6月3日02時36分頃 新潟県中越地方 M1.6 震度1
6月3日01時40分頃 新潟県中越地方 M1.6 震度
6月2日18時33分頃 新潟県中越地方 M1.6 震度1
6月2日17時42分頃 新潟県中越地方 M2.6 震度3
6月2日16時01分頃 新潟県中越地方 M3.5 震度4
6月2日12時57分頃 新潟県中越地方 M1.8 震度1
6月2日12時51分頃 新潟県中越地方 M4.2 震度4
6月2日11時54分頃 新潟県中越地方 M1.7 震度1
6月2日11時51分頃 新潟県中越地方 M2.2 震度2
6月2日11時49分頃 新潟県中越地方 M1.7 震度1
6月2日11時36分頃 新潟県中越地方 M2.9 震度3
6月2日11時33分頃 新潟県中越地方 M4.7 震度5強

追記:
6月3日04時35分頃 新潟県中越地方 M2.0 震度1
6月3日04時22分頃 新潟県中越地方 M2.1 震度2

■6月3日09時05分頃 福島県沖 M5.9 震度3

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2011.6.2 新月に抜刷が仕上がって、印刷博物館で【空海からのおくりもの―高野山の書庫の扉をひらく―】展を観て!

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真鍋俊照先生古稀記念論集『密教美術と歴史文化』(法蔵館)に載せていただいた「北条実時と『西本願寺本万葉集』」の抜刷を、飯田橋にある印刷会社バンフー(帆風)に作っていただきました。

一昨日持ち込んで、出来上がりが今日・・・、気がついたら新月。物事をはじめるのに最適の日。なんと幸先いいのだろうと、嬉しかったのです。早速、受け取ってきました!!

そして、もう一つ嬉しかったのは、飯田橋にトッパンの印刷博物館があって、そこで【空海からのおくりもの―高野山の書庫の扉をひらく―】展が開催されていて、行くことができたこと!

これは、知っていたのですが、到底行く余裕がないとあきらめていたもの。でも、たまたま同じ飯田橋ということで可能になったのでした。

これは凄い展示でした。もう、堪能・・・

ふつうの博物館の展示と違って、印刷博物館ですから、印刷に即した展示・・・、そう、高野版と呼ばれる版木、経典などが主体。憧れの安達泰盛関連のものもありました!!

図録を買ってきたのですが、帰宅してみたら、これが凄い!! 表紙が版木をそのまま再現したように文字がレリーフになっている・・・。のちほど写真でご紹介させていただきますね。

上の写真は買ってきた絵葉書の孔雀明王像。孔雀は毒蛇を食べる強い動物です。なので、災いを取り除いて頂ける明王。見合う写真がきたら入れようと大切にとっていた写真立てに入れて玄関に飾りました。高野山の書庫の扉がひらいて、ゆたかな心持に浸りました・・・

追記:
孔雀明王像では仁和寺の宋画の仏画が大好きです。それを思い出したのは展示会場で宋版の仏典が多かったこと。宋画もそうですが、宋版の文字も堂々としてとてもシャープ。他国のもあり、日本のもありましたが、宋版の文字のあのシャープさって、何なのでしょう。線描の細さ、均一さ、爽快さ・・・。称名寺のご本尊の弥勒菩薩像も宋風なのですが、宋文化の魅力って、特殊なものがありますね。まだほとんど知りませんが、惹かれています。

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2011.6.2 ツイッターへの呟き・・・今年も孔雀の写真を撮りに行かれませんでしたので、孔雀の写真を!

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これはずっと以前に撮った孔雀。不慣れと技術不足とでポシャッていたコマですが、最近少しフォトレタッチに慣れてきましたので、加工してみました。

この孔雀、ほんとうはコンクリートの建物の屋根の上という殺伐としたところで、しかも日蔭の薄暗いところで羽根を広げているんです。なので、以前は「こんなの使えないなあ」とあきらめていました。

でも、ふと、ん?、フォトショップで加工してみようかなって気がついて、やってみました。簡単にざっとしただけですが、一応、なんとなく夢幻の孔雀っぽくはなりましたでしょ(o^-^o)

孔雀を撮りに行くには繁殖期の五月が最適。それで今年こそはと奮起していたのですが、震災の余波もあり、公私ともに忙しくて、気がつくと六月。とうとう今年も撮れなかったとの思いで以前撮った写真を引っ張り出しました!

昨日、一昨日と、ツイッターに呟いたことを転載します。

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●5月31日
odayuriko
詩人の清水昶先生が亡くなられた。twで拝見して思わず走馬灯のように思い出が駆け巡る。詩塾を運営されていて、私はそこで現代詩を学んだ。空海の「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く」を最初に教えて頂いたのも先生。詩人というより哲人という方でした。先生、安らかにお休みください。

odayuriko 
昨日『密教美術と歴史文化』に載せて頂いている「北条実時と『西本願寺本万葉集』」の抜刷をお願いしに飯田橋の印刷所を訪ねた。駅をおりると印刷博物館のポスターがあり「空海からのおくりもの」展と。余裕がなくて行かれないとあきらめていた展示。同じ飯田橋なら受取のついでに回れると嬉しかった。

odayuriko 
六月に入りました。八月の学会発表まで二ヶ月。そのまた更に二ヶ月後の十月には講演。気持ちが収斂してきました。抜刷もできるし、いろいろ集約していきます。昨日から連載中の「花の蹴鞠」の原稿にかかり、比企の乱を書きます。それが済んだら発表と講演の準備に心して全力投球していきます。

●6月1日
odayuriko 
今日は心を鬼にして(笑)PCを開かず読書に終始。比企の乱の背景を追っていた。久しぶりに歴史に浸って3月の震災以来心がこういう時間をとれないでいたことに気づく。連載の小説も番外編で震災について書いたし。原発の事情は変わっていないけれど、やっと通常の連載に戻る気になったことを実感。

odayuriko 
八月に研究発表させて頂く学会の機関誌が届きプログラムが載っていた。国文学出身でない私がこんな展開になるなんてと通常ならあり得ない。でも国文学のご専門の方が見逃されてきたことだから私がするしかないと開き直っている。支援して下さる方々は「光行様が導いて下さっているのよ!」と。

odayuriko 
鎌倉で起きた比企の乱は第二代将軍頼家を殺し実朝の将軍就任を招いた乱。それは京都が『新古今和歌集』撰集に燃えていた時期。京文化のうち頼家は蹴鞠に熱中し実朝は和歌。それらは京都との人脈と表裏一体。比企の乱の年、俊成の九十賀があり翌年亡くなる。鎌倉と京都を重ねて展望すると面白い。

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