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2012.1.26 いよいよ明後日、写真展【万葉集と源氏物語と鎌倉】の初日…、展示も終わったそうで準備が整いました!

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◆ご挨拶

 鎌倉時代、鎌倉の地に、日本の二大古典ともいうべき『万葉集』と『源氏物語』の継承に尽力を尽くした人たちがいました。
 鎌倉で成立した「河内本源氏物語」と、京都で成立した「青表紙本源氏物語」は、『源氏物語』の二大写本といわれます。何故、鎌倉で「河内本源氏物語」が成立したかというと、最初の校訂者源光行が平家に仕えた人物で、平家が滅亡したあと鎌倉に下ってきたからです。
 鎌倉時代、鎌倉の地で、『尾州家河内本源氏物語』という立派な写本が作られました。鎌倉の滅亡時に流出して、今は名古屋市にある徳川美術館併設の蓬左文庫の所蔵になっています。
 現在活字化されている『万葉集』の基になっている『西本願寺本万葉集』も鎌倉で作られました。これは鎌倉の万葉学者、仙覚校訂の『万葉集』を底本にしています。これも鎌倉の滅亡時に流出しました。
 『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』は装丁が瓜二つの双子のような写本です。共に鎌倉時代は金沢文庫に収められていました。これらのことは現在あまり知られていませんが、鎌倉時代の鎌倉にはこうした知的遺産の生まれる文化がありました。

 源氏物語千年紀の2008年に私は八王子で【写真でたどる『源氏物語』の歴史―鎌倉で「河内本源氏物語」ができるまで―】という写真展を開きました。
 今回の写真展ではそれをベースに、新たに『万葉集』とその他ゆかりのパネルを作って差し替えましたので、新旧のパネルが混じっています。
 写真はすべて取材で行って撮った記録写真です。単なるスナップ写真ですが、写真は時間と空間をそこに内包しています。なので、時系列に並べると、このような鎌倉の古典の歴史という時空が浮かびあがりました。私はこれが写真の持つ力と思います。

 なお、この写真展には収め切れませんでしたが、金沢文庫がある六浦の地は、鎌倉時代には同じ鎌倉の文化圏でした。というより、この銀の鈴社が面している六浦路は当時の幹線道路で、鎌倉の外港として宋との交易で栄える六浦は、六浦路によって鎌倉と強く結ばれていました。金沢文庫に冷泉為相が訪れた伝承の謡曲「六浦」はそうしたことに由来します。写真の一端を案内の葉書に載せましたので、一緒に繁栄した往時の空気を感じて頂けますなら幸いです。

                                      2012年1月 織田百合子

☆上二枚はDM。下の地図と交流図は28日のサロンお話会のときにお配りするレジュメです。レジュメはあと写真と、それの解説があります。今日、その二種のデータを送って、私の写真展準備はすべて終了しました。考えてみると長い長い道のりでした。ずうっと何かしらやってきて、もう何もすることがないという地点に立ったのです。『源氏物語』の鎌倉問題を離れてこれから何をしようかな、って考えています。とりあえず更新が滞っているブログやフェイスブックの作業からはじめます。

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