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2012.2.28 ツイッターの呟きを転載…『吾妻鏡』の編纂は誰かということ→私の北条顕時説について連続ツイートしました

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odayuriko 
『吾妻鏡』は徳川家康の愛読書であった。慶長十年、この本の最初の活字版が彼によって刊行されたのも、そのことと無縁ではなかろうと思う。家康はこの書を武将のための最良の教訓書として考えていたらしく、彼自身も常に座右より離さず、生涯政務の余暇の楽しみにしたと伝えられる。(『全訳吾妻鏡』)

odayuriko 
昨日komai様が「江戸の武士が鎌倉鎌倉」と思っていただろうかと呟かれてはっとしました。家康が『吾妻鏡』を信奉したことは知っていても、江戸の武士と鎌倉の武将をつなげて考えたことがなかったので。これは鎌倉武士が『源氏物語』を愛読書にしたのと同じ大切な問題と思い、後程twします。

odayuriko 
(『全訳吾妻鏡』貴志正造訳者序より続き)読み方によれば、たしかに『吾妻鏡』には今日の歴史小説のような魅力がある。武将訓という実用性のほかにも、家康をひきつけたもう一つの要素があったとすれば、あるいはそんな魅力であったかもしれない。…と、このような序で『全訳吾妻鏡1』は始まります。

odayuriko 
(『全訳吾妻鏡1』永原慶二氏解説より)「吾妻鏡」は、源三位頼政の挙兵のことを記した治承四年四月九日に筆を起し、前将軍宗尊親王の帰京を述べた文永三年七月二十日の記事で終っている。幕府草創の過程から、鎌倉中期に至る八十年余りの間の、鎌倉幕府にかかわる事歴を編年体に記した史書である。

odayuriko
『吾妻鏡』写本の件…。徳川家康が手にしたのは金沢文庫本を書写したものとみられるとか。種々あるもので重要なのは52巻(うち1巻欠)の北条本・島津本と47巻の吉川本。家康のは北条本で、金沢文庫本→後北条氏→?→家康の流れらしい。金沢文庫本というのが気になっています。

odayuriko 
『吾妻鏡』の成立には以前から興味を持っています。私的には金沢北条氏第二代当主顕時の編纂かなあって気がしているのですが、一段落したら拝読しようと思っていた奥富敬之先生の『吾妻鏡の謎』には第三代当主貞顕かと。初代当主実時とか安達泰盛とか他の文官説は聞いてたけれど貞顕説ははじめてかも。

odayuriko 
まさに私の勘でしかないが、北条氏の一門であり、官職名を唐名で表示するようなペダンチックな特性から、この任にあたったのは金沢流北条貞顕ではないだろうか。(奥富敬之『吾妻鏡の謎』より)…このペダンチックな特性というところに、う~ん、そうかも、って気がしてしまいました(笑)

odayuriko 
滅多にない機会なので私の顕時編纂説について書かせていただきます。まず石井進先生の「霜月騒動おぼえがき」から。「ごくかいつまんで述べれば、それはこの事件の敗者となった泰盛派の人々のえがき出した鎌倉幕府史こそが、実は現在のわれわれの前にある史書『吾妻鏡』そのものではないか、と考える」

odayuriko 
次に五味文彦先生の『吾妻鏡の方法』から、編纂時期は「乾元元年以後、嘉元二年以前」。…これはおどろいたことにわずか三年でしかありません。この乾元元年の前年に顕時は亡くなっています。ということは、顕時の死後わずか三年のあいだに『吾妻鏡』は成立したことになります。

odayuriko 
私は宗尊親王の帰洛で終わる『吾妻鏡』は、少年時親王に仕えた顕時が親王を追慕する意味もあって歴史書の編纂を思い立ったのではと思っています。細かい実証は抜きにしますが、顕時は泰盛の娘婿でまさに泰盛派です。史料の一つとされる『明月記』を所持していた冷泉為相もまさに当時鎌倉在住でした。

odayuriko
関係は、深い禅宗の帰依者だった顕時は高峰顕日と親交があったはずで、高峰顕日は為相と親しかった。高峰顕日が一時期住した浄妙寺は、顕時の娘が嫁いだ足利貞氏が中興の開基。あるいは浄妙寺において三人が会っていたことも?。浄妙寺は最近連ツイしている六浦路にある寺院。顕時の往還が偲ばれます。

odayuriko 
顕時死去の翌年から『吾妻鏡』の編纂がはじまってわずか三年で完成しているのは、顕時がすでに史料を蒐集していたからでしょう。そして子息の貞顕がそれを受けて完成させた…。(奥富先生説に符合…)。宗尊親王の帰洛で終わっているのは顕時の最初からの意図だったと思います。

odayuriko 
長くなりますのでこれで最後にしますが、父実時が宗尊親王の小侍所別当だった関係で少年顕時も御所に出仕し、親王と親しまれたそうです。その育ちが顕時を鎌倉武士にはないゆたかな資質の文人政治家としました。『源氏物語』のみならず『吾妻鏡』までも宗尊親王なくして語れないことがふしぎです。

odayuriko 
最後といいながら朝令暮改ですみません。顕時と宗尊親王というとどうしても飛鳥井雅有をださなくてはと。『嵯峨の通ひ路』の作者です。雅有はすでに実時娘と結婚して親王に近侍していますから、顕時には義理の兄。三人が御所で共に時間を過ごすこともあったでしょう。顕時の風雅の原点と思います。

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写真は昨日の夕焼け。出先だったので絵になるような綺麗な構図に撮れました。今度から夕焼けになったらここに来て撮ろう!と・・・

鎌倉の『源氏物語』が一段落して時間にゆとりが出たらなんとなくかつての『吾妻鏡』の問題とか遺跡発掘調査で知った貿易陶磁のこととか、そんなことが甦って楽しんでいます。みんなツイッターのふとしたご投稿に触発されて…です。ツイッターはふしぎな装置です。

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2012.2.24 ツイッターの呟きを転載…『源氏物語』の桜について~王朝継ぎ紙のこと

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2月12日
odayuriko 
『源氏物語』のなかの桜、『源氏物語図典』では紫の上関連で「御法」と「幻」。南殿の桜の宴の「花宴」。柏木が女三宮を垣間見した蹴鞠の折の「若菜上」が紹介されていて、家にあるのは岩波の赤い全集本なので小学館の白い全集本を借りに図書館に。でも「花宴」が借りられていて、赤い本でコピー?と。

2月14日
odayuriko 
物きよげなるうちとけ姿に、花の雪のやうに降りかかれば、うち見上げて、しほれたる枝すこしをしおりて、御階の中のしなの程にゐ給ぬ。督の君つづきて、「花乱りがはしく散るめりや。桜は避きてこそ」などの給つつ… (『源氏物語』若菜上より)

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『源氏物語』のなかの桜。Facebookページに下のtwに写真をつけました。『源氏物語』の時代、桜は山桜のみだったとか…http://www.facebook.com/pages/%E7%B9%94%E7%94%B0%E7%99%BE%E5%90%88%E5%AD%90/188841407807114?sk=notes#!/note.php?note_id=358314880859765

odayuriko
twitterのデザインが突然変わりました。直前に調子が悪かったのは変更途中だったからでしょうか。深夜『源氏物語』から桜が描写されている場面として六条院の夕霧と柏木の蹴鞠を引用しました。鎌倉の源氏物語に没頭して本文から遠ざかっていましたので、こういうことがとても懐かしい…

odayuriko 
たまたま桜を研究される方から『源氏物語』の桜についてお訊ねがあり本文をあたっていました。そうか、これからはひとつひとつ丁寧にこなしていこうと決意しました。こういうことを書こうとしたらそれに合わせたようにtwitterの仕様が変わるなんて、幸先いいかもですね…

odayuriko 
まだ浅読みの段階ですが、『源氏物語』のなかに桜の描写は殆どなくて意外。『源氏物語図典』から御法・幻・花宴とあるのを見て本文をあたっているのですが、語られているだけで描写ではない。紅葉賀の紅葉のようにはらはらと散る桜の描写があるものと思っていたのですが…

odayuriko 織田百合子
私のなかでは『源氏物語』というと華やかな桜が象徴でした。でももしかしてそれは桜の襲など装束の華やかさからくるイメージだったのかもしれませんね。当時の桜は山桜とか。山桜は染井吉野のような花吹雪にならないのでしょうか。梅の方が多く実感をもって書かれているのも多分そんなところに一因が。

odayuriko 
調べ物が一段落しましたので、少し本文にあたっていこうと考えていた矢先にこんな桜の描写に関する疑問が。思い込んでいたこととの違いが浮かび出るかも…

2月15日
odayuriko 
昨日、ある方が鎌倉で、先日の私のお話会のレジュメ【写真でたどる鎌倉の古典散歩】を土台にミニ卓話をしてくださったら、皆様身を乗り出すように聴いて下さったそう。その方は「少しずつでもこれから伝道していきます」と。私も友人の手紙に「伝道師として頑張ります」と書いたばかり。偶然が嬉しい。

odayuriko 
ちなみに【写真でたどる鎌倉の古典散歩】は、『源氏物語』と『嵯峨の通路』の称名寺・『万葉集』と妙本寺・『とはずがたり』と若宮大路・『十六夜日記』と月影ケ谷・『徒然草』と六浦・冷泉為相と浄光明寺・高峰顕日と浄智寺・夢窓疏石と横須賀、です。ブログに写真を載せています。

odayuriko 
@mcshinok その後本文をあたっていたら藤の花の匂いについて触れてありました。梅も馥郁とした匂いが愛でられていますし、桜の描写の少なさは匂いの無さと関係するのでしょうか。まだ浅読みの段階ですが…。意外と王朝人の感性は肉感的なのかも。なのに不思議と桜が君臨して感じられます。

2月16日
odayuriko 
王朝継ぎ紙は手順は似ていても紙と糊と染料の世界なのでほんと!ステンドグラスとは対極のまさに平安時代です。完成楽しみにさせていただきますね 

odayuriko 織田百合子
憧れの王朝継ぎ紙(http://homepage2.nifty.com/tsugigami2/menu021.html)。伊勢集などの技法を近藤富枝先生が復元されて教えてらっしゃいます。これは鎌倉の源氏物語に専念する前にちょっとだけ入会して作ったときの最初の作品。左側が完成した葉書。 http://pic.twitter.com/x2ohGFSO

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やはりそれほど大変なのですね。私は今は無理だけれどいつか老後の楽しみに紙を染めてすごすというのを目標に(笑)。薄様の和紙を好きな色に染めてそれでお便り書きたいな、とか。老後に恋文は必要ないでしょうけれど…

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2012.2.24 頼朝の墓が壊される事件がありました。写真展を開いた銀の鈴社のすぐ近くですので撮りに行きました。墓は守られて穏やかでした。

●↓ 源頼朝の墓は、写真展「万葉集と源氏物語の鎌倉」を開いている銀の鈴ギャラリーから歩いてすぐのところにあります。写真展最終日の2月21日、時間があったので訪ねてみました。

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●↓ 頼朝の墓です。以前は石柵の中に入れたと思うのですが、先日破損される事件があって禁止の札とともに厳重な警戒が成されていました。でも、そういうこととは無関係に墓はのどかな日を浴びて穏やかでした。

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●↓ 頼朝の墓から見下ろした白旗神社・大倉幕府跡一帯の光景。

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●↓ 白旗神社境内。大倉幕府跡の北の隅にあたり、かつてここに頼朝の持仏堂があった。頼朝亡きあと、法華堂となった。

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●↓ 左が白旗神社。階段をあがると頼朝の墓があります。

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●↓ 白旗神社を背に道をはさんで建つ清泉小学校裏手を撮りました。清泉小学校は大倉幕府跡です。つまり、頼朝の持仏堂から幕府の中枢を眺める視点のつもり。

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●↓ 清泉小学校の道沿いに咲く水仙。

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●↓ 水仙に絡んで延びる木は三椏。そういえばずっと以前来たとき、このあたりで白蛇が木にのぼっていくのを見ました。

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2012.2.23 お陰さまで写真展【万葉集と源氏物語の鎌倉】は無事に終了しました!そして神奈川テレビ「にほんごであいらぶゆー」の収録…など

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写真展【万葉集と源氏物語の鎌倉】は21日、無事に最終日を迎えました。多くの成果のあがった写真展でした。『源氏物語と鎌倉』という活字の世界では難しすぎてわからないといった声があがっていたのですが、写真展は楽しんでいただけたし、これから興味を持ちますといったお声もいただきました。

初日に開いたお話会「写真でたどる鎌倉の古典散歩」、そして中盤には鎌倉ケーブルテレビでのご紹介、それから、銀の鈴社社長の西野真由美様による鎌倉ロータリークラブでのご紹介等々、とても貴重な流布の流れでした。

そして、昨日、神奈川テレビが番組収録にいらしてまた西野様がお話されたそう。「にほんごであいらぶゆー」という水曜の朝の短い番組で、3月の4週分の収録でした。その3回目の分だそうです。

ツイッターからも駆けつけていただきました。

万葉集の仙覚碑がある妙本寺の貫主さまもいらして下さって、「お寺の前に鎌倉の万葉集ゆかりの寺」というような立札の設置をお願いしたのですが、「任せて下さい」と頼もしいお答え。これだけでも写真展をした甲斐があったと思います。そこから発して今度は称名寺に「鎌倉の源氏物語ゆかりの寺」の立札設置をお願いしたく考えています。

写真は最終日、雲が出ていましたので由比ヶ浜まで足を延ばして撮ってきました。写真展の記憶と共に心に残る光景でした。

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2012.2.12 写真展【万葉集と源氏物語の鎌倉】@鎌倉銀の鈴ギャラリーがもう中盤…残りの日を数える頃に来ました

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鎌倉銀の鈴ギャラリーで開催中の写真展【万葉集と源氏物語の鎌倉】の会期ももう中盤にさしかかりました。

先週の日曜日夕刻は、立ち話も邪魔になるような感じに皆様がいらして下さって「嬉しい一日でした」と銀の鈴ギャラリーさまからメールをいただきました。

日曜日も残すところ今日と来週の二回。鎌倉散策の合間に足を延ばしてご覧いただけると嬉しいです!

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2月12日 ツイッターの日々の呟きを転載…Facebookページを【万葉集と源氏物語の鎌倉】の発信基地とするために試案していることと、鎌倉ケーブルテレビの収録など

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2月5日
odayuriko 
おはようございます。昨夜facebook頁の更新をはじめました。『源氏物語と鎌倉』をご紹介するために。といっても広告のためではなく、鎌倉で如何にして「河内本源氏物語」が成立し、『尾州家河内本源氏物語』になったかの歴史をわかりやすく見ていただく頁にするために。動画も駆使しようかと。

2月7日
odayuriko 
8:10に多摩東部でM4の地震があったよう。ほんの近場だけれどまだ寝ていて気がつきませんでした(未明まで起きてまして…と言い訳)。震源は違うけれど先日も多摩東部であったばかり。珍しいのに連続って嫌な感じ。話は変わりますが、明日は満月なんですね。今日が月齢14:80で十六夜とか…。

2月9日
odayuriko 
Facebookページを「万葉集と源氏物語の鎌倉」の発信基地とするべくデザイン構成を思案・試行錯誤中です。偶然で驚いたのですが、下のRT「源氏と平家ウォーク」のような、ゆくゆく鎌倉で「鎌倉の古典ウォーク」を呼び掛けるようなことができたらいいな、と思っています。記念日の制定へとか…

2月10日
odayuriko 
おはようございます。今日はケーブルテレビの収録です。「光行さんたちのために」頑張ってきます。

2月11日
odayuriko 
鎌倉ケーブルテレビの収録、楽しく済ませてきました。制作現場も興味津津。チームワークが素敵でした。打ち合わせで『源氏物語と鎌倉』は初めての方に説明すればするほど難解になるのがわかり、とても収録の7分では無理と決断。写真展のご案内に絞りました。昨日から二週間、鎌倉と逗子で放映だそう。

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きのうスタジオに数時間いました。近衛天皇の元服シーンを撮ってました。儀礼考証の佐多先生が大活躍。ぼくは見学(笑)。天皇の元服シーンの再現なんて、今までぜったい、大河はもちろん、他の番組でもやらなかったはず。王家とかで文句言う人には、こういうシーンを評価して貰いたいんだけどなあ。
@odayuriko がリツイートしました。

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図書館にこもって風巻景次郎の全集を読んでる。「日本文学」5月号特集に風巻論を寄稿する予定なので。文壇人も一般人も、日本の古典に関心をもつようになったのは関東大震災後だと風巻は明言してる。やっぱりね、という感じだが、同時代の証言として貴重。
@odayuriko がリツイートしました。

@5656rock こてんコテン
楽しみですね。 RT
@odayuriko Facebookページを「万葉集と源氏物語の鎌倉」の発信基地とするべくデザイン構成を思案・試行錯誤中です。偶然で驚いたのですが、下のRT「源氏と平家ウォーク」のような、ゆくゆく鎌倉で「鎌倉の古典ウォーク」を呼び掛けるようなことが・・・

odayuriko 
@5656rock ありがとうございます。『源氏物語』と『万葉集』は日本文化の基底を成す古典なので将来的には鎌倉の、でなく全国区的視野を目指します!(と、豪語して…笑)

odayuriko 
昨日、鎌倉ケーブルテレビで『源氏物語と鎌倉』を紹介させていただきました。楽しく収録が進んだのは打ち合わせで如何に『源氏物語』が難しくて私の本も難しくてそれをどう紹介するかに四苦八苦した経緯そのものが楽しかったからです、という変な状況…

odayuriko 
鎌倉ケーブルテレビの放映は昨日夕方にはもうはじまって、二週間、鎌倉と逗子で、一日に3回ほど繰り返しされるそうです。ゲストとして質問を受けたのは7分。あと、バレンタイン特集でケーキを頂くところも。ちょっとお得な出演でした(笑)。江ノ電を模したチョコが乗ったタルトで、可愛かったです!

odayuriko 
桜の研究をしていられる方から『源氏物語』ではどのような桜の描写があるのでしょうとお訊ねをいただきました。私も詳しくは知らないのでちょうどいい機会だから明日図書館に行ってみます。梅は好きで学生時代に抜き書きして楽しんだ覚えがあるのだけれど…(授業時間中にこっそり…)

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2012.2.7 動画を投稿してみました。井の頭公園の池のキンクロハジロ…

http://youtu.be/2rJBy4GwFTw

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2012.2.4 立春の朝、井の頭公園の池には薄氷がはっていました。

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立春の言葉をきくと浮き立ちます。空も青く晴れ渡ってましたのでもう一年ぶりくらいの気持ちでカメラをもって公園に行きました。

震災に放射能、学会発表に講演、息つく暇なく出版にそして写真展にお話会…と、この一年のなんと凄まじかったこと! ようやくすべてこなして撮りにでる気持ちのゆとりができたことを実感した朝でした。

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【写真でたどる文学散歩 万葉集と源氏物語の鎌倉】(1) 六浦路

鎌倉の銀の鈴ギャラリーで開催中の写真展【万葉集と源氏物語の鎌倉】の初日、1月28日にこれにちなんだお話会をしました。万葉集と源氏物語については『源氏物語と鎌倉』に詳細に述べていますので、少し趣向を変えて、鎌倉時代には幹線道路だった六浦路を基軸にした文学散歩に仕立ててみました。以下、当日のレジュメです。(1)~(9)まであります。

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↑ 六浦路(鶴岡八幡宮側)

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↑ 六浦路(金沢八景側)

 六浦は、鎌倉に隣接した江戸湾の良港で、鎌倉の東の玄関口として、人・物・情報が行き交う大変な賑わいを見せました。三代執権北条泰時は、六浦港を重要視して、弟の実泰を六浦荘の地頭に補任し、仁治二年(1241)には朝比奈切通しを開いて、六浦道を幹線道路として整備しました。北条実時が館を金沢の地に移し、菩提寺である称名寺を建立したのもこの頃のこととされます。

 さらに、実時の孫の貞顕は、嘉元三年(1305)、海に架かる橋としては日本最古と言われる瀬戸橋を造営しました。これにより、鎌倉と金沢は直結し、六浦は海陸交通の交差する要衝としての地位を高め、海に開かれた商業地として、一層繁栄することになりました。(金沢文庫パンフレットより)

《参考》金沢北条氏

    実泰―実時(初代当主)―顕時(二代当主)―貞顕(三代当主)

   貞顕は六波羅探題として京の生活が長く、京の公家や文化人らと交流。書籍の蒐集に励み、そのひとつに『たまきはる』がある。作庭の美学を身につけて鎌倉に戻り、称名寺の庭園整備に着手した。

◆『増鏡』「さしぐし」より後深草院崩御の項より

 法皇もその御嘆きの後、をさをさ物聞しめさずなどありしをはじめにて、うち続き心よからず、御わらはやみなど聞ゆる程に、七月十六日二条富小路殿にてかくれさせ給ひぬ。六十二にぞならせ給ひける。(中略)今を限りととぢめ果つる世の有様、いと悲し。宵過ぐる程に六波羅の貞顕、のり時二人、御とぶらひに参れり。京極表の門の前に、庄子に尻かけてさぶらふ。従ふ者ども、左右に並みゐたるさま、いとよそほしげなり。

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【写真でたどる文学散歩 万葉集と源氏物語の鎌倉】(2) 妙本寺と『万葉集』

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↑ 妙本寺門前に建つ比企能員邸址碑。

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↑ 妙本寺境内にある仙覚碑。左脇の階段をあがった平場にかつて新釈迦堂があった。

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↑ 新釈迦堂跡。中央に竹御所の墓がある。竹御所は第二代将軍頼家の娘で、母は比企能員娘の若狭局。第四代将軍頼経の正室。ここで『万葉集』を校訂した仙覚も比企氏のゆかりで、二人は同じ比企の乱の年の生まれ。

寛元四年(1246)、仙覚は第四代将軍頼経に命じられて『万葉集』の校訂をした。その場所が妙本寺境内にあった新釈迦堂僧坊で、寛元四年校訂の『万葉集』奥書に「寛元四年十二月廿二日於相州鎌倉比企谷新釈迦堂僧坊以治定本書写畢」とある。これが仙覚の『万葉集』研究者としての第一歩となった。

仙覚校訂の「文永三年(1266)本万葉集」が『西本願寺本万葉集』の底本で、この『西本願寺本万葉集』が、現在出版されているすべての『万葉集』。

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【写真でたどる文学散歩 万葉集と源氏物語の鎌倉】(3) 称名寺と『源氏物語』・『嵯峨の通ひ路』

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↑ 称名寺境内の北条実時の邸宅があった場所から眺めた苑池の光景。

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↑ 池の対岸から眺めた実時邸があった場所。寝殿造りだったようです。 称名寺と、隧道を隔てて隣接する金沢文庫は北条実時の創建。「河内本源氏物語」の写本でもっとも由緒正しいとされる『尾州家河内本源氏物語』の最後の帖「夢浮橋」巻末には、実時の「正嘉二年五月六日以河州李部親行之本終一部書写之功畢 越州刺史平(花押)」の奥書がある。

 実時は小侍所別当として第六代宗尊親王に仕えていた。『尾州家河内本源氏物語』と『西本願寺本万葉集』は宗尊親王の制作で、親王の更迭後は金沢文庫に収められていた。鎌倉の滅亡とともに流出し、所有者が、『尾州家河内本源氏物語』は足利将軍家(室町幕府)→豊臣秀次(聚楽第)→徳川家康(名古屋市蓬左文庫)、『西本願寺本万葉集』は足利将軍家→皇室→西本願寺→お茶の水図書館、という変遷をたどる。親王の制作にふさわしい立派な写本は、時の権力者を引きつけて止まなかった。

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↑ 称名寺境内は優雅な浄土式庭園。かつて冷泉為相が訊ねたという伝承の謡曲「六浦」の舞台。  作者の飛鳥井雅有は藤原定家と親しかった新古今歌人飛鳥井雅経の孫。雅経亡き後、父二条教定が鎌倉に下ったために鎌倉で育った。鎌倉には源親行がいたり、教定自身、宗尊親王の命で『源氏物語』の色紙絵屏風を制作するなど、雅有は幼少時から『源氏物語』に親しむ環境にあった。北条実時の娘婿となったことから、雅有もまた若い妻の案内で称名寺を訪れたことだろう。

 『嵯峨の通ひ路』は、文永六年(1269)九月に、雅有が嵯峨に住む晩年近い為家のもとにほぼ連日通って『源氏物語』の講義を受けた記録。この時、雅有は子息を伴っているので、実時の娘も一緒に上洛し、講義の合間を縫って為家や阿仏尼とも親交があったのではないか。雅有は晩年仕えた伏見仙洞で「源氏のひじり」と呼ばれた。

◆『嵯峨の通ひ路』より

 十七日、昼ほどに渡る。『源氏』はじめんとて、講師にとて女あるじ(阿仏尼)を呼ばる。簾のうちにて読まる。まことにおもしろし。世の常の人の読むには似ず、習ひあべかめり。「若紫」まで読まる。夜にかかりて、酒飲む。あるじ方より、女二人を、かはらけ取らす。女あるじ、簾のもとに呼び寄せて、このあるじ(為家)は、『千載集』の撰者(俊成)の孫、『新古今』・『新勅撰』の撰者(定家)の子、『続後撰』・『続古今』の撰者なり。客人(雅有)は、同『新古今』撰者の孫、『続古今』の作者なり。昔よりの歌人、互みに小倉山の名高き住処に宿して、かやうの物語の優しきことども言ひて、心を遣る様ありがたし。このごろの世の人さはあらじなど、昔の人の心地こそすれなど、様々に色を添へて言はる。男あるじ(為家)、情ある人の、年老いぬれば、いとど酔ひさへ添ひて涙落とす。暁になれば散(あか)れぬ。

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【写真でたどる文学散歩 万葉集と源氏物語の鎌倉】(4) 六浦と『徒然草』

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↑ 金沢八景駅から歩いて数分のところの高台にあった上行寺東遺跡。中世の巨大な墓地遺跡だが現在ここにはマンションが建っていて、写真に写っている遺跡は一部復元されて残されたレプリカ。この奥、右手前方に吉田兼好が庵を庵で住んでいた。

『徒然草』には鎌倉に関する記述があり、兼好が下向したことがわかる。その時に住んだ庵跡が六浦にある。金沢八景駅から少し行ったところの上行寺東遺蹟に近い山中で、そこからは六浦路や遠方に朝比奈切通しが見える。兼好は金沢文庫にしばしば通い蔵書に親しんだらしく、金沢北条氏第三代当主貞顕と親交があった。

◆『徒然草』第三十四段

 甲香は、ほら貝のやうなるが、小さくて、口のほどの細長にさし出でたる貝の蓋なり。武蔵国金沢といふ浦(六浦湾)にありしを、所の者は、「へなだりと申し侍る」とぞ言ひし。

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【写真でたどる文学散歩 万葉集と源氏物語の鎌倉】(5) 若宮大路と『とはずがたり』

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↑ 若宮大路。雪ノ下教会の建つ一帯に宗尊親王の御所があった。寝殿造りで池や鞠庭もある京都さながらの光景がここにあった。

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↑ 雪ノ下教会の裏手にある妙隆寺。

『とはずがたり』の作者二条は、後深草天皇の寵愛を受けた女性。奔放な恋愛遍歴の果て、後深草院妃東二条院の嫉妬を受けて宮中を追い出されます。その後出家し、女西行をめざして各地を行脚。鎌倉に下向したときに、たまたまかつて自分を愛欲の淵に沈めた後深草院の皇子、久明親王の第八代将軍としての下向に立ち会うことになりました。

◆『とはずがたり』より

小町殿よりとてふみあり。なに事かとて見るに、「思ひかけぬことなれども、平入道が御ぜん、御かたといふがもとへ、東二条院より五ぎぬをくだしつかはされたるが、調ぜられたるままにて、ぬひなどもせられぬを、申しあはせんとて、さりがたく申すに、出家のならひくるしからじ、そのうへたれともしるまじ、ただ京の人と申したりしばかりなるに」とて、あながちに申されしもむつかしくて、たびたび、かなふまじきよしを申ししかども、はては相模守のふみなどいふ物さへとりそへて、なにかといはれしうへ、これにては、なにとも見沙汰する心ちにてあるに、やすかりぬべきことゆゑ、なにかといはれんもむつかしくて、まかりぬ。(中略)御かたとかや出でたり。地は薄青に、むらさきの濃きうすき糸にて、もみぢを、大きなる木におりうかしたる唐織物の二ぎぬに、白き裳を着たり。みめことがら、ほこりかに、たけたかくおほきなり。かくいみじとみゆるほどに、入道、あなたより、はしりきて、そでみじかなるしろきひたたれすがたにて、なれがほに添ひゐたりしぞ、やつるる心ちし侍りし。

すでに将軍御着きの日になりぬれば、若宮小路は、所もなくたちかさなりたり。御せきむかへの人々、はや先陣はすすみたりとて、二三十、四五十騎、ゆゆしげにてすぐるほどに、はやこれへとて、召次などていなるすがたにひたたれきたる者、小舎人とぞいふなる 二十人ばかりはしりたり。
 そののち大名ども、思ひ思ひのひたたれに、うちむれうちむれ、五六丁にもつづきぬとおぼえて過ぎぬるのち、をみなえしの浮織物の御下ぎぬにやめして、御輿の御すだれあげられたり。(中略)御馬ひかれなどする儀式めでたく見ゆ。三日にあたる日は、山の内といふ相模殿の山荘へ御入りなどとて、めでたくきこゆることどもを見きくにも、雲井のむかしの御ことも思ひいでられて、あはれなり。
                 

《参考》奥富敬之『鎌倉北条氏の興亡』より宗尊親王御所があった範囲

西は若宮大路に接し、南は宇都宮辻子、東は寺院(妙隆寺)の山門のあたりが境界で、北は清川病院

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【写真でたどる文学散歩 万葉集と源氏物語の鎌倉】(6) 月影ケ谷と『十六夜日記』

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↑ 阿仏尼邸跡碑。

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↑ 碑は江ノ電線路沿いの踏み切りに建っていて、白い看板の左に小さく写っています。背景右奥が月影ケ谷。

 作者の阿仏尼は為家の後妻で、晩年になって生まれた子息為相を心配した為家が、一度先妻との子為氏に与えた播磨国細川庄を、為相に譲るよう約束させた。が、為家亡きあと為氏がそれを守らなかったために訴訟問題となり、そのために阿仏尼は鎌倉に下った。その道中の紀行文が『十六夜日記』。

 阿仏尼が住んだのは極楽寺に近い月影ケ谷で、文中「山寺」とあるのは月影ケ谷にあった極楽寺の子院と思われる。当時極楽寺には忍性がいて、阿仏尼が出家した法華寺と同じ真言律宗寺院だった縁で伝を頼ったかといわれる。

◆『十六夜日記』より

東(あずま)にて住む所は、月影の谷とぞいふなる。浦近き山もとにて、風いと荒し。山寺の傍なれば、のどかにすごくて、浪の音松風絶えず。

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【写真でたどる文学散歩 万葉集と源氏物語の鎌倉】(7) 浄光明寺と『藤谷和歌集』 

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↑ 浄光明寺門前の冷泉為相卿旧蹟碑。

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↑ 境内裏山に為相の墓がある。そこは横須賀線の線路沿いに建つ母阿仏尼の供養塔と向き合う位置。

『藤谷和歌集』は、冷泉為相の私歌集。阿仏尼亡きあと鎌倉に下向し、現在浄光明寺がある藤ケ谷に住んだ。訴訟は阿仏尼生前には片付かず、為相の代になって勝訴した。

 京・鎌倉を往還したが、晩年は鎌倉に住み、鎌倉歌壇に力を尽くしたり、『吾妻鏡』の資料として『明月記』を貸したりしている。浄智寺にいた高峰顕日と親しく、その縁で弟子の夢窓疏石とも親交をもった。

◆『藤谷和歌集』より

正和五年九月、仏国禅師(高峰顕日)かまくらより下野のなすへ下り侍りける時、春はかならずくだりて山の花を見るべきとちぎりけるに、十月入滅し侍りければ、仏応禅師のもとにつかはしける

咲く花の春を契りしはかなさよ風の木の葉のとどまらぬ世に

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【写真でたどる文学散歩 万葉集と源氏物語の鎌倉】(8) 浄智寺と『仏国禅師集』

『仏国禅師集』は、御嵯峨天皇皇子の禅僧高峰顕日の私歌集。建長寺長老にもなりながら、高潔な人柄で、権力と密着する鎌倉よりも、冬には足指が凍傷するなど自然の厳しい那須雲厳寺を好んだ。

 嘉元三年(1305)、浄智寺にいた高峰顕日のもとを夢窓疎石が訪れ、このとき印可を受けた。

◆中村文峰『夢窓国師の風光』より

十月に臼庭(北茨城)を出て、鎌倉に帰り、浄智寺に仏国国師を訪ねた。仏国国師は師を見て訊いた。

仏国「古人は『山に入ること深からざれば、見地脱せず』と言っているが、おまえを観るところ、すでに深い。どうしてそういう境地になったのか」

夢窓「本より見地なし。どこに脱、不脱があろうか」

仏国「それではおまえ、どこを行履しておったか」

夢窓「頭を挙ぐれば残照あり。もとより住居の西」

仏国国師はさらに訊いた。

仏国「天地未だ分かれざるとき、残照は何処にかある」

師は呵々大笑した。

仏国「笑いの裏に刃あり。これ殺人か活人か」

夢窓「わが王庫のうちに是の如き刀はなし」

仏国「恁麼ならば賊は空域に入らん」

恁麼(いんも)…多く「の」を伴って連体詞的に用いて)疑問を表す。どのよう。いかよう。

夢窓「来年更に新しき条あり。春風に悩乱して卒に未だ止まず」

仏国「春風未だ到らず」

夢窓「花の開くは春風の力を仮りず」

 仏国国師はこれに深くうなずいた。師は逆に仏国国師に訊いた。

夢窓「適来の許多の問答は即今何処にか帰す」

 すると仏国国師は身を起こし問訊した。師もそこで退室した。

 次の日、師はまた仏国国師のところに行った。仏国国師が「昨日老僧(私)が起立問訊したときなぜ押し倒さなかったのか」と言ったので、師が「和尚はみずから倒れたではありませんか」と答えると、仏国国師は呵々大笑した。

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【写真でたどる文学散歩 万葉集と源氏物語の鎌倉】(9) 米海軍横須賀基地と『正覚国師集』

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↑ 横須賀。米海軍横須賀基地がある海。この中に夢窓疏石の泊船庵があった。

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↑ 称名寺境内。池のほとりに立つ謡曲「六浦」の説明板。

『正覚国師集』は夢窓疏石の私歌集。高峰顕日亡きあとも為相と親交をもっていた。鎌倉では横須賀に泊船庵を庵んで住んだ。そこは現在米海軍横須賀基地の中になっていて入ることはできない。夢窓疏石は鎌倉の権力者との交流を嫌い、厳しく一切の面会を断っていたが、為相とは会ってそのときの贈答歌を歌集に残す。

◆『正覚国師集』より

相州三浦のよこすかと云ふ所に、いり海にのぞみて、泊船庵とてすみ給ひけるころ、中納言為相卿訪来られたりけるを、舟にておくりいだし給ひけるとき、よみたまひける
 
かりにすむいほりたづねてとふひとをあるじがほにて又おくりぬる  為相卿

とほからぬ今日の舟ぢのわかれにもうかびやすきはなみだなりけり

このときに為相の舟が向かったのが六浦湾で、為相は上陸したあと、貞顕を訪ねて称名寺へまわったのではないだろうか。というのも、この頃六波羅探題としての在京生活を終えて貞顕が帰ってきており、称名寺の庭園整備に着手し、それが完成した時期だからである。池の周囲に景石をめぐらし、水鳥を放つなど、称名寺は雅な浄土式庭園に整えられていた。そうした貞顕が為相を招いただろうことは自然に考えられる。それが為相が称名寺を訪れた伝承の謡曲「六浦」になったのではないか。

為相の六浦からの帰途は、朝比奈切通しを通る六浦路であっただろう。そこから鶴岡八幡宮の前を通って為相の邸宅がある藤ケ谷までほぼ一直線である。

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