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2012.2.28 ツイッターの呟きを転載…『吾妻鏡』の編纂は誰かということ→私の北条顕時説について連続ツイートしました

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odayuriko 
『吾妻鏡』は徳川家康の愛読書であった。慶長十年、この本の最初の活字版が彼によって刊行されたのも、そのことと無縁ではなかろうと思う。家康はこの書を武将のための最良の教訓書として考えていたらしく、彼自身も常に座右より離さず、生涯政務の余暇の楽しみにしたと伝えられる。(『全訳吾妻鏡』)

odayuriko 
昨日komai様が「江戸の武士が鎌倉鎌倉」と思っていただろうかと呟かれてはっとしました。家康が『吾妻鏡』を信奉したことは知っていても、江戸の武士と鎌倉の武将をつなげて考えたことがなかったので。これは鎌倉武士が『源氏物語』を愛読書にしたのと同じ大切な問題と思い、後程twします。

odayuriko 
(『全訳吾妻鏡』貴志正造訳者序より続き)読み方によれば、たしかに『吾妻鏡』には今日の歴史小説のような魅力がある。武将訓という実用性のほかにも、家康をひきつけたもう一つの要素があったとすれば、あるいはそんな魅力であったかもしれない。…と、このような序で『全訳吾妻鏡1』は始まります。

odayuriko 
(『全訳吾妻鏡1』永原慶二氏解説より)「吾妻鏡」は、源三位頼政の挙兵のことを記した治承四年四月九日に筆を起し、前将軍宗尊親王の帰京を述べた文永三年七月二十日の記事で終っている。幕府草創の過程から、鎌倉中期に至る八十年余りの間の、鎌倉幕府にかかわる事歴を編年体に記した史書である。

odayuriko
『吾妻鏡』写本の件…。徳川家康が手にしたのは金沢文庫本を書写したものとみられるとか。種々あるもので重要なのは52巻(うち1巻欠)の北条本・島津本と47巻の吉川本。家康のは北条本で、金沢文庫本→後北条氏→?→家康の流れらしい。金沢文庫本というのが気になっています。

odayuriko 
『吾妻鏡』の成立には以前から興味を持っています。私的には金沢北条氏第二代当主顕時の編纂かなあって気がしているのですが、一段落したら拝読しようと思っていた奥富敬之先生の『吾妻鏡の謎』には第三代当主貞顕かと。初代当主実時とか安達泰盛とか他の文官説は聞いてたけれど貞顕説ははじめてかも。

odayuriko 
まさに私の勘でしかないが、北条氏の一門であり、官職名を唐名で表示するようなペダンチックな特性から、この任にあたったのは金沢流北条貞顕ではないだろうか。(奥富敬之『吾妻鏡の謎』より)…このペダンチックな特性というところに、う~ん、そうかも、って気がしてしまいました(笑)

odayuriko 
滅多にない機会なので私の顕時編纂説について書かせていただきます。まず石井進先生の「霜月騒動おぼえがき」から。「ごくかいつまんで述べれば、それはこの事件の敗者となった泰盛派の人々のえがき出した鎌倉幕府史こそが、実は現在のわれわれの前にある史書『吾妻鏡』そのものではないか、と考える」

odayuriko 
次に五味文彦先生の『吾妻鏡の方法』から、編纂時期は「乾元元年以後、嘉元二年以前」。…これはおどろいたことにわずか三年でしかありません。この乾元元年の前年に顕時は亡くなっています。ということは、顕時の死後わずか三年のあいだに『吾妻鏡』は成立したことになります。

odayuriko 
私は宗尊親王の帰洛で終わる『吾妻鏡』は、少年時親王に仕えた顕時が親王を追慕する意味もあって歴史書の編纂を思い立ったのではと思っています。細かい実証は抜きにしますが、顕時は泰盛の娘婿でまさに泰盛派です。史料の一つとされる『明月記』を所持していた冷泉為相もまさに当時鎌倉在住でした。

odayuriko
関係は、深い禅宗の帰依者だった顕時は高峰顕日と親交があったはずで、高峰顕日は為相と親しかった。高峰顕日が一時期住した浄妙寺は、顕時の娘が嫁いだ足利貞氏が中興の開基。あるいは浄妙寺において三人が会っていたことも?。浄妙寺は最近連ツイしている六浦路にある寺院。顕時の往還が偲ばれます。

odayuriko 
顕時死去の翌年から『吾妻鏡』の編纂がはじまってわずか三年で完成しているのは、顕時がすでに史料を蒐集していたからでしょう。そして子息の貞顕がそれを受けて完成させた…。(奥富先生説に符合…)。宗尊親王の帰洛で終わっているのは顕時の最初からの意図だったと思います。

odayuriko 
長くなりますのでこれで最後にしますが、父実時が宗尊親王の小侍所別当だった関係で少年顕時も御所に出仕し、親王と親しまれたそうです。その育ちが顕時を鎌倉武士にはないゆたかな資質の文人政治家としました。『源氏物語』のみならず『吾妻鏡』までも宗尊親王なくして語れないことがふしぎです。

odayuriko 
最後といいながら朝令暮改ですみません。顕時と宗尊親王というとどうしても飛鳥井雅有をださなくてはと。『嵯峨の通ひ路』の作者です。雅有はすでに実時娘と結婚して親王に近侍していますから、顕時には義理の兄。三人が御所で共に時間を過ごすこともあったでしょう。顕時の風雅の原点と思います。

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写真は昨日の夕焼け。出先だったので絵になるような綺麗な構図に撮れました。今度から夕焼けになったらここに来て撮ろう!と・・・

鎌倉の『源氏物語』が一段落して時間にゆとりが出たらなんとなくかつての『吾妻鏡』の問題とか遺跡発掘調査で知った貿易陶磁のこととか、そんなことが甦って楽しんでいます。みんなツイッターのふとしたご投稿に触発されて…です。ツイッターはふしぎな装置です。

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