« April 2012 | Main | June 2012 »

2012.5.29 ツイッターの呟きを転載…国立西洋美術館【ユベール・ロベール~時間の庭~】展のこと

5月13日
ユベール・ロベール―時間の庭ー展@国立西洋美術館:プルーストを読んでいるような空間を堪能。久しぶりに(学生時代以来くらいに久しぶりに)キャプションのメモをとりたくなりました。時間と空間の言葉が文学的で。それがロベールの世界なんですね。

Aswzqxtciaecba8_2

観ているあいだずっと鎌倉が重なって感じられたのは意外だったのですが、私が感じている鎌倉ってこうなのだ、という世界がそこにあったのです。廃墟と現在の混在が自然と同化して美になっているという…。庭師ロベールに夢窓国師が浮かんでなりませんでした。こういう鎌倉の写真、まだ観てないなあと。

カレーの市民@国立西洋美術館:久しぶりの西洋美術館。庭のロダンも堪能しました。写真についてずっと考えてきて先日のスーパームーンの夜以来なんとなく啓示を受けて撮るのが楽しくなったので今日は撮ってみようという気に。空の色は大事です。

Asw2rn3ciaao0yj_2

5月14日
ユベール・ロベール展の余韻を引きずっていて時間がたって湧いた思い。ロベールの世界は「…を大切にする」。…は、過去であり現在であり遺跡であり現実の生活であり。対して今の時代は「…が享受する」。…は、私。昔の人は対象に対して奉仕する感覚で生きていたように感じました。

ユベール・ロベール展の副題は「時間の庭」。凄い素敵な副題。庭という言葉、なぜか好きです。佐藤春夫の庭の短編が妙に心に残ってるし…。で、今日の一枚はカレーの市民がある西洋美術館の庭…

Asyssuvcmaeozjp

荷物を整理していたら出てきました。ユベール・ロベール展の印刷されたキャプション。「ここに流れるのは、理想化されて永遠に留まる時間でもなければ、あまりの隔たりに人を畏怖させる悠久の時間でもない」…。なにか、警告のような気がして襟を正しました。

@fskipft 廃墟論、素敵ですね。私は廃寺に惹かれて鎌倉に定着しました。ロベール展を観たあと、ロベールの世界も廃墟と遺跡でとても感性が近いと感じました。写真を撮っているので構図にとても苦しんできたのですが、ヒントを頂いた感じです。素敵なご示唆を頂いて気持ちよく原稿に戻れます。

5月16日
今日は夕空が綺麗でした。淡いグレーの雲がある時の水色の空はほんとうに綺麗。白い雲が輝いてそこに夕焼けのオレンジの色がさして、ターナーの絵のようと思うのですが、フェルメールもロベールもみんなそう。私は空に惹かれているんだなあと思います。

今日の一枚:井の頭公園の夕まぐれ 空の色の変化に惹かれてのんびりずっと撮ってしまいました。久しぶり、こんなに時間をかけて好きに撮って歩いたのは…

Atbq9pciaamsb

@hmikann ほんと、そうでしょ!…って、撮っていて私も思いました。やはり絵画(写真)に空の条件って重要ですね。映画もいいシーンは必ず雲が効果を出していると。雲のないシーンに緊迫感はないとどこかで読みました。

今日の空はほんとうに綺麗でした。私はほんとうに空が好きなんだなあとはじめて実感した気がします。空はすべての人を覆っているから狭い日常の空間にいても撮り方次第では外国のようにも見えるんですね。(縦位置の写真をupしたいのに横になってしまうのであきらめます)今日は有難うございました。

5月17日
レンズだったんだなと思う。長く苦しかった構図の問題。写真学生だったころコンテンポラリィフォトが流行して広角を使えばそれらしく写るから逆に私は反発して広角嫌いに。仕事は報道だから標準。現在はマクロと望遠の時代で使ってみるものの充ち足りない。昨日空を広角で撮ったら、これだ!と。

何を撮るかの問題だったら、私は空を撮るなのかな…。予知に役立つならと地震雲を撮ってきたけどそれは予知目的だから雲が中心の普通の写真。ロベール展で廃墟の上に広がる綺麗な水色の空、大きくとられた空の空間を観て私には空を撮る意識がなかったと気がつきました。そしてそれには広角なんだと。

人生の最初に拒否したものにたどりつくまでって長い…。レンズだけでなく若気のいたりで捨て去ったもので大切なものがほかにもあるような気がしてきました。回帰という言葉がありますが、人が回帰に至るには長い長い道のりが必要で、それが結局人生なんですね。

昨日の一枚(おかしな言い方ですが深夜にupしようとしてどうしても縦位置にできなかった一枚→フォトショップでしての投稿です):夕暮れの吉祥寺。空がドラマティックだと見慣れた街も変ってみえて。

Atgohkqcmaa6j2d

今日の一枚:井の頭公園の噴水 今日は北東に壮大な雲が出ました。撮りに行ったのですが公園からでは平坦にしか写らなくて雄大さがなく代わりに噴水を

Atgpwmdcqaajokb

|

2012.5.19 ツイッターの呟きを転載・・・写真を撮るということについてのいろいろな逡巡と思ったこと

5月7日
雨が降っているのをみていると、それはじつに様々なすがたで庭に落ちてくる。中央では、断続的な細かいカーテン(あるいは網目)だ、非常に軽そうな水滴の、執念ぶかいけれどもかなりゆったりとした落下、永遠に無気力な性急さ、純粋な大気現象の極度の微小部分の集団だ(フランシス・ポンジュ「雨」)

引用部分に「あるいは網目」とあってあまりに直結過ぎて気が引けるのですが、ポンジュは井筒俊彦さんの意識の網目なんですね。森敦さんの意味の変容は阿頼耶識…。言語は哲学の実践。そんなことを小説の講座でしつこく(失礼!)しつこく丁寧に教えていただきました。

5月8日
月下のラベンダー:月の光の撮影、今夜も撮ってみました。相変わらず手ブレですがかえって水墨画のような効果が…

Ast2xnmciaaqeuf

今夜の月は山吹色がかっています。時々少し雲がでて、上のラベンダーのときは月が隠れています。

Ast3gskcmaatxkc

今夜は立待月というのだそう。6日の満月より欠けているのがわかります。

そういえば立川で発掘調査をしていたとき、江戸時代、その村で月に関する講がありました。何日の月だったか…。立待月講ではなかったのは確かだけど、そんなふうな名前。月下に村人が集うお講。なんて風流な風習!と思った記憶が。ペリーが浦賀に来た時代で村長の日記に黒船の記述がありました。

5月9日
今日の夕陽:一眼レフをマニュアルにしてわざとピントをはずして撮ったらこんな幻想的に。コンデジでこれは撮れない?こういう微妙に雲がかかった夕景は綺麗なので撮りにでて…

Asxpjamcqaekq0m

5月10日
昼顔が群れて咲いていてそこに蜜蜂が蜜を吸っていたのを撮っていたら脇をてんとう虫が通りました。あ、と思ったのだけれどマクロで撮っていたのでてんとう虫はボケてしまいました。でも赤い色が可愛い!そして蜜蜂の羽が光っているのが綺麗!

Asgcceeciae4ed9

最近どうして写真が下手でならないのだろう記録写真にしかならないのだろうと悩んでいましたがわかりました。心がざわついていたからでした。写真をみると撮ったそのときの心のざわつきが見えてしまって嫌でならなかったのです。処理しきれない程の用を抱えてその合間に写真を撮って、では無理でした。

それで一昨日から用を減らす事にして生活面での断捨離を実行。しばらく籠って心に耳を澄ますことに。写真も心美しく撮ろうと心がけることにしました。

17:24撮影の東の空を覆っている雲。東北に達した先端に勢いがありました。嵐のあとの澄んだ青空を撮りにでて…

Ashzabuciaesgqs

そうしたら麦の穂がこんなに光っていました。

Ashacnjciaefgch

5月12日
私の原点@『原中最秘抄』(池田亀鑑氏大成資料編)…ここのところ疲労がたまって心がざわざわしていました。書くために籠って懐かしい資料に囲まれたら、ああ、やはりここが私の世界だなあと。おのずとカメラもこういうものを撮りたくなります。

Asq9waicaaev9o5

5月13日
それにしても、事実上初めて接する光行70歳の筆跡がいかにもみずみずしいのには驚かされた。老人とはとても思えない端正さで、きびきびしながら運筆は流麗で、しかも力強く、世尊寺流の能筆とは異なるものの、品位を湛えたけだし名筆の部類(池田利夫先生「源光行自筆書状の進出をめぐりて」)

『源氏物語と鎌倉』所収の原稿のあとに池田先生の『源氏物語の回廊』が出版されました。そこに光行自筆書状の写真が…。あまりの流麗な筆跡に私も驚きました。こういう字を書かれる方だったのだ…と感慨。回廊には私の論の先の資料も出されています。今書いている原稿と整合性つくか、どきどき…

光行の自筆書状は、『明月記』紙背文書から発見されたそう。仲の良さを改めてほうふつ。

池田利夫先生は先だって他界されました。ついに『源氏物語と鎌倉』をお届けすること叶いませんでしたが、先生は最後まで光行を書かれていたんですね。私もそれらご論の合間に垣間見える歴史を埋めて光行の人生をさらに充実させたいと思います。

|

2012.5.5 今夜の満月はスーパームーン! 月がいつもより大きく明るく見えるのだそうです!

5日夜から6日にかけて、月が大きく明るく見えるスーパームーンという現象が起きるそう。そう期待していたら、ほんとうに、びっくりするほど綺麗な満月。見る人がみんな、思わず、綺麗、綺麗と口に出すほど・・・

この現象は、月の軌道が楕円のために地球との距離が近づいたり遠のいたりするためだそう。しかも、今回は通常よりも顕著なのだそうです。

それで、エイッとばかりにカメラを持って撮りにでました。久しぶりです。鎌倉や慈光寺のような記録として必要な写真以外で、「撮ろう」と思って出るのは・・・

でも、いいですね。ほんの短時間でしたが、撮ることを堪能しました。以下、ツイッターにあげた呟きを転載します。

@odayuriko

月のハレーション。あまり月が綺麗だから撮りにでました。そうしたら…。月がハレーションを起すなんて…。スーパームーンだからでしょうか。

Asiurvkciaem1bw

@odayuriko

月の光の色分解:モノクロしかない真っ暗な木の茂みのなかです。赤や緑の光は月光…。あまり月を撮る機会はないからこんなふうな経験ははじめて。手持ちでブレていて済みません…


Asivvobcaaewyw4_2

@odayuriko

この写真も好き…。月の光で輪郭がくっきり。月光ってこんなに明るかったかなあ。それともやはりスーパームーンだから?

Asi92kgcaaavw7f 

@odayuriko

ちなみに月の単体では明るいから手持ちでもブレません…(昔はこんな月のアップの写真、大きな望遠でなければ撮れなかったのにコンデジだとこんなに簡単。時代の進歩というより価値観の転換についていけません…)

Asimhucaaalgk

@odayuriko

月下のモッコウバラ。石川賢治さんの月光浴を思い出して撮りました。photoshopで少し明るく加工しましたがこんなに撮れるんですね。

Asjw5hkceai65m_

@odayuriko

月下のモッコウバラ、星と。赤い星が写っていますがシリウス? 日常を忘れて嵌ってしまいそうです。月下の写真…

Asjxidwciamze87

|

2012.5.4 明王院建立に秘められた謎が解けました! そこには竹御所の深い思惑がありました…ツイッターの呟きを転載

2

Apzajlhcqaaaz2n

4月26日
@odayuriko
この度、鎌倉の明王院木造不動明王座像が国の重要文化財に指定されました。それで第四代将軍頼経が建立した当時の記録を『現代語訳吾妻鏡10 御成敗式目』から連ツイさせていただきます。発願は寛喜3年(1231)、頼経は14歳。前年竹御所と結婚したばかりです。

@odayuriko
寛喜3年10月6日 御願寺を建てられるとの審議があり、その場所を永福寺・大慈寺などの内と定められた。(略)永福寺内の場所は、御台所(竹御所)の御願寺の場所として内々に決定されたという。

@odayuriko
寛喜3年10月16日 二階堂の内で五大尊堂を建立することになっている場所は、本堂の場所が犯土となる。その方角を調べるよう命じられた(略)戌の刻に武州(泰時)の御邸宅で、尾藤右近入道を奉行として御堂造営の日時定めが行われた。

@odayuriko
寛喜3年10月19日 二階堂の御堂の地を甘縄に改め、城太郎(義景)邸の南、千葉介邸の北で、西山の側に決定された。寛喜3年10月25日 晩になって大風が吹いた。戌の四刻に相州の公文所が焼失した。(略)炎は飛ぶようで、右大将家(頼朝)と右京兆の法花堂、同じく御本尊などが燃え尽きた

@odayuriko
寛喜3年10月27日 両御願寺の新造については、この火災により延期された。寛喜3年11月18日 将軍家(頼経)の御願である五大尊像が造り始められた。寛喜3年12月26日 五大尊像の御衣木加持(が行われた)。導師は信濃法印道禅。

@odayuriko
貞永元年(1232)5月14日 武州(泰時)が政治に専心されるあまり、御成敗式目を計画され、このところ内々に審議が行われており、今日まさにこれを始められたという。←なんと、明王院の木造不動明王座像造立は御成敗式目のできた時代と一致するのでした!

4月27日
@odayuriko
鎌倉の明王院木造不動明王座像が重要文化財に指定されて明日のお不動さんの日では混雑が予想されるそう。私も行きたかったのですがまたの月にして、明王院建立の記事を『現代語訳吾妻鏡10 御成敗式目』から。昨日は発願まででしたので、今日は建立まで進めたいと思います。連投させていただきます。

@odayuriko
貞永元年10月2日 将軍家(頼経)の御願として寺院を大倉に建立されることについて、今日、日時定が行われた。 10月5日 御台所(竹御所)の御堂の地について審議が行われた。(略)御堂の場所は大慈寺の境内に設けられたという。 7日 今日、御堂の場所である大慈寺の境内で地曳始が行われた

@odayuriko
貞永元年10月22日 将軍家(頼経)の御願として、来年に五大尊堂を建てられる事について、まだその場所が決まっておらず、人々に命じてふさわしい場所を探されていた。(略)大倉の奥の地がよいとの審議があり、(略)この地にしようと思われたという。

@odayuriko
文暦元年3月1日 今日、御台所の御着帯が行われた。 7月26日 御台所が御産所(時房邸)に移られた。(略)子の刻になって産気づかれた。 7月27日 寅の刻に出産された。(死産・略)御出産の後に苦しまれ辰の刻に亡くなられた。←竹御所は明王院の建立を見ずして亡くなっているんですね。

@odayuriko
嘉禎元年(1235)2月15日 五大尊堂の門の木作り始が行われた。来月10日に堂舎を建てられるので、まずこの事が行われた。 2月10日 今日、御堂を建てられた。(略)午の刻になってその儀式が行われた。 6月19日 五大堂の梵鐘を鋳造されようとしたが、今日、鋳造に失敗した。

@odayuriko
嘉禎元年6月29日 新御堂の安鎮法を弁僧正定豪が行い、また梵鐘が鋳造し直された。(略)辰の刻に鐘を(鐘楼に)懸け、同じ時に五大明王像を堂の中に安置した。巳の二点に明王院(五大尊堂)の供養が行われるので、将軍家は…出かけられた。(略)午の二点に供養の儀が行われ、曼荼羅供であった。

@odayuriko
明王院建立の引用はこれで終わりにしますが、ここで竹御所が亡くなっているのはショックでした。彼女の結婚生活は数年に満たず、この間に仙覚ら比企氏の残党が帰省を許され、仙覚は竹御所の菩提を弔うために新釈迦堂の住持となるなど、明王院の建立はまさに仙覚の鎌倉での活動初期と重なっていました。

@odayuriko
そして、竹御所の葬儀の奉行をしたのが北条実時。それから頼経が催した歌会には源親行が参加…と、後年の「河内本源氏物語」完成から『尾州家河内本源氏物語』、さらに『西本願寺本万葉集』へと至る萌芽がここにはありました。

4月28日
@odayuriko
やわらかな夏日といった感じの空が広がっています。鎌倉は六浦路にある明王院の建立についての引用を『現代語訳吾妻鏡』から昨夜終わりましたが、一夜明けてわかってきたことが。明王院の建立に際しては発願の最初から頼経室(竹御所)の御堂建立とセットになっていて???、でした。

@odayuriko
場所も永福寺内とか大慈寺内とか両方が一転二転錯綜して幕府の奔走させられている感じ。頼朝が勝長寿院や永福寺を建てたときの確定感がまるでありません。さらに竹御所の御堂の方は先に大慈寺内に建てられたと思うのに名称とか供養の記述がない…。何なのだろう、これ、といった感じでした。

@odayuriko
一夜明けて見えてきたシナリオはこうです。比企の乱で北条氏に両親を殺されながら政子に引き取られ北条氏によって育てられた竹御所は、両親への思いを口にも出せずにいた。が、頼経と結婚して御台所となったとき、将軍家の力をバックに両親供養の堂を建てようと思った。そのとき一緒に頼経も明王院を。

@odayuriko
というか、将軍が明王院を建てるので御台所のもとカモフラージュだったのでしょう。二人は建立発願の前年に結婚しているのです。竹御所は将軍室の権威を盾に仙覚ら全国に潜む比企氏残党の帰省を許していますから、結婚と同時にというか、結婚自体が北条氏に有無を言わさない将軍家の権力獲得でした。

@odayuriko
それまで竹御所は政子の後継者となるべき女性として大事に扱われていました。まさか北条氏も復讐を抱いているとは思わなかった。が、頼経と結婚したと同時に両親の為の堂建立、残党の帰省と次々に牙をむきはじめた竹御所に、北条氏は危惧をもったに違いありません。それで出産をいい折と利用して暗殺…

@odayuriko
実朝を暗殺した公暁は竹御所の兄。公暁も政子に育てられ、政子の配慮で二人は実朝の猶子になるなど目をかけられています。が、二人の内に潜む怨念は根が深かったのです。誰か二人をそそのかす人物がいたのでしょうか。明王院建立の『吾妻鏡』からこんな小説のような背景が浮かび上がりました。

|

« April 2012 | Main | June 2012 »