2012.6.25 ツイッターの呟きを転載…歴史時代作家クラブ懇親会のこと、6月16日は承久の乱の日だったこと、承久の乱で捕まった源光行のことなど
6月16日
レセプションに参加したあとに頂くお花が楽しみです。殿方は二次会のお酒に気が行ってますから欲しがらなくて昨夜は頂き放題でした。これは会がはじまる前の会場風景。芍薬もまだ花籠に…
歴史時代作家クラブの会長は津本陽先生です。時代小説の作家は繋がりがなく孤独だからとこの会を立ち上げられました。昨夜のスピーチでもこういう会場にいるだけでも嬉しいと。時代小説だからでしょうか、なんとなく他の文学の会と違う情緒というのか、人情というのか、親しい雰囲気が感じられます。
6月16日 吉川弘文館営業部official
【今日は何の日】1221(承久3)年 6月16日 北条時房・泰時,六波羅館に入る(六波羅探題の始め)(吾妻鏡)。『日本史総合年表 第2版』より。
現代語訳『吾妻鏡』で承久の乱を拝読中ですが、まさに昨日今日の日付なんですね。吉川弘文館様のツイートで気がついて我ながら相変わらず疎いとあきれつつ、内容には展開の臨場感に圧倒されっぱなし。『海道記』では読んでいましたが『吾妻鏡』ははじめて。海道記は資料にされてたかしら…と。
乱はすべて人の人生を狂わしますが、承久の乱は目下私が取り組んでいる方々と無関係ではありません。光行は後鳥羽院方について捕まり鎌倉に護送されて斬首されるところを子息親行の奔走で助かり、仙覚は佐渡に流された順徳院を追って越後に移り住む。「花の蹴鞠」もこのあたり書くのがとても大変そう。
承久3年8月2日 大監物光行は清久五郎行盛が伴って(鎌倉に)下向し、今日の巳の刻に金洗沢(七里ヶ浜の内)に到着した。(行盛は)まず子息の太郎を遣わして右京兆(義時)に知らせた。速やかにその場所で誅殺せよと、義時の命があった。これは関東から数箇所の恩恵を受けながら、院に参じて
東国武士の交名を注進し、宣旨の副文を書いた罪科は他に異なるためである。ところで光行の嫡男である源民部大夫親行は、以前から関東にいて功を積んでいた。父のことを漏れ聞いて死罪を赦されるよう泣いて訴えたが赦されなかった。(親行は)重ねて伊予中将(一条実雅)に依頼したので、羽林(実雅)が
これを伝えた。そこで誅殺してはならないとの書状が与えられ、親行がこの書状を持って金洗沢に急行し、父の命を救った。(以上、現代語訳『吾妻鏡8 承久の乱』より)
↑ 『吾妻鏡』のこの条、異常です。というか、不可解。院加担の人間は殆どが鎌倉に護送される途中で誅殺されています。しかもそれらの記述はただの一行。光行の顛末を記すこの条は『吾妻鏡』の中でも例外的な長さ。殆ど政治の中枢にでてこない光行がなぜこんな特例を受けているのか…
『吾妻鏡』における光行の扱いには以前から不可解が多かったので先日仕上げた論文ではそれを取り上げました。書き終わった今、この条の異例さもさもあろうと納得。光行は特異な任務を帯びた立場の人間でした。恩人の三善康信をも裏切ってと非難されますが、光行の立場を熟知していた康信は納得かと。
6月17日
空の状況がざわめいているので撮ってきました。地下で岩盤破壊など活動があるとピエゾ効果といって電磁波が発生するそう。それが大気中にのぼると雲が攪乱されてざわめきます。電磁波が湯気のように湧き上がるのが目に見えるようです。(→06/18 05:32 38.9N 142.1E 40k M6.1 宮城県沖)
玉川上水では葛の葉が繁茂中。「葛の花踏みしだかれて色あたらし。この山道をゆきし人あり」の迢空の歌が大好きで、上水を通るたびにこの歌が浮かびます。花はこれから…
雨に濡れる未央柳。ビヨウヤナギ。俊成本源氏物語で、見せけちになって消されていた芙蓉と対句の花。気づかないあいだに咲いていました。きちんと撮っておきたいけど晴れるまでもつかしら。