7月7日
都幾川と小川町で午前と午後に一回ずつ仙覚さんのミニプレゼンをさせて頂いて今は一人珈琲タイム。くつろいでいます。ここ何回かこの町に通ったのに毎回用事をこなして帰るのが精一杯。今日は皆様と別れたあと、思いついて雨の中、仙覚さんの顕彰碑に行って撮ってきました。心がほっとしました。
往路は読む気分でなかったけど、やっと落ち着いて持ってきた本を読みたくなりました。小川靖彦氏『万葉集 隠された歴史のメッセージ』。ゆっくり拝読する時間がなく棚に飾ってありました。仙覚さんの事はあまり出てきませんが、私の好きな学問探究の世界です。
吉祥寺に帰ってきました。なんか、とてもはるばる旅をしてきた気分。そうよね、万葉の時代にトリップしてきたのだもの、と。
疲労感はないのですが思考が停止しています。で、残しておきたいことを少し書いて休みます。午後のプレゼンのあと、男性が一人寄ってらして、「今まで合戦というと誰と誰が戦って…ばかり見ていた。合戦によって運命が変わった人がいて、その人たちが作った文化があるという話はとてもよかった」と。
そしてまた別の男性も、「貴女の視点はとてもいい」と。「思いが伝わってきた」とも。私は「思い」を伝えたかったし、当時の人の思いを共有することでその人たちの過酷な人生を理解できるし、その上の「文化」の凄さを知ることができると思っているので、そう言って頂くことができてよかったです!
文化は守らなくてはいけないと思う。芸術はパトロンがあってはじめて豊かになるもの。歴史を見ても豊饒さはみんな時の権力者がバックアップしたからこそ芸術家が技能を活かし、私たちがその恩恵を湯浴みしている。今の世の殺伐とした行政をみていると、このままでは恐ろしいと思います。
万葉集でいうと、仙覚が最後の152首に訓点をつけ終わって今の『万葉集』になった訳だけれど、仙覚がそうできたのも将軍頼経に万葉集の校訂を命じられたから。個人では入手不可能な諸本を与えられてかかることができたからです。仙覚がいなければ今の万葉集はないけれど、その上の頼経もまたです。
7月7日 Hiromi TAKATO
まつたく正論だと思ひます。御礼申し上げます@odayuriko 文化は守らなくてはいけないと思う。芸術はパトロンがあってはじめて豊かになるもの。歴史を見ても豊饒さはみんな時の権力者がバックアップしたからこそ……。今の世の殺伐とした行政をみていると、このままでは恐ろしいと思います。織田百合子さんがリツイート
織田百合子
高遠先生、ありがとうございます。日々心を痛めています。微力ですがとにかく「文化」を訴えていかせていただきます。
7月9日
7日にプレゼンさせて頂いた埼玉県比企郡ときがわ町。お昼を頂いたのがやすらぎの家といううどん店。冷汁のたれで頂いたうどんのおいしかったこと!このお店で7月21日に小室等さんのコンサートがあります。
やすらぎの家は「100年以上前に建てられた古民家を移築した農山村体験交流施設」だそう。風格ある大きな古建築で思わずワァと歓声をあげてしまいました。うどん店でコンサートと聞いていたときは???でしたが、土間も広いギャラリーもあるここならと納得しました。
冷汁(ひやじる)は地元の方々の日常食とか。作り方を伺いました。擂鉢で大量の胡麻を摺ってそこにお味噌を入れて混ぜながらさらに摺る。そこに刻んだ胡瓜や茗荷などたくさん入れてそれを摺りコギでとんとんとんとん潰すのだそう。朝作っておいてお昼にご飯にかけて頂くそうです。
都幾川では「木のむら」という洒落た手書きの看板をあちこちに見ます。山の中のひっそりした佇まいが素敵で古民家を買って移住される方が多いよう。鎌倉的文化人の方が増えているのかも。たぶんこれからそうやって移られた丹後局の子孫という方にお会いさせていただけそう。歴史は歴史を呼びますね。
やっと7日の疲れが抜けそう。充実した手応えがあったから直後の疲労はなかったのにだんだん頭が満タンでずっしり重くなって思考停止状態でした。こうやって今朝のツイートで情緒が戻ってほっとしました。新しくまた活動開始です。
寧々房の澤井さんが撮ってくださったプレゼン中のスライドの一枚。『源氏物語と鎌倉』のP.50の部分です。「さすがカメラマン。ご自分で撮られた写真で、実況中継? わかりやすいんだな、これが。^^v 難しかった活字の世界が、一気に絵巻物を解いたようになりました。」とは店主澤井さんのコメント。そうなんです。漢字だらけの本を読むのと大違い。映像と語りで聞くと『源氏物語と鎌倉』は決して難しい学問の世界ではありません。
7月10日
講演や本のこと等ひとまず一段落したので久しぶりに「花の蹴鞠」を読み返しました。第一回が2008年6月の執筆。飛鳥井流蹴鞠の祖雅経が頼朝に仕えるところからはじまっています。頼朝と比企尼の長女丹後局の関係を書く必要から比企の乱を調べたのが2010年。それが奇しくも仙覚研究の発端に。
それは「北条実時と『西本願寺本万葉集』」の論文になり、そのあいだに「花の蹴鞠」の雅経は上洛して『新古今和歌集』の撰者に。といったところで2011年になり、講演・出版と多忙が続いて「花の蹴鞠」は第11回で中断していました。
読み返して、最初期はこんなことを書いていたのかと、我ながら興味津々に読み耽ってしまいました。丹後局の魅力が大きいかも。やはり文学はファム・ファタルの存在にかかるといっていい。その後の「花の蹴鞠」に魅力ある登場人物はなく、少々理が勝っているなあと反省。軌道修正しなくては!
丹後局は比企尼が頼朝の乳母だったことから頼朝とは筒井筒の仲。頼朝が伊豆に流されたあと二条宮廷に女房として出仕。結婚して島津忠久を産むが、頼朝に呼ばれると離婚して忠久を連れて鎌倉に下向。安達盛長と結婚したあとも頼朝の来訪は続き景盛を産む。と、比企氏の女性はどなたも魅力的です。
ちょうど大河清盛が二条天皇の時代で、画面に帝が写しだされる度に丹後局の存在を思ってしまいます。二条院には讃岐という女流歌人がいて、彼女は源頼政の娘。やはり画面の平治の乱で頼政が出ると讃岐を思う、といったように大河清盛は「花の蹴鞠」と暗に同時並行して面白くなっています。
わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾くまもなしの歌で「沖の石の讃岐」と称された二条院讃岐は、後年出家し余生を静かに暮らしたいと思っていたのに後鳥羽院に「新古今集に女流が足りない」と呼び出されます。念仏の妨げになると仲間とぶつぶつ言い合う様子が長明の無明抄にあって面白いです!
7月11日
昨夜二条院讃岐の沖の石のツイートをしましたので、歌枕「沖の石」の写真を。宮城県多賀城市にあります。写真のように住宅地のなかにある海浜のような石の一画。ふしぎな光景でした。
「沖の石」の近くに同じく有名な歌枕「末の松山」があります。徒歩で行き来できる距離。でも昨年の震災では沖の石に津波は到達たけれど、末の松山は無事だったとか。これは末の松山が高台にあるからです。その高低差は記憶にも目に鮮やかです。
「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」の清原元輔の歌は従来比喩のように言われていたのが、昨年の震災で俄然リアルな津波を歌っているとなりました。現地に行けば直感でわかりそうなものを文学をただ文学として扱っていることのもったいなさを思いました。警鐘がそこにあったのに。
朝焼けの名残りの空
水色の空に白い月:早朝の半月。5時3分の撮影です。
青い空に白い筋雲。綺麗ですが風が吹き荒れて空も荒れて見えるので撮ってきました。そうしたらもうトンボが群れていました。でも左上に一匹、蜂がまぎれて。
空が吹き荒れる日は注意しています。それで撮りに出たのですが、太陽にかかる雲にも虹色の暈ができていました。
今日の夕方の空は雄大でした。ちょっと騒然…@井の頭公園
吉祥寺駅から丸井の脇を通って井の頭公園におりる階段、だいぶ前から工事中だったのが完成して広場みたいになっていました。
今日の空2:西の空にレンズ雲が。当地でレンズ雲を見るのは珍しいです。