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2012.7.2 ツイッターの呟きを転載…掌編「竹御所~花、萎れるままに~」を仕上げました

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6月20日
保留にしていた竹御所の短編。今日が〆切なのに気分を取り戻せなくてひたすら吾妻鏡を読んでいました。昨夜ふっと、あれを書いておかなくてはならなかったんだあ、と思い出した事が。これが詰まっていて先へ進まなかったよう。原稿は正直です。それにしても思考が融通効かなくなっています。

吾妻鏡は政子が亡くなったところ。その直後から二条教定が登場。飛鳥井雅経の次男です。母は大江広元娘。雅経と結婚して京に上るまで政子に仕えていたから葬儀に下向して、その際教定を伴ったのだろう。以後教定は鎌倉にとどまって親行や北条実時と交わり鎌倉の源氏物語を盛り上げていきます。

6月21日
安貞2年12月30日 朝から夜中にかけて雪が降り、一尺余り積もった。午後になって輿に乗られ、将軍家(頼経)は急に竹御所に出かけられた。御騎馬であった。駿河守・陸奥四郎・同五郎(北条実泰)…源式部大夫(親行)らが御供した。廻廊から帰られ、近辺の山中の建物を見て回られたという。

↑こんな条があったなんてと私には驚きの条。現在竹御所の掌編を進行中。竹御所は15歳年下の将軍頼経と結婚前から関係があったとするのがわたしの説。そこにこの条。このとき二人は26歳と11歳。二年後に正式に結婚するのですが、頼経は帰っても帰りたくなく近くを放浪なんてこの日恋に落ちた?

そして、供奉している人物に面白い発見。まず北条実泰は実時の父。病気で早く引退して実時に家督を譲ります。そして、こんなところに我らが親行の登場。伊賀氏の乱で一条実雅の上洛に勝手に従って幕府の逆鱗に触れ所領没収にあっているのに、いつのまにか許されて鎌倉に戻っています。

竹御所の掌編、未明まで頑張ったのですが今日はこれから出かけるので中断して少し寝ました。小説は論文と違って妖しいことを書くのでのってきたらもう異次元世界。これってこんな目的だった?と自分で目を白黒させつつ耽溺を楽しんでいます。帰って完成させて送信の予定。ほんとうに書き下ろし…

寛喜元年2月21日 風は静かであった。三崎の海上で来迎講が行われた。走湯山の浄蓮房が駿河前司(三浦義村)の招きにより、(中略)十余艘の船を浮かべてその上で来迎講を行った。見事な装飾は夕陽の光に照り映え、伎楽の音は夕暮れの波の響きに添うかのようであった。(現代語訳『吾妻鏡9』より)

↑ 『吾妻鏡』には珍しく美しい描写の条。竹御所が招かれて乗っています。27歳。頼経と結婚するその前年です。このあたり、美しい条が続きます。なにか二人の結婚に向けて鎌倉がほのめいているかのよう…(あくまでも個人的見解ですが)。この時期、竹御所は政子に代わる鎌倉殿の立場として君臨中。

同じく寛喜元年から綺麗な条をあと2例ほどご紹介。 3月15日 将軍家(頼経)が花をご覧になるために永福寺に出かけられた。水干で御騎馬であった。駿河守(重時)・陸奥四郎(政村)・同五郎(実泰)・周防前司親実・式部大夫(源)親行以下の二十余人が供奉した。

10月26日 将軍家(頼経)が蹴鞠をご覧になるために永福寺に出かけられた。御布衣で、御輿に乗られた。(略)これは相州が紅葉の林の中を選び定め、事情を申されて特別に準備したものである。(略)源式部大夫(親行)らが祇候していたので、蹴鞠が終わった後、その場で和歌の御会が行われたという

今日中に仕上がるはずの竹御所の掌編、日中はどうにも気が乗らなくてこれから。小説はどうしても夜、気配が魑魅魍魎とざわめいてからになってしまう。丁寧に吾妻鏡を読むことで見えてきた竹御所と頼経の不自然な結婚の真実。でも不自然なんかではぜんぜんなく、そこには真摯で美しい愛がありました。

6月22日
終わりました! 竹御所の掌編。我ながら一大スペクタクルシーンを観たあとのよう。最後はほんとうに苦しみました。書けなくて。でも『吾妻鏡』を読んでいて見えてきた世界。どうして今までこういう見方がされてこなかったのかしらと不思議です。ともあれ、これでやっと全部を放出し身動きとれます。

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