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2012.9.18 ツイッターから転載…『吾妻鏡』の発表/文治元年12月6日条は『吾妻鏡』の中でも最重要。何故なら朝幕体制が確立してゆく条だから

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9月1日
こんばんは。とわざわざ記すのも変ですがやっと日常が戻った思いの安堵の吐露です(笑)。校正原稿を無事に投函し昨年からの一連の作業がすべて終了。これで気楽になったと思いきや、突発的に携帯の機種変更をして目下通話もメールも不可の状態です。今夜また四苦八苦で使えるまでにもっていかないと!

ひとつひとつ片づけていくしかないけれど山積していると何かポカするのではないかとずうっと心配。でもひとつづつこなしていたら残すはあとひとつだけとなって、これではもう忘れようがないと気持ちがのんびり。明日が終わったらほんとうにもう心機一転。楽しみです!

9月2日
やっと理解できてきた。この時間にならないと気が入らない。『吾妻鏡』の発表担当。前回の続きをするのだけれど、もういったい何の時代をしているのか、現代語訳を読み返して気分を取り戻したところです。義経が大物の出向に失敗し、頼朝が追討の院宣に激怒して後白河院に奏上した文治元年12月の条。

このあたり凄いですね。勝長寿院の落慶があって、義経が大物出港に失敗して逃げ、吉野で静御前がつかまり、頼朝が守護地頭を申請、議奏公卿の設定、刑部卿頼経の解官等々…。光行や比企に集中していたからすっかり忘れていました。思考は物理的に脳内を占拠するらしく、両立は無理なのが辛いです。

9月3日
『吾妻鏡』文治元年12月6日条について少し連ツイさせていただきます。テキストは寛永版影印です。1回につき1ページ上下二段を割り当てられて輪読していて、このページが今日私の担当になりました。『吾妻鏡』中最重要、白眉の条だそう。

というのは、朝幕国家の天下草創のまさにその生々しいやりとりの部分だから。義経が平家を滅ぼした後、後白河院が義経に頼朝追討の宣旨を出し、それに対して頼朝が後白河院に詰め寄って、院は義経追討の宣旨を出さざるを得なくなる。院は頼朝の強引な守護地頭等の要求を容れ、朝幕体制が確立してゆく…

講師の先生は鎌倉幕府の最大功績者は義経ではとまでいわれます。平家を倒した上に頼朝に謀反を起して頼朝と朝廷の関係を築くきっかけとなったから。というくらい、義経は頼朝政権確立に非常に大きな役割をもった。というのがこの12月6日の背景にある歴史です。

12月6日条は、後白河院に対する頼朝の要求内容です。上段は経房に宛てた折紙で、義経に味方した院の近臣らの解官や一連の処置について。続いて下段は兼実に宛てた書状。義経との経緯やそれに対処してきた思いをめんめんと書き綴っています。

この背景にある歴史が、義経の大物津出港の嵐による失敗。何故義経が大物津から出港しようとしたかというと、豊後守刑部卿頼経が義経に加担して、義経を豊後まで逃がそうとしたから。大物津では頼経の手筈で豊後の大神惟栄らが待っていたらしい。上段解官される一人に刑部卿頼経とあるのはその為です。

平家一門は都落ちし、原田種直らに迎えられて大宰府に落ち着いた。それを知って頼経は大神惟栄に下知し、惟栄が大軍を率いて大宰府を襲ったので、平家は大宰府を離れざるを得なくなった…。この内容を受ける記述が下段うしろから四行目の、種直以下4人の所領が没収されているというところです。

これらのことを今日発表で伝えられたのは、たまたま私が「花の蹴鞠」で飛鳥井雅経を主人公にし、雅経の父刑部卿頼経について調べていたからです。角田文衛先生の「義経と刑部卿頼経」にそれは綿密に考証されていて、資料として皆様にお配りしました。歴史に精通する会の方々ですが、これはご存知なく、

「国文学の人もこんなふうに調べるのね」と新鮮に驚かれていました。以前も岩佐美代子先生の『光厳院御集全釈』をそうそうたる歴史学の先生にこれは凄いと驚かれたことがあります。両方の狭間にあって両方の醍醐味を味わっている「お得」をいつも思います。その分いつもアウトサイダーですが(笑)

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