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12月31日 ツイッターから転載…11月最後まで。鎌倉のある寺院を訪ねたこと、鎌倉世界遺産登録推進三館連携特別展の金沢文庫と神奈川県博のことなど

  11月27日
鎌倉に向かっています。渋谷で湘南ラインのホームに向かう通路を歩いていたらふっと初めて鎌倉で講演させて頂いた日の朝が甦りました。あの日もこうしてこの通路を歩いたなあと。会場を貸して下さったのは昭和の民家を社屋にしていられる鎌倉投信様。社長の鎌田様はその日は山陰へご出張でした。

そうしたら鎌田様は思い切りお話下さいとその朝わざわざメールを下さったのです。湘南ラインの座席でそれを発見して驚きました。そんな事を思い出してふっと涙ぐんだら、なんとその日はちょうど二年前の今日11月27日。奇しくも同じ日に鎌倉です。甦りには不思議な力がはたらくのでしょうか。

妙本寺様のある山が紅葉し西陽が当たって綺麗でした@鎌倉

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先日、この辺にお寺ありますか?と尋ねられた妙隆寺様山門。宗尊親王御所の北限とされています@鎌倉大町

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11月28日
おはようございます。昨日は鎌倉である仏門の方とお目にかかりました。お話していておかしくて…、といったら恐縮ですが、禅宗の僧侶の方の独特の丁々発止の言葉の繰り出し方には時々笑ってしまうあっけらかんさが。仏教の笑いはいいですね。

「貴女の言ってる事は尤もなんですよ」とお電話を頂いた。だからと朗報を。1月に講演させて頂きます。私には当たり前の事が今までどうしても伝わらなかった。尤もだと、こんなにストレートに当たり前に受け入れて頂いたのは初めて。当たり前の事が当たり前になるまで大変です。

今日は満月。満願の日。しかも私にとって一年で一番いいことのある月。と思って一ヶ月頑張ってきましたが実りあるかも、の気がします。決まったらご報告させていただきます。

今日夕刻の空@三鷹市 西からの放射状雲が夕焼けしました。A8y1s13cyaa0ov

只今の満月です。

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かかっていた雲が吹き払われて皓皓と照る満月を拝すことができました! 傍にあるのが木星? 満月の輝きのハレーションと木星の一枚を。

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インタビューして頂きました。『湘南百撰』冬号「私の冬物語 木立に道に荒れ野に感じる気配をもとめて…」です。タウン情報誌なので鎌倉など湘南地域にいらしたらお手にとって見て下さい。

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11月29日
金沢文庫に隣接する称名寺境内は満艦飾の秋でした。金色に輝く銀杏の大樹の向こうに金堂。苑池を見下ろす高台の広場は北条実時の寝殿造りの邸宅があったところです。

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鎌倉の世界遺産登録推進に向けての三館連携特別展の二つ目、金沢文庫をやっと拝観。残りの神奈川県博も日曜まで。頑張って行きます! それにしても金沢文庫の展示の充実した事。国宝と重要文化財級の至宝だけの展示といった感じ。そこに親玄僧正日記のような初公開があって。堪能しました。

私的に嬉しかったのは、親玄僧正日記を観られた事に加えて、新古今和歌集竟?宴の巻物。優雅な筆跡で豪奢な仕様。他と一線を画して優美。コメントに宗尊親王の持ち物だったのがなんらかの事情で実時のものになったのではないかと。いつも思うけれど写本の世界は愕然とするほど京都制が優美です。

今日行った金沢文庫「鎌倉興隆―金沢文庫とその時代―」展。称名寺参道入口の赤門の前です。肖像の主は北条実時。風格ある立派な武士の趣です。

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称名寺の仁王門です。今まで快晴の日が多かったので青空に建築が映えて写真としては綺麗な画像が撮れました。が、コントラストが強すぎて建築そのものは真っ黒。今日は曇天。こんなに綺麗に建築の仕様が見えたのははじめてです。

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称名寺の庭園は阿字の池の中央に中島があって朱塗りの橋が架かる浄土式庭園です。反橋から見た実時の居宅があった平地には銀杏の巨木の金色が見事でした。それにしても今日は何と水鏡の綺麗なこと!

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晩秋の称名寺庭園は枯れてさびれた風情でした。

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11月30日
神奈川県立歴史博物館「再発見 鎌倉の中世 掘り出された中世都市鎌倉」展の帰りです。これで鎌倉の世界遺産登録推進に向けての三館連携特別展すべてを制覇(そんな大袈裟なものではありませんが)、記念のクリアファイルを頂きました。

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今更で恐縮ですが、昨日の金沢文庫、「鎌倉興隆」展には、入った正面にいきなり霜月騒動関連の古文書があって驚きました。この騒動は正式な記録がないところ、たしか東大寺だったと思いますが、何かの文書の裏にぎっしり騒動で亡くなった安達氏の方の名前が網羅して書かれていました。

金沢文庫の霜月騒動資料の件を図録より。「霜月騒動聞書 凝然筆『梵網戒本疏日珠鈔』巻第三十紙背文書」。東大寺戒壇院にいた学僧の凝然著作の紙背に、鎌倉の律僧から伝えられた合戦の記事や戦死者の名簿などが残され、この事件に関する一等史料となっている。

安達氏に庇護された律宗や密教の僧にとっても、命運にかかわる重大事件であったためであろうとのこと。

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2012.12.29 ツイッターから転載…吉田秀和講座(2)と、『リポート笠間』から研究者堀部正二氏のこと、連載の「花の蹴鞠」のこと

11月19日
ようやく明日締切の「花の蹴鞠」の構想が決まる。実朝がメイン。こんなのだったら実朝展に早く行っていくのだったと思いつつもう遅い。でもたぶん被らないとは内心の声。連載は隔月で一回が8枚。いつからかどこまでぎりぎりで勝負できるか自虐的に。だんだんとりかかるのが遅くなってきています。

11月20日
おはようございます。八王子に向かっています。中央線から見える空は快晴。遠くに青い山並みが見えています。昨夜「花の蹴鞠」をある程度まで書き進めて、今日詰めれば間に合うとの感触を得て就寝しました。今日は休むしかないかと覚悟したのですが、無事に出て来られました。

建暦元年十月大十三日、賀茂社の氏人で、法名を蓮胤という菊大夫長明入道が、雅経朝臣の推挙で先日下向してきた。何度も将軍家(実朝)に拝謁したという。そうして今日、幕下将軍(頼朝)の御命日に当たり、かの法華堂に参詣した。念誦読経すると懐旧の涙頻りにあふれて、一首の和歌を堂の柱に記した。

上は現代語訳『吾妻鏡7 頼家と実朝』より、飛鳥井雅経が鴨長明を伴って鎌倉に下向した条です。

この文脈でいくと、懐旧の念で涙を流し和歌を記したのは鴨長明となり、長明の研究者さんは、いつ長明が頼朝とそんな交流を持ったのだろうと不思議がられる。が、吾妻鏡は後世の編纂だし、編纂者による間違いはあり得る。ここは雅経の事としか私には読み取れないと今!確固たる信念に変わりました。

という訳で、昨日書いた分は破棄にして、これから帰って書き直します。

11月21日
おはようございます。「花の蹴鞠」を無事編集部に送信しました。今回の最後は「草も木も靡きし秋の霜消えて空しき苔を払ふ山風」の歌。吾妻鏡に鴨長明作として載っている歌です。それを飛鳥井雅経の歌として流れを作りました。『吾妻鏡』はもっと読み返す必要がありそうです。

「花の蹴鞠」、実朝と定家の和歌の交流を書こうとして始めたのに、終わったら実朝暗殺への布石の回になってしまった。それは雅経が鴨長明を伴って鎌倉に行ったとき、実朝に歓待されるのだけれど、その頃竹御所は十歳でまだ政子に育てられていたから、御所で二人は竹御所と会ったはず。そこからです。

11月22日
世の中が命をかけた選挙戦で大変なときに私事で恐縮ですが鎌倉の『源氏物語』という文化の普及としてご報告させて頂きます。先日応募して面談まで進んだ某センターでの講師が決まりました。来年10月開校です。又2月の某会社での講演も正式に書類が届きました。同じ日に。今朝は鎌倉の貴重なアポも。

昨日正式に依頼の書類が届いて気持ちが引き締まったから、これから2月の講演の為の準備に入ります。テーマは「鎌倉武士と源氏物語」。今まで源氏物語写本が中心だった話を鎌倉武士に移行する作業に。資料はあるのですが、埋もれてて出すのが大変!

11月24日
吉田秀和講座の四回目。最後です。四回も毎週鎌倉に通えるかしらと危ぶんだのも忘れて毎回楽しみでした。でも折角なら午前と午後に用を二回は無理で今日も諦め。そうしたら暢気になりすぎて湘南ラインは間に合いそうにありません。のんびり行きます。

持って出た『リポート笠間』が面白くて横浜で途中下車して読んでいます。鎌倉は人出で寛げないでしょうから。巻頭の堀江敏幸さんのエッセイが圧巻!私が飛鳥井雅経を書いているからの身贔屓でなく一篇の小作品。今は目的の久保木秀夫氏の堀部正二論。これも圧巻です。後程ツイートさせて頂きます。

鎌倉 底脱の井。安達泰盛の娘で金沢北条氏二代当主顕時夫人が水を汲んだとき、桶の底がぬけてそれで解脱したという井戸。二人の間に生まれた女性が足利貞氏に嫁いだそう。紅葉の綺麗な海蔵寺の前にありました。

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11月25日
『リポート笠間』から久保木秀夫氏「堀部正二と『土佐日記』為相本」の事。これはどうしても残しておきたく連ツイさせていただきます。堀部氏は早くから『尾州家河内本源氏物語』の実時奥書の自筆説に疑いを持っていた方です。が、戦死されたこともあって学界から消されて今に至っていました。

従来ずっと実時自筆だから『尾州家河内本源氏物語』の制作は実時と言われてきました。が、最近岡嶌偉久子氏のご研究で自筆ではなく、実時の奥書を後年誰かが書き写したものという結果が出ました。そこから私は宗尊親王の制作説にいった訳で、その経緯は『源氏物語と鎌倉』のP147に記しました。

堀部氏のご論考の炯眼には目を瞠るばかりです。久保木氏も「こんな離れ業をなし得るのかと度肝を抜かれた」と書かれますが、その離れ業の前に正しさについての直観が働くのでしょう。「工夫次第で不可能をも可能にしてしまう文献学という研究方法」。正しさへのあくなき追求が方法を引き寄せた。

と、私にはそう思われます。為相本についても堀部氏が「見事に打破」された成果があるのに「結局根強い原本至上主義に追いやられ」「以後真正面から取り上げられることもなく」の状況だそう。『尾州家河内本源氏物語』と同じ事態が起きています。素人考えでは、学問は正しさを追求し提示するもの。

なのにほんの少し垣間見た学問世界はそうではありませんでした。「生きている人」の学説がリードするような。そんなことがあっていいのかなあと『尾州家河内本源氏物語』のときから疑問に思っていましたが、久保木氏のエッセイで再燃しました。堀部氏が戦死されなかったらどうなっていたでしょう。

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昨日の吉田秀和氏を讃える講座最終回をツイートしたいのですがそろそろ真剣に鎌倉の源氏物語に戻らなければならないので大意だけにさせて頂きます。四回目の昨日は英文学者の富士川義之先生「吉田秀和の批評精神 『ソロモンの歌』をめぐって」でした。そしてまたしても吉田一穂との交流が根源と。

一穂が何よりもまず根源を問うこと、本質だけを追求することを目指す詩人だったから、高校生のときからそれを感受して評論家となった秀和氏は、時々エッセイの中で自分の出発点は何かを自分に問いかけ、自分だけでなく芸術に携わる人に向って貴方を駆り立てるのは何かを問いかけた。

「ソロモンの歌」は悠久な時の流れに自分を置いて人生を振り返る視点。いつも宇宙と関連づけて詩作をしていった中也や一穂の影響を感じる。その距離の取り方、麗しのディスタンス、それが各エッセイの起源では。即物的分析とポエジーから、ソロモンの歌に至ってポエジーの方に比重が大きくなった。

富士川氏は言われます。吉田秀和は最後の生き残りの文人ではと。鴎外や漱石が明治人であるのに対し本質的に彼は大正人だった。それは昭和人とも違い少年時代を戦争に至らない時代に過ごした彼らには余裕やエレガンス、モダンな感性がある。それは加藤周一、中村真一郎、井上靖、堀田善衛といった人々。

最後の最後の詰めになって富士川氏がレジュメから離れご自分の内を確かめるような感じで語られたのが大正人ということでした。そして昭和人にはないエレガンス、という言葉に私ははっとし愕然として、現代という世の中の殺伐さの根底にあるのがエレガンスの欠如だと思ったのでした。

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2012.12.29 ツイッターから転載…鎌倉の吉田秀和を讃える四回連続講座(1)

鎌倉ペンクラブ主催で、11月の毎週土曜日連続四回という【吉田秀和を讃える講座】が開かれ、通いました。

吉田秀和は今年五月に亡くなった音楽評論家。でも、単に音楽評論というよりもっと深い文学的な評論で不思議な感じがしていました。鎌倉にお住まいだったということで、地元鎌倉のペンクラブの方が講座を設けられ、不思議を解くいい機会と思って申し込みました。初日が三日。それから全部で計四回、毎週鎌倉までよく通ったものと思いますが充実してこころゆたかになりました。

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11月4日
昨日の吉田秀和講座のお話はノンフィクション作家の入江曜子氏。中原中也との交流など青春期のお話から音楽評論家として大成されるまでの流れ。ドイツ女性の夫人を亡くし二年間茫然と日々を過ごされたそう。それから甦ってあの名文の評論家となられたのですがそのきっかけがプルーストだったそう。

吉田秀和氏が甦るきっかけを得たのはかつてご自分が書かれたプルーストについての文章でした。それは高遠弘美先生が『失われた時を求めて』第一巻読者ガイドに引用されている「それはこの本を読まなければ気がつかず」のあのご文章。吉田先生は言葉に書くことが忘れたものを思い出すことだと。

今吉田秀和先生のご著作に埋没する訳にいかずもどかしいのですが、昨日お話したある方に『ソロモンの歌』を読めばいいと教えて頂いたのでそうしようと思っています。なんといっても昨日の驚きは吉田秀和という方の原点に中原中也・吉田一穂という二人の詩人との邂逅があったこと。詩は全ての原点です。

11月10日
今日は鎌倉の吉田秀和講座二回目。小林秀雄と吉田秀和のモーツアルトがテーマです。小林秀雄と吉田秀和は鎌倉で通りを隔てて向いの家に住んでらしたそう。通りを歩いているとすれ違ったり、駅の改札で一緒になったりと、鎌倉の方の思い出に深く刻み込まれているお二人です。

鎌倉に向かっています。今日は一件だけの予定で出たのでのんびりです。修学院離宮でカメラの魅力が再燃したのでD90を入れたのとスマホの充電器を持ったのとでバッグが異様に重たいのですが、頑張ります。

出掛けに笠間書院さまから『笠間リポート』が届いていました。今日はバッグが重いので置いてきましたが、楽しみに拝読させて頂きます。それで思い出したのですが、岩佐美代子先生の『竹向きが記全注釈』、まだ入手していませんでした。竹向きが記は大好きな日記。余裕ができた今、そろそろの時期かも。

? 向かいにとまっていた黒い車体がカッコイイと思ったら、伊豆急リゾート踊り子号。その黒船電車でした。

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吉田秀和を讃える講座でお会いしたかった方とお会いでき、今までお話していましたので、持って出たカメラの出番なし。ツイートもあまりしなかったので電池切れの心配なく、充電器も出番なしでした。でもお話できた充足はなにものにも勝ります。ありがとうございました。

11月11日
今日の朝焼けは強烈でした@三鷹市

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昨日の新保祐司氏吉田秀和講座から。吉田秀和の音楽評論家としての出発は小林秀雄のモーツアルトに驚愕し啓示を受けてだった。ただ吉田秀和のそこからは如何に小林秀雄を超えるかと。二人ともに仏文出身。が、吉田がスタンダールやヴァレリィの正確と旨としたのに対し、小林はランボー。神秘だった。

小林秀雄の批評はあくまでも批評を通して自分を語る。それに対して吉田秀和は如何に批評の対象を正確に伝えるかを。そういうふうにして吉田秀和は小林秀雄を乗り越え、晩年の円熟の音楽評論家になった。たぶん、小林秀雄の絶頂はモーツアルト執筆時で晩年が円熟というふうにはならなかったと。

と、新保祐司氏は二人の著作からの、もうどきどきするほどの名文の引用や、二人が推奨するモーツアルトのCDをかけながらお話されました。新保氏が「小林秀雄はランボー」といわれる時、それが時に乱暴だったり、ほんとうにランボーだったりで、ほんとうに小林秀雄って人は!と楽しかったです。

11月12日
今日は図書館に行って吉田秀和の著作を借りてくる予定。鎌倉で講座を拝聴していて若い時に中原中也・吉田一穂と交わりそれが後の円熟した音楽評論家としての言葉の原点になったと知ったから。それで吉田秀和という方の言葉の使い方の謎が解けました。詩は何かを語るのでなく空白を語る言葉ですものね。

深刻な問題かもしれないけれど『リポート笠間』を拝読していて笑ってしまいました。今の学生は論文を書くのにまず研究論文をネットで探す。そのあとどうするかというと電子化されたものだけを引用する。当然とんでもない論文ができあがるんですよね…と。もうほんとうにとんでもない時代の気がします。

久しぶりのタリーズ。のんびりした必要でない時間をもっています。こうして寛いでいると如何にここのところ突っ走ってだけいたか。こういう時間をもつと必ず思い出すのがロラン・バルトのタンジール。コップやスプーンの触れ合う音が意識の流れに乗っかってとても美しい断章。文学だなあと思います。

11月13日
吉田秀和氏『ソロモンの歌』を拝読中。氏の音楽評論の言葉の根底に中原中也や吉田一穂との交流があったと聴いて。中原中也との事ではそこまでは触れてなく読み過ごしたのですが、吉田一穂の章に入って俄然ぞくぞくするほど引き込まれました。凄い吉田一穂論。全文暗唱したいくらいです。

根元を問うこと。本質だけを追及すること。そういうことは、私には、ちょうど粉雪に頬をさらし、白く眩しい雪の原をゆくのと同じように、快い戦慄にみちた営みと感じられる。この感覚は、私にとっては、吉田一穂さんによって自覚されたものである。(吉田秀和『ソロモンの歌』より)

詩人に限らないが、すぐれた芸術家や思想家のほとんどすべては、最初の出発点からすでに自分の根本の問題を提示するものだ。あとは、その発展、問題の深化や拡充があるにすぎない。(吉田秀和氏「吉田一穂のこと」より)

寄り道とおもいながら吉田一穂から離れられません。吉田秀和講座はもしかしたら吉田一穂を思い出すためのものだったのかと。啓示を受けた白鳥の詩が、下に引用させて頂いた一節の「問題の深化や拡充」の結果と知った今、やはりどうしても最初の出発点からの過程を探るまでは、という気分です。

11月14日
何故、吉田秀和という方が詩人吉田一穂についてあれほど深く書くことができたか、それが気になって氏の「吉田一穂のこと」を繰り返し拝読。氏が吉田一穂をはじめて訪ねたとき、一穂は33歳。氏は高校生だった。それは一穂が『海の聖母』『故園の書』を発表して詩人としての地位を確立した翌年のこと。

吉田秀和氏は書かれる。「『海の聖母』は吉田一穂の最大の詩集だろうが、天才の青春の所産」と。しかし、「詩人の青春の抒情というものは、いつかは、涸渇し、跡絶える日が来る」と。氏が一穂を訪ねたときは、一穂がその問題に直面しはじめた早々のときだった。三日と空けず訪問する高校生に一穂は、

「歌を喪った詩人の多くは小説家になる」と語り、しかし自分はそうでなく「何をすればよいのか」の模索の過程を激白し続ける。吉田秀和氏はじっさいにじかにそういった詩人の苦悩を耳にして青春時代を送る貴重な体験をしたのだった。

「その間に十数年の時が流れ」、「なぜ、詩人は詩をつくるかの問題は、なぜ、魚たち、鳥たちは、あるいは、北に向い、あるいは川を遡り、あるいは大洋の深海にもどっていって、産卵せずにいられないかの問題と重なりあうようになる。詩人は、宇宙と自然の哲学の中に、施策を根拠づけようと考えた」。

詩論集≪黒潮回帰≫の諸論文が書かれ、ついで詩人が≪現極論≫と呼ぶところの≪古代緑地≫の発想がたてられるのと、この≪白鳥≫の諸篇が書かれたのとが、時を同じくするのは、偶然ではない。(吉田秀和氏「吉田一穂のこと」より)

吉田秀和氏は書かれます。「一穂の当面していた問題は、すでに詩人となったものが、詩を創るとはどういうことか?を明らかにすることにあった」と。「これは、マラルメと共通する問題であり、今世紀の十年代からすでにヴァレリーが直面していた純粋詩の追及に重なる」と。

吉田秀和氏の音楽評論、そしてプルーストに対するあのご文章の根底には、こうした激烈な真の詩人の苦悩を声をじかに聞き、生身の肖像を見て過ごした貴重な体験があったのです。「さわけ山河。」、氏の引用の最後の詩はやはりこの≪白鳥≫でした。

先程吉田秀和氏と詩人吉田一穂の関係について長い連ツイをさせて頂きましたが、これはとても個人的なことですが私も小説を書き始めて早々に新人賞を受賞し、その後如何に何を書くべきかの長い長い苦しみのトンネルを抜けての『源氏物語と鎌倉』上梓、の経緯がありますので他人事ではなくてです。

11月16日
雨の宇都宮稲荷大明神@鎌倉 夕刻はお灯りが灯って雨と枯葉の風情にマッチ。吉田秀和氏と小林秀雄が道を隔てて住まわれた辺りをたどって散策しました。

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宇都宮稲荷大明神は、第四代将軍頼経の御所があった一帯です。

小林秀雄のお住まいだったあたりを散策しようとしてはからずも頼経や宗尊親王の御所をたどることになり歩いていたら、若い二人連れの女性に、この辺にお寺ないですか?と。訊くと妙隆寺。親王御所の北限目安の寺院です。どうしてそこへ?と訊きたくなってしまいました。

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12月25日 ツイッターから転載…11月8日の京都日帰り旅行まとめ【修学院離宮・慈鎮目和宝塔など】

いざ決戦、のツイッターへの呟きではじまった11月。毎週土曜日、計四回鎌倉に吉田秀和を讃える講座に通い、8日には京都日帰り旅行。そして鎌倉の世界遺産登録へ向けての三館連携特別展…など、慌ただしく動き回りました。そのあいだに「花の蹴鞠」の連載分も仕上げたりして。大変でしたが充実していました。終わってほっとしたところです。

どれも忘れては惜しいことばかり。ツイッターでは時間の経過とともに消えてしまいます。その点、ブログは残っていいですね。これから少しずつブログに記録していきます。まずは単発の京都日帰り旅行から。

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11月8日
浜名湖の向こうに棚引く横雲。新幹線の車内から。京都に向かっています。久々のプライベート。ざっと行きたい場所だけ決めて出てきたので、座席で今コースを調整しています。スマホで検索して危うく見逃して後悔するところだった寺院を発見し、ヒヤッと。

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祇園女御供養搭。昨日、知恩院の前を通って高台寺界隈に抜ける通りで見つけました。祇園女御の邸宅はこの一帯にあったんですね。

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さらに進むと西行庵。西行が晩年に構えた庵跡で終焉の地だそう。ここは角田文衛先生が建礼門院徳子の終焉の地とされる鷲尾界隈。高台寺では秀吉、知恩院では法然と親鸞といった方々が有名ですが、大河清盛に登場する方々ゆかりの地でもありました。

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慈鎮和尚供養碑@長楽寺の近く 吉水弁財天境内。重要文化財。 隣接する安養寺は慈円が中興の祖だそう。新幹線の車内で発見した寺院です。これで今日はもう充分満足というくらい嬉しい!

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紅葉の水鏡@修学院離宮 最高の景色でした。修学院離宮が一番源氏物語世界に近いと言われる意味が分かりました。

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東寺の五重塔が見える夕景

修学院離宮の写真を一枚FBにアップしました。今日の京都日帰り旅行は充実していました。明日以降少しずつ写真をアップしていきます。

11月9日
おはようございます。昨日は一日京都で過ごしましたが、修学院離宮の散策で一緒に歩いた京都の方からの情報。陽射しの関係で京都を巡るには、午前は嵐山、午後に東山、というコースがいいそうです。はからずも昨日の修学院離宮は午後。苑内の紅葉が見事に池に映っていました。

もうひとつ、修学院離宮のことで。修学院離宮を訪ねるには事前に宮内庁への申込が必要です。そこまでは知っていても、苑内に入ると総勢60人がずうっと一緒で係の方の説明を聴きながらというのは驚きでした。自由な散策ではありません。そして、かなりハード。足の悪い方には相当きついでしょうね。

宮内庁への申込ですが、同じ京都の方からの情報で、ネット申込は当選枠が小さいので殆どダメ。葉書は可能性高いです。あと、直接窓口にという手もあって、そうするとキャンセル分が入手できたりするそうです。私もネットがダメで、葉書で当選しました。

11月14日
修学院離宮の中に建つ客殿の霞棚です。桂離宮の桂棚、三宝院の醍醐棚とともに天下の三棚と称されているそうです。FBページにこの離宮の写真を数枚アップしました。

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■修学院離宮の写真はまとめてFacebookページにアップしました。

http://www.facebook.com/odayuriko.f

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2012.12.8 【12月7日17時18分頃 三陸沖 M7.3 震度5弱 】の前日の空

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写真は6日夕方の空です。一枚目は東を撮っています。東北から南東にかけて低空が茜色に染まり、その下が暗い断層状の空。この現象があると東北に大きめの地震があるので危惧しました。

二枚目は東です。当地から見て渋谷の方向。この延長線上に茜色に染まる勢いある雲が発生していました。この雲は内陸性。被害地震の雲でないので心配しませんでしたが、中規模発震にはなる雲です。おそらく【12月07日05時32分頃 千葉県北西部 M4.5 震度3】の前兆だったと思います。

三枚目は西です。上空はもう宵闇に包まれているのに低空が明るい夕焼けに輝く空…、この空はスマトラ地震の年に頻繁に観測しました。あまりによく見るので「消えない夕焼け」と名づけたほどです。最近、時々この空を観ることが多く、また大きな地震が控えているのかしらと危惧していました。

昨夕、【12月7日17時18分頃 三陸沖 M7.3 震度5弱 】が発生しました。先月末からひどい雲の空や現象を観測していました。今月に入って快晴の日が続き、前兆雲を発生させる要因が終わった気がしていました。それで内心警戒していたところにこの三枚の空を観たという経緯です。

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2012.12.4 ツイッターからの転載

11月1日
秋が深まってきました。手入れの行き届かいない我が家の庭には秋が似合います。と書いて、『源氏物語』に愛でられる秋は華やかな紅葉。でもそうっとひそかに紫式部は末摘花邸の庭のような八重葎のひっそりとした秋も見事に描いていたのだなあと。

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11月3日
いざ決戦(笑)。今月は毎週鎌倉に通います。時には週に二回行かなくてはこなせないかも。以前毎週撮りに行っていて体調を崩したことがあるので覚悟して回ろうと思っています。なのでいざ決戦!の境地。友人に話したらそういうのをいざ鎌倉っていうんじゃない?って。という訳で鎌倉に向かっています。

9月初旬にドアに挟んで痛めた足の小指が触るとまだ痛くて高いヒールの靴がはけないから背筋をシャキッと伸ばして歩けない気分がとても嫌。実際踵の高い靴は精神的にもいいそうですね。このままだとずうっと体がなまってしまいそう。と、今日もまだ低い靴を履いてでて徒然にぼやいています。

鎌倉の世界遺産登録推進に向けて三館連携特別展 その一 鎌倉国宝館

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鎌倉国宝館の看板、写真を今見たら、「武士たちの信仰と美術」が、「もののふたちの こころと かたち」のルビ。なんか言い得て妙と思ってしまいました。

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