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2013.1.30 ツイッターから転載…藤原定家の嵯峨小倉山荘があった場所は二条良基邸跡ということで訪ねました

1月25日

BS義満に二条良基が。角田文衛氏が藤原定家の嵯峨小倉山荘を二条良基邸の敷地内と特定された論文を拝読して訪ねたことがあります。小倉山荘を相続した女性が良基に嫁いだために二条家のものとなったからと。嵯峨の地に詳しいタクシーの運転手さんも探すのに苦労しましたがなんとかたどり着きました。

そこは二尊院の管理らしいと運転手さんがおっしゃってましたが、かつては雅だっただろう邸宅がまるで古墳と見紛う鬱蒼とした八重葎。その葎の中に良基公略伝の案内板がありました。

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もう一枚。朽ちた屋根つきの門にかかっていたヤマセミかなにかの雅な大和絵(?)。さすがかつての二条家の邸宅跡と思いながら、こういう絵が風雪に晒されるまま朽ちていっていいものか疑問でした。

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二条良基邸跡の八重葎状全体像を挙げてみますね。私が訪ねたとき時はこんなでした。屋根つきの門と案内板は右下に小さくちらっと見えています。寂聴さんの庵にも近い観光地嵯峨のなかでここだけブラックホールのようでした。

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2013.1.30 ツイッターから転載…書誌学的考察

1月24日

先日吉祥寺ジュンク堂書店に行きアウトプットの日ばかりだったから精神ががさつになっていたことに気がつきました。それでまた行ってゆっくり棚を見て回ってこれからの日々に必要な思いを反芻。『明月記研究提要』があったので手に。それと書誌学の本等を。今までにない視点は建長寺様での反省から。

陣野英則「『源氏物語』古注釈における本文区分ー『異本紫明抄』を中心にー」拝読。久しぶりの熟読だったからでしょうけれど大袈裟ですが魂を揺さぶられました。源氏物語の文章は会話や地の文が融け合っていて分かりにくく、古注釈はそれを明確に分ける試みでした。その結果分かりやすくなった(続)

のですが、陣野氏は結びでこう書かれます。精確に分けることで、皮肉なことに、物語本文それ自体の特質からは離れてゆく面があるようにもおもわれてならないと。これは源氏物語という事件を越えて凄い事で、分かる事より分からなくても受け入れる事のできる方がどんなにか大切と思ったのでした。

鎌倉で成立した源氏物語の古注釈『異本紫明抄』は編纂者が分かっていません。諸説ありますが私は北条実時と思っています。建長寺様の西岡先生のお話で金沢文庫でもそう認識されている事がわかり、この古注釈への関心が再燃しています。

1月25日

有史以来蓄積されてきた書物典籍は、人間の英知、思想、思考、情感といった精神活動が、最も明瞭に集約表出された内容をともなって伝承されてきた、学術文芸の果実としての文化遺産である。一国の文化、また地域世界をそれぞれの文化の動向変遷を歴史的に考える上で、また現在を見据え未来を(続)

見通す上で、最も拠り所となる重要な資材といえる。その書物を研究の対象とする書誌学は、文化の基層を確認しかつ形成する学問と言ってもいい。(『図説書誌学 古典籍を学ぶ』斯道文庫編)

『源氏物語』の写本を対象に私がしていることは『源氏物語』の研究ではないし、鎌倉で成立した写本の歴史を訴えてはいるけれど歴史学とはしたくない。では何?と考えてきて書誌学が一番心に合うと最近再び思い始めました。そうしたらこの斯道文庫編の図録にこの言葉が。

書物というのは、それ自体光りかがやく知の遺産を有していながら、みずからの意志を放つ有機的原動力をもち合わせていないので、人が、誰かが、手にし、開いて、目を通し、価値を認めて、伝える、あるいは広める、そういう行為を経ないと、どんなに素晴らしい内容の存在であっても、忘れられ、(続)

時間に埋もれたまま、薄埃をかぶって、朽ちて、失われていってしまいます。(拙著『源氏物語と鎌倉』より)…鎌倉で成立した「河内本源氏物語」は単なる『源氏物語』の写本でなく、当時の鎌倉の文化の基層を知る大事な手掛かりです。書物というのはほんとうに素敵な知的遺産だなあと思います。

だって、当時の人の思いが、意志が、誠実さが、そのまま籠められているのですから。

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2013.1.30 ツイッターから転載…14日大雪の名残の雑木林

1月20日

雪の雑木林@井の頭公園。久しぶりにのんびり出てきました。

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建て替え中の吉祥寺駅ビル上空に半月。何年後かに六階建のビルが建つそうです。Tre

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2013.1.20 建長寺様における講演は無事に終了しました。

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1月17日、北鎌倉の建長寺様で講演をさせていただきました。禅文化研究会の一月の例会に宗務総長様が入れてくださったのです。

講演は無事に終わりました。たくさんの方にいらしていただいて盛況でした。このブログをご覧いただいている方のなかにもいらして下さった方がいらしたら、どうもありがとうございました。

私のテーマである『尾州家河内本源氏物語』は、金沢文庫にあったものが鎌倉滅亡とともに流出し、その結果鎌倉の影が薄くなったものです。なので金沢文庫さんは『尾州家河内本源氏物語』の大切な故郷、切っても切れない縁でいます。金沢文庫の学芸課長でいられる西岡芳文先生にそのあたりのお話もしていただいたのですが、内容が濃くてまだ私にも消化しきれず、ブログにまとめることができないでいました。

翌日のフェイスブックに忘れないうちにと書いたものを投稿してありますので転載させていただきます。

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建長寺様の講演にはたくさんの方にお出で頂きありがとうございました。何度も雲水様が席を足して下さいました。総長様のお話ではいつもの例会より多い分は織田さんの関係でしょうと。ツイッターやフェイスブックを見ていらして下さった方もいらっしゃると思います。ありがとうございました。

今までの講演では女性のご参加が多かったのですが、建長寺様という特別の環境だったから男性の方が多く、その方々が鎌倉の『源氏物語』の歴史に興味を持ってくださったことはとても意義深いと思います。皆様食い入るようにパワポのスライドに見入ってくださってました。

カメラを持って行ったのですが始まる前は撮れなくて、終わって帰るときに1ショットだけ撮ったのがこの写真です。もう暗くなっていてブレたのもわかっていましたが、とにかく記念にと。

建長寺様での講演が終わったあと、私の胸には妙なしこりが残りました。どう説明していいかわからない感情です。いいことか悪いことかそれもわからないまま一日悶々としました。が、それが解けてツイッターに連ツイしましたので、転載させていただきます。大事なことですので。

◇もやもやしていたものがようやくとれて今頭の中が目まぐるしく回転しています。そうだ、核心はここにあったと。恐縮ですが連ツイさせて頂きます。昨日の講演では金沢文庫の西岡芳文先生が文庫についてお話して下さいました。その中で文庫は時代に翻弄されている。二代当主顕時は霜月騒動に連座し下総に

◇流された。その間に文庫の文化財がどうなったかわからないと。ということは初代当主実時が文庫に保管した『尾州家河内本源氏物語』もということになります。これは困った問題とその時思いました。鎌倉を流出するまで文庫にあった事が私には前提でしたから。そしてその後元文庫長の方が話されて、

◇『尾州家河内本源氏物語』にある奥書は実時の自署ではないと。それは最近の八木書店様刊行の解説で岡嶌偉久子先生が既に書いていられる事なので私には問題なく、あとでご挨拶に伺ったら、貞顕の右筆の署名と教えて下さいました。もやもやしていたのはこのあたりをどう整合性つけるかだったようです。

◇ようやく得心したのは、三代当主貞顕が右筆に書かせたなら、二代当主顕時の時代も『尾州家河内本源氏物語』は無事くぐり抜けて金沢文庫に保管されていたということ。思いがけず昨日の建長寺様の講演の場で歴史のこういうことが埋まったのでした。

◇そしてもう一つ。同じ『源氏物語』ということで鎌倉武士が所持していた『源氏物語』と『尾州家河内本源氏物語』が明確に分けて考えられてこなかったということ。『源氏物語』が盛んに研究された当時の鎌倉にはふつうの写本はたくさんあった。それと『尾州家河内本源氏物語』とは全く別種なのでした。

◇『尾州家河内本源氏物語』は別格です。昨日のお蔭でやっと認識に達しました。『尾州家河内本源氏物語』は写本という扱いより美麗な蒔絵の箱といったような美術工芸品として考えるべきでしょう。料紙の格からして違うのです。こんな明瞭なことが写本の一語で括られているから混乱していたのでした。

◇従来実時の名を記す奥書から『尾州家河内本源氏物語』は実時の制作といわれてきました。岡嶌偉久子先生のご研究で実時自筆説が明確に否定されて私は宗尊親王制作説にたどりつきました。親王の制作ならあの料紙の格調の高さが理解されます。鎌倉武士の制作だからと侮られて顧みられなかった部分です。

◇きっと宗尊親王の制作と知っていた当時の人たちは、その格調高い写本を自分たちが通常読む『源氏物語』とは別格の扱いとして金沢文庫に保管したのでしょう。書状に残る南殿という女性が所持していた『源氏物語』などふつうの写本が見事に失われているのに対し、『尾州家河内本源氏物語』は残りました。

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2013.1.6 明日の講演用に送っていただきました!八木書店様刊行の『尾州家河内本源氏物語』影印本の抜刷とカタログです。

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建長寺様での講演が明日に迫ってきました。

『尾州家河内本源氏物語』は2010年から八木書店様でカラー版の影印本が刊行されています。全10巻で、現在7巻まで進みました。私も欲しくてたまらないのですが、分売不可で一冊3万円近くするので個人での入手は無理。都立図書館へ行って拝見しています。

いくら『尾州家河内本源氏物語』のお話をしても、実際にどんなに凄いものかご覧になってみないと実感できないと思います。それで、八木書店様にお願いして今回の講演用にカタログと抜刷を送っていただきました。会場でいらした方に実際に手にとってご覧いただこうと思っています。

写真の抜刷は「若菜上」巻の部分です。その下にあるのが裏表紙の部分です。

では、明日、会場でお目にかかれたら嬉しいです!

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↑ 講演で上映するスライドの一枚です。

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2013.1.5 鎌倉の「建長寺たより」より、建長寺様での講演のお知らせ。【1月17日。金沢文庫学芸課長の西岡芳文先生と鎌倉の『源氏物語』について】(Facebookから転載)

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「建長寺たより」の新春号です。

建長寺さまでは毎月鎌倉禅研究会という公開講座をされています。例年一月はお休みで二月からはじまるそうですが、今年は特別にその空いている一月の枠に【鎌倉の『源氏物語』】を入れて講演させていただくことになりました。

武士の都といわれている鎌倉ですが、第四代将軍頼経が京都から下向されてから、鎌倉にも雅な京の文化が流れ込みました。そうしたなかで将軍家の趣向で古典文化への教養が育まれ、『万葉集』と『源氏物語』の後世への継承に大切な役割を果たしました。

自著『源氏物語と鎌倉』でそれを書かせていただきましたが、でもまだ一般の方への浸透はなされません。それを建長寺の高井正俊宗務総長様に直訴させていただきました。「鎌倉にこんなに雅な文化があるのに誰もそれを伝えないから市民の皆様がご存じない。市民の皆様が享受できないのはおかしい」と。

高井総長様はすぐにご理解下さって金沢文庫に連絡をとられ、折り返し私にお電話をくださって、「貴方のいうことはもっともなんですよ。だから機会をあげます」と、一月の例会にプログラムを入れて下さったのです。

金沢文庫学芸課長の西岡芳文先生は、『尾州家河内本源氏物語』を研究している私に「それと全く同じ装丁の『西本願寺本万葉集』がある」と教えて下さった方です。西岡先生に金沢文庫の文化財一般についてご講演いただき、私がパワポの映像で「鎌倉で「河内本源氏物語」ができるまで」をさせていただきます。

◆公開講座「鎌倉禅研究会」
第八十二回 一月十七日(木) 午後一時から
西岡芳文 「鎌倉文化を担った『金沢文庫』」
織田百合子 「鎌倉で『河内本源氏物語』ができるまで」

*申込不要。聴講無料。但し、入山料必要です。

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2013.1.3 「不思議の庭の野菜」を撮っていられる写真家さんのTVを見て写真家として思ったこと。(Facebookから転載)

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何気なく見たTVの不思議の庭の野菜という番組が新春早々心に残りました。

それは奥田さんという写真家の方のお話。風景写真家として出発されたのですが、どんなにいい写真を撮っても満足できなかった。自分にとっての写真って何だろうと模索し続けて掴んだのが草木の一生を撮ることだった。種が芽を出し緑の木になり花を咲かせ実を実らせそして枯れていく。それを春夏秋冬丹念に撮り溜めて、白いバックの一枚の写真に嵌めこんでその草木の一生を構成する。

同じ手法で撮り溜めた草木の一生の写真が何枚も並んだようすはさながら寺院の天井画のような豪華さでした。でも一枚一枚を見ると種から枯れて一生を終わるまで。厳粛な絵です。

十年単位で山野の草木を撮り尽くした今は、ご自分の庭で野菜を育ててそれをなさっています。見慣れない人参や牛蒡の花…、そして終わりの人参。人参は根だったんです。当たり前だけれどあまり認識ありませんよね。でも、一本のオレンジ色の人参が木となって花を咲かせて実をつくり種となって朽ちてゆく。立ち枯れた木を掘り起こしたら、養分を木の成長にとられてがちがちに固まって細くなってはいるけれど、色はしっかりもとのままのオレンジを保っていました。

それを掘り起こして写真家さんは白いバックで最後の姿の人参を撮る。そして種から撮り溜めたそれぞれの季節の成長と一緒に一枚の写真にまとめ上げるのです。

私も写真を学んだ身として自分の写真とは何かをずうっと追い続けています。写大時代は好きに撮っていましたが、仕事になったらそれなりにこなしていくうちに自分の写真とはが見えなくなっています。目下は執筆の取材に記録として撮っているからどうしてもスナップ。これで満足できるはずがありません。

という訳で執筆関係の充実と裏腹に写真に対してはずうっとフラストレーションが溜まっています。鎌倉の『源氏物語』の問題が昨年で一段落しましたので、今年は写真をと思っていたときに観た朝の番組。深く心に残りました。

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2013.1.1 あけましておめでとうございます。(Facebookから転載)

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明けましておめでとうございます。

今年は新春そうそうに念願適った講演の機会をいただき緊張のスタートです。ツイートさせていただいている鎌倉の『源氏物語』の原点は『尾州家河内本源氏物語』です。金沢文庫に収められていました。鎌倉の滅亡とともに流出して鎌倉を離れたために、現代では鎌倉に『源氏物語』の文化があったことが忘れられてしまっているのです。

という事情で、金沢文庫は『尾州家河内本源氏物語』にとって大切な故郷。その金沢文庫の学芸員さんと一緒に講演させていただきます。

私にとって「鎌倉に雅な『源氏物語』文化があった」という私の訴えが金沢文庫に届くのが突破口のような強い願いでした。文庫からは西岡芳史先生が文庫の文化財について講演してくださいます。

今朝頂いたお年賀状のなかに、西岡先生と私の両方を知る歴史学者さんから「西岡君とのコラボが見ものですね」とありました。不思議な円環のなかにいます。講演の詳細は追ってアップさせていただきます。

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2013.1.5 2012年12月のツイッターをまとめて転載させていただきます…鎌倉長谷寺さんの紅葉のライトアップと吉岡幸雄氏が染められた絹布、『アナホリッシュ国文学』創刊号の万葉集特集、人物叢書『文覚』、『源氏物語と鎌倉』上梓一周年、パヴロバ・バレエスクール回顧展、映画「のぼうの城」、海人の藻塩、中村信一郎『建礼門院右京大夫』のことなど

12月2日
鎌倉に向かっています。これで観ておきたい展覧会が全部終わり。来週は私事がたて込んでいます。今日のうちにこなせればほっとします。11月初旬からの怒涛の一ヶ月でした。体力がもつか心配でしたが大丈夫でした。疲労が回復してきているようです。

朝は綺麗な青空。白い雲が映えて撮影日和と思ってカメラを持って出たのですが、鎌倉は雲に覆われています。予報では雪?かもという事で傘も持って来ました。雪の鎌倉を撮れるかも?と密かに期待。

予定の展覧会、二件ってあとは気楽に自由タイム。鎌倉文学館実朝展覧から長谷へ歩いて来ました。雨はまだ降っていません。もちろん雪も。写真は文学館の正門前にあった長楽寺跡の石碑です。

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紅葉のライトアップをされている長谷寺さんでは、今、観音堂に吉岡幸雄さんの染められた色とりどりの布が五色の布のように垂れ下がって風に揺れています。

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綺麗でした、長谷寺観音堂。こんな雅が鎌倉で堪能できるなんて。

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今日持って出たのは金沢文庫で買ってきた図録『鎌倉密教』。行きたくて行かれなかった展覧会。鎌倉の仏教というと日蓮や親鸞の新仏教と思いがちですが、それは学校で習ったインパクトが強いだけ。新仏教が普及するのはずっと後世で鎌倉時代主流だったのは京都と同じく密教。それを明かした展覧会です。

仏教の側から鎌倉の歴史を探ると政治や内乱史だけでは見えない人間的な厚みある鎌倉が見えて楽しい。この時代、宗教は信仰というより権門との繋がりだから、もしかしたら表向きの政治史より深いかもしれませんね。

鎌倉の長谷寺の紅葉のライトアップはさながら京都の夜のようでした。私の目的は紅葉ではなくて吉岡幸雄氏の観音堂に飾られた染の垂れ布。先にスマホで写真をアップしていますが、撮りたかった構図はこういうものでした。

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絹布が薄いので風が吹いて重なるとそこにまた微妙なトーンの色の演出が醸し出されます。いくら撮っても変化は多彩。素敵でした。

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創刊六十号記念「『別冊太陽 源氏物語の色』、昭和63年の刊行です。私が『源氏物語』の色に惹かれることになった最初の本。表紙の写真はいうまでもなく中の「桜の唐の綺の御直衣…」など原文に添った染の絹布の写真にもう溜息しかありません。

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↑ 長谷寺に飾られた吉岡幸雄氏染色の絹布に惹かれた原点です。改めて手にしてみたら監修が吉岡常雄と。あれ、幸雄氏でないの?とびっくり。幸雄氏はご長男でいらしたのですね。てっきりこの別冊太陽の方と同一人物とばかり思い込んでいました。凄いことですね、親子二代にわたる源氏物語の色の追及。

12月3日
六本木に向かっています。武蔵野の雑木林の住人には眩過ぎる世界でいつもお上りさん気分です。でも今日はそうも言ってられなくてちょっと緊張。最近緊張する事が増えたような。

久しぶりの六本木、イルミネーションと雨に煙るヒルズが綺麗です。緊張しながらも贅沢な時間を堪能させて頂いて帰途についています。それにしても世の中には美しい世界があるものと、我が鎌倉の源氏物語と照応しつつ思いました。

そしてそれを作品にするには断られても断られてもめげない情熱が必要と、これもまた我が鎌倉の源氏物語と照応しつつ思いました。情熱はひたすら真っ直ぐです。

雨に煙る六本木ヒルズとイルミネーション。記念に撮ってきました。

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12月4日
吉祥寺北口にある大手の書店を廻って四軒目でやっと探していた雑誌を入手。『アナホリッシュ国文学』創刊号。『万葉集』の特集です。目次に仙覚本についての考察があり、フェイスブックで教えて頂いたもの。帰って楽しみに読ませて頂きます。

12月6日
『アナホリッシュ国文学』はノーベル賞詩人シェイマス・ヒーニー氏の詩にちなむ「清らかな水の湧く所」を意味するそう。詩人の吉増剛造氏の提案とか。堅苦しい国文学の雑誌に吉増氏が?と驚きました。創刊号は『万葉集』の特集。でも手にするとやはりどこか詩的な文学の薫りがします。

吉増剛造先生の講演を一度だけ拝聴したことがあります。開始早々「静かにこれをお聴き下さい」とテープをかけられました。それは長い長いイントロのクラウス・ノミの曲でザ・コールドソング。タイトルを知らなかったので店先で何枚か試聴させていただいて購入したのも曲と共に忘れられない思い出です。

昨夜知人に文覚ってどういう人?と訊ねられて私も曖昧だったので調べてみたら頼朝とは伊豆の流人同士の旧知の仲。それで頼朝旗揚げ以降の知られている活躍を納得。大河清盛の伊豆時代に文覚が出なかったのは文覚への理解にとって機を逸したなあと思いました。

鎌倉には六浦路の御堂橋付近に文覚の住居跡の碑があります。こんなところに?といつも不思議でした。が、鎌倉幕府成立後は幕府の要人としてはたらいていたのでした。文覚というと神護寺の僧侶の印象が強いから京都にだけいた人のように思っていました。知らないと繋がりません。

そうだったんですか。それで六代をあれほどに守った謎も解けました。いつもながらに教えて頂いてありがとうございます。 QT @sukemori 文覚は父上の郎党でした。六代の助命に大きく関わりました。

文覚の六代との関係がわかったら突然源光行が気になりはじめました。光行が六代勝事記と係わりあるかも知れない論究を拝読した事があって、???でした。でも文覚の経歴は光行と重なります。しかも頼朝の幕府で要人として一緒だったのです。『源氏物語と鎌倉』は完全に文覚の存在を逸してました!

東の空@三鷹市 上空は水色。低空は紫がかったピンク色の不思議な空。

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同時刻の渋谷方向に出ていた勢いある雲@三鷹市 茜色に染まっていました。(この方向は千葉県。翌日、内陸で地震がありました。)

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西の空@三鷹市 上空は宵闇色に染まっているのに低空は透明な夕焼け@三鷹市 この空はスマトラ地震の年によく観ました。(翌日、三陸沖でM7.3がありました。)

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12月9日
『アナホリッシュ国文学』、田中大士氏「万葉集仙覚校訂本の源泉」を興味津々に拝読しました。論文はほんとうに良質のミステリー。結論を早く知りたくてはやる思いで進みました。こんな研究をされていた方がいらしたんですね。今まで存じ上げなかったのがふしぎ。私の仙覚探究の第二段階序章のよう。

内容に関しての感想というかまとめはのちほど、たぶん深夜にツイートさせていただきます。あっという感じの人間模様が浮かび上がりました。凄いなあ、論文って…といった思いに満ちています。

『アナホリッシュ国文学』所収田中大士氏「万葉集仙覚校訂本の源泉」のこと(1)…仙覚が『万葉集』約4500首中訓点がつけられていなかった152首をつけて全部につけ終わった、という事実を『源氏物語と鎌倉』で使わせていただきました。田中氏のご論考はその152首の内容についてです。

(2)…その内容とは152首中長歌が111首と圧倒的に長歌が多いことからの推論。平安時代書写の写本には基本的に長歌の訓点がなく、その後の仙覚より前の鎌倉時代に111首を残す他の長歌に訓点をつけた人物がいる。それは誰か、というご論なのです。

(3)…仙覚は寛元に将軍頼経から命じられて『万葉集』の校訂をします。それは同じく頼経の命で校訂をした源親行の後で、親行の本を底本にしています。と、ここまでは仙覚と親行の関係として知っていましたが親しい感じはしませんでした。が、田中氏のご論でもしかしたら案外二人は懇意だったのでは、

(4)…と思われるのです。『源氏物語と鎌倉』では歴史的観点から親行と仙覚を追っていました。それでは時代が重なるものの接触度は浮かび上がりません。でも、仙覚がつけた訓点が親行がつけ残した長歌だったとしたら…。田中氏は親行のとは断定されていませんが想像が膨らんでしまいした。

(5)…それにしても仙覚が最後の152首に訓点をつけ終わって全部の歌が解明できたとされる事実が、実はそのほとんどが長歌であって、しかもそもそも長歌に訓点がついたのが鎌倉初期から仙覚までという短期間だったとは。今まで知らなかったのがふしぎで何か目くらましされていたみたいな気分です。

12月10日
図書館で吉川弘文館人物叢書『文覚』を借りて来ました。どういう人?と訊ねられて私も曖昧だったので調べる気になったら、折しも叢書の新刊に。仙覚といい、文覚といい、今まで外側からたどっていた世界のなかに入って人の息吹が聴こえてくる気がします。だけど二人の名前の覚の字の意味は何でしょう。

12月11日
おはようございます。昨日10日は『源氏物語と鎌倉―「河内本源氏物語」に生きた人々―』の刊行日でした。ちょうど一周年。怒涛のような一年で振り返っても何があって何をしたか思い出せません。昨夜何かすとんと日常に還ったかの感があったのですがこれから次のサイクルに入るということだったよう。

12月13日
山田昭全氏の人物叢書『文覚』を拝読しています。彼についてはほとんど知らなくて、驚いたのは34歳も年下の明恵を敬愛していて、明恵を引き留めるために栂尾に学問所を建てそれが後の高山寺となったと。なんとなく高山寺が神護寺に隣り合わせのようなのが不思議だったのですがそういうことでした。

人物叢書って面白そう。今まで必要でしか読んで来なかったのですが、『文覚』は質問されて読むことになりました。先日『織田信長』をご恵送頂いて、織田信長がまだ叢書になっていなかったことに驚き、執筆が池上裕子先生だったことに二度驚き…。こちらも文学とは違う新鮮な信長像を拝読できそうです。

12月14日
ふたご座流星群を観てきました。20分くらいに13個。ペルセウス座流星群のときの火球を観た怖さに比べるとおとなしく可愛い流れ星でした。オリオン座の下を流れたのが一番大きかったかな。でも夜空が宵のような明るさ。新月で暗いはずなのに。こういう夜空は地震に注意と思いつつ眺めていました。

『源氏物語と鎌倉』に頂いた中野幸一先生のご書評掲載号の『解釈』。今朝お送りさせて頂いた敬愛してやまないある高名な先生からお返事を賜りました。「光行親子もさぞかし満足と存じます」と。有り得ない僥倖ですが温かくてほのぼのしています。

12月15日
鎌倉に来ています。雨の鎌倉は空いていていつもと違った風情です。湘南ラインの間人物叢書『文覚』を読んでいてすっかり嵌まってしまい、鎌倉到着も現実感なくふらふらと降りました。全くの大河清盛と重なる世界。裏でこんなに暗躍した人物がいたんですね。文覚が主人公のドラマを作ったらかなりいい!

文覚を中心に据えると、頼朝がいて、時政がいて、後白河院がいて、明恵に俊成まで! 法住寺が出て、伊豆が出て、蓮華王院がでて、神護寺が出て、東寺も。蠢く曼荼羅のよう。

鎌倉の川喜多映画記念で日本のバレエ発祥の地鎌倉の映画と講演。パヴロバ・バレエスクール回顧展。ロシア革命で日本に亡命して鎌倉にバレエスクールを開いたパヴロバ一家。橘バレエ団とか牧阿佐美、貝谷八百子等、めくるめくような懐かしのお名前を堪能。

雨があがってしっとり濡れた鎌倉の風情は格別。そういえば今日の講演で、パヴロバ一家の顕彰碑を設計された建築家の方が、日本の風景は全部風でできている。だから言葉にも風景とか風情というように風が使われる。建築というと物を設計してしまうが、風を考えなくてはいけないとおっしゃってました。

文覚について連ツイさせて頂きます。文覚は空海ゆかりの神護寺の荒廃を悲しんで後白河院に直訴しますが聞き入れられず悪態をついて捕縛され、伊豆に流され、そこで頼朝と懇意に。おそらく同じ時政の下。かなり密接な交流だったよう。頼朝の信頼篤いのはその為。神護寺復興にみる実行力で頼朝に貢献。

神護寺にある頼朝、重盛、光能は、文覚が描かせたとか。頼朝との係わりで頼朝像は当然として、光能が誰か不思議でしたが、謎が解けました。後白河院の近臣で院と文覚のパイプ役の人。こんな立派な画を描かせたからには彼とも深い交流をしたのでしょう。後白河院よりも。

鎌倉の川喜多映画記念館は川喜多長政・かしこご夫妻の邸宅だったところ。亡くなられたあと鎌倉市に寄贈されて映画記念館に。入ってみたかったのに機会がなく今日叶いました。建築家の児島学敏氏のお話ではもとは和辻哲郎の住居だったとか。氏は記憶が重なっている土地の大事さを話されていました。

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児島学敏氏のお話は深く感銘を受けることばかりでしたが、その一つ。日本の彫刻(大仏様も含めて)は、日本が雨の多い国なので屋根に覆われていて下からバウンスしてくる光で見るように造られている。それが海外の天から注ぐ光のなかに立つ彫刻と違うところと。庭園の苔や書院造の縁台もみんなそうと。

そして、土地の記憶ということを大事にしなければいけないと。例えば蝶が飛んでいても、それはずっとそこにある大地に植物が生えてその花に蝶が舞うということ。壊れたからといってすぐ破棄したり、近代化といって何でもアスファルトで覆ってしまうのでなく、引き継がれる記憶を大事にしようと。

12月16日
世の中が変わった朝。是非はともかく人の世の大きな意識ということを思う。学問の分野でも意識の転換がということを昨日読んだ。『アナホリッシュ国文学』の巻頭対談。日本文学、特に古典の研究が振るわなくなってしまったことについて。

沈滞の理由には従来の研究を支えてきた枠組み自体が制度疲労に陥った面があると。「古典を日本文化の精髄と捉えて、日本人としてのアイデンティティーの拠り所を古典に求める」という愛着の持ち方が、グローバル化の進行する中で若い人たちに訴えなくなった」と。

これは日頃何となく感じていて、拝読してそうなんだぁと納得しました。吉田秀和講座で大正人の思考のエレガントを学び、戦争を経験した昭和人にはそれがないと。でも昭和人にはまだ大正人から学んだという学問の姿勢があります。平成になって世の中がグローバル化してそれが変ってしまったのでしょう。

古典に限らず文学に人の、自分の生きる道を求めたのは過去になってしまったかもしれません。昔は小説は自分を削って自分の生きる証を問うものでした。でも現代はPCがあってそれなりに書けば誰でも書ける時代。そういう中で古典や特に『万葉集』のような研究は求められなくなっても仕方ないでしょう。

鎌倉の『源氏物語』から発展して突き当たった仙覚の『万葉集』。そこから『万葉集』について考えることが多くなったのですが、『万葉集』に陶酔して語る方の年代が上の方ばかりというのが気になっていました。平成の若い人たちが篤く語れる『万葉集』ブームが起きたらいいですね。伝播は人の問題です。

12月20日
あさイチで広島市呉の古代の塩の製法を復活させた藻塩が紹介されていました。きっかけは海岸で拾った製塩用の土器の破片。そして百人一首の定家の歌の藻塩の語と。さらに万葉の「朝凪に玉藻かりつつ夕凪に藻塩焼きつつ」の歌で方法が閃いたそう。素敵な紹介でした。

海人の藻塩、「これ、おいしいのよ」と頂いたことがありますがほんとうにおいしくてみつけると時々購入します。でもそれがこんなふうに考古学と百人一首と万葉集を背景にして生まれたなんて!! 日本の文化の粋だなあと。

「のぼうの城」を観ました。不勉強だと怒られそうですが、竹田城に関心をもっていたので行って、なのにのぼうの城が関西でなく埼玉県行田市の実際にあった話だったのでびっくり。しかも北条氏直とか小田原城とか、八王子城の発掘に少し携わった身には超身近。正統派の映像が綺麗で堪能しました。

竹田城は雲海に浮かぶ天空の城として写真で見ていつか私も行って撮りたいものと憧れていました。なのにのぼうの映画で脚光を浴びて最近では大変な人出だそう。TVで見るとこぼれ落ちそうなくらい。もう以前の静けさには戻らないでしょう。映画も竹田城的に引いて撮った画面が多く荘厳でよかったです。

http://search.nifty.com/imagesearch/search?select=1&cflg=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&q=%E7%AB%B9%E7%94%B0%E5%9F%8E&ss=nifty_top_tp

壮絶な夕焼けでした@渋谷 手前のビルがなかったらと残念です。

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ビルに隠れて見えなかった夕陽が一階上に上ったらガラスに写っていました。

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12月23日
小田原に向かっています。海が見える車窓が楽しみ。それと帰りにアジの干物が買えるかなあ。

小田原への長い道中に読もうと持ってでたのは『増鏡』。後鳥羽院時代からの鎌倉武士の世を京都の公家の視点で描いたもの。久しぶりに古文を堪能。しかもまさに大河清盛や私の『源氏物語と鎌倉』の馴染みの世界。こころゆくまでといった感触です。ここに宗尊親王の鎌倉下向が出て来ます。

昨夜ある転機(鎌倉ペンクラブの入会が受理されたとのお知らせ)があって思考が変わったら、新春に控えている講演用のパワポ作りに気分が乗りました。一件はタイトルが決まっていて「鎌倉武士と源氏物語」。それをどう分かりやすく料理するか構成が決まったかも。そうしたら別の一件もそれを使えばいいと一気に解決。今年はこれでいきます!

それは、今まで写本の歴史で流れを作っていたのを、光行から始まる人間の流れで作ろうというもの。これには今年仕上げた論文「源光行の鎌倉下向と一時上洛」の成果があります。今まで不明だった部分が大きかったから、写本の流れでいくしかなかったのかも。これから小説のようにパワポを作れます。

『増鏡』に水無瀬離宮の描写。何度もここを読んだけれど、今まで自分で行って撮った殺風景な荒涼とした場所のイメージしか湧かなかった。でも茅葺きの廊や渡殿があって優美と。修学院離宮や映画「のぼうの城」にあった聚楽第のシーンが彷彿。久しぶりに読むとこういう効果があるのですね。

12月25日
25日の今日が中村真一郎氏の忌日と教えて頂き、氏の日本詩人選『建礼門院右京大夫』を拝読しました。不思議なのは右京大夫の文章の連ね方に氏がご専門のプルーストの手法と同じとされている事に違和感ない事。プルーストと右京大夫との文学的素質の類似とまで言い切っていられる。成る程と思いつつ、

私には先日吉田秀和講座の、中村真一郎氏が大正人で、大正のエレガンスを身につけた方というお話が思い出されました。プルーストも右京大夫もエレガンスなんです。だから素質に違和感ないのでしょう。昭和の作家に真一郎氏にこういう批評を頂ける人はいるかしらと思ってしまいました。

楽しいのは今まで右京大夫の歌にあまり惹かれた事がなかったのですが、真一郎氏の文章で紹介されるとみんな京極派の歌みたいに斬新に見えること。たしかに右京大夫の歌は定家の撰で入集するまで新古今に入らなかったのが、玉葉や風雅以降採られているという。やはり右京大夫の素質自体に何かあるかも。

「右京大夫もプルーストも、自然の連想によって意識の表面へ浮かび上がってくる情景を、次つぎと叙べて行くので、そのために前後の情景が微妙に溶け合って雰囲気を濃くして行くし、読者は知らないうちに、次の情景のなかに招き入れられていることで、心理的な快感を味わうことになる。」

「橘の花こそいとどかをるなれ風まぜに降る雨のゆふぐれ」。中村真一郎氏日本詩人選『建礼門院右京大夫』読了。後半の平家滅亡以降に関してはもう引用するべくもないのですが、これだけはと思った箇所を揚げさせていただきます。この歌は真一郎氏がこの一首をもって集を代表させてもいいくらいと。

「この見事な叙景歌には、歌人その人の心のさま、―ただ気分といっただけでは不充分な、エタ・ダーム(魂の状態)とさえ呼びたいようなもの―が、重く浸透している。それが単なる庭先の情景を、私たちの胸をしめつける切ない気持にかりたてるようなものにまで高めているのである。」

「この歌は繰り返し読んでいると、こちらの心までが『雨まじりの風』にさっと吹きあげられて、揺らめいてくるような錯覚におちいる」と、真一郎氏は書かれます。五月待つの歌以来の橘の香の官能性について、「その官能性が、湿った重苦しい幽暗の空気のなかに匂いでてくることが、その恋を…」と。

中村真一郎氏『建礼門院右京大夫』はずっと棚に飾ってあったのですが、この集は読みやすいので原文だけにしかあたっていませんでした。最近プルーストを再読しはじめて感性が甦り、大正人のエレガンス等知識も豊富になって氏の詩人選に触れたら今こそだからの堪能と思えてきました。

それにしても中村真一郎氏の日本詩人選『建礼門院右京大夫』は、プルーストを通過した人ならではの官能性。そして拡がり。建礼門院右京大夫にラディゲが重なって感じられてもおかしくないのは真一郎氏の筆だからでしょうね。凄いですね。中世の女流日記を仏文学世界へ引っ張ってしまうなんて。

今年も残すところあと一週間を割り、来年秋に多摩地域で持たせていただく講座の開講時期が決まりました。10月から翌年の3月まで、毎月第2木曜日の計6回。タイトルは「鎌倉の『万葉集』と『源氏物語』」。全回パワポの上映でドラマを観たような楽しい印象で帰っていただけるようにと思っています。

12月30日
おはようございます。今年最後の満月の朝に松井秀喜選手の引退を聴き感慨深しです。偉大なる人には自然に時宜が叶うのでしょう。

YouTubeで130回も再生されている「万葉集と源氏物語と鎌倉」を見て私と似たのをupされてる方もいるのだなあと観たら、私のでした。たしか40回にも満たない頃までしかチェックしてなかったからまさか自分のとは。講演に使ったパワポの映像です。

http://www.youtube.com/watch?v=TaFtZ4cGlw4(現時点で152回。ありがとうございます。)

来年も新春早々から講演の機会を頂いています。今まではこのYouTubeバージョンをそれぞれのTPOに合わせて作り変えてお話していました。でも来年からは一新して源光行や仙覚、宗尊親王、北条実時といった方々の人生を主題にと思っています。随分私もこなれてきたものだなあと自分で思います。

今日は仕事納めのような気持ちで吉祥寺ロフトへ白い封筒を購入に。1月に講演させて頂く寺院の広報新春号に案内が載っていて、それを送っていただいたから。お世話になった先生方にここまで来ましたとの感謝とお礼の気持ちを込めて新春早々発送作業の仕事はじめにしようと思います。

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