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2013.2.24 ツイッターから転載…鎌倉の鎌倉山に行ったこと

2月21日
ドピー感(どう表記するのだったかしら)の快晴のなか鎌倉に向かっています。今日は用事でなく談笑なので気が楽です。

駿河湾@鎌倉山からの眺望。鎌倉から伊豆半島が見えるなんてと驚きました。富士山は今日は雲に隠れています。

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お座敷に活けてあったネコヤナギがシルエットに。

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2月22日
昨日鎌倉の方に『吾妻鏡』の牛車の話をしたら、まあ、と絶句されました。あれほど頻繁に記述されているのに一般の方がご存知ないのはやはりTVや映画のシーンに出てこないからでしょう。遺跡では轍の跡が出ているそう。でも荷車とされているような。轍が出た報告書を探して読んでみたくなりました。

昨日は車窓から国の史跡常盤亭跡を。北条政村の別邸跡で世界遺産登録候補地です。政村は義時の子で泰時の異母弟。同母兄弟に実時の父実泰がいます。大河時宗では伊東四郎さんが演じられました。と、やっとこの辺の人間関係が把握できたところなので、常盤亭跡を訪ねたくなりました。山桜が綺麗だそう。

鎌倉の武士歌人というと筆頭にあがるのが政村。そして実泰。この二人が同母兄弟で母は伊賀氏。伊賀氏に文学的素質の流れがあるような。実泰の子実時が金沢文庫を造るなど文人政治家の代表格なのも所以なきものではなさそう。それが『尾州家河内本源氏物語』奥書に通じています。

低い丘が連なる鎌倉の春は山桜に彩られる。鎌倉山から極楽寺に向かう山道からの眺望はガイドブックにはない山桜の隠れ里である。極楽寺の裏山一帯を遠くから見ると、山肌がぼうっと淡い桜色に染まり、花の香気が漂っているように見える。(土谷精作『歴史あれこれ 鎌倉の吉田松陰』より)

こんな素敵なご文章に出逢いました。昨日行った鎌倉山を昨日まで源氏山と一緒とばかり思い込んでいた驚きから鎌倉山について少し読んでいます。そうしたら政村の常盤亭とか、今まで散策から外していたコースが見えてきて、そこにこの山桜の眺望。今年の春は絶対撮りに行こうと思います!

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2013.2.17 多摩地区のある会社のOB会に呼んで頂いて「鎌倉武士と源氏物語」をテーマに講演させて頂きました。

2月2日
【鎌倉武士と源氏物語】パワポの編集。やはりサブタイトルとして「―鎌倉で「河内本源氏物語」ができるまで―」を入れることにしました。鎌倉武士に限った編集にしようと思っていたのですが、鎌倉の源氏物語を語るにはどうしても証拠品の写本が重要で。

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パワポの編集。イントロ部分のスライドも背景を変えてみました。今までの講演では紫式部の画像が背景でした。でもなんとなく「鎌倉武士と源氏物語」ではこちらのほうがしっくりあう気が。やはりTPOで気分が変わるのですね。

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文字色を自在に使って楽しんでいますが、現代っ子の娘には「信じられない!」と大いなる顰蹙を買っています(笑)でも私はこんなところでひそかに襲の色目を楽しんでいます。ご覧頂く方からは時々読みづらいとのご指摘も。なので今回は写真をできるだけ暗めに仕上げることにしました。

2月4日
パワポの編集。前にもご紹介したことがありますが、今回もこのスライドを入れることにしました。『源氏物語』54帖の巻名一覧。

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2月5日
「鎌倉武士と源氏物語」用パワポの編集。北条実時の紹介スライドを作りました。これを実時の奥書スライドの後に入れます。やっと今までの源氏物語世界中心から離れて鎌倉武士風に気分が乗ってきました。

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「鎌倉武士と源氏物語」用パワポの編集。若い光行が福原京造営に携わって都を離れていたとき、残してきた恋人へ送った歌のスライドを作りました。これは初試み。鎌倉武士というふうにテーマが限定されて少し人の心情に肉薄してきました。

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2月6日
昨日は終日「鎌倉武士と源氏物語」のパワポの編集に終始。定家・光行の時代が終わっていよいよ親行がいる鎌倉武士の世界に突入です。建長寺様の講演では丁寧にと心がけて資料を一々スライドでご紹介したら難しかったというお声も。それでそれらを無くしとにかく分かりやすくを心がけています。

2月7日
「鎌倉武士と源氏物語」用パワポの編集。実朝が将軍に就任し、鎌倉の寺社奉行を制定した時、光行は永福寺の阿弥陀堂担当になっています。早速先日の永福寺三堂基壇復元現地説明会の時の写真を使ってそのスライドを作りました。ナイスタイミング!

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2月8日
嘉禎元年1月26日。光行は頼経の歌会に列席。頼経は18歳。前年正室の竹御所を亡くしたばかりの将軍です。そしてさらに有職者として頼経の御願堂の五大堂(今の明王院)の位置について幕府から諮問される。光行が頼経とこんなに近くいたなんて…。源氏物語だけを追っていた時には見えなかった世界。

2月9日
「鎌倉武士と源氏物語」用パワポの編集。最近の読書から今まで考慮外だった記事をスライドに入れてみました。まず、親行が頼経に供奉して永福寺を訪れていた記事のスライドを。

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「鎌倉武士と源氏物語」用パワポの編集からもう一枚。光行が頼経の歌会に列席した事実と、有職故実家として幕府に重用され、頼経の御願堂である明王院の位置について諮問を受けたスライドです。写真は明王院を使いました。

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2月10日
「鎌倉武士と源氏物語」用パワポの編集の第一段階が終わりました。117枚のスライドになりました。連休中にこれを詰めて完成させ講演を主催して下さる会社に送ります。これは実時が『源氏物語』の勉強会をしていたスライドです。

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2月11日
おはようございます。今日は「鎌倉武士と源氏物語」用パワポを完成させ配布用レジュメを添付して発送します。どれくらいかかるかな。また夜までかかって本局に持ち込みとなるかも。こんなことを繰り返していたらそれも苦でなくなりました。というか、それも楽しみ、みたいな。

終わりが近づくともう次にするべきことが頭のなかで動いている。逆にこれが起きると、あ、完成が近いな、と思う。今朝の目覚め時に次にするべきことが浮かんで、もうそれをしたくてたまらなくなっています。だから、パワポの校正はたぶん順調にいきます。

「鎌倉武士と源氏物語」用パワポ、編集を終えて無事講演先の担当者様宛に送りました。結局また夜になって本局に持ち込みましたが、今夜の空気の冷たさといったら。こういう皮膚感覚がこの講演の思い出になってゆきます。幾つこの思い出を重ねたことでしょう。そしてこれからまた幾つ…

スライドは全部で116枚。繰り返す度に充実していきます。そして、こなれて。今日は突然最後になってこの一枚を入れました。今まで口頭で説明させて頂いていたこと。でも今回は歴史や源氏物語に詳しくない方もいられるので。

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2月12日
今度の講演は自発的に聴きにいらした方でなく鎌倉にも源氏物語にも興味がないかもしれない一般の方がお相手なので、源氏物語を説明するスライドを一枚挿入しました。源氏物語をひと言で表すなんて無謀ですが(笑)

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2月13日
先程講演先の担当者様からパワポデータを入れたUSBが届いて無事に会社のPCに落とせたとメールを頂きほっとしました。先週まで私が頑張っていたところ、今度はあちらで担当者様方が頑張って下さいます。講演の度に私一人の力でないなあと実感します。

2月16日
『吾妻鏡』ふうに、二月十六日晴れ、今日は講演。終了後に懇親会あると云々…、です。どんな方たちとお話できるのか、鎌倉武士の『源氏物語』受容をどのおうにどれくらい受け止めていただけるのか誠意を尽くして頑張らせていただきます。

講演が終わってほっと一息。今日聴いて下さった方は皆様レベルが高くて話が浸透していった感は半端でなく。やはり企業で一線の活躍をされていると無関係の分野でもご自分の分野での問題点に即して判断されて、これは重要と関心をもたれたよう。懇親会でも皆様に今日は楽しかったと頂きました。

2月17日
おはようございます。昨日講演を済ませて反芻に頭が冴えています。今回のスライドでは人間模様を中心に、定家光行の友人関係、平家との主従関係、光行親行の親子関係、頼経竹御所の夫婦関係、実時の文学仲間をお話しました。思いが伝わってきましたと感想を頂いたのが嬉しかったです。

2010年末に最初の講演させて頂き、その時は調べてわかったことをお伝えするのに必死でした。何しろやっと『尾州家河内本源氏物語』が宗尊親王の制作という事にたどりついたばかりでしたから。それから二年を経てやっと内容が人間模様になってこなれてきたのを思います。様々機会を頂いて感謝です。

頂いたご反応の一つ。光行が子息親行を俊成の下に遣わし質問させるのですが、11歳の親行は完全にそれを遂行できず厳しく叱責される。それで親行は源氏物語を熟読して自分でそれを解決するという親行の学者としての原点のエピソードに、「父親としてのあり方を思いました」と感じ入って頂きました。

このエピソードは未央柳の花の写真も好評で「孫の名前にすればよかった」「家の庭にあるのに名前を知らなかった」と。私も長恨歌で読んでいる時はどんな花か知らなかったのですが、講演用に写真が欲しくなって調べてやっと知った次第です。

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2013.2.14 ツイッターから転載…学人初心のときは道心ありても無ても、経論聖教等を能々見るべし、まなぶべし。思うことあって…

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昨年末ある方に『源氏物語と鎌倉』をお渡ししたら「衝撃的なタイトルだね」と言われ、先日の鎌倉での新年会でも「あれは衝撃的でした」と。二月の講演は最初その会社の歴史サークルの依頼だったのが上に許可申請したら「それは会社の主催でやろう」と。そんなに鎌倉と源氏物語は衝撃的でしょうか。

学人初心のときは道心ありても無ても、経論聖教等を能々見るべし、まなぶべし…、ある方に送って頂いたエッセイに引かれていた道元の言葉です。先日建長寺様で講演させて頂く為に訪れた厳粛な場はかつて道を求めて彷徨っていたころの苦しかったけれど浮ついたところのなかった自分を思い出しました。

鎌倉の源氏物語を発掘し世に問い始めても受け入れて頂けなくて怒ったり失望しても、自分が自分であることのふらつきはありませんでした。でも『源氏物語と鎌倉』を出して少しずつ皆様に受け入れて頂くようになり楽しいお付き合いが増えて行くのと反対に厳しさから遠のいて…。

それは建長寺様の玄関に立ったときのこと。「談笑厳禁」の木札が目に入ったのです。談笑ばかりの昨今が一瞬にして思い浮かび、かつての厳粛な自分はどこに行ってしまったのだろうとそのときからずっと動揺が続いていました。講演直後は中世の禅僧さながらの行脚にでたいと心から思いました。(正しくは『高談戯笑厳禁』)

でも世俗のしがらみ多々抱えている今それはできず、どうしたものか忸怩たる思いに悩み果てていたときの道元のこの言葉。行脚に出る必要もなく、座禅に籠る必要もなく、私は学問に籠ればいいのだよという、そんな教えに思えて痛んでいた心がふっと和んだのでした。

送って頂いたエッセイに感銘を受けお礼状をしたためていてこんな時間に。今日で一月が終わり。一月尽というのでしょうか。この言い方は鎌倉時代称名寺で図像抄を書写した乗一という僧侶の奥書で知りました。書写という大変な作業を終えたあとに記す奥書にはほっとした心情が伺われ心和みます。

今度の講演、メールで打ち合わせをしているのですが、歴史サークルの依頼が社員全員となったところまでは把握していました。が、そこには写真サークルの方も含まれると知ってなんだか楽しくなりました。写真ときくと嬉しくなって困ったことも忘れてしまいます。やはり私には写真が古巣です。

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20130.2.14 ツイッターから転載…1月27日の実朝暗殺の日に偶然『吾妻鏡』の実朝暗殺の条を読んだ呟きをした不思議と、2月中旬の講演用パワーポイントの編集を始めた件

1月27日
おはようございます。昨夜鎌倉の帰りの車内は『吾妻鏡』を読んで過ごしました。新年会で様々な方と交流しそれがいいことなのに気持ちがざわついてどうしようもない時に活字は一瞬にして深い歴史に引き込んでくれました。実朝暗殺の日の項、実朝は現場の鶴岡八幡宮に牛車で向かったんですね。驚き!

それは檳榔(びろう)車という上皇・親王・大臣以下,四位以上の公卿・女房・高僧が乗るものだそう。しかも後に続く行列には五人の公卿がいて「それぞれ牛車に乗った」と。そこにも前駆・随身数名ずつ。ほんの目と鼻の先の御所から八幡宮への道(六浦路)が道中の随兵一千騎というこんな行列に。

実朝の暗殺というと公暁ばかりが取り上げられますが、その前のこの描写…。寡聞にして私ははじめてで目を瞠りました。これだけでも当時の鎌倉が決して武家文化一色でなかったことが窺われます。二月に控えている講演のテーマが「鎌倉武士と『源氏物語』」なのでそれに向けての『吾妻鏡』です。

吉川弘文館営業部
【今日は何の日】建保7年1月27日(J 1219/2/13) 源実朝(28歳),公暁に殺される.三浦義村,公暁(20歳)を討つ(吾妻鏡)。『日本史総合年表 第2版』より。

えっ!そうだったんですか。何気なく昨夜開いた頁が実朝暗殺の条だったので先程ツイートしたのですが…。 RT吉川弘文館営業部【今日は何の日】建保7年1月27日(J 1219/2/13) 源実朝(28歳),公暁に殺される

1月29日
二月中旬までに吾妻鏡を読む会の発表と「鎌倉武士と源氏物語」の講演があって講演は大変だからさっさと先に発表の準備を終わらせてと思うのに講演の事が頭から離れない。どんどん構成が膨らんでゆく。それでタイトルだけでもとパワポを始めてみました。

まだフィルムカメラ時代に撮った流鏑馬の写真を使いました。スキャンデータが上映に耐えるかわかりませんがまずこれを使いたくて。今までの『源氏物語』の写本中心の講演から一新し、鎌倉武士たちのなかにどう『源氏物語』があったかというお話にします。なのでタイトル画面も変えて流鏑馬にしました。

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2013.2.13 ツイッターから転載…永福寺跡三堂基壇復元完成現地説明会のこと・鎌倉ペンクラブ新年会に出席したこと

1月25日
昨夜の会話。永福寺現地説明会は雨は決行で雪だと中止なんだってと私。雪だと見えなくなるものねと娘。凄い、よくわかったねと驚くと、(私はそういう現実の事に弱いんです)、娘が「せっかく掘ったのですがまた埋まってしまいましたってなっちゃうでしょ」と言ったので大笑いしました。

という事で無事に晴れて鎌倉の永福寺現地説明会に向かっています。久しぶりの遺跡、楽しみです。

大蔵幕府跡碑。左の道を奥に行くと頼朝の墓があります。法華堂跡も。永福寺跡へは右に進んで、大塔宮を過ぎてさらに行ったところです。

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護良親王ゆかりの大塔宮。

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左の樹木が大塔宮。永福寺跡へはこの道を瑞泉寺に向かって歩いていきます。

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永福寺跡碑。テニスコートが目安の位置にあります。

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工事の案内板。この図の復原を見にきました。もういっぱいいらしてるのが見えます。

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こんな感じ。

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感動の光景!

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阿弥陀堂基壇。「河内本源氏物語」の源光行が鎌倉寺社奉行を担当したのはこのお堂。

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永福寺跡、中央の二階堂基壇。

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【永福寺】二階堂はことにすぐれたる寺なり。鳳の甍、日にかがやき、鳧の鐘、霜にひびき、楼台の荘厳よりはじめて、林池のありとにいたるまで、殊に心とまりて見ゆ。(『東関紀行』)

1月26日
鎌倉ペンクラブの新年会でした。昨日に続く連日の鎌倉です。終わって鎌倉駅前、現在の月。

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宗尊親王御所跡地に昇る満月。鎌倉雪ノ下教会。下の提灯の列は段葛です。

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鎌倉の帰りです。この頃自分の範疇を越えた方のお集まりに出させて頂くことが多く毎週緊張しています。私個人の事だったら失敗してもどうでもいいのですが、河内本源氏物語の将来にかかっているのでなんとかこなそうと頑張っています。慣れない宮中に出仕した紫式部も最初はこうだったのかななどと。

今日お話したある国文学者の方が、武士文化は公家文化の上に成り立っているんですよ、と。武士だけだったら天下はもたない。山賊が武力で統治したって続くものではない。公家文化の文化を見せつける力、その重要性をトップは知っていた。が、歴史学者も国文学者もそれを言わない。それは学者の怠慢と。

ただ武士文化武士文化というだけでは上っ面ですと、ご自分も国文学者だから含めていうのですが、と。始めて耳にしました。鎌倉の方々が何も知らされないでいることについての、学者の怠慢という言葉。その方とお話しているあいだ、なんだかぞうっとしました。厳しいそのご姿勢に。

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