2013.3.26 『吾妻鏡』の読書から

ブログの更新が滞っているうちに『吾妻鏡』の読書が随分進んでしまいました。これは、時頼が蹴鞠の指南を難波流に決めた記事。私の『源氏物語と鎌倉』関係では飛鳥井流がお仲間です。そんなことで一連の記事をご紹介させていただきます。フェイスブックからの転載です。
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連夜の『吾妻鏡』の読書で、昨夜は北条時頼が蹴鞠を嗜む条にさしかかりました。ツイッターから転載させていただきます。写真は飛鳥井雅経の邸宅があったという京都の白峯神社。毎年4月14日に蹴鞠の奉納が行われています。これは2009年の撮影。あいにくの雨で室内での競技になりましたが、そのお陰でこのアングルを撮ることができました。開始前の儀式で、鞠を鞠足の方に渡すところです。
◇昨夜の読書から『吾妻鏡』宝治2年9月9日、今日難波少将宗教朝臣が大鞠二つと韈(しとうず)一足を左親衛(時頼)に献上した。これは、ちょうどこの頃、蹴鞠を嗜んでおられたためである。11月13日、左親衛が難波少将羽林を招いて対面された。蹴鞠について、門弟となる約束をされたという。
◇16日、難波少将(香の狩衣)が一巻の書物(蹴鞠の秘伝書)を左親衛(時頼)御方に持参した。御所望があったためである。時頼(浅黄の直垂)は対面され、その書をご覧になった。羽林が読み申し、まだ巻の半ばに及ばないうちに、時頼は座を立つと自ら金(こがね)作の剣を取って宗教に授けられた。
◇↑ 時頼が難波流の蹴鞠に親しんだ記述。鎌倉の蹴鞠は、源平の争乱で、父頼経が義経に加担して頼朝の逆鱗に触れ、伊豆に流されたために、自らも鎌倉に下向した飛鳥井雅経にはじまります。頼朝に仕えて頼家に蹴鞠を教えました。その後、後鳥羽院に召されて帰洛し新古今の撰者になります。
◇難波流は雅経の兄宗長が祖です。雅経が帰洛したとき、宗長は後鳥羽院のもとですでに活躍していました。が、雅経の妙技は後鳥羽院の心を捉え寵臣になってゆきます。時頼に指南した宗教は宗長の子。雅経の次男二条教定がすでに鎌倉にいますが、将軍頼経に親しんでいた関係で召されなかったのでしょうか。
◇飛鳥井流と難波流では蹴鞠の作法が違い、鎌倉ではこの後、教定と宗長のあいだで優雅で知性高くありながら熾烈な勢力争いの様相を呈していきます。

