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2013.4.29 ツイッターより転載…七夕は鎌倉の源氏物語の日! 親行が「河内本源氏物語」を完成させたのは建長七年七月七日でした。

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【鎌倉の源氏物語】である「河内本源氏物語」の完成を、ツイッターから転載させていただきます。ツイッターは140字の制限があるので断章になっています。
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池田利夫『源氏物語回廊』所収「鳳来寺本源氏物語の親行識語と書誌」より。和語ノ旧説ハ真偽舛雑ナリ。而ルニ廿一部ノ本ヲ披クニ、殆ド千万端ノ蒙ヲ散ズ。其ノ中ニ二条都督(伊房卿)、冷泉黄門(朝隆卿)、五条三品(俊成卿)、京極黄門(定家卿)、彼ノ自筆等ヲ以テ証本ニ擬フル所也。

抑モ、一部ノ内ノ始メノ巻ハ綾小路三位(行能卿)、終リノ巻ハ清範朝臣息女ノ書写スル所也。嘉禎二年二月三日ニ校書を始メ、建長七年七月七日、其ノ篇ヲ果ツ。時ニ雁字終点の朝也。更に紫式部ノ往情ヲ諳ンズ、牛女結交ノ夜也。遥カニ驪山宮ノ昔ノ契リヲ思ヒ、翰ヲ染メ、牋ヲ操リテ、慨然トシテ記ス。朝議大夫源親行・花押……


嘉禎2年は1236年。建長7年は1255年。その間19年。親行は「河内本源氏物語」を完成させるのに、父光行の作業を継ぎ本格的に始めてからも更に20年近い歳月を要しました。その間火事で9帖、権威に奪われて6帖を失い、それを改めて校訂し補ったりしています。そうして完成したのが

建長7年7月7日の夜でした。親行は感..慨をもって紫式部を思い「牛女結交の夜也」と記します。これは長恨歌を言っているフレーズです。驪山宮は玄宗皇帝が楊貴妃の為に建てた華清宮の別称。長恨歌に「七月七日長生殿、夜半無人私語時」とあるのを指します。親行は「河内本源氏物語」の完成に長恨歌を

重ねたのでした。7月7日、誰もいない深夜、まもなく最後の文字を記すという厳粛な時に紫式部を思い長恨歌の玄宗皇帝と楊貴妃を思った親行。ここには親行の光行との思い出が深く関わっています。11歳の時、光行に俊成のもとに遣わされ、それを充全に果たせず激しく叱責された思い出が。

光行が校訂のために俊成から借りた本の長恨歌の引用部分に欠けた句がありました。それは何故かを質問に行かされたのです。親行は歯をくいしばって自力で解決します。その経験が後の親行の源氏研究者の土台になりました。『源氏物語』桐壺巻で紫式部は光源氏の両親を玄宗皇帝と楊貴妃に喩え長恨歌の引用

で表現しました。「河内本源氏物語」完成の夜ひとり静かに机に向かう親行の心をよぎったのは紫式部であり玄宗皇帝と楊貴妃でありそして父光行でした。この荘厳な夜。想像するだけ震えるような思いに捉われます。7月7日は「河内本源氏物語」の完成の日。即ち、七夕は鎌倉の『源氏物語』記念日です。

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2013.4.22 ツイッターから転載…鎌倉で尾崎左永子先生のお話【『源氏物語』―宇治十帖の匂と薫】を拝聴しました。

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4月20日
鎌倉に行くのに湘南新宿ラインの乗り継ぎがよくない時は渋谷駅から東横線で横浜に行き横須賀線に乗り換えていました。東横線が地下に潜ってかつての渋谷駅がなくなったのと同時に私にとっての東横線も消失。中高六年間通い馴れた駅。もう乗る事はないなあと思うほど遠くに。と、鎌倉に向かいつつ思う。

それにしても、事実上初めて接する光行七十歳の筆跡がいかにもみずみずしいのには驚かされた。老人とはとても思えない端正さで、きびきびしながら運筆は流麗で、しかも力強く、世尊寺流の能筆とは異なるものの、品位を湛えけだし名筆の部類に属しめたい思いである。(池田利夫『源氏物語回廊』より)←向かう途中の車内読書です。

鎌倉は雨。せっかくなので早く出て建長寺様で展示中の「観〇光」を拝見したかったのですが、やはり無理。早々に悟り、大きなカメラは置いて、バッグを替えて軽快に。「観〇光」は明日までなので今年はもうあきらめです。

鎌倉で尾崎左永子先生の「源氏物語ー宇治十帖の匂と薫」を拝聴しました。第一部の光源氏に対して、子や孫の世代は匂いという嗅覚。色彩が消えて薄墨の世界は、瀬戸内寂聴さんが言ってらっしゃるように紫式部が出家したあとの執筆と尾崎先生も思われると。それにしてもその対照の見事さに感服です。

尾崎左永子先生の今日のお話から豆知識。お香に「六種の薫物・むくさのたきもの」といって黒方・梅花・荷葉・侍従・菊花・落葉がありますが、『源氏物語』に登場するのは最初の四種。菊花と落葉は登場せず。しかもこの二つは名前が違うだけで全く同じものだそう。黒方が重いけど上品ないいお香と。

『源氏物語』で明石の姫君が入内するとき、六条院で光源氏が紫上たちに香木を与えてお香を作らせる薫物合せ。選ばれたのは紫上の梅花で、これは春のお香。紫上も春の御殿の主であり、選ばれたのは象徴的。黒方は冬(といっても初春)、荷葉は夏、侍従は秋のお香。そしてこの時代は全部煉香です。

匂と薫の違いを尾崎先生は、「にほふ」は丹穂ふで、稲穂の先が実って赤らんだ感じで視覚的。「かおる」は香が居(お)る。居るは下に行くの意味で、薫りは下に沈むから。薫りを感じるには湿気が必要で、だから香道は日本が適しているとおっしゃっていられました。

こういう違いのある「匂」と「薫」。その名を冠された匂宮と薫君という二人の男性主人公。宇治十帖は奥が深いですね。尾崎先生は千年も前に薫という精神愛の男性を造形し得た紫式部が凄いと感じられているようです。

『源氏物語』の中のお香の話でおかしかったエピソード。女房たちが早く室内にいい香りを焚き込めたくて団扇のようなもので煙をたてて煽いでいるのを光源氏が見咎めて、「そんな富士の煙のような焚き方をするのでない」と。現代のお香のお店でも手早く感じられるよう作られたものが多いですねと。

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2013.4.7 フェイスブックから転載…【鎌倉武士の『源氏物語』】は鎌倉武士のあいだで自発的に発生ということが 『吾妻鏡』の読書で判明しました!

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『吾妻鏡』の読書が終盤にさしかかってきています。つまり、「河内本源氏物語」の完成に。

建長四年に宗尊親王が鎌倉に下向。この親王によって『尾州家河内本源氏物語』が制作されるので、今までなんとなく鎌倉の『源氏物語』は宗尊親王によるもの、のように思っていました。

けれど、『吾妻鏡』を読んでいたら、他の『異本紫明抄』との関係で、「河内本源氏物語」完成の前に、すでに鎌倉武士たちのあいだで『源氏物語』を研究する行動がもたれていることが判明。鎌倉の『源氏物語』は宗尊親王とは関係なく発生していたのです。

では、いったい、何故?、と考えると、それはもう源光行・親行親子の存在しかありません。この二人が頼朝の時代からずっと宗尊親王の時代まで通して鎌倉で『源氏物語』を追求し、「河内本源氏物語」完成へ励んでいたから、鎌倉武士にとっても『源氏物語』は遠い京都のものでなくなっていたのです。

そんなことが『吾妻鏡』の読書から見えてきて、今夜はちょっと興奮しています。写真は、鎌倉武士たちの源氏物語サロンで白熱した議論のようすを講演用にスライドにしたものです。

◇フェイスブックページ http://www.facebook.com/odayuriko.f

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2012.4.4 鎌倉の史跡常北条氏盤亭跡。北条政村の邸宅跡です。

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北条政村は義時の子で執権泰時の弟。泰時とは母を異にして伊賀氏の子です。同母兄弟に実泰がいます。実泰の子が『尾州家河内本源氏物語』奥書に名を残す北条実時です。

義時が亡くなったとき、後妻だった伊賀氏は政村を執権につけ、娘婿の一条実雅を将軍にしようと企て、政子に発覚して流罪にされます。これを伊賀氏の変といいます。政子は義時の長子泰時を執権につけ、以降、孫の時頼ら泰時の流れで執権が受け継がれていくことになります。

伊賀氏の変で、伊賀氏の子である政村・実泰は執権となった兄泰時の処遇を戦々恐々と恐れますが、政子も驚いたほどに泰時の弟達への配慮が良く、以後、政村も泰時を助けて幕府の運営にあたります。

その政村の邸宅があった跡が常盤亭跡です。鎌倉の遺産登録推進地にもなっています。政村は鎌倉武士のなかでも一番の歌人で、ここでよく歌会が催され、宗尊親王もこの邸宅に訪れました。

写真二枚目の右端に見える小さな坂道を上っていったところに開ける平場に邸宅はありました。三枚目の菫はこの坂道の途中に咲いていたもの。桜の季節なので桜の常盤亭が撮れるかと期待して行ったのですが、桜の木がなく残念です。でも、高いところにあるらしくどこからか花びらが散って坂道を埋めていました。

四枚目は同じ日に撮った鎌倉湖畔の山里の風景です。山桜の風情が素敵でした。

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2013.4.2 ツイッターから転載…永井晋先生『金沢北条氏の研究』から小侍所別当実時のはたらきの実態→当時の鎌倉の本当のすがた、それは華麗な将軍御所に仕える鎌倉幕府という上下関係の構図でした。

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3月27日
ようやく北条実時が果たした将軍御所の小侍所という役職の実態がわかりました。永井晋『金沢北条氏の研究』から要約:第四代頼経・五代頼嗣の摂家将軍の時代、将軍家の家格は源家将軍三代より低かった。第六代宗尊親王の皇族将軍になって将軍家に王権の分身という新たな聖性が付し家格が上昇する。

「鎌倉の儀礼は公卿という新たな社会階層の参入に対応する形に再整備されることになった」。この作業が小侍所の主な役割で実時がその任務に当たった。将軍家が鎌倉の神聖な首長になったことから、神事や儀礼は公卿・殿上人が補佐。鎌倉幕府は政務の面の補佐で得宗が政治を主導する形に変化した。

「親王将軍の東下によって関東祇候廷臣や京下り官人といった都の教養人ないしは技術者が鎌倉に恒常的に滞在するようになり、鎌倉の武家文化が将軍御所を中心に急速に成熟していった」「北条実時が推し進めた鎌倉の秩序再編は、この変化に対応したものであり、将軍御所の儀礼と勤務形態の整備という

作業を通じて、公家社会の序列に対応しうる鎌倉の武家社会の序列を新たに創造することであった」。→つまり実時は聖なる将軍に仕える幕府の代表として、鎌倉に下ってきた公卿や殿上人と最初に接触し世話をする立場にあった。→ つまり実時の交遊はそれまでの鎌倉人と格段に違い、ひいては教養も。

通史として「北条実時は宗尊親王に小侍所として仕えた」と読んではいましたが、この役職がこんなに深い意味をもっていたなんてと驚いています。ただ将軍の世話をする立場くらいにしか思っていませんでした。実時は鎌倉で公卿・殿上人といった京の教養人と一番確かに接した人だったのでした。

これが親行や二条教定らとの交流・『源氏物語』の書写等に繋がっていくのですね。二条教定の子息飛鳥井雅有に娘を嫁がせているのも、単に同じ将軍御所に仕えていれば知りあうこともあったのだろう程度の交流ではなかったのでした。

3月28日
『全訳吾妻鏡』より建長4年4月1日、宗尊親王の鎌倉到着の日の続き:次に親王南面に出御。両国司(時頼・重時)、廊の切妻の地下に候ぜらる。相公羽林参進して、御簾三箇間を上ぐ。次に前右馬権頭政村、御劒を持参す。南門に入り、庭上を経て、寝殿の沓脱より昇り、御座の傍に置き、本座に帰著す。

4月14日、寅の一刻、将軍家始めて鶴岳の八幡宮に御参。(行列は略)。陸奥掃部助実時、遠江守光盛は、鎧を布衣に改め著して供奉せしむと云々。右大将家(頼朝)より三位中将家(頼嗣)に至るまで、将軍の威儀を糺され、御出の度ごとに、一両人たりといへども、勇士を供奉せしめずといふことなし。

しかるに親王の行啓においては、その儀あながちに然るべからず。向後は事によつて随兵を召し具せらるべしと云々。→ 昨日ツイートさせて頂いた永井晋『金沢北条氏の研究』にあった実時の小侍所の役割で、鎌倉幕府が皇族将軍宗尊親王より下位になったという意味の実際がすでにここに現れています。

初代頼朝から第五代将軍頼嗣まで、将軍の行列に勇ましい鎧姿の武士が供奉しないことはなかった。が、宗尊親王の鎌倉における最初の行列で、実時たちは鎧を停止され、狩衣姿で供奉することを強いられたのです。これは鎌倉側より親王側が上になったということ。鎌倉の慣習が武士本位から公家本位に変化。

鎌倉にはもともと源平の争乱で下向した源光行がいて河内本源氏物語の校訂を始め、子息親行がそれを継いで第六代将軍の時代まで親子二代に渡る『源氏物語』研究の土壌ができていた。

将軍御所の小侍所を勤める実時は、京から下った公卿や文人と対面し、鎌倉側との調停に努める役割。当然親行とは親しく接しています。そこに皇族将軍宗尊親王が下向。親王は京から送りだされるとき王としての聖性を保証されていて、決して脇に押しやられ文化で気慰みする状況ではありませんでした。

鎌倉幕府の頂点として君臨する親王将軍に近時する実時は、生来の学問好きで、立場を越えて水を得た魚のように京から雪崩込むめくるめくような文化の洪水を享受したでしょう。そうした中で実時と親行・清原教隆らとの繋がりができていきます。鎌倉の『源氏物語』は決して脇にやられた公家の侘びしさを

紛らわす手段だった訳でなく、それどころか逆に権威と表裏一体に輝く華々しいものでした。鎌倉に実時のような勉学家がいず、小侍所を別人が勤めていたら展開は全く違ったでしょうけれど、鎌倉の『源氏物語』は武士も公家も一緒になって生き生きと楽しむ交流のなかで育まれたのでした。目に浮かぶよう。

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