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2013.4.2 ツイッターから転載…永井晋先生『金沢北条氏の研究』から小侍所別当実時のはたらきの実態→当時の鎌倉の本当のすがた、それは華麗な将軍御所に仕える鎌倉幕府という上下関係の構図でした。

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3月27日
ようやく北条実時が果たした将軍御所の小侍所という役職の実態がわかりました。永井晋『金沢北条氏の研究』から要約:第四代頼経・五代頼嗣の摂家将軍の時代、将軍家の家格は源家将軍三代より低かった。第六代宗尊親王の皇族将軍になって将軍家に王権の分身という新たな聖性が付し家格が上昇する。

「鎌倉の儀礼は公卿という新たな社会階層の参入に対応する形に再整備されることになった」。この作業が小侍所の主な役割で実時がその任務に当たった。将軍家が鎌倉の神聖な首長になったことから、神事や儀礼は公卿・殿上人が補佐。鎌倉幕府は政務の面の補佐で得宗が政治を主導する形に変化した。

「親王将軍の東下によって関東祇候廷臣や京下り官人といった都の教養人ないしは技術者が鎌倉に恒常的に滞在するようになり、鎌倉の武家文化が将軍御所を中心に急速に成熟していった」「北条実時が推し進めた鎌倉の秩序再編は、この変化に対応したものであり、将軍御所の儀礼と勤務形態の整備という

作業を通じて、公家社会の序列に対応しうる鎌倉の武家社会の序列を新たに創造することであった」。→つまり実時は聖なる将軍に仕える幕府の代表として、鎌倉に下ってきた公卿や殿上人と最初に接触し世話をする立場にあった。→ つまり実時の交遊はそれまでの鎌倉人と格段に違い、ひいては教養も。

通史として「北条実時は宗尊親王に小侍所として仕えた」と読んではいましたが、この役職がこんなに深い意味をもっていたなんてと驚いています。ただ将軍の世話をする立場くらいにしか思っていませんでした。実時は鎌倉で公卿・殿上人といった京の教養人と一番確かに接した人だったのでした。

これが親行や二条教定らとの交流・『源氏物語』の書写等に繋がっていくのですね。二条教定の子息飛鳥井雅有に娘を嫁がせているのも、単に同じ将軍御所に仕えていれば知りあうこともあったのだろう程度の交流ではなかったのでした。

3月28日
『全訳吾妻鏡』より建長4年4月1日、宗尊親王の鎌倉到着の日の続き:次に親王南面に出御。両国司(時頼・重時)、廊の切妻の地下に候ぜらる。相公羽林参進して、御簾三箇間を上ぐ。次に前右馬権頭政村、御劒を持参す。南門に入り、庭上を経て、寝殿の沓脱より昇り、御座の傍に置き、本座に帰著す。

4月14日、寅の一刻、将軍家始めて鶴岳の八幡宮に御参。(行列は略)。陸奥掃部助実時、遠江守光盛は、鎧を布衣に改め著して供奉せしむと云々。右大将家(頼朝)より三位中将家(頼嗣)に至るまで、将軍の威儀を糺され、御出の度ごとに、一両人たりといへども、勇士を供奉せしめずといふことなし。

しかるに親王の行啓においては、その儀あながちに然るべからず。向後は事によつて随兵を召し具せらるべしと云々。→ 昨日ツイートさせて頂いた永井晋『金沢北条氏の研究』にあった実時の小侍所の役割で、鎌倉幕府が皇族将軍宗尊親王より下位になったという意味の実際がすでにここに現れています。

初代頼朝から第五代将軍頼嗣まで、将軍の行列に勇ましい鎧姿の武士が供奉しないことはなかった。が、宗尊親王の鎌倉における最初の行列で、実時たちは鎧を停止され、狩衣姿で供奉することを強いられたのです。これは鎌倉側より親王側が上になったということ。鎌倉の慣習が武士本位から公家本位に変化。

鎌倉にはもともと源平の争乱で下向した源光行がいて河内本源氏物語の校訂を始め、子息親行がそれを継いで第六代将軍の時代まで親子二代に渡る『源氏物語』研究の土壌ができていた。

将軍御所の小侍所を勤める実時は、京から下った公卿や文人と対面し、鎌倉側との調停に努める役割。当然親行とは親しく接しています。そこに皇族将軍宗尊親王が下向。親王は京から送りだされるとき王としての聖性を保証されていて、決して脇に押しやられ文化で気慰みする状況ではありませんでした。

鎌倉幕府の頂点として君臨する親王将軍に近時する実時は、生来の学問好きで、立場を越えて水を得た魚のように京から雪崩込むめくるめくような文化の洪水を享受したでしょう。そうした中で実時と親行・清原教隆らとの繋がりができていきます。鎌倉の『源氏物語』は決して脇にやられた公家の侘びしさを

紛らわす手段だった訳でなく、それどころか逆に権威と表裏一体に輝く華々しいものでした。鎌倉に実時のような勉学家がいず、小侍所を別人が勤めていたら展開は全く違ったでしょうけれど、鎌倉の『源氏物語』は武士も公家も一緒になって生き生きと楽しむ交流のなかで育まれたのでした。目に浮かぶよう。

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