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2013.5.30 ツイッターから転載…昨年の金環日食のこと

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5月18日
BS悠久の中国世界遺産シャングリラを観ていて切なくなってしまいました。仏教関係の本を渉猟していたとき、ヒマラヤ、即ちヒ―マラーヤは雪の蔵を意味すると知り、そこからヒマラヤが私に棲みついて夢にまで見た憧れ。そんなことを思い出して。夢中になってはじめての小説を書いていたころです。

「天竺には雪の蔵と呼ばれるお山があるのだそうよ」と、あるとき銀嶺姉さまは言われました。「そこでは一年中雪が消えることがないんですって。それは峻厳な高い山だそうだけれど、わたしの胸の中にはその山が棲んでいるの。一度夢を見たの。その山を。白く尖ったたくさんの嶺が、まっ青な空に屏風のように連なって聳えていた。その下にわたしは立って見上げているのだけれど、山が膨れあがって、今にものしかかられて潰れてしまいそうで、息が苦しかった。人間なんてちっぽけなものなんだって、そのとき思ったの。人の苦しみなんて、その山の雄大さに比べたら、なんのこともないんだって。綺麗だった。覚めたあとも感動して止まなかった。わたしの生涯の夢は、その山を見に天竺へ行くこと。夜、満天の星を浴びながら、月の光のもとで白銀に輝くその嶺々を仰いで一人坐ってみたい。そうしたら……」(『白拍子の風』より)

↑ 遺跡発掘調査の仕事をして知った遺跡で上行寺東遺跡があります。六浦にある中世の墳墓群です。高台にあり、そこからは遠く朝比奈峠が見はるかせ、切通しの位置がV字状になって見えます。その向こうが鎌倉です。何回も通いました。仕事を止めようと決意したとき、最後にもう一度と訪ねた時のこと、突然強い風が吹いてあやうく吹き飛ばされそうになりました。それは一瞬のできごとでした。あとは何事もなく、あれは何だったのだろうと訝しく思ったとき、白拍子の風、の語が湧いたのです。采女の風の歌も浮かびました。そうだ、このタイトルで中世の采女…、白拍子の小説を書こうと思ったのでした。

連ツイで済みません。プルーストのマドレーヌではないですけれど、思いの連鎖って凄いですね。たったBSでシャングリラの梅里雪山の映像を見ただけなのに、こんなにいろいろ甦ってしまいました。

5月21日
去年の今日はどんな写真を撮っていたのだろうと思って見たら、金環日食の日でした! 2012.5.21 7:33 撮影の太陽です。

おはようございます。今日の中央線の車窓は見渡すかぎり灰色の雄大な曇天でした。

今日は二つの心に残ったいい話。その一つ。源氏物語は主語が省略されているからわかりにくいというが、心理という心の奥の深いところの描写にいちいち主語を入れてぷつんぷつんと切ったら思いが分断されてしまう。主語がないから思いのままに読み手も奥に深く入っていかれるのだと。成る程!でした。

もう一つは月影という言葉について。月影の影は今でいう影ではなく、光でもあり影でもある重層性のある語。その朧なところに月を見ていて故人や思い出が甦る。が、平安末期になると源平の合戦で修羅場を見たから感性が変わり、月影の語は滅多に用いられなくなり、月の光といわれるようになった。

紫式部のめぐり逢いての歌も、今は夜半の月かなと詠嘆で終わるのが流布しているが、紫式部の感性に詠嘆はふさわしくなく、もとは夜半の月影ではなかったか。去っていった友を見送りながら、実際は見えなくなってもまだ月影の中に見えていると。

分かるということは物事の細部の一々に整合性がついて明らかになることで、人の心理や思いに整合性がつくはずないから、それはわからないまま感じればいいこと。源氏物語のような文学はそうなのだけれど、それを合理的にわからないと気が済まない人間を育ててしまったのだなあ、今の教育は、と思う。

菊池威雄先生が『鎌倉六代将軍宗尊親王―歌人将軍の栄光と挫折―』を新典社選書で出されるそう。今月末には店頭に並ぶとか。中に私の『源氏物語と鎌倉』から引用して頂いている箇所があるとある方が教えて下さいました。菊池先生は宗尊親王をどのように書かれているのでしょう。どきどき、です。

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2013.5.28 ツイッターから転載…国際東方学者会議【《源氏学》という学問…『源氏物語』古註釈の方法と古記録・漢籍・仏典・古典学の書】を拝聴してきました。

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5月24日
朝の失敗。笹塚で乗り換えれば向かいのホームの移動で済んだのに、うっかり特急に乗ったら新宿まで停まらず、都営新宿線のホームまで100mも歩きました。久々の新宿。そして今は神保町です。

これから源氏学の講義を夕方まで拝聴します。昨夜は早く寝ました。うつらうつらしないように(笑)。楽しみです。

午前の部の日向一雅先生「源氏物語注釈史における儒教的言説をめぐって」が終了してお昼休みです。日向先生のご論は、古注釈書によく引かれている『尚書』や周公旦は、ただ引用されているだけでなく、光源氏の人物造形や物語の深いところに影響。物語の構造にまで関わっていると読み取れると。

古注釈は12世紀後半の『源氏釈』に始まり、定家の『奥入』を経て、語釈、引歌、漢籍、仏典、史書等の出典、典拠、準拠の指摘を積み重ね、『岷江入楚 みんごにっそ』(1598)においてその頂点を極めた。親行の『原中最秘抄』や実時の『異本紫明抄』もそうです。異本紫明抄は別名を光源氏物語抄。

午後の部の河野貴美子氏「源氏物語と漢語」、三角洋一氏「源氏物語と仏教語」が終わって10分の休憩。最後の小川剛生氏「南北朝期の源氏物語研究ー四辻善成を中心にー」がこれから始まります。四辻善成は『河海抄』の編纂者です。

疲れたので討論会をあとに出てきました。今日一連のお話を拝聴して感じた事は、源氏物語の写本が、定家や光行の鎌倉時代の写本と、南北朝以降と違うように、光行や親行たちの鎌倉時代の注釈書と、南北朝以降とは違うよう。鎌倉時代にはまだ源氏物語は生きた文学でした。そこには生の充足があります。

四辻善成の『河海抄』になると、源氏物語研究は物語の内容に即してでなく言葉の一々の解釈や出典になる。ここではもう如何に自分が博識かの網羅みたい。勿論四辻善成たちにしても真剣でなかった事はないでしょうけれど、哲学的内容を離れた言葉の解釈は、なんか今の時代の知的感に似た気がしました。

5月25日
昨日書きそびれていました。私的な発見。四辻善成は順徳院の曾孫でいられるんですね。臣籍に下ったので源。二条良基の猶子になったのでいろいろ学んだと。

昨日はスマホを机の上に置いて聴講。知らない言葉があると検索しました。勘文(かんもん)とは朝廷から諮問を依頼された学者などが答えた文章のこと。経書(けいしょ)は儒教でとくに重視される文献の総称、など。今時の学生さんの光景ですよね。

兼好の称名寺との関係。調べ物が終わりません。従来の学者さん方は歴史学と国文学とでばかり探ってらして、称名寺サイドからの突っ込みがないから、多少称名寺の内側を見知っている私には隔靴掻痒。もしかして……などとまたよからぬ妄想が湧いたりして。

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未央柳の花が咲きはじめました。

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2013.5.28 ツイッターから転載…称名寺と卜部兼好の関係の考察、続き。

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5月14日
卜部兼好研究は、風巻景次郎「家司兼好の社会圏」で堀川具守家の諸大夫だったから具守娘の西華門院が後宇多天皇妃となって産んだ後二条天皇に出仕と明かされ、林瑞栄氏「兼好伝研究の一資料について」をきっかけに、兼好の恐らく最初の鎌倉下向の時期が特定され称名寺との繋がりが明瞭になった。

兼好の最初の鎌倉下向とそれにまつわる人々の関係が目下の最大課題。林瑞栄氏のお名前は『金沢文庫研究』で知っていましたが、女性と知ってびっくり。なんとなく感じていた当時の違和感、氏のご研究に対する風あたりの強さを思い出して納得。『兼好発掘』を借りてきて序を拝読したらいっそう。

先鞭をつけて定着していられる大家の方の御説を覆すことになった林氏のご論。当時は冷ややかでしたがどうやら昨今では認めざるを得ないよう。今日は徹夜して『兼好発掘』を読んでしまいたいと思います。

それにしてもと思うのですが、こんなにも顕著に深く兼好が称名寺と密着しているのに、たいていの人が知らないでいる現状。『徒然草』といえば京都というのが常識でも、その兼好が称名寺と!なんですよ。称名寺も金沢文庫も鎌倉ももっと誇っていいし、喧伝していいのではないでしょうか。

5月15日
おはようございます。林瑞栄氏『兼好発掘』はまだ読み終わっていませんが、兼好が称名寺から経って朝比奈切通しを通り、鎌倉に入って久明親王御所に立ち寄り、それから上洛したことを記す書状に興味津津です。

林瑞栄氏『兼好発掘』をまだ読了できていません。薄い紙を使っている上に極端に小さな活字で繰っても繰っても先に進みません。その要因の一つに文章の長さが。私は長い文章派ですが論文は別。簡潔にして説得力がないとと思う。林氏の説に首肯するかはまだ決めかねますが、とにかく早く読了したいです。

という訳で半寝半起の徹夜状態でこんな時間にツイート。昨日届いていた学会のDMを開いてびっくり。なんと!「源氏学という学問」とあるではないですか。古注釈についてです。慌てて事務局に電話して受け付けて頂きました。ずっと考える事いっぱいで郵便物を溜めたりの日常に齟齬をきたしています。

5月16日
林瑞栄氏の説、受け入れるべきか悩む。33回忌を従来の顕時説から実時説に覆したのは年譜で証明されて鮮やかだけれど、他は文章の長さと思いの強さが先行している感じでついていけない。状況証拠にもなっていないから他の学者さんが取り上げないのだろうなあと思う。事実だったら凄い事なのに。

とりあえず、私は拝読し終わって、作成中の年譜に当て嵌めて、私なりに整合性つくかを確認するだけ。

5月17日
林瑞栄氏『兼好発掘』、読了近くなりようやく私なりに分明。林氏説は兼好が両親の時代から鎌倉にいて称名寺に縁があった。それで兄兼雄が当主貞顕の六波羅探題の上洛に従った。それが貞顕の右筆として有名な倉栖兼雄と。それに対し鎌田元雄氏が『宮主秘事口伝』から卜部兼雄が実在するから倉栖兼雄では

ないと。が、林氏は『宮主秘事口伝』の史料的価値を疑い更に倉栖兼雄は兼好の兄説を強められた。両者のどちらを是とするかが私の迷いでした。これから年譜に嵌めて私なりの決着をつけます。今朝、そうだ五味文彦先生の『徒然草の歴史学』があったと思い出し、このたりの五味氏の解釈を拝読したら、

「総じて兼好を倉栖兼雄の兄弟と見るのは難しい。しかしその分析によって、延慶元年以前に兼好が鎌倉に滞在していたことや、金沢貞顕との関係が深かったことも疑いなくなった」とされています。さて私なりの解釈は、といったところです。

ただ『徒然草』といえば仁和寺の法師を思い出すくらいなのに、どなたも兼好と仁和寺の関係を書かれていないのが不思議。検索した時「どうして兼好は出家して悟った人のはずなのに仁和寺の法師の悪口を書くのか」という疑問が出されていて、ふつうの人でさえそう感じているのにと思いました。

連ツイですみません。手元に五味文彦先生の『徒然草の歴史学』がありながら何故それを忘れて、富倉徳次郎氏『卜部兼好』・林瑞栄氏『兼好発掘』と遠回りをしたか今になって唖然。が、ここ何日かの『兼好発掘』との対峙があったからこその五味氏のご著書への納得。以前に拝読した時と全然違って。

5月20日
@nanzanbou 真似してばかりで恐縮ですが『チベット旅行記』をスマホでダウンロードさせて頂きました。私は岩波文庫で持っているのですが、こんなご本を日常的に携行できるなんて夢のようです。

青空文庫をスマホで読む為に入れていた「青空読手」にチベット旅行記がなく、検索して「青空文庫ビューア」にしたらありました。与謝野晶子訳源氏物語が青空読手で読めていて、それは紙の本より呆気にとられるほど読みやすく、なんだかつまらない。難しい漢字の多い密教関連の本には逆にいいかも。

『兼好発掘』が膨大過ぎて必要個所のコピーをあきらめアマゾンに。届くまでの時間がのどかでした。昨夜はスマホに入れた『チベット旅行記』を。漢訳からの経典に疑問をもたれて慧海氏はチベットに。「世界一高い山ヒマラヤの下で真実の仏教を学びたい」が渡航決意と。私のヒマラヤへの憧れの原点です。

今『兼好発掘』が届いて開封。この書を購入した理由の一つに兼好書状の写真がしっかり入っていること。しかも別紙で図録みたいなのも。五味文彦先生も『徒然草の歴史学』で参考になったと記され、私もこれを拝読していなかったら五味先生のご著書の真の意味がわからなかったでしょう。それくらい凄い!

5月23日
称名寺と吉田兼好の関係を探っていたら朝になってしまいました。青空に浮かぶ白いはずの雲がほのかに朝焼け色をしています。兼好の鎌倉滞在の時期が大概の学者さんたちの言われる通りとして、その頃の称名寺の状況が私なりに重ねて感じられてきました。どうやら都立図書館に行かなくてはならないよう。

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2013.5.17 日野自動車永輝会さまでさせていただいた講演【鎌倉武士と源氏物語】のこと。当日の記事を載せた会誌を送っていただきました。

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Facbookからの転載です。

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二月に講演させていただいた日野自動車永輝会さまから会誌が届きました。講演当日の記事を載せていただいています。

日野自動車様はバスやトラクターなど大型機種の車を製造されている会社で、永輝会はそのOBの方の集まりです。歴史サークルはじめいろいろな活動をされています。最初、歴史サークルの依頼だったのですが、申請を受けた会長さんが内容をご覧になり、これは全体行事の新春講演会でやろうとなりました。写真サークルの方も関心をもって待たれているとお聞きし、私には手ぐすねひいてのようなちょっとした緊張でした(笑)

歴史サークルの方はともかく、大半が歴史にも『源氏物語』にも興味のない方ばかり。しかも皆様エンジニア出身の理系。わかっていただけるかしらとの思いで、それまでの「河内本源氏物語」がメインの国文学的な内容を払拭して、『鎌倉武士と源氏物語』のタイトルにしました。

ちょうどインフルエンザが流行っているときで10名近く当日キャンセルでお見えになれませんでしたが、総勢57名のご参加者の中で女性はお二人。見渡すかぎりそうそうたる男性ばかりの会場はちょっと圧巻でした!

会誌では私が使ったスライド写真や一頁に渡って講演要旨を載せていただくなど、《鎌倉の源氏物語》を丁寧にご紹介頂きました。懇親会に参加して当日も思ったのですが、理系とか文系とかに関係なく、一線で活躍した企業の方の物事の把握の仕方の的確さは凄いですね。中に下記の一文があり、これが嬉しかったです。

「講演では、平安末期から鎌倉時代初期を時代背景とした、源氏物語をめぐる写本の世界を中心とする京文化と鎌倉文化の関係を、写真家でもある講師ならではの数々の美しい画面を駆使して、講演の進行がなされた。歴史的かつ文学的にも時間の経過を忘れるほどの内容の濃い講演でもあった。」

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2013.5.17 三日月から六日月までは、【『開拓』 輝き始めた新しい月!】

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Facebookからの転載です。

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5月15日

この月は月齢約5.40。これも三日月と思っていたら正確には六日月になるんですね。

【月時館Tsukijikan* † 月の神秘と魅力に惹かれ月と戯むる †】さんによると、三日月から六日月までは、【『開拓』 輝き始めた新しい月。 開拓心に溢れ、好奇心が高まります。 道を切り開く冒険者として恐れずに行動する時】だそう。とてもいいタイミングで撮ることができました。

ずっと三日月を撮りたく思っていたのですが、時間的になかなかタイミングが合わなくて。もうう少ししてもっと自分なりの自由な時間がもてたら、ほんとうは月夜の晩の幻想的な写真を撮りたいのです。

と書いて思い出しました。一番好きな写真は?と訊かれたら、アンセル・アダムスのムーンライズ。あの逸話が私の写真に対する原点かも、くらいに好きです。

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2013.5.13 ツイッターから転載…称名寺と『徒然草』の卜部兼好の関係を調べています。兼好が金沢文庫で『尾州家河内本源氏物語』を手にしたかもしれなくて

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5月10日
なんか、また大変な事! 卜部兼好と『源氏物語』の問題。ある目的があって吉川人物思想書『卜部兼好』を拝読。兼好が鎌倉に下向して六浦に庵を構え、金沢文庫に通って典籍に読み耽ったことは周知の事実。で、ふと気付いたのですが、兼好が読んだ典籍は北条実時がらみの『源氏物語』ではなかったかと。

『卜部兼好』に『源氏物語』との関連記述は金沢文庫とは関係のない箇所で一件しかなかったのですが、なにか引っかかって考えていたらそんな案が。考えてみると『徒然草』には『源氏物語』を彷彿とする段があります。それで検索したら、論文がありました。両者の関係は周知の事実なんだったのですね。

私の目下の関心は、「河内本源氏物語」を完成した親行と親交のあった実時が、みずからも『源氏物語』を書写したり、更迭された宗尊親王の残した『尾州家河内本源氏物語』を金沢文庫に収めたりのそれらが、金沢文庫でその後どうなったかという問題。兼好はもしかしたらそれらに目を通していたのかも!

今友人と電話で話していて、吉田兼好は金沢文庫で『尾州家河内本源氏物語』を見てたのかもよと告げると面白~いと乗ってくれました。で、私は調子にのって、『尾州家河内本源氏物語』に兼好の指紋がついているかもしれないわね、と。昨夜来、『徒然草』にある『源氏物語』風の段の謎に浸っています。

鎌倉の『源氏物語』を調べていたら、『尾州家河内本源氏物語』と瓜二つの『西本願寺本万葉集』から『万葉集』が浮かびあがって、と思ったら、今度は『徒然草』。いったい鎌倉の文化はどこまで奥が深いのでしょう。『古今集』も実は並行してあるんです。

5月11日
卜部兼好が金沢文庫に通い当時の金沢北条氏当主貞顕と親しかったあたりの年表を作っていたら、二人は5歳違いの同世代で、兼好は後二条天皇に仕えていた。その頃貞顕は六波羅探題として在京。任期がほぼ後二条天皇時代なので、二人の親交は京都で始まったとみていいのではということが見えてきました。

5月12日
吉川弘文館人物叢書『卜部兼好』を拝読しているのですが、50代になって兼好は「一条猪熊旅所」で定家自筆の青表紙本『源氏物語』を他の本と対校したとあり、「一条猪熊旅所」を最初人名かと思っていてどうやら通りの名らしいとやっと見当ついたところです。京都の方には自明なのでしょうけれど。

この頃兼好は順徳院宸筆の御本で『八雲御抄』を。翌年には正本をもって自筆の『古今和歌集』を校合とあるので、兼好は二条家のなかでそういう立派な本を与えられて校合する役割を担っていたのでしょうか。尊氏が京都に攻め入って新田軍と戦い、楠木正成が湊川で討死という混乱の世のなかでです。

高校の教科書で奥山に猫またというものありてとか、仁和寺の法師の失敗談など風流とかけ離れた段を読まされて兼好像が作られた弊害は大きいですね。飛鳥川の淵瀬は暗唱するくらい好きでしたし、『源氏物語』ふうの段の価値観は人生の基盤になっているくらいなのに。

またまた大胆な仮説といわれそうですが、兼好の鎌倉下向の理由が解けそうです。兼好は二回は下向していて、一回目は称名寺に。まだ金沢文庫ができる前です。二回目に金沢文庫を訪ねて当主貞顕と親交を。そこで『源氏物語』を目にしたとは先にツイートしました。兼好下向のキーワードは仁和寺です。

今は鎌倉の文化圏から離れ東国の片隅に忘れられたようにひっそりとしている称名寺ですが、蒙古襲来の時期、執権時宗の時代には亀山天皇の勅願所であり、ゆかりの深い宝物がたくさん残されています。熱田神宮の宝物であった楊貴妃の珠簾が亀山帝の勅で移されて、など。

写真は称名寺の山門上部です。兼好がいた時に称名寺にこの山門があったかどうか。時期的にどうでしょう。

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2013.5.8 ツイッターから転載…林望氏『書誌学の回廊』を拝読してなど

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↑ 5月4日
一本だけ売れ残っていた固い蕾の芍薬。以前、蕾のまま萎れさせてしまったことがあったので購入するつもりはなかったのですが、なんか可哀想な気がして購入。日光に当てて貼りついていたガクを指ではがして。そうしたら咲きました。

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↑ 5月6日
今日の井の頭公園の夕景。都心で雷雨があったような。多摩東部のこちらではざっと雨が降りましたが、じきに止んで、オレンジの夕陽が強烈でした。

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↑ 5月7日
6月11日~12日に、2013国際アッジサイ会議が鎌倉で開かれます。

http://www.hydrangea-nippon.jp/2013ihs/index.html

会場は鶴岡八幡宮八幡宮直会殿。神楽の見学もあって、外国の方に日本の文化を堪能して頂く配慮だそう。発表者には外国の方も。鎌倉らしい素敵なシンポジウムですね! 私も行きたいのですが、朝の集合時間が早くて思案しています。

そういえば思い出した事。外国の方でどこのシンポジウムに行っても毎日必ず教会に行く方がいらしたそう。それで鎌倉が会場の時、ある方が「今日は教会へ行かないのですか」と尋ねたら、「神楽を拝見したから今日はもういい」とお答えになられたそう。敬虔ということは宗派を超えるのですね。これが鎌倉の真髄ではないでしょうか。

この写真の紫陽花は以前称名寺で撮ったものです。

5月8日
林望氏『書誌学の回廊』を拝読中。書誌学自体には到底踏み込めないと悟りましたが、書誌学がどんなものか手に取るように分かる。しかも楽しい。写本の変遷をこんなにわかりやすく解説された本はないでしょうね。

書誌学に関係ありませんが、今、こんな言葉を発見。「白扇倒(さか)しまに懸る東海の天」。江戸時代の隠者石川丈山の漢詩の訳です。白扇!なんと富士山のこと。丈山の旧居が詩仙堂だそうです。

林望氏『書誌学の回廊』より。手で写した書き本のことを写本という。何らかの印刷工程を経て出版物として出た本は刊本。我が国の印刷を経る出版ジャーナリズムの確立と発展は江戸時代初期に遡る。大雑把にいって、古典文学作品に関しては、室町までは写本の時代。江戸以降は刊本の時代とみてよい。

この二つの時代の狭間に古活字版の時代が短期間存在。安土桃山時代に偶然東西から二種類の活字印刷術が伝来した。グーテンベルク式の金属活字印刷術と秀吉の朝鮮出兵による銅活字印刷術。これが日本古来の技術と融合して古活字版時代が出現。それは金属活字を日本在来の木版技術での応用した事。

そういえば昨日こういう箇所もありました。「一番上等は鳥の子紙。これは雁皮という素材をごくごく厚く丈夫に漉き上げたもので、紙質は稠密にして虫害に強く、雅致に富む。高価。だからこの紙が使ってあるということは一般大衆を相手にした本でない。」→『尾州家河内本源氏物語』が使っている紙です。

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2013.5.6 ツイッターから転載…《鎌倉の源氏物語》をこれからどう展開して鎌倉の特に男の方たちに受け入れて頂けるかを模索しています。『異本紫明抄』が鍵かな、と。

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《鎌倉の源氏物語》の当時の状況がだんだんわかってきました。経緯をツイッターに呟いていますので転載させていただきます。
 
◇4月25日
昨夜原稿を仕上げて鎌倉の多くの方が『源氏物語』をご存知ないから鎌倉にもこの文化があったことの凄さを自覚されないのだという大変な問題にようやく気づきました。『源氏物語』は一部のファンの方にしか通用しない文化になってしまっているのです。どうしたら普遍的に、をこれから考えていきます。

やっとわかって来ました。鎌倉の源氏物語は鎌倉武士、すなわち男の文化だったのです。雅な源氏物語ではなく文化とか社会、それから人間関係、さらに高度なレベルの教養。そういった実質的魅力があるから鎌倉武士も嵌まったのです。鎌倉の方々にはそれを訴えなくてはいけなかったのですね。

鎌倉で男の方を対象にした源氏物語講座を開いたら、等と思い始めました。鎌倉武士たちも学んだ源氏物語、なんて。でも、鎌倉武士が学んだ源氏物語の実体はどういうものだったでしょう。今までの源氏物語の講座ではカバーできてません。まずはその実体の解明からです!
 
◇4月27日
村山リウさんの源氏物語ときがたりを拝読して現代の『源氏物語』の受容の原点を見る思いがしました。解説されてわかりやすくなり思索を深められるから、女性の人生論として女性の受容がメインになった。樋口一葉や与謝野晶子は女性ですが、それまで『源氏物語』が男の方々の研究対象だったのと対照的。

『源氏物語』がわかりやすくなり女性に受け入れられた分、江戸時代までの男の方々の研究対象だった権威が忘れられたのは、平仮名の登場で王朝女流日記が花開いたのと同時に、漢籍をする男性陣の影が薄くなったのと同じかも。でもそれで世界に誇る日本の文学という存在意義まで薄れた感。

◇4月29日
平川 祐弘氏『アーサー・ウェイリー?『源氏物語』の翻訳者 』を興味深く拝読中です。これは「鎌倉の源氏物語」が鎌倉武士という男たちの文化と悟り、では殆ど女性の文化になっている現代の『源氏物語』を鎌倉の男性陣にどうしたら受け入れて頂けるかを探るための読書です。

氏は「学生に予備知識として当初谷崎訳か円地訳をまず読ませた。しかし筋を理解させるためだけなら全集の原文とともに載せてある現代語訳を一緒に読ませればいい、と思うに至った。しかしそれをまた止めた。それというのは、国文学者の手になる(略)学究の註釈書的逐語訳は芸術作品になっていない。都雅が『源氏物語』の訳語には求められるのではあるまいか。」と書かれます。

そして「大学院生と読むときは、現代語訳の参照はとりやめ、ウェイリー英語訳文を読んだ後は、もっぱら新潮日本古典集成の『源氏物語』原文と対照することとした。」と。サイデンステッカーも「流れに乗ってからは当初の難解という印象が消えた」と告白。「著者紫式部の人格が感じられるようになった時、

『源氏』読書は佳境にはいったといえるだろう。」と。与謝野晶子は「私は中に人を介せずに紫式部と唯二人相対して、この女流文豪の口づから『源氏物語』を授かった気がしている」と言っているそうです。

結局『源氏物語』は原文を読むのが一番という当たり前の結果に落ち着いた感ですが、私がはたと思ったのは最後に紫式部が出たこと。現代の『源氏物語』受容が女性化しているのは紫式部が『源氏物語』込めた深い思索への思惟的考察が欠けていて、それで男性陣が身を引いてしまっているのでは?と。

◇5月1日
先日来考えている鎌倉の『源氏物語』をどうしたら鎌倉の男性方に関心もっていただけるかの問題。アーサー・ウェイリー訳の『源氏物語』から、結局は原文を読むことが一番みたいな結論になって、それでは専門の学者でない私がどうやったら原文をと考えて大体方向が見えてきました。

それは『異本紫明抄』を読むこと。『異本紫明抄』は鎌倉武士の北条実時の編纂です。そこには鎌倉武士たちの『源氏物語』本文への註が列記されています。それをピックアップして原文と並べ私なりに解釈してみようとするもの。題して「鎌倉武士と読む『源氏物語』」。FBで始めようかと。

5月4日
「鎌倉武士と読む『源氏物語』」、試みにはじめようとしたらもう壁。『異本紫明抄』に抜き書きされている『源氏物語』の本文が予定していた『新潮古典集成』本と違います。そうか、「河内本源氏物語」本文にあたらなければいけないのかと。こんなところで無縁と思っていた本文校異にでくわすなんて。

『異本紫明抄』と『新潮日本古典集成1 桐壺』が届きました。『異本紫明抄』は別名『光源氏物語抄』といって中野幸一先生が翻刻して下さっています。「鎌倉武士と読む『源氏物語』」のための購入。少しずつとりかかっていきます。

5月5日
昨日鎌倉ペンクラブ会報に原稿を送信。新入会員枠を頂いていましたので。「理想の書物への憧れ」と題しました。『尾州家河内本源氏物語』は私にとって理想の書物なのです。高校の教科書にあったマラルメの詩で理想の書物という概念が芽生え、尾州家本に出逢ったときそれを感じたのでした。

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2013.5.4 ツイッターから転載…明治神宮文化館宝物展示室にて開催中の「宮廷装束にみる源氏物語」展に行きました!

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5月1日

明治神宮文化館にて開催中の「宮廷装束にみる源氏物語」展に行きました。まさに源氏物語の装束は色の世界。本物の展示を堪能しました。

ポスターにある二つの球体は蹴鞠の鞠でした。金と銀の一対の鞠と思います。というのは、右が金色の地に植物の柄が描かれた豪華な鞠なのですが、左はたぶん銀でそれが黒ずんだのではないでしょうか。現代行われる蹴鞠の鞠は白なので、昔は装飾したのかと目から鱗。帰ったら絵巻で確めてみます。

「宮廷装束にみる源氏物語」展には源氏物語の会の皆様と来ました。入場券はこの展示の他に宝物殿にも入場できるので、昼食のあとは皆様そちらに。私一人帰途につきました。徹夜の作業をするせいか、年輩の皆様より体力がありません。でも最近はそういう事情よりも堪能の満喫感を撹拌されたくないからとも。

会場ではたかくら会のDVD「光源氏の加冠」が上映されていて、観始めたらそのまま皆様席を立てなくなって30分見続けてしまいました。『源氏物語』を文字で追って読んでも装束を知らなければこの映像の世界を想像できません。源氏物語初心者には必要かも。

↓ チラシです。

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2013.5.3 ツイッターから転載…4月26日から始まった金沢文庫【瀬戸神社―海の守護神―】展、内覧会にお誘いいただいて行って参りました。

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4月25日

今日は金沢文庫で明日から始まる「瀬戸神社~海の守護神~」展の内覧会でした。瀬戸神社は金沢八景駅のすぐの所にあり、頼朝が信仰した中世の重要な神社です。六浦湾に面しています。

称名寺参道前の赤門。明日から金沢文庫で「瀬戸神社~海の守護神~」展がはじまります。5月1日~6日には称名寺苑池のライトアップがあります。

内覧会から出て、今日の称名寺境内。花の時期が終わり金沢文庫も休館のためか、境内に人はなくひっそり。思い切り苑池の光景を独り占めしてきました。

帰りに金沢八景まで足を延ばして瀬戸神社を参拝してきました。何年振りかに訪れたら社殿が真新しくなっていてびっくり。そういえば金沢文庫の瀬戸神社展は社殿の改築に宝物を全部出して調査したために企画されたと開会の挨拶で言われてました。

わたつみのせとの社(やしろ)の神垣に願ひぞ満つる潮のまにまに。頂いた瀬戸神社のパンフにある実朝の歌。六浦は謡曲「放下僧」あるように、中世では大変な賑わいをみせた湊。私が鎌倉に嵌まったそもそもの出発点が六浦でした。歩いていて何故か懐かしい気がして前世ここにいたのかも、みたいな。

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中世に栄えた瀬戸神社。頼朝も政子も崇拝しています。のみならず、この展示では江戸時代の瀬戸神社も充実していて面白いと思いました。東照宮があったという展示に、?となり、学芸員さんに伺ったら、隣の金沢八景駅ホームの目の前に見える萱ぶき屋根の家が当時の社務所だったところで、社殿はその奥に建っていたそう。萱ぶき屋根の家は現在は備前焼の家になっていますよね。以前訪ねて窯を見せていただいたこともあり、まあ、あそこが~と驚きました。かなり訪ね回った地域なのにまだまだ知らないことがたくさんです。(というか、今まで江戸時代情報は皆無でした。)

展示をご覧になったら隣駅まで足を延ばして、瀬戸神社を参拝されながら六浦湾の海の風を感じてこられることをお勧めです! 風は往時のままでしょうから。

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2013.5.2 今年は藤の花が目につきました。桐の花も。今は紫の花の時期のようです。

◇4月14日

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廃屋に藤の花が。手入れのされていない藤の幹が屋根を這って通常見る藤の光景と違う情趣。なにか懐かしい感じの強いて言えば光源氏が訪れそうな源氏物語の世界。ひっそりと奥に忘れられた人の住む。そんな光景でした。

◇4月18日

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藤の花が咲いて紫色があちこちに目立ちますね。藤だけでなく小さな草花もむらさき。

写真は2009年撮影の調布市にある国領神社の藤。まだこのときしか撮りに行っていないのですが、今年行けるかどうか。花はいつでも撮れると思っていると大間違い。地元の井の頭公園の桜でさえ、毎年撮っていたからわかるのですが、もう私が何年か前に撮ったそれはもう溢れるほどの華やかさはありません。木が老いていくだけでなく、公園の整備で無残に剪定されたりして。

桜が咲いて藤が咲いて浮き浮きと心がはずんでいいはずなのに、今年は何故か諸行無常の思いが募ります。でも、だからこそ花の美しさが際立って胸に浸みます。

◇4月26日

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玉川上水の藤が見事というお話を伺ったのですがあいにくずっと曇天が続いて今日やっと撮りに行ったら、その藤はおそらく主のいない庭に植えられていて山藤のようにあちこちの木に絡まって這いのぼり、それはそれで風情ありました。

◇4月30日

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昨日吉祥寺で桐の花が咲いているのを発見。生憎の曇天ですが撮ってきました。風が強くてブレて大変でした。花が間に合ったらまた撮り直しに行きたい。でも、慣れない花の写真は構図を決めかねますね。

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