2013.5.30 ツイッターから転載…昨年の金環日食のこと
5月18日
BS悠久の中国世界遺産シャングリラを観ていて切なくなってしまいました。仏教関係の本を渉猟していたとき、ヒマラヤ、即ちヒ―マラーヤは雪の蔵を意味すると知り、そこからヒマラヤが私に棲みついて夢にまで見た憧れ。そんなことを思い出して。夢中になってはじめての小説を書いていたころです。
「天竺には雪の蔵と呼ばれるお山があるのだそうよ」と、あるとき銀嶺姉さまは言われました。「そこでは一年中雪が消えることがないんですって。それは峻厳な高い山だそうだけれど、わたしの胸の中にはその山が棲んでいるの。一度夢を見たの。その山を。白く尖ったたくさんの嶺が、まっ青な空に屏風のように連なって聳えていた。その下にわたしは立って見上げているのだけれど、山が膨れあがって、今にものしかかられて潰れてしまいそうで、息が苦しかった。人間なんてちっぽけなものなんだって、そのとき思ったの。人の苦しみなんて、その山の雄大さに比べたら、なんのこともないんだって。綺麗だった。覚めたあとも感動して止まなかった。わたしの生涯の夢は、その山を見に天竺へ行くこと。夜、満天の星を浴びながら、月の光のもとで白銀に輝くその嶺々を仰いで一人坐ってみたい。そうしたら……」(『白拍子の風』より)
↑ 遺跡発掘調査の仕事をして知った遺跡で上行寺東遺跡があります。六浦にある中世の墳墓群です。高台にあり、そこからは遠く朝比奈峠が見はるかせ、切通しの位置がV字状になって見えます。その向こうが鎌倉です。何回も通いました。仕事を止めようと決意したとき、最後にもう一度と訪ねた時のこと、突然強い風が吹いてあやうく吹き飛ばされそうになりました。それは一瞬のできごとでした。あとは何事もなく、あれは何だったのだろうと訝しく思ったとき、白拍子の風、の語が湧いたのです。采女の風の歌も浮かびました。そうだ、このタイトルで中世の采女…、白拍子の小説を書こうと思ったのでした。
連ツイで済みません。プルーストのマドレーヌではないですけれど、思いの連鎖って凄いですね。たったBSでシャングリラの梅里雪山の映像を見ただけなのに、こんなにいろいろ甦ってしまいました。
5月21日
去年の今日はどんな写真を撮っていたのだろうと思って見たら、金環日食の日でした! 2012.5.21 7:33 撮影の太陽です。
おはようございます。今日の中央線の車窓は見渡すかぎり灰色の雄大な曇天でした。
今日は二つの心に残ったいい話。その一つ。源氏物語は主語が省略されているからわかりにくいというが、心理という心の奥の深いところの描写にいちいち主語を入れてぷつんぷつんと切ったら思いが分断されてしまう。主語がないから思いのままに読み手も奥に深く入っていかれるのだと。成る程!でした。
もう一つは月影という言葉について。月影の影は今でいう影ではなく、光でもあり影でもある重層性のある語。その朧なところに月を見ていて故人や思い出が甦る。が、平安末期になると源平の合戦で修羅場を見たから感性が変わり、月影の語は滅多に用いられなくなり、月の光といわれるようになった。
紫式部のめぐり逢いての歌も、今は夜半の月かなと詠嘆で終わるのが流布しているが、紫式部の感性に詠嘆はふさわしくなく、もとは夜半の月影ではなかったか。去っていった友を見送りながら、実際は見えなくなってもまだ月影の中に見えていると。
分かるということは物事の細部の一々に整合性がついて明らかになることで、人の心理や思いに整合性がつくはずないから、それはわからないまま感じればいいこと。源氏物語のような文学はそうなのだけれど、それを合理的にわからないと気が済まない人間を育ててしまったのだなあ、今の教育は、と思う。
菊池威雄先生が『鎌倉六代将軍宗尊親王―歌人将軍の栄光と挫折―』を新典社選書で出されるそう。今月末には店頭に並ぶとか。中に私の『源氏物語と鎌倉』から引用して頂いている箇所があるとある方が教えて下さいました。菊池先生は宗尊親王をどのように書かれているのでしょう。どきどき、です。